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徳川綱吉の死因とは?江戸時代に流行した「麻疹」の特徴や綱吉の体格・性格も紹介

徳川綱吉は「生類憐れみの令」を発布した将軍として、その名を知られています。犬公方という呼び名も有名です。人間よりも犬を優先した愚かな上様だと思われていますが、本当にそうなのでしょうか。

尾竹国観の木版画「犬公方」

綱吉は66歳で亡くなりますが、病にかかってから亡くなるまでの間がわずか1週間でした。

実は綱吉が将軍だった時代は景気が良く、文化も発展しました。それだけでなく、政治的手腕もなかなかのものだったのです。死因を知ることで、彼がどんな人物だったのか、どんな将軍だったのかを探っていきましょう。

徳川綱吉の死因は「成人麻疹」

徳川美術館所蔵の綱吉像

綱吉がかかった病は「麻疹」だと言われています。

麻疹はウイルスによる感染症で発熱とともに発疹が現れます。ウイルスは空気感染をするため、マスクや手洗いでも防ぐことはできません。

現在でも発症してしまうと特効薬がないため、予防注射だけが頼りです。そのため現在でも麻疹が流行るとニュースになります。

また、麻疹は合併症が多い病気です。脳炎や肺炎など命に関わる合併症になることが知られています。綱吉は大人、それも60代になってから麻疹にかかってしまいました。

なぜ綱吉は「麻疹」にかかったのか?

現代でも麻疹は子どもよりも大人がかかる方が重症化しやすく、後遺症が残りやすいことが知られています。麻疹は1度かかると免疫がつくため、2度とかかりません。子どものときに感染した人は、その後は安心です。

ただ、綱吉が生きた江戸時代にはワクチンもなく、麻疹は防ぎようがありませんでした。江戸時代には13回も麻疹が流行したと言われています。

儒学に精通し、能にも詳しかった綱吉は今で言うインドア派だったと思われます。そのため子ども時代に感染する機会を逃してしまったのでしょう。そして運悪く60代になってから綱吉は麻疹に感染、重症化して亡くなったのです。

江戸時代の「麻疹」とはこんな病気

江戸時代、麻疹は天然痘と並ぶ感染症でした。麻疹にかかると生きるか死ぬかわからなかったことから「命定め」とも言われていました。麻疹を乗り越えて初めて、子どもはこの先も生きていけると周りに認めてもらうことができました。

天然痘は回復した後にアバタが残ることから、「見目(見た目のこと。器量とも言う)定め」と呼ばれていました。現代はワクチンのおかげで、天然痘にかかる人はいなくなりましたが、麻疹は相変わらずなくなっていません。江戸時代も今も麻疹が大変な病気であることに変わりはありません。

徳川綱吉の性質は死因に関係あるのか

中央に安置されているのが綱吉の位牌

綱吉はなにかに熱中すると、周りが見えなくなる性質だったようです。熱中するあまりに自分の疲れやストレスに気付かず、免疫力が下がって麻疹に感染してしまったのかもしれません。これには幼いころに叩き込まれた儒学が関係していると考えられます。

父であった3代将軍・徳川家光は、兄のいる綱吉が自分の立場をわきまえるように、儒学の教えを身につけさせました。このため綱吉は弱いものを助け、目上の人には礼を尽くすという道を信じて、一直線に進んだようです。「生類憐れみの令」も儒学的な考えで命を守るために作られたという説があります。

また、綱吉の身長は当時の男性の平均よりも、かなり低かったと言われています。綱吉の位牌の高さは124cmです。将軍の位牌は亡くなったときの身長と同じ高さに作ったそうです。

このことからも綱吉は徳川家康のように鷹狩に熱中するのではなく、どちらかと言えばインドア派だったことが推測できます。外で起こることにはあまり左右されずに自分の道を進む性質がより強くなったのではないでしょうか。

実は優れた将軍だった綱吉

法隆寺所蔵の綱吉像

綱吉が将軍になったころは戦国時代の殺伐とした雰囲気はなくなり、江戸の街には文化的な香りが漂い始めました。そんな江戸の街を文化的な年に押し上げたのが綱吉です。

綱吉の時代には現代でも有名な近松門左衛門、井原西鶴、松尾芭蕉などが活躍しました。これは景気が良くなり、人々の心にゆとりが生まれた証拠でもあります。実は徳川綱吉は優れた将軍だったのかもしれません。

不幸な偶然が重なって低評価だった

綱吉の将軍としての評価が芳しくないのは不幸な偶然の結果だと言えます。綱吉が将軍だった間に飢饉や地震、火山の噴火に洪水が立て続けに起こったのです。

当時、このような自然災害は主君の徳がないための天罰だと考えられており、綱吉の評価は著しく下がってしまいました。

また、テレビの時代劇に登場する綱吉が必ず人間よりも犬を大切にする愚かな上様として描かれていることも、私たちの綱吉像を歪めさせたと考えられます。

意外なほど功績が多かった綱吉の政治

さまざまな文化が花開いた時代に綱吉は学問のことも忘れませんでした。学問の中心地として湯島聖堂を建立したのは有名な話です。このため、新井白石や荻生徂徠などの優れた学者たちも輩出されました。誰もが教育を受けられる現代の日本の基礎はこのときにできあがったのかもしれませんね。

後に8代将軍となった徳川吉宗が発布した「武家諸法度」は綱吉の「天和令」をそのまま採用したものです。綱吉は政治面でも優れた手腕を持っていたことがわかります。

綱吉は江戸時代という大きな時代の流れの行く先を決めました。現代にも残るさまざまな功績がそれを裏付けています。

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徳川綱吉の死因に関するまとめ

徳川綱吉の死因は「成人麻疹」であることがわかりました。綱吉は突然の病に倒れて、あっという間に亡くなった不幸な人のようにも思えます。

幼いころからの体格や教育が、彼の何事にも一直線に取り組む性格を決めました。この性格が影響して大人になってから麻疹にかかることになってしまったのかもしれません。

しかし、彼の性格ゆえに江戸の文化は花開き、景気も良くなり、もっとも江戸時代らしい時代を多くの人々が生きることができました。その名残は現代まで残り、私たちのことも楽しませてくれています。綱吉は決して不幸な人でも愚かな上様でもなかったのです。

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