ヴァスコダガマは、15世紀末から16世紀初頭にかけて活躍したポルトガルの探検家です。ヨーロッパとインドをつなぐ航路を初めて発見した人物であり、大航海時代の英雄の1人として知られています。
ヴァスコダガマがインド航路を発見したことは、ポルトガルの海外進出の契機となり、その後ポルトガルは栄華の時代を迎えます。ヴァスコダガマの功績がなければ、かの有名なフランシスコ・ザビエルが日本を来訪することもなかったかもしれません。
まだ正確な世界地図がなかった当時、未知なる領域は海水が煮えたぎり魔物が住んでいる危険地帯だと信じられていました。未踏の領域へと足を踏み入れるのは、冒険家達にとってもとても勇気がいることだったのです。
そういった恐怖心を乗り越え、それまでの限界を打ち破ったヴァスコダガマの偉業は、歴史上とても意味のある出来事でした。
本記事では、ヴァスコダガマの生涯や功績について、学生時代ポルトガルに留学し大航海時代というポルトガルの繁栄の歴史に魅了された筆者がご紹介します。
ヴァスコダガマとはどんな人物か
名前 | ヴァスコ・ダ・ガマ |
---|---|
誕生日 | 1469年ごろ |
没日 | 1524年12月24日 (25日とも言われる) |
生地 | ポルトガル シーネス |
没地 | インド コチン |
配偶者 | カテリナ・デ・アタイデ |
埋葬場所 | ジェロニモス修道院 (ポルトガル・ベレン地区) |
ヴァスコダガマの生涯をハイライト
まず初めに、ヴァスコダガマの生涯について簡単にご紹介しましょう。
- ポルトガル南部の港町シーネスで誕生
- 国王の命により、ポルトガルとインドへをつなぐ新航路を開拓
- インド提督に任命され、軍事力を利用してインドでの香辛料貿易を独占
- 3度目の航海の途中で体調を崩し、インドで死去
ヴァスコダガマは、ポルトガル南部のシーネスという町で誕生しました。役人の父と、イギリス名家の出身の母のもとに、長男パウロ、次男ジョアンに続く三男として生まれます。シーネスは港町だったため、ヴァスコにとって海は幼少期から身近な存在でした。
ヴァスコは28歳のとき、国王によってインドへの新航路を発見するよう命じられます。当時のポルトガルは深刻な財政難にみまわれており、国家の立て直しをはかるべく香辛料の豊富なインドとの直接貿易を行おうとしていました。
1497年、ヴァスコダガマ率いる4隻の艦隊は航海に出発します。アフリカ西沿岸を南下し、アフリカ大陸最南端の喜望峰を通過して、約1年後インドのカリカットに到着しました。ヴァスコダガマは、ヨーロッパからインドへの航路を切り拓いた最初の人物となったのです。
功績が認められインド提督に任命されたヴァスコダガマは、その後も2度のインド航海を行い、軍事力を用いて現地の貿易権を独占し、ポルトガルのインド洋支配に貢献します。
しかし、3度目の航海の途中で体調を崩し、ヴァスコダガマはインドのコチンで死去します。現地での葬儀の後、遺体は母国ポルトガルに移送され埋葬されました。現在は、ベレン地区のジェロニモス修道院にその棺が安置されています。
ヴァスコダガマが開拓した航路
ヴァスコダガマが開拓したのは、ポルトガルのあるイベリア半島から、アフリカ西沿岸を南下し南端の喜望峰を経て、インドのカリカットへ向かう新航路です。1488年、バルトロメウ・ディアスというポルトガルの航海士が既に喜望峰まで到達していましたが、それより先はまさにポルトガル人未踏の海域でした。
ヴァスコの率いる艦隊は、1497年7月にリスボンを出発し、アフリカの西沿岸を南下、その後大きく大西洋を回り込みアフリカ南端の喜望峰を通過します。ここまでで4ヶ月が経過していました。
その後、アフリカ東沿岸を北上し、モザンビークやモンサバ、マリンディといった都市で食糧や案内人を確保しながら進みます。そしてアラビア海を横断し、出発からおよそ11ヶ月後、目的地インドのカリカットへ到着します。
ヴァスコダガマの性格・人柄
ヴァスコダガマは忠誠心が強く真面目な性格だったことが、以下のエピソードから分かります。
ヴァスコがインドに到着しカリカット王に謁見したとき、来訪の目的を廷臣に伝えるように命じられました。しかし、ヴァスコは「私はポルトガル国王の大使なので、王に直接話す」と主張して聞かなかったと言います。
また、ポルトガルから持参した国王への贈り物を見た現地の役人やイスラム商人がそのみすぼらしさを指摘すると、「これはポルトガル王からではなく、大使である私からの贈り物だ。王からの贈り物であれば、もっと豪華なものになるはずだ」と言い返したそうです。
この発言から、ヴァスコがポルトガル王の代理人として王国の立場を守ろうとする、王への強い忠誠心と責任感が感じられます。
ヴァスコダガマの家族構成
ヴァスコダガマには父、母、2人の兄と2人の弟、1人の妹がおり、三男ヴァスコを含めた8人家族でした。父のエステヴァンは、ポルトガルの王族に仕えた騎士階級の人物で、後にヴァスコの生まれ故郷シーネスの市長にも就任しています。
母のイサベルはイギリスの名家の娘でした。また、兄のパウロも探検家でありヴァスコと共に第1回インド航海に加わりましたが、帰国前に病死してしまいます。
また、ヴァスコダガマは第2回航海後、名家の娘カテリナ・デ・アタイデと結婚し6人の息子と1人の娘をもうけました。長男のフランシスコは、父の3回目の航海に同行し、後に彼の称号と財産を相続します。
次男のエステヴァンは、インド総督に就任するもその後ヴェネチアに移住し、三男のパウロ、四男のクリストヴァンは、それぞれマラッカとエチオピアで戦死しています。五男のペドロと六男のアルヴァロは、マラッカの長官に就任しています。
ヴァスコダガマの功績
功績1「ポルトガルとインドを結ぶ新航路を開拓」
ヴァスコダガマは、ヨーロッパとインドをつなぐ航路をヨーロッパ人として初めて開拓した人物です。国王に命じられインド航海へ出発したヴァスコでしたが、その道のりは決して容易なものではありませんでした。
行く先々で突然先住民に襲撃されたり、解血病で乗組員を次々に失うなど、数々の困難が一行を襲いました。総勢約170名の乗組員だった乗組員は、2年に及ぶ航海を終えて帰国したときには55名になっていました。
しかし、ヴァスコが開拓した新航路によってインドとの交易が可能になり、その後のポルトガルの経済状況は大きく好転しました。さらに、ヴァスコのもたらしたインド洋地域の情報は、その後のポルトガルの東アジア進出につながる大きな成果となりました。
功績2「香辛料貿易の成功で祖国に莫大な富をもたらす」
ヴァスコダガマによるインドとの直接貿易の成功によって、ポルトガルには莫大な利益がもたらされました。もともとカリカットでの貿易はイスラム系商人が支配しており、ヨーロッパの国々が香辛料を手に入れるには高額なマージンの支払いが必要でした。
肉食のヨーロッパ人にとって、肉の長期保存を可能にする香辛料は貴重で、金と同額で売買されるほど高価なものでした。ヴァスコダガマのインド航路発見によって、インドとの直接貿易が可能になり、安価で香辛料を手に入れることができるようになったのです。
ポルトガルは、香辛料貿易によって巨額の富を得、ますます力をつけていきました。
功績3「ヨーロッパ諸国のアジア進出の先駆者に 」
ヴァスコダガマのインド航海は、ヨーロッパ諸国が本格的にアジア地域へ進出し、その勢力を拡大させていく重要な契機となりました。
ヴァスコの航海のあと、ポルトガルはマレー半島やセイロン島を侵略し、またマカオにも要塞を築き貿易拠点とします。また、フィリピンには1521年スペイン人の探検家マゼランが到着し、その後スペインはフィリピンを攻略し領地としました。
軍事力を利用して敵対する勢力を排除し、現地の貿易を支配する姿勢は、その後のヨーロッパ諸国の植民地政策の始まりでもあったのです。
ヴァスコダガマにまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「功績をたたえた修道院が約1世紀かけて建てられた」
ヴァスコダガマのインド航路開拓の功績をたたえ、時の王マヌエル1世によってベレン地区にジェロニモス修道院が建てられました。ヴァスコによって成功した香辛料貿易による巨万の富をつぎ込んで建設され、建設期間はおよそ1世紀に及んだといいます。
ヴァスコダガマがもたらした功績が国家にとってどれほど大きいものだったかを、この豪華絢爛な建造物が示していると言えるでしょう。
マヌエル様式の最高傑作と言われており、世界遺産にも登録されているジェロニモス修道院は、今でもリスボンで必見の観光地として人気があります。礼拝堂には、ヴァスコダガマの棺が安置されています。
都市伝説・武勇伝2「ヴァスコダガマに航海の知識はあまりなかった?」
一部の資料によれば、ヴァスコダガマには航海の知識があまりなかったとも言われています。
ヴァスコが無事にインドへ辿りつくことができたのは、熟練の船乗り達や、天体観測や遠洋航海術に長けた乗組員が船団に加わっていたこと、そしてマリンディで雇ったインド商人の案内人が非常に優秀だったからであるという説があります。
そもそもヴァスコがインド航海の司令官に任命されたのは、国王がヴァスコの航海術ではなく「交渉力」や「統率力」を買っていたからだと言われており、目的を達成したヴァスコは結果的にその実力を証明したと言えるでしょう。
都市伝説・武勇伝3「慎重な性格が災いし貿易交渉に苦戦…」
ヴァスコダガマは、とても用心深い性格でした。特にイスラム教徒へはとても強い警戒心を持っており、航海の途中で立ち寄った東アフリカの国々では、ムスリムの住民に近づかないよう船を沖に停泊し、使者を派遣して交渉を行いました。
しかし、それは東アフリカ圏の貿易の慣習に反していたため、現地の人々の不信感を強めてしまいます。結果として、一行は食糧や水の確保に苦戦し、武力を行使して略奪せざるを得なくなりました。
さらに、インドでも同じように艦隊を沖にとめて交渉を行ったヴァスコは、現地のリーダーに「海賊ではないか」と怪しまれ軟禁状態にされてしまいます。またもや武力を使って脱出しますが、その結果インドとの関係は決して良好なものとは言えなくなってしまいました。
都市伝説・武勇伝4「伝説の王国プレスター・ジョンの存在」
ヴァスコダガマの航海には、インド航路開拓の他にも実はもう一つ目的がありました。それは、当時ヨーロッパでその存在を噂されていた東方のキリスト教国「プレスター・ジョンの王国」を見つけ、友好関係を築くことでした。
中世ヨーロッパ世界では、プレスター・ジョンと連携することでイスラム勢力に対抗することができると考えられていました。各国がプレスター・ジョンの国をいち早く見つけるべく、冒険家や航海士を募り、支援していたのです。
ポルトガル国王は、プレスター・ジョンの国はアフリカの内陸に存在すると信じ、ヴァスコダガマ一行を送り出します。しかし、結局ヴァスコの航海では、王国との接触を果たすことはできませんでした。
ヴァスコダガマの簡単年表
ポルトガル南部の町、シーネスで生まれました。ヴァスコは若いうちから宮廷に出仕していたため、そこで教育を受ける機会があったと考えられています。
当時ポルトガルは、カスティーリャ王国(現在のスペイン)との対立や、セウタ(モロッコの都市)の攻略による出費が重なり、経済的に困窮していました。
国王はヴァスコダガマに、香辛料の直接貿易を行うためインドへの航路を開拓するよう命じます。修道院でミサが執り行われた後、ヴァスコは多くの観衆に見守られながらリスボンから出航します。
リスボン出発から約1年後、ヴァスコの一行はカリカットに到着します。王に謁見し、積荷の交易許可を得ますが、交渉がうまくいかず最後には武力行使に出ることになります。
インド航海に成功し、大量の香辛料を持ち帰ったヴァスコダガマに対し、マヌエル1世は多くの報酬を与えました。ヴァスコはインド提督に任命され、本来は王族や貴族だけに与えられる「ドン」の称号や、多額の年金が与えられました。
国王の命を受け、ヴァスコダガマは15隻の艦隊で再びインドへ出航します。途中でアフリカの都市キルワを砲撃して朝貢国とした後、インドでは商館の安全を確保するため沖を艦隊で封鎖し、インド洋貿易を独占しました。
特にキルワを朝貢国とした功績がたたえられ、国王はヴァスコダガマに対し追加の年金と、ヴィディゲイラとフラデスの町を与えました。また、この時ヴァスコは名家からカナリア・デ・アタイデという女性を妻に迎えます。
ポルトガルのインド領地経営が悪化し、国王は経営立て直しを図るため、ヴァスコダガマに3度目のインド航海を命じます。しかしヴァスコは途中で体調を崩し、到着したインドのコチンで死去します。
ヴァスコダガマの年表
1469年頃 – 0歳「ヴァスコダガマの誕生」
ポルトガルの港町シーネス
ヴァスコダガマはポルトガル南部、アレンテージョ地方の町シーネスで生まれます。シーネスは首都リスボンから170kmほど南に位置する港町で、大西洋に面したポルトガルの玄関口でした。
船が盛んに出入りする港町で生まれ育ったため、ヴァスコには航海に関する知識や経験は身についていたと推測されています。
1497年 – 28歳「第1回インド航海に出発」
司令官の第1候補はヴァスコダガマではなかった?
ヴァスコダガマがインド航路開拓の司令官に任命された理由には、いくつかの説があります。
もともと父のエステヴァンが任命されていたものの死去し、さらに次に指名されたパウロが病気を理由に辞退したためヴァスコに役目が回ってきた、という説もあれば、多くの立候補者からどの人物を選出するか協議中、ヴァスコダガマがたまたま通りかかりその場で任命された、という説もあります。
結局、はっきりとした理由は分かっていません。
先輩探検家バルトロメウ・ディアスの協力
ヴァスコダガマの艦隊は、全部で4隻の船で構成されました。航海に向けて、新たに2隻のナヴィオ船(サン・ガブリエル号、サン・ラファエル号)が作られ、それぞれヴァスコと兄のパウロが指揮をとりました。加えてべリオ号、貨物船が用意されました。
この艦隊は、ヴァスコの航海より前にアフリカの喜望峰への航海に成功したしたバルトロメウ・ディアスが、自身の経験をもとに構成したものです。またバルトロメウは、新造された船の状態を確認するために、自身も航海の途中まで随行しました。
1498年 – 29歳「インドのカリカットに到着」
優秀な水先案内人の活躍
インド到着の前に立ち寄ったマリンディで、ヴァスコダガマはインド洋航海の水先案内人イブン・マージドを雇います。
イブンは有名な船乗りの一族に生まれ育ち、安全な航路や潮、風の傾向、天文の知識など、アラビア海域の航海に関するあらゆる知識を備えた人物で、「インド洋の教師」と呼ばれていたほどでした。
ヴァスコダガマ一行にとってイブンは、アラビア海横断という最後の関門を突破するのに必要不可欠な存在だったと言えます。
カリカット王に謁見
カリカット到着後も沖合からしばらく様子を見ていたヴァスコでしたが、国王の招待に応じる決断をし、13人の部下を引き連れて上陸します。
宮殿での2度の謁見を経て積荷の交易許可を得たヴァスコダガマは、積荷の織物や錫、鎖などを現地の胡椒やクローブ、シナモンなどの香料と交換します。自分たちの品物が安くしか売れないこと、そして現地の品物がとても安いことにヴァスコ一行は驚いたそうです。
1502年 – 32歳「第2回航海に出発」
カブラルによる最新情報
1500年、カブラル率いる艦隊が交易を目的にインドへ向かいます。(カブラルはその途中でブラジルを発見します) 最初は友好的な雰囲気で、カリカットに商館を設置することにも成功しますが、その後交易は上手く進まず戦闘となってしまいました。
帰国したカブラルの話をもとに、ポルトガルはインド洋に武装した艦隊を常駐させ反対勢力には砲撃を加えるという対策をとり、インド交易を継続する決定をします。その司令官に、再びヴァスコダガマが選ばれました。
軍事力を利用し貿易を支配
2月10日、ヴァスコダガマは15隻の艦隊を率いてインドへ出発します。
カリカットに到着すると、約60km置きに艦隊を展開し海域を封鎖します。現地の商人は和平の手紙をよこしましたが、ヴァスコはこれを拒絶。カリカットにメッカ巡礼のため向かっていたイスラム教の船を捕え、積荷を奪い300人を無差別に死に追いやります。
こうして武力を行使しながら商館を保護し、イスラム勢力を撃退することで、ポルトガルはインド洋の貿易を支配していきました。
1524年 – 55歳「第3回インド航海に出発も、インドにて亡くなる」
国王の信頼を受け3度目のインドへ
ヴァスコの2回目の航海の後、ポルトガルはインドのゴアやマラッカを占拠して香辛料貿易を独占し、インドは実質のポルトガル領地となっていました。しかし、その後経営が悪化し、ポルトガル王は実績のあるヴァスコダガマに領地の立て直しを依頼します。
55歳になっていたヴァスコは、3,000人もの船員を引き連れ3度目の航海へ出発します。
インドのコチンにて死亡
出発から5ヶ月程経過しインドのゴアに到着した頃、ヴァスコは体調を崩します。その後も精力的に指揮をとり続けましたが、病状は悪化。後任への引継書を作成し、1524年12月24日ヴァスコダガマは死亡します。死因はマラリアだったと言われています。
ヴァスコの葬儀はインドのコチンの聖フランシスコ修道院で執り行われ、後に遺体はポルトガルに移されました。
ヴァスコダガマの関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ヴァスコ・ダ・ガマ 東洋の扉を開く (大航海者の世界)
1992年刊行なので少し古い印象がありますが、ヴァスコダガマを知るための一冊としておすすめです。新大陸を目指した彼の情熱と信念が詰まった伝記となっています。
図説 大航海時代
タイトルのとおりイラストや図がふんだんに使われているので、とても分かりやすいです。大航海時代が始まった経緯や、コロンブス、マルコポーロといった時代の著名人、ポルトガルについてなど、ヴァスコダガマ以外の内容に幅広く触れられています。
おすすめの映画
秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男
2011年のインド映画です。ヴァスコダガマに侵略される側の立場から描いた作品というのが特徴です。ヴァスコ・ダ・ガマ対インド大陸の原住民という構図がわかりやすく、インド映画らしく随所に挿入される踊りや歌も魅力的です。
関連外部リンク
ヴァスコダガマについてのまとめ
以上、今回はヴァスコダガマについて、その生涯や功績についてご紹介しました。
筆者はポルトガルのリスボン留学中、街のいたるところでヴァスコダガマの名前を目にしました。テージョ川に架かるヴァスコダガマ橋はポルトガルの有名観光地で、他にも大型ショッピングセンターの名前や高層ビルの名前に使われていたりします。
ヴァスコの活躍により栄光の時代を迎えたポルトガルでしたが、その後オランダやイギリスといった新教国に海の主導権を奪われ、衰退の一途を辿ります。それでも人々は後世までヴァスコダガマの栄誉をたたえ、その功績を語り継いできたのでしょう。
ポルトガルに旅行に行かれる際は、ぜひリスボンの港から、大西洋へと続くテージョ川を眺めてみてください。当時ヴァスコダガマが抱いた、未知なる航路への探究心や情熱を、肌で感じることができるのではないでしょうか。
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