ヴァスコダガマとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、開拓した新航路も紹介】

ヴァスコダガマの簡単年表

1469年 – 0歳
ヴァスコダガマの誕生

ポルトガル南部の町、シーネスで生まれました。ヴァスコは若いうちから宮廷に出仕していたため、そこで教育を受ける機会があったと考えられています。

1497年 – 28歳
第1回インド航海に出発

当時ポルトガルは、カスティーリャ王国(現在のスペイン)との対立や、セウタ(モロッコの都市)の攻略による出費が重なり、経済的に困窮していました。

国王はヴァスコダガマに、香辛料の直接貿易を行うためインドへの航路を開拓するよう命じます。修道院でミサが執り行われた後、ヴァスコは多くの観衆に見守られながらリスボンから出航します。

1498年 – 29歳
インドのカリカットに到着

リスボン出発から約1年後、ヴァスコの一行はカリカットに到着します。王に謁見し、積荷の交易許可を得ますが、交渉がうまくいかず最後には武力行使に出ることになります。

1499年 – 30歳
リスボンに帰国

インド航海に成功し、大量の香辛料を持ち帰ったヴァスコダガマに対し、マヌエル1世は多くの報酬を与えました。ヴァスコはインド提督に任命され、本来は王族や貴族だけに与えられる「ドン」の称号や、多額の年金が与えられました。

1502年 – 32歳
第2回航海に出発

国王の命を受け、ヴァスコダガマは15隻の艦隊で再びインドへ出航します。途中でアフリカの都市キルワを砲撃して朝貢国とした後、インドでは商館の安全を確保するため沖を艦隊で封鎖し、インド洋貿易を独占しました。

1503年 – 33歳
リスボンに帰還し、結婚

特にキルワを朝貢国とした功績がたたえられ、国王はヴァスコダガマに対し追加の年金と、ヴィディゲイラとフラデスの町を与えました。また、この時ヴァスコは名家からカナリア・デ・アタイデという女性を妻に迎えます。

1524年 – 55歳
第3回インド航海に出発も、インドにて死去

ポルトガルのインド領地経営が悪化し、国王は経営立て直しを図るため、ヴァスコダガマに3度目のインド航海を命じます。しかしヴァスコは途中で体調を崩し、到着したインドのコチンで死去します。

ヴァスコダガマの年表

1469年頃 – 0歳「ヴァスコダガマの誕生」

ヴァスコダガマの誕生

ポルトガルの港町シーネス

ヴァスコダガマはポルトガル南部、アレンテージョ地方の町シーネスで生まれます。シーネスは首都リスボンから170kmほど南に位置する港町で、大西洋に面したポルトガルの玄関口でした。

船が盛んに出入りする港町で生まれ育ったため、ヴァスコには航海に関する知識や経験は身についていたと推測されています。

1497年 – 28歳「第1回インド航海に出発」

香辛料の宝庫インドを目指す

司令官の第1候補はヴァスコダガマではなかった?

ヴァスコダガマがインド航路開拓の司令官に任命された理由には、いくつかの説があります。

もともと父のエステヴァンが任命されていたものの死去し、さらに次に指名されたパウロが病気を理由に辞退したためヴァスコに役目が回ってきた、という説もあれば、多くの立候補者からどの人物を選出するか協議中、ヴァスコダガマがたまたま通りかかりその場で任命された、という説もあります。

結局、はっきりとした理由は分かっていません。

先輩探検家バルトロメウ・ディアスの協力

ヴァスコダガマの艦隊は、全部で4隻の船で構成されました。航海に向けて、新たに2隻のナヴィオ船(サン・ガブリエル号、サン・ラファエル号)が作られ、それぞれヴァスコと兄のパウロが指揮をとりました。加えてべリオ号、貨物船が用意されました。

この艦隊は、ヴァスコの航海より前にアフリカの喜望峰への航海に成功したしたバルトロメウ・ディアスが、自身の経験をもとに構成したものです。またバルトロメウは、新造された船の状態を確認するために、自身も航海の途中まで随行しました。

1498年 – 29歳「インドのカリカットに到着」

インドはカリカットに到着

優秀な水先案内人の活躍

インド到着の前に立ち寄ったマリンディで、ヴァスコダガマはインド洋航海の水先案内人イブン・マージドを雇います。

イブンは有名な船乗りの一族に生まれ育ち、安全な航路や潮、風の傾向、天文の知識など、アラビア海域の航海に関するあらゆる知識を備えた人物で、「インド洋の教師」と呼ばれていたほどでした。

ヴァスコダガマ一行にとってイブンは、アラビア海横断という最後の関門を突破するのに必要不可欠な存在だったと言えます。

カリカット王に謁見

カリカット到着後も沖合からしばらく様子を見ていたヴァスコでしたが、国王の招待に応じる決断をし、13人の部下を引き連れて上陸します。

宮殿での2度の謁見を経て積荷の交易許可を得たヴァスコダガマは、積荷の織物や錫、鎖などを現地の胡椒やクローブ、シナモンなどの香料と交換します。自分たちの品物が安くしか売れないこと、そして現地の品物がとても安いことにヴァスコ一行は驚いたそうです。

1502年 – 32歳「第2回航海に出発」

戦艦を武装しイスラム勢力に対抗

カブラルによる最新情報

1500年、カブラル率いる艦隊が交易を目的にインドへ向かいます。(カブラルはその途中でブラジルを発見します) 最初は友好的な雰囲気で、カリカットに商館を設置することにも成功しますが、その後交易は上手く進まず戦闘となってしまいました。

帰国したカブラルの話をもとに、ポルトガルはインド洋に武装した艦隊を常駐させ反対勢力には砲撃を加えるという対策をとり、インド交易を継続する決定をします。その司令官に、再びヴァスコダガマが選ばれました。

軍事力を利用し貿易を支配

2月10日、ヴァスコダガマは15隻の艦隊を率いてインドへ出発します。

カリカットに到着すると、約60km置きに艦隊を展開し海域を封鎖します。現地の商人は和平の手紙をよこしましたが、ヴァスコはこれを拒絶。カリカットにメッカ巡礼のため向かっていたイスラム教の船を捕え、積荷を奪い300人を無差別に死に追いやります。

こうして武力を行使しながら商館を保護し、イスラム勢力を撃退することで、ポルトガルはインド洋の貿易を支配していきました。

1524年 – 55歳「第3回インド航海に出発も、インドにて亡くなる」

後任に引継書を残した

国王の信頼を受け3度目のインドへ

ヴァスコの2回目の航海の後、ポルトガルはインドのゴアやマラッカを占拠して香辛料貿易を独占し、インドは実質のポルトガル領地となっていました。しかし、その後経営が悪化し、ポルトガル王は実績のあるヴァスコダガマに領地の立て直しを依頼します。

55歳になっていたヴァスコは、3,000人もの船員を引き連れ3度目の航海へ出発します。

インドのコチンにて死亡

出発から5ヶ月程経過しインドのゴアに到着した頃、ヴァスコは体調を崩します。その後も精力的に指揮をとり続けましたが、病状は悪化。後任への引継書を作成し、1524年12月24日ヴァスコダガマは死亡します。死因はマラリアだったと言われています。

ヴァスコの葬儀はインドのコチンの聖フランシスコ修道院で執り行われ、後に遺体はポルトガルに移されました。

ヴァスコダガマの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

ヴァスコ・ダ・ガマ 東洋の扉を開く (大航海者の世界)

1992年刊行なので少し古い印象がありますが、ヴァスコダガマを知るための一冊としておすすめです。新大陸を目指した彼の情熱と信念が詰まった伝記となっています。

図説 大航海時代

タイトルのとおりイラストや図がふんだんに使われているので、とても分かりやすいです。大航海時代が始まった経緯や、コロンブス、マルコポーロといった時代の著名人、ポルトガルについてなど、ヴァスコダガマ以外の内容に幅広く触れられています。

おすすめの映画

秘剣ウルミ バスコ・ダ・ガマに挑んだ男

2011年のインド映画です。ヴァスコダガマに侵略される側の立場から描いた作品というのが特徴です。ヴァスコ・ダ・ガマ対インド大陸の原住民という構図がわかりやすく、インド映画らしく随所に挿入される踊りや歌も魅力的です。

関連外部リンク

ヴァスコダガマについてのまとめ

以上、今回はヴァスコダガマについて、その生涯や功績についてご紹介しました。

筆者はポルトガルのリスボン留学中、街のいたるところでヴァスコダガマの名前を目にしました。テージョ川に架かるヴァスコダガマ橋はポルトガルの有名観光地で、他にも大型ショッピングセンターの名前や高層ビルの名前に使われていたりします。

ヴァスコの活躍により栄光の時代を迎えたポルトガルでしたが、その後オランダやイギリスといった新教国に海の主導権を奪われ、衰退の一途を辿ります。それでも人々は後世までヴァスコダガマの栄誉をたたえ、その功績を語り継いできたのでしょう。

ポルトガルに旅行に行かれる際は、ぜひリスボンの港から、大西洋へと続くテージョ川を眺めてみてください。当時ヴァスコダガマが抱いた、未知なる航路への探究心や情熱を、肌で感じることができるのではないでしょうか。

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