7年戦争とは?原因や結果、その後の影響をわかりやすく解説

「7年戦争ってなに?」
「7年戦争は、どの国とどの戦争?」
「7年戦争とオーストリア継承戦争は何が違うの?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。 7年戦争は、18世紀中ごろにオーストリアとプロイセンが戦った戦争です。フランスがオーストリアを、イギリスがプロイセンを支援したため、ヨーロッパだけではなく北米やインドでも戦争が行われました。

7年戦争地図

オーストリアのマリア・テレジアは、オーストリア継承戦争でプロイセン王フリードリヒ2世に奪われたシュレジェン地方の奪還を目指します。ヨーロッパの外ではイギリスとフランスが第二次百年戦争ともよばれる植民地戦争を繰り広げていました。

この記事では、ヨーロッパで行われた7年戦争と、同時に行われた海外の植民地戦争、戦争後の条約、7年戦争が欧米諸国に与えた影響について解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

7年戦争とは

7年戦争(1756年)

7年戦争とは、1756年から1763年にかけてヨーロッパを中心に行われた戦争です。戦争を始めたのはオーストリアのマリア・テレジアでした。戦争の目的はオーストリア継承戦争でプロイセンに奪われたシュレジェン地方を奪還することでした。

オーストリアはフランス・ロシアと同盟を組み、プロイセンを追い詰めます。プロイセン王フリードリヒ2世は包囲に苦しみながらも戦争を戦い抜きました。

また、同時並行でイギリスとフランスが戦う植民地戦争も起こります。こちらは、最終的にイギリスがフランスに勝利しました。

1763年、フベルトゥスブルク条約とパリ条約が結ばれ7年戦争が終わります。

原因はオーストリア継承戦争と英仏植民地戦争

7年戦争の原因はいったい何だったのでしょうか。2つの原因が考えられます。一つは、シュレジェン地方を奪われたマリア・テレジアが奪還にこだわったこと。もう一つは世界各地でおきていたイギリスとフランスの植民地戦争です。

オーストリア継承戦争とは

オーストリア継承戦争

オーストリア継承戦争の発端は、マリア・テレジアのハプスブルク家相続でした。マリア・テレジアの父カール6世はハプスブルク家の領土を分割しないことや、男子がいない場合は女子が家督相続することを認める国事詔書を出し、ヨーロッパ各国に承認してもらいました。

しかし、カール6世が死去するとプロイセン王フリードリヒ2世は、相続承認と引き換えにオーストリア領のシュレジェン地方を要求します。シュレジェンはオーストリアの領土の中でも鉱工業などが発達していた地域でした。

1740年、交渉が決裂するとプロイセン軍がシュレジェンに攻め込み、7年戦争が始まります。戦争の序盤、軍制改革を進めていたプロイセン軍がオーストリア軍に対し優位に戦闘を進めます。戦争後半、オーストリアが体勢を立て直しアーヘンの和約に持ち込みました。

アーヘンの和約では、オーストリアがシュレジェン地方をプロイセンに譲るかわりにマリア・テレジアのハプスブルク家相続が認められます。マリア・テレジアとしては、フリードリヒ2世は約束を破ったうえに領土を奪った憎い敵となったことでしょう。

英仏植民地戦争とは

第二次百年戦争・ワーテルローの戦い

17世紀の末から19世紀の初めにかけて、イギリスとフランスは世界各地に植民地を広げました。両国は主に北アメリカとインドで激しく対立します。14世紀から15世紀におきた百年戦争になぞらえて、第二次百年戦争とも呼ばれます。

ヨーロッパで大戦争が起きると、イギリスとフランスは必ずといっていいほど植民地で戦争をしました。英仏両国は、ヨーロッパでスペイン継承戦争が起きると、北アメリカでアン女王戦争を戦います。オーストリア継承戦争の時はジョージ王戦争がおきました。

7年戦争の時には、北アメリカでフレンチ=インディアン戦争が、インドではカーナティック戦争とプラッシーの戦いが起きました。

マリア・テレジアが7年戦争を仕掛けた理由

マリア・テレジア

マリア・テレジアは、なぜ、プロイセンに復讐戦を挑んだのでしょうか。

それは、プロイセンに奪われたシュレジェンが非常に重要な地域だったからです。現在のポーランド南西部からチェコ北東部にあたるシュレジェンは豊かな地域でした。

1526年にオーストリア・ハプスブルク家の領土となったシュレジェンは鉄や石炭などの鉱産資源に恵まれ、鉱工業が発達します。ブレスラウを中心とするシュレジェン地方の人口は100万人に達し、オーストリア領の中でも最も裕福です。そのため、自国の発展を願うプロイセン王フリードリヒ2世は併合を熱望していました。

また、フリードリヒ2世はカール6世が諸国に承認させた国事詔書を破った裏切り者です。マリア・テレジアはフリードリヒ2世を「シュレジェン泥棒」と呼び、シュレジェンの奪還に全力を尽くしました。

7年戦争の構図

ロシアの女帝・エリザヴェータ

オーストリア継承戦争の経験で、マリア・テレジアはプロイセンに対抗するには周辺諸国と同盟するべきだと悟ります。マリア・テレジアが目を付けたのはたびたび争ってきた宿敵ブルボン朝フランスでした。

オーストリアはフランスと同盟し、これに、フリードリヒ2世を嫌いなロシアの女帝エリザヴェータを加えた「三枚のペチコート」でプロイセンを包囲します。オーストリアがフランスと組んだことから、イギリスはプロイセンと同盟し、植民地戦争を継続します。

外交革命でプロイセン包囲網を形成

ポンパドゥール夫人

オーストリアとフランスの対立は15世紀から続いていました。フランス王家がヴァロワ家からブルボン家にかわっても、オーストリアとフランスの対立は続きます。そのため、オーストリアにとってフランスは歴史的な宿敵でした。

マリア・テレジアの宰相カウニッツ伯は、プロイセンと戦うにはフランスとの同盟が必要だと主張します。カウニッツは「もし、ハプスブルク家が生き延びようとするなら、プロイセンを倒さなければならない」と口癖のように語りました。

カウニッツが目を付けたのはフランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人です。カウニッツは美貌と才知でルイ15世を虜にしていたポンパドゥール夫人を動かし、フランスとオーストリアとの同盟を成立させました。

ちなみに、ポンパドゥール夫人はおしゃれでも有名で、彼女の前髪を膨らませ高い位置でまとめる髪型は現在も「ポンバドール」の名で知られています。

カウニッツはフランスとの交渉を行う傍ら、ロシアとも同盟交渉を進めます。その結果、オーストリアとロシアの同盟も成立しました。これにより、プロイセンはオーストリア、ロシア、フランスに包囲されてしまいました。

三国の指導者が女性だったことからプロイセン包囲網は「三枚のペチコート」とよばれます。過去の常識を打ち破った外交政策の転換を外交革命といいます。

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