7年戦争とは?原因や結果、その後の影響をわかりやすく解説

イギリスとフランスの植民地戦争

1750年の北アメリカ。イギリスがピンク、青がフランスの植民地

オーストリア継承戦争で、イギリスはオーストリアを支持します。これは、植民地で対立しているフランスがプロイセン側についていたからにほかなりません。極端な話、イギリスはフランスと戦うことができるなら、どの国と同盟しても利益があったといえます。

イギリスとフランスは植民地をめぐって激しく対立していました。北アメリカでは、イギリス系移民がつくった13州植民地とカナダやルイジアナを拠点とするフランスの植民地(ヌーべルフランス)が対立しました。

インドではイギリス拠点のカルカッタのそばにフランス拠点のシャンデルナゴル、イギリス拠点のマドラスのそばにフランス拠点のポンディシェリーがあるなど、まるでマンツーマンディフェンスのように互いに邪魔しあっていました。

イギリスとしては、目障りなフランスと戦えるならどこと同盟しても利益になるといってもいい状況です。オーストリアがフランスと同盟した以上、イギリスがフランスの敵となったプロイセンと同盟するのは当然のことでした。

7年戦争の経過

ツォンドルフの戦い

苦戦するプロイセン王

1756年、フリードリヒ2世は包囲攻撃される前に自分から戦争を仕掛けました。1756年のザクセンの戦いや1757年のプラハの戦いではプロイセン軍が勝利します。

しかし、マリア・テレジアが育て上げたオーストリア軍は以前とは違い簡単に負けません。1757年のコリンの戦いではオーストリア軍がプロイセン軍に勝利します。

オーストリアの同盟国であるロシアは東プロイセンに攻め込みました。これを知ったフリードリヒ2世は軍をプロイセン本国に返します。プロイセン軍は各地を転戦し、ロスバッハの戦いやロイテンの戦いでオーストリアやドイツ中小国の連合軍に勝利します。

戦術的にはプロイセン軍は有利でした。しかし、徐々に数の差がプロイセン軍を苦しめます。1759年から1760年はプロイセン軍にとって苦しい時期となりました。消耗戦を繰り返す中、プロイセン軍は残り10万人まで減少しました。しかも、その多くが新兵で兵の質も低下してしまいます。フランス・ロシア・オーストリアは数の力で勝利するかに見えました。

ロシア女帝エリザヴェータの死

ピョートル3世

プロイセン軍が6万人まで減少し、首都ベルリンが包囲される寸前まで追い込まれたとき、神はプロイセンに救いの手を差し伸べます。ロシアの女帝エリザヴェータが亡くなったのです。

フリードリヒ2世嫌いだったエリザヴェータの跡を継いだのは、フリードリヒ2世を信奉するピョートル3世でした。ピョートル3世はロシア軍を撤退させ、プロイセンと和平を結びました。そればかりか、ロシアとプロイセンが同盟を結びます。これを、ブランデンブルクの奇跡といいました。

その後、プロイセン軍は単独でオーストリア軍と戦い勝利。プロイセンはシュレジェンを奪還しました。マリア・テレジアはシュレジェンの奪還を断念せざるを得なくなりました。

植民地戦争でフランスを圧倒するイギリス

軍人デュプレクス

同じころ、イギリスとフランスは海外植民地をめぐって戦いを繰り広げていました。

北アメリカのフレンチ=インディアン戦争は、イギリス本国が大規模な増援を行いイギリス優位に展開します。イギリス軍は1759年にケベックを、1760年にモントリオールを占領してヌーベルフランスのフランス軍を無力化します。

インドでは、南インド諸国の対立にイギリスやフランスが介入したカーナティック戦争が起きていました。戦争の前半、デュプレクス率いるフランス軍がマドラスなどを占領し、戦いを有利に運びます。

しかし、フランス本国がデュプレクスを解任したためフランス軍の力は大幅に低下しました。その後、カーナティック戦争はイギリス優位に進みます。イギリスのクライヴはプラッシーの戦いで、イギリス東インド会社軍を率いてフランス東インド会社軍・ベンガル太守の連合軍に勝利し、インドでのイギリスの優位が決定的となりました。

7年戦争の結果は?

ヴロツワフ(ドイツ名でブレスラウ、シュレジェン地方の中心都市)

フヴェルトゥスブルク条約とパリ条約が結ばれた

1763年、プロイセンとオーストリアを除く参戦国はパリ条約を締結し、戦争を終結させます。プロイセンとオーストリアはフヴェルトゥスブルク条約を結び、7年戦争を終わらせます。

プロイセンのシュレジェン領有が確定したフヴェルトゥスブルク条約

プロイセンとオーストリアが結んだフヴェルトゥスブルク条約では、オーストリア継承戦争後に結ばれたアーヘンの和約を確認し、プロイセンがシュレジェンを領収することが確定しました。マリア・テレジアの悲願は、ついに果たされることなく潰えました。

イギリスが広大な植民地を手に入れたパリ条約

7年戦争で最も利益を得たのはイギリスでした。イギリスは北アメリカ大陸のフランス勢力を一掃し、北米植民地を大幅に拡大します。また、西アフリカのセネガルやカリブ海のドミニカなどもフランスから獲得しました。

7年戦争が欧米諸国に与えた影響とは?

フランス革命の遠因となった

7年戦争が欧米諸国に与えた影響は主に以下の4つです。

  • プロイセンの国際的地位が向上し、列強の一角にのし上がった
  • イギリスが海外植民地を拡大させ、大英帝国の基礎を築いた
  • イギリスが北米で起きたフレンチ=インディアン戦争の戦費を北米植民地に課したことで独立戦争の原因を作った
  • 敗戦国となったフランスが植民地の多くを失い財政難が深刻化した(フランス革命の遠因となった)

7年戦争に関するまとめ

いかがだったでしょうか。

7年戦争はその後の歴史に大きな影響を与えた戦争でした。政治力と外交力でプロイセンを追い詰めたカウニッツとマリア・テレジア、常に戦場にあり最後まであきらめずに戦ったフリードリヒ2世、神のいたずらとも思えるブランデンブルクの奇跡などドラマッチックな展開の戦争でした。

しかも、ヨーロッパだけではなく北アメリカやインドでの戦争も関連し、イギリスが世界最強の帝国にのし上がるきっかけの戦争でもありました。

7年戦争が世界史にどんな影響を与えたか、7年戦争当時の国際関係がどうだったか、オーストリア継承戦争との違いは何かなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

それでは、長時間をこの記事におつきあいいただき、誠にありがとうございました。

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