徳川秀忠の性格とは?偉大な父親との関係や秀忠の失敗談なども詳しく紹介

徳川秀忠は江戸幕府の2代将軍であり、幕府を開いた徳川家康の息子です。彼はどんな性格だったのかご存知でしょうか。

偉大な父親にすべてお膳立てをしてもらってのんきに過ごしていたのか、生まれながらのエリートで切れ者だったのか、いろいろと想像できますね。しかし秀忠の性格は意外なもので、彼の性格でなければ江戸幕府はこれほど長続きはしなかったでしょう。

その性格は秀忠が育った家庭環境に大きく関係していると思われます。そこでこの記事では、家庭環境から彼の性格を解明していきます。

徳川秀忠はどんな性格だったのか

東京都台東区の松平西福寺所蔵の徳川秀忠

秀忠はとても真面目な性格だったと言われています。真面目すぎて融通がきかなかったとも言われており、そのための失敗談が現在まで伝えられているほどです。

しかし、彼には真面目にならざるを得ない事情がありました。それが秀忠の育った家庭環境です。真面目さゆえの失敗もありましたが、真面目だったからこそ彼は将軍になれたということもできます。

家庭環境と性格の関係とは

秀忠は家康の息子ですが三男として生まれており、本来は跡継ぎになる立場ではありませんでした。しかも秀忠は側室の子どもでした。しかし、長男が切腹、次男は養子に出されたことから跡を継ぐことになったのです。

跡継ぎになることには、いろいろな思いがあったに違いありません。

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偉大な父と三男なのに跡を継ぐというプレッシャーが秀忠の性格を作ったのは間違いないでしょう。カリスマ的な力を持つ父の後に幕府を引き継ぐ秀忠には、真面目にやっていくしか方法はありませんでした。

しかし秀忠の真面目さは家康が持っていなかったものでもありました。家康は最初から秀忠の長所を見抜き、幕府を任せようと思っていたのかもしれません。

偉大な父の前で萎縮した?秀忠の失敗

ここぞというときに失敗をしている姿は、秀忠の愚直なまでの真面目さをよく表しています。

息子が父親の目の前で大きな失敗をすると嫌になりそうなものですが、秀忠はあくまでも真面目を貫き、父の跡を継ぎます。その姿には強さすら感じるほどです。

ここで有名な秀忠の失敗談を紹介します。

関ヶ原の戦いで遅刻

天下分け目の関ケ原の戦いに秀忠が遅刻したのは有名な話です。進軍する途中に上田城攻めに手間取った挙げ句、天候までが不順となり、とうとう秀忠の軍勢は関ケ原で戦うことはできませんでした。

真面目な秀忠は上田城攻めを途中で止めて、関が原に向かうことができなかったのでしょう。これには家康も怒り、しばらくは秀忠に会おうとしないほどでした。

大阪の陣で失敗

1614年の大阪冬の陣で関ケ原での失敗をカバーしようと秀忠は張り切りましたが、これが裏目に出てしまいます。

絶対に遅刻をするまいという気持ちが強行軍となってしまいました。無理な移動を強いられた兵たちは、現地に到着するころには疲労困憊して、とても戦える状態ではなかったそうです。

家康が再び怒ったのは言うまでもありません。

秀忠の性格は戦国乱世以降に必要になる?

真面目さが裏目に出てしまうことが多かった秀忠ですが、家康だけでなく家臣たちの中にも彼の価値をわかっている者がちゃんといたようです。

跡継ぎは誰にしたら良いかとの家康の問に対して、戦国乱世には武勇が大切だが、その後には文徳が大切になると答え、秀忠を推した家臣がいたそうです。三男だった秀忠が跡継ぎになるためには、家臣の後押しがあったのは心強かったはずです。

戦国乱世が終わった後には、真面目で良い性格の指導者が求められたのは当然のことだったとも言えます。それは現代の指導者にも必要な資質だからです。

徳川秀忠の功績とは

徳川記念財団所蔵の徳川秀忠

一見家康の陰に隠れて目立たないように感じられる秀忠ですが、彼には大きな功績があります。江戸幕府を開いたのは確かに家康ですが、それが260年も受け継がれたのには、秀忠の真面目な性格の力が影響しています。

秀忠は江戸幕府が長続きする基礎を作った優秀な政治家でもありました。決して華やかではありませんが、秀忠の功績は幕府を支え、発展させたのです。

後の世に続く幕府の基礎を作った

秀忠は将軍に就任すると、大名が謀反を起こさないようにコントロールすることを始めました。このためにできた法律が「武家諸法度」です。大名をコントロールすることで幕府と大名の上下関係ができ、幕府の地位は安泰となりました。

さらに外国からの脅威を避けるために、外国船の寄港は平戸・長崎だけとしました。秀忠は鎖国制度の基礎を築いたわけです。

こうして国の内外の守りを固めて、天下泰平の世が始まりました。秀忠の力がいかに大きかったかがわかりますね。

幕府を安泰にするために秀忠がとった策とは

秀忠は朝廷に対しても法律を作り、厳しい締め付けを行いました。天皇は学問をしていれば良いとし、政治は幕府が行うと明言しました。こうして幕府と天皇・公家の関係ができあがり、明治時代になるまで続いたのです。

秀忠はただ朝廷を締め付けただけでなく、自分の娘を嫁がせています。後には自らの孫が天皇として即位しており、秀忠は天皇の外戚になりました。

朝廷を締め付けるだけでなく、天皇の権威を取り込んで徳川家は文句のない家柄になりました。幕府の権力が絶対的なものになったのは、秀忠のおかげです。

徳川秀忠の性格に関するまとめ

徳川秀忠の性格は父・家康に比べるととても真面目なものでした。カリスマ性を備えた父に比べて、つまらないと思う人もいるかもしれません。しかし、秀忠の真面目さが幕府を支え、発展させたことは誰の目にも明らかです。

しかも秀忠は有能であることをひけらかす人ではなかったようです。現在も失敗談の方が有名なのがその証拠です。失敗もする人間・秀忠の姿に私たちは共感できます。秀忠の家臣となった人たちもそれは同じだったと思われます。

カリスマ性のある人、個性の強い人に私たちはつい心を奪われてしまいますが、世の中には真面目な人の力が必要です。この大切なことを秀忠はずっと示し続けてくれています。

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