徳川秀忠は16世紀後半から17世紀前半にかけて、江戸幕府二代将軍として職務を全うした武将です。徳川家康の息子で、三代将軍家光の父であり、妻がお市の方の娘である小督(お江とも呼ばれる)でも知られていますね。
天下分け目の合戦に遅れてきたなど一見情けない二代目といった印象がある秀忠。本当にすごい人だったの?どんな功績を残した人なの?と疑問が出ますよね。しかし、秀忠は理想的な二代目将軍であり、二百年以上続いた江戸幕府の体制基盤の柱となった人物なのです。
そこで今回は、徳川秀忠の生涯について解説。性格や功績はもちろん、あまり知られていない逸話も生涯を年表でまとめつつ紹介していきます。
江戸幕府における縁の下の力持ち、徳川秀忠の魅力に迫っていきましょう。それではどうぞ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
徳川秀忠とはどんな人物か
名前 | 徳川秀忠 幼名:長松、のちに竹千代 法名:台徳院殿一品大相国公尊儀 |
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誕生日 | 1579(天正7年)4月7日 |
生地 | 遠江国浜松城 現在の静岡県浜松市 |
没日 | 1632(寛永9)年1月24日 夜四つ時(午後10時) |
没地 | 江戸城西の丸 |
埋葬場所 | 増上寺 |
配偶者 | 小姫、小督(於江与、江)、静 |
身長 | 158cmぐらい |
体格 | 中肉中背、筋肉質 |
血液型 | O型 |
徳川秀忠の生涯をハイライト
徳川秀忠は1579年に徳川家康の3男として生まれました。長男信康は秀忠誕生の5か月後に信長の命令で切腹させられ、次男の秀康は結城家に養子に出されます。その結果、秀忠は3男でありながら徳川家の世継ぎとなりました。
京都や大坂など上方での活動が多い家康に代わり、秀忠は関東の統治を任されます。家康は榊原康政や井伊直政に秀忠を後見させました。1593年に上洛した際、朝廷から中納言の官位を授かったので、以後は江戸中納言と呼ばれるようになります。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と石田三成が天下をかけて激突した関ヶ原の戦にて、秀忠は徳川の主力軍を率いていました。しかし、真田昌幸が守る上田城を落とせず、戦いに間に合いませんでした。
1605年、秀忠は朝廷から征夷大将軍に任じられます。これにより、将軍職は代々徳川家が継ぐことを天下に示しました。といっても、家康在世中は彼の指導の下で政治を行います。
1616年に家康が死去すると、名実ともに秀忠が江戸幕府のトップとなります。秀忠は家康の路線を継承し江戸幕府の支配を安定化させます。1626年に将軍職を子の家光に譲ったのち、家康と同じく大御所として家光を後見。1632年に52歳でこの世を去りました。
律儀で誠実な性格だった秀忠
秀忠はとにかく律儀で誠実、謙虚な人でした。家康は秀忠のこの性格をかって二代目に選んだとも考えられます。
時間にはとても正確でした。何があっても、供の者との約束の時間もきちんと守りました。
料理の味が気になり、誰が作ったのか尋ねるものの、名だたる料理人が調理したと聞けば、自分が体調不良で味がわからないのだろうと言い、周囲が料理人を咎めないよう気配りをしました。
親しい者の訃報を聞けば、気が塞ぎ、涙していたそうです。
秀忠の臨終直前、家康は死してのちに神号を宣下されているため、秀忠も神号を受けるかどうか尋ねると、自分は父家康のような大業をなしていないからそのような必要はないと言って断ったそうです。
将軍だからといって奢らず、相手の立場を思いやり、誰にでも分け隔てなく接する人でした。まさに「いい人」そのものですね。
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大御所政治を行った
1626年、秀忠は家光に将軍職を譲り大御所となりました。大御所とはもともと親王や摂政・関白の実父などの尊称です。江戸幕府では将軍をのある父を大御所と称しており、もともとは家督を秀忠に譲った家康が大御所と呼ばれたことに由来します。
駿府城に移った家康は大御所として政治に関与。秀忠も家康同様に完全隠居はせず、江戸城西の丸で大御所政治を行いました。秀忠は大御所となっても紫衣事件や和子入内など重要事項で采配を振るいます。
徳川秀忠は妻一筋の旦那様
家康が艶福家であったがために、秀忠はほぼ側室を持たず妻一筋であることが際立っています。それゆえに秀忠は、姉さん女房でもある小督の尻に敷かれていたとも言われるわけですが、おそらくこれは秀忠自身の性格にもよると思われます。
家康が秀忠に、気を利かせて美人の女中を紹介しても、丁重にもてなした上で、早く帰るように促したというエピソードも残っていますが、生真面目な秀忠にはいらぬお世話だったのでしょう。
秀忠が生まれたのは織田信長の晩年、全盛期でしたから、信長に対する思いもあったかもしれません。家康は人生の前半を信長に振り回されてきましたし、秀忠が信長の姪である小督に、血筋の面から畏れにも似た感情を持っていたという推論も、否定はできません。
どんな相手でも思い遣って接することのできる秀忠ですから、側室を何人も持つことで小督が悲しい思いをするかもしれないと小督の気持ちを慮った可能性もあります。
秀忠は、妻の立場からすれば、本当に素敵な旦那様だったと言えますね。
秀忠が愛した能役者
秀忠は能の庇護にも積極的でした。当時、能楽は武家の式典には欠かせない芸能でした。秀忠は北七太夫長能という能役者を贔屓にし、バックアップしていたようです。
北七太夫長能の「北」を「喜多」に改めさせ、喜多流として新しい流派を創設させます。現在ある能のシテ方五流のうちの一つです。
徳川秀忠の死因は胃癌?
秀忠の晩年の症状から考えて、胃癌により死んだという説が多いですが、胸が痛いという症状もあることから、狭心症の可能性も指摘されています。
ちなみに、秀忠の遺骨は発掘調査が行われていて、身体に銃創がいくつもあった報告されています。秀忠は戦の折、大将だからといって部隊の後ろから指揮していたわけではなく、部下と共に前線へ出ていたのでしょう。秀忠の性格的にも、その可能性が高いです。
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徳川秀忠の功績
功績1「幕府運営を軌道に乗せた」
秀忠の一番の功績は、徳川家康が作り上げたシステムを機能させ、軌道に乗せたことです。家康は武家諸法度で大名を、禁中並公家諸法度で朝廷や公家を、寺院諸法度で仏教勢力を統制しようとしました。
家康の死後、秀忠は家康が作り上げたシステムを運用し、実効性のあるものに高めていきました。家康が作った仕組みを理解し、運用する能力があったからこそ、家康が死んだ後も江戸幕府を混乱なく主導することができたのです。
功績2「武断政治を継続した」
秀忠は、かねてより続く武断政治を継続し幕府の力を強めました。武断政治とは、諸大名を容赦なく改易・減封し江戸幕府の力を強める政治のこと。秀忠の時代、外様大名を39家、親藩・譜代大名を21家改易に処しています。これには大坂の陣での戦後処理なども含まれていますが、躊躇なく諸大名を処分していることがわかります。
例えば、関ヶ原の戦いで功績があった福島正則は広島城修復の届け出御怠り武家諸法度違反の罪に問われ改易されます。恐妻家としての一面が有名なため、柔和な印象が強い秀忠ですが、政治家としては家康の原則を徹底して守らせる厳格な面がありました。
武断政治の継続も家康路線の継承と考えてよいでしょう。諸大名を厳しく取り締まることで秀忠は事前に反逆の芽を摘んでいたといえます。
功績3「和子を入内させ朝廷と結びつきを強めた 」
秀忠は朝廷との結びつきも強固なものとしました。当初は家康の遺言に従い、五女の和子を後水尾天皇の宮中に入内させようとしますが、1618年に後水尾天皇がお気に入りの女官に子を産ませると、秀忠は和子の入内に待ったをかけ朝廷を揺さぶります。
その後、女官と子を宮中から追い出すことで事件は決着しました。改めて、1620年に和子が女御として入内します。その後、和子は後水尾天皇の皇后となり、女一宮を生みました。
1629年に紫衣事件が起きると朝廷と幕府の関係は急速に悪化し、後水尾天皇は突如として退位しました。その結果、秀忠の孫である女一宮が明正天皇として即位します。途中ぎくしゃくする場面はありましたが、最終的に朝廷と幕府は結びつきを強める結果となりました。
徳川秀忠にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「幼い頃から冷静沈着だった秀忠」
どんな時でも冷静沈着な秀忠。13歳だったある日のこと、儒学の講義を受けていると、講義中の屋敷内に牛が乱入し、屋敷の人々はパニックに陥ります。しかし秀忠は、牛はもちろん騒ぎ立てる人々も気にせず、一人静かに講義を聴き続けたというのです。
秀忠が聴く態度であれば、講義する側も続けるしかないですね。ある意味では、落ち着きを取り戻すのに、秀忠が静かに座っていることが一番効果的な方法だったのかもしれません。
都市伝説・武勇伝2「鰻を蒲焼にして食べたことで磔の刑に処す」
伊豆にある三島明神には、鰻を獲ると神罰が下るという言い伝えがありました。
しかし三島宿で秀忠の小者が、自分は秀忠の供だから獲っても問題ないだろうと考え、鰻をとって蒲焼にして食べてしまいます。それを聞いた秀忠は、将軍の威信を借りて神を軽んじるなど以ての外と怒り、その小者を磔の刑にしたそうです。
鰻を蒲焼にして食べたからといって処刑されるなど恐ろしい話ですが、権威を振りかざすことは、秀忠が嫌うことでした。真面目で、常に謙虚でいた秀忠らしいエピソードです。
都市伝説・武勇伝3「秀忠は恋人の男を出世させた?」
戦国時代は、武将が美少年を寵愛することが一般的でした。秀忠も例外ではなく、織田信長の家臣として有名な丹羽長秀の長男、丹羽長重とは深い関係であったと言われています。
丹羽長重は関ヶ原の戦いで西軍につき、改易処分となるも、秀忠が家康にとりなしを求めて大名復帰を果たしています。
丹羽長重の築城術が優れていたため、その才能を買われての復活とは言われていますが、もしかしたら秀忠の長重に対する特別な感情があったから?大名に復帰できたのかもしれません。
徳川秀忠の簡単年表
徳川秀忠は、徳川家康と側室である西郷局の子として浜松城で生まれました。家康にとっては三番目の男子です。乳母として大姥局がつけられ、育てられました。
秀忠は、豊臣秀吉の仲介で小督と結婚します。秀吉の側室、淀殿の妹である小督との婚儀により、秀忠は徳川家と豊臣家の架け橋になること、秀頼の後ろ盾としての役割を期待されました。
秀忠は父家康と共に、石田三成率いる西軍との戦いに参加しました。しかし移動途中で、真田親子のいる上田城での戦に時間を取られ、関ヶ原の戦いに遅参してしまいます。これは秀忠にとって人生最大のトラウマになりました。
秀忠は家康から将軍職を譲り受け、二代目となります。駿府城にいる大御所家康と、江戸城にいる将軍秀忠の、二元政治が始まりました。
大阪冬の陣、夏の陣を経て、豊臣氏は滅亡しました。これを境に家康は幕政から手を引くようになり、秀忠の単独政権となります。
家光が幕政の舵取りをしやすいよう、大名や家臣の整理をした上で、秀忠は家光に将軍職を譲ります。家光は三代目となり、秀忠は大御所として幕政を支えました。
晩年は幕府と朝廷との融和に力を注ぎます。しかし秀忠は病に倒れ、最後は江戸城で息を引き取りました。