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【異質の2代目】徳川秀忠とはどんな人?生涯や性格、死因を年表で解説

徳川秀忠は16世紀後半から17世紀前半にかけて、江戸幕府二代将軍として職務を全うした武将です。徳川家康の息子で、三代将軍家光の父であり、妻がお市の方の娘である小督(お江とも呼ばれる)ということでも知られています。

そして何より、天下分け目の合戦に遅れてきた武将としても有名です。真田昌幸、幸村親子との上田合戦でいいようにしてやられた秀忠は、そのせいで関ヶ原の戦いに遅参しました。

情けない二代目といった印象がある秀忠ですが、実際は理想的な二代目であったと考えられています。江戸幕府を築き上げた偉大な父の元で、一武将としてきちんと学び、何があっても腐らず、常に謙虚に真面目に取り組み、最後まで幕府の地ならしに勤しみます。

秀忠の功績はとても地味なものが多いのですが、秀忠がいたからこそ、家光は今後二百年以上続く江戸幕府の体制を新たに作り上げることができました。秀忠こそ、江戸幕府の縁の下の力持ちなのです。

目次

徳川秀忠とはどんな人か?

名前徳川秀忠
幼名:長松、のちに竹千代
法名:台徳院殿一品大相国公尊儀
誕生日1579(天正7年)4月7日
生地遠江国浜松城
現在の静岡県浜松市
没日1632(寛永9)年1月24日
夜四つ時(午後10時)
没地江戸城西の丸
埋葬場所増上寺
配偶者小姫、小督(於江与、江)、静
身長158cmぐらい
体格中肉中背、筋肉質
血液型O型

徳川秀忠はとても「いい人」

秀忠はとにかく律儀で誠実、謙虚な人でした。家康は秀忠のこの性格をかって二代目に選んだとも考えられます。

時間にはとても正確でした。何があっても、供の者との約束の時間もきちんと守りました。

料理の味が気になり、誰が作ったのか尋ねるものの、名だたる料理人が調理したと聞けば、自分が体調不良で味がわからないのだろうと言い、周囲が料理人を咎めないよう気配りをしました。

親しい者の訃報を聞けば、気が塞ぎ、涙していたそうです。

秀忠の臨終直前、家康は死してのちに神号を宣下されているため、秀忠も神号を受けるかどうか尋ねると、自分は父家康のような大業をなしていないからそのような必要はないと言って断ったそうです。

将軍だからといって奢らず、相手の立場を思いやり、誰にでも分け隔てなく接する人でした。まさに「いい人」そのものですね。

徳川秀忠は恐妻家?

家康が艶福家であったがために、秀忠はほぼ側室を持たず妻一筋であることが際立っています。それゆえに秀忠は、姉さん女房でもある小督の尻に敷かれていたとも言われるわけですが、おそらくこれは秀忠自身の性格にもよると思われます。

家康が秀忠に、気を利かせて美人の女中を紹介しても、丁重にもてなした上で、早く帰るように促したというエピソードも残っていますが、生真面目な秀忠にはいらぬお世話だったのでしょう。

秀忠が生まれたのは織田信長の晩年、全盛期でしたから、信長に対する思いもあったかもしれません。家康は人生の前半を信長に振り回されてきましたし、秀忠が信長の姪である小督に、血筋の面から畏れにも似た感情を持っていたという推論も、否定はできません。

どんな相手でも思い遣って接することのできる秀忠ですから、側室を何人も持つことで小督が悲しい思いをするかもしれないと小督の気持ちを慮った可能性もあります。

秀忠は、妻の立場からすれば、本当に素敵な旦那様だったと言えますね。

徳川秀忠の死因は胃癌?

秀忠の晩年の症状から考えて、胃癌により死んだという説が多いですが、胸が痛いという症状もあることから、狭心症の可能性も指摘されています。

ちなみに、秀忠の遺骨は発掘調査が行われていて、身体に銃創がいくつもあった報告されています。秀忠は戦の折、大将だからといって部隊の後ろから指揮していたわけではなく、部下と共に前線へ出ていたのでしょう。秀忠の性格的にも、その可能性が高いです。

秀忠が愛した能役者

秀忠は能の庇護にも積極的でした。当時、能楽は武家の式典には欠かせない芸能でした。秀忠は北七大夫長能という能役者を贔屓にし、バックアップしていたようです。

北七大夫長能の「北」を「喜多」に改めさせ、喜多流として新しい流派を創設させます。現在ある能のシテ方五流のうちの一つです。

徳川秀忠にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「幼い頃より常に冷静な秀忠」

どんな時でも冷静沈着な秀忠。13歳だったある日のこと、儒学の講義を受けていると、講義中の屋敷内に牛が乱入し、屋敷の人々はパニックに陥ります。しかし秀忠は、牛はもちろん騒ぎ立てる人々も気にせず、一人静かに講義を聴き続けたというのです。

秀忠が聴く態度であれば、講義する側も続けるしかないですね。ある意味では、落ち着きを取り戻すのに、秀忠が静かに座っていることが一番効果的な方法だったのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「鰻を蒲焼にして食べたことで磔の刑に処す」

伊豆にある三島明神には、鰻を獲ると神罰が下るという言い伝えがありました。

しかし三島宿で秀忠の小者が、自分は秀忠の供だから獲っても問題ないだろうと考え、鰻をとって蒲焼にして食べてしまいます。それを聞いた秀忠は、将軍の威信を借りて神を軽んじるなど以ての外と怒り、その小者を磔の刑にしたそうです。

鰻を蒲焼にして食べたからといって処刑されるなど恐ろしい話ですが、権威を振りかざすことは、秀忠が嫌うことでした。真面目で、常に謙虚でいた秀忠らしいエピソードです。

都市伝説・武勇伝3「秀忠は恋人だった男を出世させた?」

戦国時代は、武将が美少年を寵愛することが一般的でした。秀忠も例外ではなく、織田信長の家臣として有名な丹羽長秀の長男、丹羽長重とは深い関係であったと言われています。

丹羽長重は関ヶ原の戦いで西軍につき、改易処分となるも、秀忠が家康にとりなしを求めて大名復帰を果たしています。

丹羽長重の築城術が優れていたため、その才能を買われての復活とは言われていますが、もしかしたら秀忠の長重に対する特別な感情があったから?大名に復帰できたのかもしれません。

徳川秀忠の略歴年表

1579年
徳川秀忠、生まれる
徳川秀忠は、徳川家康と側室である西郷局の子として浜松城で生まれました。家康にとっては三番目の男子です。乳母として大姥局がつけられ、育てられました。
1595年
小督と結婚
秀忠は、豊臣秀吉の仲介で小督と結婚します。秀吉の側室、淀殿の妹である小督との婚儀により、秀忠は徳川家と豊臣家の架け橋になること、秀頼の後ろ盾としての役割を期待されました。
1600年
関ヶ原の戦い
秀忠は父家康と共に、石田三成率いる西軍との戦いに参加しました。しかし移動途中で、真田親子のいる上田城での戦に時間を取られ、関ヶ原の戦いに遅参してしまいます。これは秀忠にとって人生最大のトラウマになりました。
1605年
秀忠、江戸幕府二代将軍就任
秀忠は家康から将軍職を譲り受け、二代目となります。駿府城にいる大御所家康と、江戸城にいる将軍秀忠の、二元政治が始まりました。
1615年
豊臣氏滅亡
大阪冬の陣、夏の陣を経て、豊臣氏は滅亡しました。これを境に家康は幕政から手を引くようになり、秀忠の単独政権となります。
1623年
息子家光に将軍職を譲る
家光が幕政の舵取りをしやすいよう、大名や家臣の整理をした上で、秀忠は家光に将軍職を譲ります。家光は三代目となり、秀忠は大御所として幕政を支えました。
1632年
秀忠、生涯を終える
晩年は幕府と朝廷との融和に力を注ぎます。しかし秀忠は病に倒れ、最後は江戸城で息を引き取りました。

徳川秀忠の具体年表

1579年 – 1歳「徳川秀忠が家康の三男として誕生」

側室の子として生まれる

秀忠を出産したのは、西郷局(於愛之方)と呼ばれる家康の側室です。当時家康には築山御前という正室がいました。今川家に所縁のある女性だったため、家康が今川義元を討った織田信長に味方して以降、夫婦仲には溝が生まれたと言われています。

家康には多くの側室がいたことで知られていますが、西郷局は築山御前との関係がうまくいっていない頃に家康から寵愛された女性です。家康が苦労していた浜松城主時代を支えていましたが、1589年に若くして亡くなりました。

大姥局に育てられる

秀忠には大姥局という乳母がつき、育てられました。2011年の大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では加賀まりこが演じていましたね。江に世継ぎを産めと圧力をかける姿が大迫力で話題になっていました。

大姥局は、秀忠の乳母だからといって奢らない、何事にも弁えた女性として知られています。亡くなる直前、見舞いに来た秀忠に、「流罪になっている私の子供を、私のためにと思って赦したりしないように」と言い残したそうです。

こういう乳母に育てられたことで、秀忠の謙虚な性格が培われたのかもしれません。

秀忠の兄であった信康が切腹

側室の子であり、なおかつ三男として生まれた秀忠は、本来であれば家康の跡継ぎとなるはずのない立場でした。しかし秀忠が生まれたその年に、事態は大きく変わります。

家康の嫡男であった信康は、築山御前の子です。この時点で21歳。初陣も済ませ、織田信長の娘徳姫を妻に迎えていました。

当時家康は信長と同盟を結んでいました。その信長から、信康と築山御前を殺すよう命が下ったのです。

それは徳姫が、日頃の不満を父信長に訴えたことが発端でした。信康の側室に対する嫉妬や、姑にあたる築山御前に対する文句、そして築山御前と信康が武田勝頼に内通しているのではないかという疑いもあったようで、内容は十二カ条に及んだと言われています。

このほかに、信康が武将として立派に成長しているため、徳川家がこれ以上力をつけるのは恐ろしいと信長が思い、徳川の力を削ぐために信康を抹殺しようとしたという話もあります。

真相は定かではありません。しかし家康はこの信長の命令を断れるような力を持っていなかったこと、今後とも信長の庇護を受ける必要があったことから、妻と息子を諦める以外に道はなかったのです。

結果的に築山御前は殺され、信康も9月15日に切腹させられました。2017年の大河ドラマ「おんな城主直虎」で、この時の家康の苦悩を阿部サダヲが見事に演じていましたね。その表情や仕草を見ているだけで、胸が苦しくなりました。

1583年 – 4歳「正月の年始の挨拶に父家康と同席」

家康は秀忠を跡継ぎに考え始める

正月になると家臣たちは主君の元へ年始の挨拶に行きます。1583年の正月、家康は秀忠を並んで座らせ、共に家臣の挨拶を受けたのです。

これは家康の心中を勘繰りたくなる事態でした。当時、家康には1574年生まれの次男、秀康がいました。秀康は側室お万の方の子です。秀忠と同じ側室の子で条件は変わらず、年齢的に言えば秀康こそ家康の跡継ぎ筆頭に挙げられるべきです。

この背景には、お万の方と家康との確執があったと考えられます。

お万の方はもともと築山御前の侍女で、家康の側室ではありませんでした。家康がお万の方に目をつけて関係を持ち、妊娠出産したことで側室となります。そういった事情から、家康はお万の方が産んだ子供が自分の本当の子供なのか怪しんでいたようなのです。

築山御前も、お万の方にいい感情を抱くはずがありません。嫉妬に狂った築山御前を見て、家臣が身籠っていたお万の方を城外に連れ出したとか、お万の方が家康の意にそぐわないことをしたために城外に出されたという史料もあります。

結局秀康は浜松城内ではなく、家臣の手引きにより別の場所で生まれました。こういった一連の出来事から、秀忠は兄秀康を飛び越し、家康の跡継ぎ候補になっていくのです。

1584〜1587年 – 5〜8歳「家康の跡継ぎとしての環境が整う」

兄秀康が豊臣秀吉の養子となる

1584年、信長の後継者争いで小牧長久手の戦いが起こります。織田信長の次男信雄と家康連合軍に対し、豊臣秀吉が争いました。この戦は講和に持ち込まれ、その証として家康は次男秀康を秀吉の養子に差し出すのです。

なぜ家康が次男の秀康を養子に出したのかはわかっていません。西郷局は1580年に四男になる忠吉も出産しており、秀康ではなく秀忠、忠吉を養子に出すことも可能だったはずです。

理由はどうあれ、養子に出された秀康は秀吉のもとで元服します。この一件で、家康が秀忠を跡継ぎに考え始めていると、周囲の者は考えるようになったでしょう。

朝日姫が義母となる

1586年、秀吉の妹、朝日姫が家康に嫁いできます。新郎新婦が40歳を過ぎているという形ばかりの結婚で、朝日姫はいわば徳川家への人質でした。秀吉は家康を臣下につけようと様々な形でアプローチしていました。この結婚もその一つです。

のちに書かれた史料では、この結婚の際、家康は秀忠を秀吉の人質として差し出さないといった約定を交わしていたとされています。ただしこれらの史料は信憑性が低く、真実はわかりません。

5月に行われたこの婚儀後も、家康は上洛して秀吉に臣下の礼をとらなかったので、秀吉は生母大政所まで人質として家康の元に送りました。家康は、これら一連の秀吉の攻勢に根負けし、上洛して臣従を示します。

秀忠が従五位下蔵人頭に叙される

1587年、家康が従二位権大納言に叙された際、秀忠も官位を賜っています。秀康も官位は授かっているものの、秀吉と養子縁組をしていて、すでに徳川家の人間ではありませんでした。

家康とともに秀忠が叙任したことは、秀忠が将来的に家康の跡継ぎという地位につくことを示唆したとも言えるでしょう。

1590年 – 11歳「秀忠、元服して徳川家の一武将になる」

秀吉の北条家討伐に対する家康の姿勢

1590年、秀吉は小田原城にいる北条氏の討伐を行います。

家康の娘、督姫が北条氏直に嫁いでいた関係もあり、家康は北条家に降伏するよう説得を続けていましたが、北条氏政、氏直親子はそれを撥ねつけます。結局、督姫は徳川家へ戻され、北条氏は秀吉に対し徹底抗戦の構えを見せました。

家康は、北条家とは縁を切ったと秀吉に言ってはいるものの、もともとは同盟関係にあったという事情を秀吉が気にするかもしれないと懸念したのかもしれません。思い切った一手を打ちました。秀忠を、人質として秀吉のもとに送ったのです。

秀忠の元服と婚約

1590年、年明けすぐに秀忠は京都の秀吉の元へ向かいました。そして秀吉の手で元服します。「秀忠」の「秀」の字は、この時に秀吉から贈られた一字と言われています。

また秀忠は、秀吉により織田信雄の娘小姫との婚約が決められました。しかし小田原攻め後、秀吉と織田信雄の不仲からこの婚約は破棄されています。

小田原攻めの際、家康が秀吉に味方するという確約のための秀忠の人質でしたが、秀吉は秀忠の元服、婚約を済ませるとすぐに家康の元へ秀忠を帰しています。

この辺りの駆け引きは、秀吉と家康の腹の探り合いのようで面白いですが、秀忠は二人にとっては将棋の駒のようなもので、いいように使われているようにも見えます。

秀忠の甲冑始めと初陣

駿府城に戻った秀忠は、家康とともに小田原攻めに参加します。初めて甲冑を身に付け、徳川家の一武将として参陣しました。

北条氏討伐は小田原城を包囲する戦でした。秀吉は大軍で城を取り囲みつつ、北条氏に味方しそうな周囲の城を次々に落とし、北条氏の戦意を喪失させ、降伏させました。

この時の秀吉側の使者が黒田官兵衛であったと言われており、2014年のNHK大河ドラマ「軍師官兵衛」でもその様子が描かれていました。官兵衛役の岡田准一が、単身で刀も持たずに颯爽と小田原城を訪れるシーンは、ドラマとしても見所の一つでした。

酒井忠世が秀忠の補佐となる

酒井忠世は若い頃から家康に仕えていた徳川譜代の家臣です。

秀忠には土井利勝や内藤清成、青山忠成など、傅役や小姓のような専属の家臣がいました。しかし家康はこの年、秀忠を成人男子として考え、酒井忠世を秀忠の政治的な面を補佐させるためにつけたのです。

家康が江戸城入城

北条氏討伐が終わると、その論功行賞で家康は北条氏の遺領である関東への転封となりました。江戸城の築城と江戸の町づくりが始まります。

兄秀康が結城氏の養子に入る

家康が秀吉に臣従する証として秀吉の養子となっていた秀忠の兄秀康ですが、この頃になると家康は秀吉に従う姿勢を見せており、人質としての役割はなくなっていました。

そこで茨城県結城城を拠点とする鎌倉時代以来の名門、結城家が秀吉に養子を願い出たため、秀康は秀吉の元から結城氏へ養子に出ることになりました。結城秀康の誕生です。

この一件は家康も了承の上で進められました。これによって、秀康が徳川家に戻ることはまずないと言える状況になります。

1593年 – 14歳「家康に代わって江戸を守る」

江戸の町づくりと江戸城築城を督励

1592〜1593年にかけて、秀吉は朝鮮出兵を指示しました。文禄の役と呼ばれるものです。

敵地に近い領地の大名から順に出兵するのが当時の通例であったので、主に西国大名が渡海して朝鮮半島へ軍を進めました。家康や前田利家など東国、北陸の諸大名は前線基地となる肥前名護屋に出向き、後詰の役割を果たします。

家康は1592年に肥前名護屋へ行き、そこで年越しをしました。そのため、1593年の江戸での年始挨拶は、秀忠が担当しています。

家康の江戸不在中、榊原康政や酒井重忠、本多康重が秀忠を支えつつ、江戸城築城と江戸の町づくりを進めます。秀忠は江戸の留守居役を務めるわけです。そして家康は重臣、大久保忠隣を秀忠付きの家臣に任命しました。

家康が数多くいる息子たちの中から秀忠を跡継ぎに選ぶことが、既定路線となりつつありました。

1595年 – 16歳「小督との婚儀」

秀吉の周旋による結婚

小督は織田信長の妹、お市の方と浅井長政との間に生まれました。秀吉の側室となった淀殿と、京極高次の正室である初は、小督の姉にあたります。

秀忠と小督との結婚には、秀吉の思惑がありました。秀吉としては、淀殿の産んだ我が子秀頼を守ることが一番の目的です。自らが亡き後も秀頼を多くの人が支える環境を整える必要がありました。

2011年大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では、小督を秀吉の養女として秀忠に嫁がせていましたが、この説を唱える人もいます。こうなると秀忠は立場上秀吉の女婿です。秀頼の強力な味方になり得ます。

実際はどうあれ、秀忠と小督との結婚では、徳川家と豊臣家のつながりを深くすることで、秀頼を守ろうとした秀吉の執念にも似た感情が垣間見られます。

1597年 – 18歳「長女千姫の誕生」

小督と間に最初の子供が生まれる

秀忠と小督の間には、十年の間に三男五女の子供が生まれました。その最初の子供が千姫です。千姫はのちに秀頼に嫁ぎます。このことで後に数奇な運命をたどる姫です。

1598年 – 19歳「豊臣秀吉が他界する」

秀吉が秀忠に託したこと


秀吉は、息をひきとる一ヶ月ほど前に、諸大名に宛てて遺言のような「覚」を残しています。第1条は徳川家康宛というように、一条ずつ有力大名の名前が入っているのですが、第2条が前田利家、そして第3条が秀忠に宛てられたものでした。

秀忠の後に、宇喜多秀家や上杉景勝、毛利輝元が続いています。これは秀吉が秀忠を、小督の夫として、まるで身内のように頼りにしていた証でもあるでしょう。まだ幼い秀頼の後ろ盾として期待していたからに他なりません。

秀吉は、自らの死を秘すように側近に命じて亡くなりましたが、石田三成は家康に密かにこの事実を伝えたと言われています。家康はこの報に接し、秀忠をすぐに江戸へ帰しました。

秀吉の死去によって混乱が生じることは予想がつくので、家康は徳川家の将来のためにも、秀忠を上方に止めるのは危険と考えたからでしょう。

1599年 – 20歳「家康と石田三成の対立が表面化」

前田利家の死

秀吉亡き後、一番の実力者が家康というのは周知の事実であったと思います。それを生前の秀吉はもちろん、他にも恐れていた人は多かったでしょう。そのため秀吉は、家康は伏見城で政務を行い、利家は大坂城にて秀頼の後見をするように遺言していたのです。

しかし前田利家は死去。家康だけが突出した力を持つ状態になってしまったのです。

前田利家の死は、石田三成にも大きな影響を及ぼしました。朝鮮出兵の際の作戦や論功行賞のことで、出陣していた武将たちと軍監(目付)との間で対立が起きていました。その怒りの矛先が石田三成に向けられていたのです。それを押さえていたのが前田利家でした。

一般に、豊臣七将による三成襲撃事件と呼ばれる騒ぎは、前田利家の死去によって起こったのです。家康は、この和議を進めたことで、更に権力を握るようになりました。

珠姫誕生

この年、小督は秀忠の次女となる珠姫を出産します。珠姫は、わずか3歳で加賀藩主前田利常の正室となりました。これは前田家が徳川方につくという証の結婚でした。

珠姫は24歳という若さで亡くなりますが、驚くことに14歳の初産以来、8人もの子を利常との間にもうけています。政略結婚でしたが、夫婦仲が良かったようです。徳川家と前田家の架け橋として短い人生を駆け抜けた珠姫は、現在でも金沢の人々に愛されています。

1600年 – 21歳「関ヶ原の戦い」

上杉景勝が謀反の疑い

関ヶ原の戦いの直接の火種は、上杉景勝にありました。景勝は、会津への転封間もないことを理由に、1599年に会津に戻っていました。会津では領内にある城の修復とともに、兵糧や武器の調達などを行っていて、それは周辺の領主たちにも知れ渡るほどでした。

この景勝の動きに対し、家康は謀反の疑いがあるとして上洛するように伝えます。しかし景勝は拒絶。俗に言う「直江状」で上洛をしない理由を述べるのです。

「直江状」は、景勝の家宰であった直江兼続がしたためたものです。兼続が「度々上洛しろというけれども、じゃあ領国の仕置はいつ行えばいいんですか?」といった調子で、嫌味たっぷりに、長々と書いているため、これを読んだ家康は怒り狂ったと言われています。

直江兼続といえば、2009年NHK大河ドラマ「天地人」の主人公ですね。秀吉亡き後、直江兼続が石田三成と未来を語るシーンが秀逸でした。

兼続役の妻夫木聡と、石田三成役の小栗旬が、タイミングを計って家康を討とうという算段をしているのですが、二人は心が通じ合っている友と過ごせる一瞬の幸せをかみしめているようで、結末を知っている者としては切なくなるような表情をしていました。

この後、直江状を書くシーンもありましたが、兼続が、三成を思いつつ筆を進めたであろうことがよくわかります。兼続と三成が密談したシーンはドラマの脚色であったにしても、直江状をしたためることになる兼続の心情がとてもよく理解できる展開でした。

会津討伐決定

景勝が上洛する意思がないことを確認した家康は、6月6日、諸大名を大阪城に集め、会津討伐を決めます。家康は、自分が会津討伐に行けば、きっと三成が挙兵するだろうと踏んでいたのです。それこそ家康が望んでいた決戦でした。

この時、秀忠は江戸城にいます。家康の意を受けて、出陣の準備を進めていました。武具の支度以外に、会津領への出入りを禁じる書状を北関東の武将へ送る役目も秀忠がしていました。これは戦の前の準備として必要な措置で、進軍中の家康に代わって秀忠が行っていたのです。

会津討伐へ出陣

6月18日、家康は伏見城を出発。7月2日、秀忠は品川で家康を出迎え、江戸城に入ります。7月7日、軍令が発せられ、翌8日に先鋒隊として榊原康政隊が出陣します。

徳川軍は前軍と後軍の二手に分かれていました。前軍は秀忠、後軍(本軍)は家康が司令です。榊原隊は秀忠の前軍に属しているので、まずは前軍の一部が出陣したのです。

秀忠率いる前軍は7月19日、江戸城を発ちました。総勢六万九千人余りの大軍勢で、徳川譜代の武将、井伊直政や本多忠勝、石川康長に加え、外様武将である真田昌幸や信幸、幸村、そして徳川一門の結城秀康、松平忠吉(秀忠の弟)、下野国内の領主たちが含まれます。

つまり、徳川の主要な武将はほとんど秀忠の指揮下にいたのです。

7月21日、家康が江戸城から出陣、武蔵鳩谷まで移動します。秀忠はこの日に下野小山まで進みました。家康は7月22日に岩槻城へ進み、23日に下総国古河に宿泊したところで、三成による西軍の伏見城攻撃が7月19日に始まったとの一報が入ります。

秀忠はすでに会津討伐のための前線基地とされていた宇都宮城に入っていましたが、7月24日に家康が下野小山に進んだところで、秀忠を小山に呼び戻しました。

この日、家康から伏見城からの使者(伏見城攻撃前日の7月18日、城を任されていた鳥居元忠が出した使者)が到着し、近日中の攻撃が予想されること、城は「死守」する覚悟であることを伝えます。

そして7月25日の小山評定を迎えるのです。

小山評定

小山評定は、三成率いる西軍の蜂起を受けて、このまま会津攻めを続けるか、もしくは三成討伐のために西に向かうかについて、家康が武将たちから意見を聞くものでした。

一番の問題は、大坂から従軍してきた秀吉に恩顧のある武将たちの態度にありました。そこで事前に黒田長政が、三成と戦うのであって、豊臣家には危害を加えるわけではないと豊臣系武将たちを説得しておきました。

それにより、評定の場で福島正則らが家康に味方する旨を率先して表明、軍は一気に三成方の西軍撃つべしの方向へ傾いたという話は有名ですが、史実かどうかはわかりません。

また、この場で山内一豊が、居城遠江掛川城を家康に差し出すことを申し出たことで、東海道筋にあった城が家康の手に渡り、城を守る兵も全て戦に投入できるようになります。

小山評定は、数々の大河ドラマで登場しました。

2000年の大河ドラマ「葵 徳川三代」では、評定を秀忠が仕切るも、父家康と豊臣恩顧の武将との駆け引きを呆然と見守る姿を、秀忠役の西田敏行がコミカルなほどに多彩な表情で物語っていました。

「軍師官兵衛」では、官兵衛の息子、黒田長政の活躍が描かれていましたね。官兵衛があまりに偉大すぎたために陰に隠れがちな長政ですが、ここでは家康のために大活躍し、成長した姿を松坂桃李が堂々と演じていました。

2006年の大河ドラマ「功名が辻」は山内一豊と妻千代が主人公でした。かつて命を救ってもらった家康への思いと、主君豊臣家への忠誠心とで揺れ動きつつも徳川に味方すると決断します。一豊にとって小山評定は大きな転機でした。上川隆也が一豊の覚悟を見事に表現していました。

2016年の大河ドラマ「真田丸」では、真田兄弟が敵と味方に分かれると決断した、いわゆる「犬伏の別れ」の後に小山評定が描かれました。

犬伏の別れがあまりにも辛かった(ドラマとしては屈指の名シーンでした)だけに、真田信幸が家康に味方すると伝える場面は、見ていて胸が張り裂けそうになる視聴者が多かったのではないでしょうか。信幸役の大泉洋が、役者としての力量を見せてくれた場面でしたね。

秀忠は中山道を西へ進軍

小山評定にて、会津方面への備えを残しつつ、上方への進行軍は二手に分け、家康と秀忠がそれぞれ率いることになりました。軍勢は人数的にほぼ二分する形でしたが、その内訳は大きく違っていました。

家康が率いていたのは名だたる武将よりも旗本が中心で、いわば防御的な部隊です。一方秀忠軍は、会津討伐の際に組んだ徳川の主力となる武将たちがそのまま参加している、戦闘能力の高い部隊でした。

7月26日には諸将を陣払いさせましたが、家康は小山にて上杉の押さえを監督したのち、8月5日に江戸へ戻りました。

一方、秀忠が宇都宮を発したのは8月24日です。中山道を通って西へ進軍する予定で、9月1日、軽井沢に到着しています。

家康は9月1日まで江戸に留まっていました。小山から江戸へ戻って一ヶ月あまり、家康は江戸不在中に常陸の佐竹氏などが背後から襲ってくることのないよう、入念な準備をしていたのです。

豊臣系武将たちに比べ、秀忠が宇都宮を出発した時期が遅かったのも、宇都宮城の修築など上杉に対する防衛をしっかり行うことが、三成と決戦に挑むために必要不可欠であったからだと考えられます。

家康との行き違いの不運

徳川秀忠を語る上で外せないのが「天下分け目の戦いへの遅参」でしょう。関ヶ原の戦いに間に合わなかった秀忠が、家康に怒られるというシーンは、ドラマでもよく描かれる場面です。その遅参の最大の理由が、真田昌幸、幸村親子との上田城の戦いでした。

秀忠が、西へ進軍する際に軽い気持ちで途中にあった上田城を攻め取ろうとした、とも言われますが、真田氏の居城、上田城を制圧することは当初からの目的であったという史料も残っています。家康も、それを承知していたというのです。

しかし江戸にいた家康は、福島正則や池田輝政らによって岐阜城が攻略された(8月23日)という報に接し、方針を変えます。秀忠に、江戸を9月1日に出立すること、速やかに西へ上ることを支持する使者を送ったのです。

ところがこの使者は、長雨による増水で川留めにあってしまいます。秀忠の元にたどり着いたのが9月9日でした。この日家康はすでに岡崎に到着していましたが、秀忠は上田城攻略に失敗し、小諸に滞陣していました。

上田合戦

数日遡って、9月の秀忠の動きを見てみます。9月1日に軽井沢を発した翌日、小諸に到着した秀忠は、上田城の真田昌幸に、徳川方の東軍に属すよう勧告しました。

真田昌幸は当初徳川方として会津討伐軍に加わっていましたが、下野国犬伏の地で三成から挙兵の知らせを受け、信幸だけは徳川方につき、真田昌幸と幸村は離反することを決意していました。

9月3日、講和交渉が行われます。しかしこれは昌幸の策でした。徳川軍の主力である秀忠軍を上田城に引きつけておくことが昌幸の目的であったので、元から講和する気などはなく、守備の増強に勤めています。

秀忠は榊原康政とともに、上田城攻撃をすぐに行うべきだと主張しましたが、本多正信が自重論を述べたことで取りやめになりました。

9月4日、秀忠は再度昌幸に使いを出します。ここに至って昌幸は態度を変え、開戦の姿勢を見せたので、5日、秀忠は上田城を包囲し、支城を攻略していきます。

9月6日、秀忠は上田城外の水田の稲を刈り取らせます。真田方の兵糧を奪う目的に加え、これによって上田城内の兵を挑発し、戦に持ち込もうという狙いでした。実際に刈田をしていた兵士と城内の一部の兵士が小競り合いを始めます。

それをきっかけに9月7日、秀忠軍の一部の部隊が上田城攻撃を始めました。しかし真田軍の見事な戦ぶりで秀忠軍は手酷い損害を被ります。

8日まで城攻めを続けるも、上田城は諦めて早く西へ進軍すべしという意見も出始めます。本多正信は、命令がないのに攻撃を始めた者たちに怒り、攻撃を中止させました。

9月9日、秀忠は小諸まで撤退します。軍監であった本多正信は、許可なく上田攻めを行った者たちを処分するために吟味を行っていました。この最中に家康が江戸から発した使者が到着したと言われています。使者の口上を聞き、血の気が引いた秀忠が目に浮かぶようです。

この上田合戦の責任は、もちろん大将たる秀忠にもあったでしょう。しかし、徳川四天王の一人である榊原康政をはじめ、大久保忠隣も秀忠の側にいました。軍監として本多正信もいたのです。真田の戦上手も知り抜いていたはずなのに、なぜ失敗してしまったのでしょう?

真田側が徳川方より一枚上手であったことも理由だと思います。真田昌幸と幸村の智謀が冴え渡った戦でした。

そして、本多正信は吏僚派の武将で、大久保たち武功派の武将とは相容れなかったことも理由にあるように考えられます。秀忠はまだ21歳です。戦の経験も浅く、このような老練の武将たちが出す意見を上手くまとめていくには若すぎたとも言えるのではないでしょうか。

この頃、家康が秀忠を跡継ぎに考えていたことは確かです。だからこそ秀忠に軍勢を任せ、責任を負わせたのでしょう。家康は父として、これをきっかけに息子の成長を望んだに違いありません。

しかし使者の到着が遅れた、真田が想像以上の力を発揮したなど、徳川にとっては予想外のことが重なりました。結果的に、父の期待に応えようとした秀忠の姿勢が空回りしてしまった感があります。

一般的に上田城の攻略失敗は秀忠の汚点として言われる出来事ですが、この一連の出来事を見てみると、全て秀忠の失態として考えるのは酷かもしれません。

急いで関ヶ原へ

家康が9月1日に江戸を発したことを知った秀忠は、直ちに西へ進軍することを決めます。一部の大名の兵は上田城対策で残し、9月10日に小諸を出発します。

西上するにあたり、上田城からの追撃の可能性があるため、中山道の本道である和田峠を避けて古道を進まねばならず、進軍が遅れます。また、雨が多かったことも秀忠軍の動きを阻みました。

9月14日、秀忠が藤堂高虎に宛てた手紙が残っています。夜中も行軍して急いで向かっているという内容ですが、秀忠がとても焦っている様子が文章に表れています。「お察しください」という文言が哀れなほどです。

秀忠軍は9月15日に馬籠に到着します。この日、秀忠軍の到着を待たず、関ヶ原で戦の火蓋が切られました。

苦悩する家康

秀忠軍が遅れていることを家康が知ったのは、9月11日、清洲城に到着する頃でした。この日の夜、藤堂高虎が家康と密議をした記録があるので、これを受けて高虎が秀忠に手紙を送り、秀忠がその返信を書いたのが9月14日だったと思われます。

家康は本多忠勝と井伊直政を呼び、今後の作戦を協議します。徳川の主力である秀忠軍を待って決戦に及ぶべきかということです。

家康の元で先陣が勤められる部隊は、井伊直政と松平忠吉が率いる六千あまりの軍勢のみでした。本多忠勝の軍勢は、息子忠政が率いて秀忠軍に属していたのです。

戦の機は熟していました。豊臣系武将たちは開戦を今や遅しと待っています。数々の戦を経験してきた家康は、戦のタイミングが勝敗を左右することをよく理解していたはずです。

一方、徳川の主力を欠いた状態で開戦すれば、東軍は豊臣系の武将たちばかりであるため、彼らから戦のあとに何か言われるかもしれないという危惧もあったでしょう。

家康は9月12日、風邪と称して清州に滞在しています。秀忠の到着をぎりぎりまで待ちたいという気持ちもあったと思います。家康がどれだけ悩み抜いたかがわかる「風邪」です。

関ヶ原の戦いの後の秀忠

関ヶ原の戦いは9月15日に行われました。そして、その日のうちに家康率いる東軍の勝利で幕を閉じました。

この戦の知らせを秀忠が受け取ったのは、9月17日、妻籠宿に到着した時でした。秀忠は、とにかく家康と合流するべく先を急ぎます。事情はともかく、大切な戦に遅れたのは事実なので、秀忠としては家康から何を言われるか、気が気でない日々だったでしょう。

秀忠は9月20日、大津城にいる家康にようやく追いつきます。すぐに面会を求める秀忠に、家康は気分がすぐれないからといって会おうとしませんでした。この辺りの事情については、史料によって内容がまちまちで、はっきりしたことがわかりません。

家康が本当に疲れていて体調が悪く、秀忠と会えなかっただけで、秀忠の遅参を怒ってたわけではないという説もあります。

一方、榊原康政や本多正純がとりなしたことで、秀忠が家康と面会できたという説もあります。

本多正純は本多正信の息子ですが、事の次第を聞き、今回の遅参は正信の科であって秀忠は悪くないと主張したというのです。榊原康政説は、家康が秀忠に、関ヶ原の戦いの日取りを知らせていなかったのが問題だと、家康を説得したというものです。

それ以外にも、戦いに間に合わなかったことではなく、とにかく家康に追いつこうと隊列もまばらに駆けつけた秀忠の軍の統率力の欠如に家康が怒ったという説もあります。

理由はいろいろあったにせよ、秀忠は天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いに遅れました。それが家康にとって痛手であったことは事実です。

しかしこの一件が秀忠の跡継ぎとしての地位に影響することはありませんでした。それが全てを物語っているように思います。家康は、秀忠に全面的に非があるとは思っていなかったのでしょう。

関ヶ原の戦いの後、家康が家臣たちに、後継者としてふさわしいのは誰かと尋ねたという逸話が残っています。これは、家康の性格からして、自分では秀忠を跡継ぎに考えているものの、皆の考えを聞いて決断したように見せるパフォーマンスだったと思われます。

家臣たちの意見を聞いた上で家康は、秀忠を跡継ぎにすると公言しました。家康が、武勇よりも自分の意思を受け継ぐ姿勢を大切にする者を跡継ぎに考えていること、そしてそれが秀忠であることを示したのです。

1601年 – 22歳「父親としての秀忠」

珠姫の輿入れ

かねてより婚約が済んでいた前田利常と秀忠の次女珠姫との婚儀が行われました。珠姫は3歳で加賀へ輿入れします。まだ幼い姫を遠く離れた加賀へ行かせることに、秀忠も小督もかなり心を砕いたと思われます。

珠姫には300人ものお供が付き従います。彼らは加賀で江戸町を作り、住んでいました。珠姫亡き後、お供の者たちは江戸へ戻りましたが、その跡地に作られたのが日本三大名園の一つとなっている現在の兼六園です。

勝姫生まれる

秀忠の三女勝姫は10歳で結城秀康の嫡男、松平忠直に輿入れしました。福井藩主です。松平忠直は、大坂夏の陣で真田幸村を討ちとるという武功を上げるものの、所領の加増がなかったために幕府に不満を持ち、乱行狼藉が目立つようになります。

家臣の成敗のみならず、正室勝姫へ斬りかかり、とっさに庇った二人の女中が殺されるという事件も起こしています。

気の強い女性であったと言われる勝姫ですが、このような夫を支える妻は精神的にも強くないと務まらなかったでしょう。

なお、芥川賞、直木賞を作ったことでも知られる小説家、菊池寛の出世作とも言われる「忠直卿行状記」は、松平忠直が主人公です。

長丸の誕生

史料では、1601年もしくは1602年に秀忠の長男となる長丸が生まれたとあります。

長丸の生母が誰なのか、はっきりしていません。小督という説もありますが、勝姫や初姫の出産時期が近いこと、徳川家の長男に代々つけられている幼名「竹千代」がついていないことから、産んだのはおそらく奥女中の一人であったと考えられます。

長丸はわずか2歳で夭折しているせいで、残念ながら史料がほとんどありません。

1603年 – 24歳「江戸幕府が開かれる」

家康が征夷大将軍に、秀忠が右近衛大将に任じられる

関ヶ原の戦いで家康率いる東軍は勝利し、豊臣家の力は削ぐことができましたが、秀吉の遺児、秀頼は健在であり、家康はあくまでの秀頼の後見役でした。秀頼が成人した暁には、家康は身を引いて秀頼の世になるだろうと思っている人もいたはずです。

その状況が変わったのが1603年の、家康への将軍宣下です。家康が征夷大将軍に補任されたことで、秀頼の後見役ではなく、江戸幕府が開府し、新たな政権が立ち上がることになったのです。

秀忠はこの年、権大納言兼右近衛大将に任官します。これは源頼朝も任官したものであり、将来的に家康の後を継いで秀忠が「二代将軍」になることを明確にしたものでした。

秀頼と千姫の結婚

家康は、将軍宣下を受けることで、豊臣側からの反発が起きることを予測していたと思われます。そのための対策として採られたのが、秀忠の娘千姫と秀頼の結婚です。淀殿が、これで徳川が秀頼の後ろ盾になってくれると考えたとしても、不思議ではありません。

この時点で、秀忠や小督がどの程度家康の意図を理解していたか定かではありませんが、いつの日か豊臣とは敵対する日が来るかもしれないという危惧はあったでしょう。そして、それを豊臣側に悟られてはならないという気持ちもあったはずです。

秀頼と千姫の婚儀は大坂城で行われたのですが、小督は身重の身体にもかかわらず江戸を出て千姫に付き添っています。

実の姉である淀殿に会いたい思いもあったでしょうし、まだ7歳の千姫に付き添いたい母の気持ちも理解できますが、ほぼ臨月に近い小督が江戸から大坂まで行ったのは、その裏に、淀殿を安心させるための徳川の策略もあったのではと深読みしたくなります。

大河ドラマ「江〜姫たちの戦国〜」では、この千姫の婚礼で、京極に嫁いでいた初も含め、淀殿と小督の浅井三姉妹が再会するシーンがありました。これが三人で会うことのできた最後です。

この三姉妹は時代の波に翻弄され続けた一生でしたが、それであればこそ、このように再び会える日があったのであれば、どれだけ嬉しかったであろうと考えてしまいます。

再会したかどうか、史実はわかりません。しかし小督としては、身重ではあるけれども二人の姉にどうしても会っておきたい、今しかもうチャンスがないと思って大坂へ行ったのかもしれないですね。

初姫生まれる

小督は大坂で四女となる初姫を出産しました。初姫は1606年、若狭小浜藩主京極忠高に嫁ぎます。京極家は小督の姉、初が嫁いでいた家でした。しかし初姫と忠高は不仲であったようで、初姫が29歳で病により亡くなった際、忠高は相撲見物をしていたとか。

初姫の葬儀は京極家ではなく徳川家よって行われ、徳川家の寺院に葬られました。父秀忠や弟家光は、初姫の最期を不憫に思い、京極氏が葬儀に参列することすら許さなかったようです。

1604年 – 25歳「秀忠の将軍見習い期間」

江戸城を守る秀忠

1603〜1604年にかけて、家康は常に江戸にいたわけではなく、伏見との間を行き来しています。その間、江戸を守っていたのは秀忠でした。徐々に秀忠は、家康に代わって行う仕事が増えていきます。

秀忠は1604年、街道整備を企画します。東海道と中山道、北陸道を統括して掌握しようと、一里塚を築かせたのです。1601年に家康が東海道に伝馬制度を設けていますが、そこから発展させ、秀忠が独自に街道整備の必要を思い立ち、推し進めたのです。

また、1604年に黒田如水が亡くなると、弔問を送ったのは秀忠でした。この時期の政治的な仕置について書かれた文書には、家康の文書だけではなく、秀忠の添え状も出されていることが多いです。

1604年に書かれた史料からは、家康が意識的に秀忠へ権限を委譲していたことがわかります。

家光の誕生

1604年は秀忠と小督の間に、待望の男の子が生まれた年です。幼名は竹千代、のちの三代将軍家光です。

家光には傅役として青山忠俊、内藤清次、酒井忠利らがつきます。そして乳母としてお福(春日局)がつきました。

お福といえば、1989年の大河ドラマ「春日局」の主人公です。大原麗子が演じた春日局は、ただ強いだけではない、女性らしいしなやかさもあって、キャリアウーマンの見本のような女性でした。

家光は江戸幕府の職制の整備や将軍権力の確立、鎖国の完成と沿岸防備など、今後200年以上続く江戸幕府の基礎を築いた将軍として知られています。 

1605年 – 26歳「秀忠が二代将軍の座につく」

家康と秀忠の上洛

正月を江戸城で迎えた家康でしたが、年明け早々上洛します。そして2月24日、秀忠も江戸城を発ちました。この時率いた供は十万もしくは十六万と言われる大軍勢並みの規模でした。

これは家康が私淑していた源頼朝の上洛の先例に習ったと考えられます。1603年、秀忠が権大納言兼右近衛大将に任官したのも、頼朝が同じ任官をして鎌倉幕府を開いたという縁起の良いものだと捉えていたからと言われています。

秀忠に付き従った大名たちは、ほとんどが江戸城より東、北側の大名です。徳川が江戸に拠点を置くようになって以降、主に江戸城で政務をとっていたのは秀忠であったことからも、東国方面の大名は秀忠が管轄し、西側の大名は家康が管轄していたのかもしれません。

3月21日、秀忠が伏見城に到着します。そして4月7日、家康は朝廷に将軍職を秀忠に譲る旨を奏請するのです。

秀忠の将軍宣下

4月16日、後陽成天皇により秀忠は征夷大将軍に任じられました。徳川氏が政権を世襲することを世に知らしめた出来事でした。

なぜこの時期に家康が秀忠に将軍職を譲ったのかについては、確かな史料がありません。
しかし考えられるのは、家康がまだ目の黒いうちに秀忠との二元体制を敷きたいという思惑です。

秀忠には将軍職を任せて東国の支配に力を入れさせ、家康はいまだ無視できない大坂方の勢力と西国大名への対策に力を注ぐことで、開いたばかりの江戸幕府を安定化したものにしたかったのではないでしょうか。

こう考えると、東や北に領国を持つ大名たちが供として秀忠とともに上洛してきたのも頷けます。

1606年 – 27歳「秀忠を中心とした新体制構築と忠長の誕生」

江戸城が秀忠の城となる

家康は立場上隠居の身となったので、江戸城を出て駿府城へ移ることに決めます。秀忠単独の城となる江戸城では、秀忠の政治体制が整えられていきました。

秀忠のもとには家康以来の年寄である大久保忠隣と本多正信がつけられました。

この二人、とても仲が悪いことで有名でした。家康は、わざとこのような人事にすることで、秀忠が色々な意見を聞くように仕向けたのです。さらに、家康の側には本多正純がいます。正信と正純の親子関係を通じて、江戸城の様子が家康の耳に入る仕組みになっていたのです。

このほか、酒井忠世、土井利勝、安藤重信、青山成重らが年寄や年寄並として秀忠の政務を支えました。

書院番も設置されました。青山忠俊、水野忠清、内藤清次、松平定綱の四人が組を作り、それぞれ番頭となりました。書院番は、将軍が出歩く際の侍従となる将軍の親衛隊のようなものでした。江戸城本丸白書院紅葉の間に勤務していたことから書院番と呼ばれます。

このように、政治機構は少しずつ整備されていきますが、しばらくは秀忠よりも家康の意向が強く働く形となりました。秀忠の独自路線が出始めるのは、1611年ごろからと考えられます。

忠長が生まれる

小督は二人目の男子となる国千代、のちの忠長を出産します。忠長については、真偽のほどはわからないものの逸話が多く残っています。

忠長は幼い頃から眉目秀麗でなおかつ聡明であったため、小督が溺愛し、家光が忠長に嫉妬して自殺まで考えたというエピソードはよく知られていますね。

しかし成長するにつれ、忠長は思慮の浅い行動が目につくようになります。秀忠や家光に叱責されるだけでなく、最愛の母小督でさえ呆れてしまうような出来事もあったようです。

忠長の失脚を決定付けたのは、1631年に起こった、罪のない藩士数十人を手討ちにした事件でした。秀忠は蟄居を命じますが、驚くことに忠長は蟄居先から抜け出し、自分の赦免を願い出ています。

自分の置かれている立場さえ弁えることのできない忠長を、家光は許せなかったのかもしれません。父秀忠の他界後、家光は忠長の所領を全て没収し、自刃するように仕向けました。享年28歳でした。

1607年 – 28歳「和子の誕生」

天皇家に嫁いだ娘

小督は松姫、のちの東福門院和子を出産します。秀忠との間にもうけた最後の子供です。

和子は1620年、女御として入内します。将来的に後水尾天皇の中宮に望まれていました。二人の皇子と五人の皇女を産みましたが、皇子は二人とも早世しています。1623年に生まれた第一皇女、興子内親王が女性の皇太子にあたる女一宮となりました。明正天皇です。

後水尾天皇は、のちに紫衣事件を起こすことでもわかるように、意思をはっきりと示す天皇でした。東福門院和子は温和な性格であったようで、そんな天皇によく仕え、実家である徳川家との関係も良好に保つという難しい仕事に生涯にわたって立ち向かいました。

また、後水尾天皇と東福門院和子は、寛永文化の担い手としても知られています。

特に東福門院和子は、宮中で小袖の着用を流行らせたことで有名です。琳派という、現代でも世界的に人気の高い流派の担い手である尾形光琳、乾山兄弟の実家は雁金屋という高級呉服商でしたが、ここで自ら選んだデザインの着物を仕立てさせました。

これはのちに「寛文小袖」と呼ばれるようになり、武家でや町人までもが夢中になりました。現在もその一部の着物が残っていますが、とても斬新なデザインです。

1611年 – 32歳「秀忠が江戸幕府の実権を握り始める」

秀頼と家康の会見

3月28日、家康は二条城で秀頼と会見を行っています。対等な会見ではありましたが、これまで豊臣氏に対して臣下の礼をとっていた徳川氏が並んで座ったということは、秀頼の家康に対する臣従を意味していました。

家康は、ここにきて徳川と豊臣の上下関係がはっきりしたと確信し、徐々に秀忠に政治の実権を移していくことになります。

天領の年貢を江戸納めとする

家康の、秀忠への政権移譲の意思が見て取れる出来事に、天領の年貢の納め場所の変更があります。

天領とは江戸幕府直轄の領地で、幕府の経済基盤となるものですが、これまでは天領の年貢は駿府に納められていました。しかし1611年から、美濃、伊勢、近江以外の天領の年貢は全て江戸へ納められるようになります。

江戸に経済力を集中させるということは、政治の中心が秀忠のいる江戸に移ったことを示していると言えます。

保科正之の誕生

父家康が呆れるほど小督以外の女性とはほとんど関わりを持たなかった秀忠でしたが、この頃はお静の方と呼ばれる側室を寵愛していたようです。

もともとは板橋に住む庶民の娘、もしくは大姥局の侍女あったとされ、大奥で御半下と呼ばれる最下層の女中として仕えていたという説もあります。

お静の方が出産したのは男児でした。幸松丸、のちの保科正之です。

秀忠が小督に遠慮したのか、秀忠は実子として公表しないまま、見性院という武田信玄の次女に養育を託します。その後、信濃高遠藩主、保科正光の養子となって正之を名乗りました。

家光も異母弟の存在を知らないままだったようですが、鷹狩りに行ったある日、休憩した寺院の住職から正之の存在を教えられたと言われています。

保科正之は有能で領民にも慕われる善政を敷いた藩主でした。また、秀忠の実子であることを言い立てることもなく、立場をわきまえた行動ができる賢い人でもありました。

家光は実弟忠長の傍若無人な振る舞いに悩まされ続けていたこともあり、正之を殊の外頼りにしていたようです。家光は息をひきとる間際、正之に跡取りとなる徳川家綱の補佐を頼みました。正之は家光の遺言に見事に応え、幕政は安定します。

後年保科正之は会津藩主となりますが、家光から受けた恩義を忘れないようにと、「会津家訓十五箇条」で、将軍家を最優先に考えるように書き残しました。

幕末、この御家訓があったがために九代目会津藩主松平容保は京都守護職という役目を引き受けました。京都守護職を受けることでの会津藩のメリットはないばかりか、誰が考えても損な役回りです。この時点ではひたすら徳川将軍家のためだけの役割だったのです。

最終局面で将軍徳川慶喜は謹慎して戦を避けたため、江戸幕府に向けられていた新政府軍の矛先は会津藩へと向かい、それを全て引き受ける形で会津藩は壊滅的な打撃を受けました。そして徳川将軍家は残ります。

この結果はある意味で御家訓第一条にある「大君(徳川将軍家)の儀、一心大切に忠勤を存ずべく」という保科正之の意思が達せられた形であり、秀忠や家光が敷いた徳川家存続のための壮大な伏線だったのかもしれません。

1613年 – 34歳「大久保忠隣失脚事件」

秀忠の側近であった大久保忠隣の謀反?

この事件は、秀忠の養育係でもあった大久保忠隣が謀反の疑いで改易されたというものです。

事の起こりは、家康が鷹狩りに出かけた際、付き従っていた本多正信へ目安(訴状)が手渡されたことでした。そこには大久保忠隣が大坂と通じて謀反を企んでいると書かれていました。

調べてみると、大坂方と誼を通じていることはないと判明しましたが、勝手に婚姻関係を結んだり、不正に蓄財するなど余罪があることが発覚します。家康は本多正信と相談し、忠隣の改易を決めたのです。

秀忠は、この一件に関してほとんど蚊帳の外でした。それを考えてみても、家康が、大久保忠隣の権力が大きくなりすぎることを恐れ、本多正信との対立関係を利用して忠隣を失脚させたのではないかとも想像できます。

忠隣の失脚後、若手の年寄たちが台頭し、秀忠を中心に新しい政治体制が築かれていったことを見ても、この事件は忠隣自身の問題というよりは、秀忠のための新政権に必要な家康の計略だったのかもしれません。

1614年 – 35歳「大坂冬の陣」

方広寺鐘銘事件

方広寺とは、秀吉が着工した京都にある寺です。地震や火災で何度も壊れるも、秀吉の死後は秀頼が意思を引き継ぎ、1612年に完成しました。1614年、開眼供養を予定していましたが、突然家康が、この寺の鐘銘は家康を呪詛しようとしていると言い出したのです。

この事件を考えるには、家康の胸中を察する必要があるでしょう。豊臣家の処遇をどうするかということです。

秀忠は、娘千姫を秀頼に嫁がせていますし、小督は淀殿の妹です。豊臣家が一大名として徳川家に付き従ってくれているなら、無理矢理に大鉈を振るうつもりはなかったように思います。

しかし家康は違っていました。秀頼の成長を見て、豊臣家の再興が現実になるかもしれないとも思ったでしょう。家康は孫の家光をことさら可愛がっていました。家光のためにも、徳川幕府を磐石なものにしておきたいという思いもあったはずです。

そして何より、残りの寿命を考えたはずです。自らの手で豊臣家を滅ぼせば、将軍秀忠の名を汚さないで済みます。難癖をつけてでも無理やり戦に持ち込んで豊臣家を潰すことが、家康は自分の最後の仕事と考えたのではないでしょうか。

そんな焦る胸の内はひた隠して、家康は用意周到に事を起こしました。

まず家康は、方広寺再建を積極的に進めるよう、秀頼に働きかけます。秀吉の残した莫大な財産をできるだけ使わせようとしたのです。秀頼も、豊臣の威信を世間に示す目的で、家康の勧めに従って豪勢に金銀を使います。

そして全て完成し、大仏開眼供養まであとわずかという日になって、「家康を呪詛する銘文がある」と言いがかりをつけたのです。

これを聞いた淀殿も、これが家康の難癖だとわかったはずです。鐘銘については、事前に家康に確認を取っているわけで、もし本当に気になっていたのであれば、もっと前に言ってくるべきことでした。結局この家康の言いがかりがきっかけとなり、大坂攻めが決まります。

この討伐の決断を下したのは秀忠ではなく家康です。家康自身もこれが強引なやり口だと自覚していたと考えられます。だからこそ隠居の身の家康が出てきたのです。家康は全ての罪をかぶる覚悟だったのでしょう。

大坂冬の陣

家康が大坂攻めを決定したのは10月1日でした。江戸にいる秀忠への知らせと共に、近江、伊勢、美濃、尾張、三河、遠江の諸侯に陣触れを出します。

秀忠の脳裏には、関ヶ原の戦いにおける遅参の光景が蘇ったはずです。今度は遅れまいと考えたのでしょう。東国大名に大坂攻めの軍勢を出すよう命じるだけでなく、自らも六万近い兵力を連れて10月23日には江戸を発ち、11月10日には伏見城に入ります。

この行軍がいかに異様な速さだったかが、史料に残されています。六万人の軍勢が一日で約70キロ、途中川も渡りながら進んだというのです。家康はこの秀忠軍の様子を聞き、急げば皆疲れてしまうからもっとゆっくり来るようにと手紙を出したほどでした。

一説には、行軍中に秀忠本隊が急ぎすぎるあまり、先陣を追い越してしまったとも言われています。秀忠にとって関ヶ原の戦いでの遅参がいかにトラウマであったかがよくわかる逸話です。はたから見ると可哀想なほどですね。

11月15日、秀忠は伏見城から出陣し、淀から平野へ陣を進めます。実戦は11月19日から始まりました。この日、秀忠は家康と住吉で落ち合い、軍評定を開いています。

記録では、この時秀忠は大坂城の即時総攻撃を何度も主張したようです。関ヶ原の戦いの屈辱を果たそうと躍起になっていたのかもしれません。相変わらず健気な秀忠です。しかし家康は、大坂城は力攻めで落とせないとして、秀忠の案は退けられました。

この評定で家康と秀忠は、大坂城は包囲した状態で講和に追い込み、大坂城の堀を埋めさせる方針に決めました。

講和交渉と堀の埋め立て

12月、講和交渉がはじまります。そして家康の思惑通り、二の丸と三の丸の堀を埋めることを大坂方に納得させました。

この後の歴史の流れを知っている私達からすると、なぜこの時に大坂方は堀を埋める条件を受け入れたのか、不思議に思ってしまいます。なぜなら、これによって秀吉が築いた天下の名城だった大坂城は丸裸にされてしまったからです。

家康、秀忠側は堀を埋めること以外に、秀頼の他国への国替や、淀殿を人質に出すといった案も出していました。この時、もしこういった別の案を受け入れていれば、もしかしたら豊臣氏は勢力は縮小されても滅亡しなかったかもしれません。

しかし秀頼たちは堀の埋め立てを選びました。大坂城の堀の埋め立てと一言で言っても、大坂城は巨大な城ですから大工事になるわけで、きっと時間がかかるだろうと思ったのかもしれません。

また、心情的に、秀頼も淀殿も大坂を離れたくなかったことも考えられます。秀吉が築いてくれたこの城に留まりたいとの一心で、堀の埋め立てを選ぶ以外に選択肢はなかったのかもしれません。

大坂方の心情はともかく、家康としては堀の埋め立てこそが戦を起こした最大の目的でありました。講和と言いつつも、事実上の勝利を得たのは徳川だったのです。

12月19日、講和が成立すると、23日から堀の埋め立て工事が始まりました。秀忠が現場監督となり急ピッチで進められ、驚くことに1615年1月19日には本丸の堀以外の全ての堀が埋め立てられました。秀忠は工事完了後、江戸城へ戻ります。

1615年 – 36歳「豊臣氏滅亡と徳川単独政権の誕生」

大坂夏の陣

講和したとはいえ、大坂方の不満はくすぶり続けていました。3月には大坂城に多くの浪人が集まり、火薬の製造や兵糧集めが行われ、戦備えの様相を呈してきます。

この様子を聞いた家康は大坂へ使者を送り、秀頼が大坂城を退去し伊勢か大和に移るか、もしくは浪人を放逐するか、いずれかを選ぶように迫ります。

しかし家康はどちらの条件も受け入れられないだろうと踏んでいたようで、返事を待たずに4月4日、駿府城を出ています。18日に二条城へ入りました。秀忠は21日に伏見城に入っています。

22日、二条城にいる家康を秀忠が訪ね、大坂城攻めについて相談します。秀忠が先陣をつとめることで話がまとまりました。

5月5日、秀忠は伏見城を出て河内の砂に着陣。総攻撃は7日と決まっていました。

秀忠は主戦場となりそうな天王寺口を担当したかったようですが、家康が許しませんでした。あくまでも家康はこの戦を背負う覚悟だったのがよくわかるエピソードです。秀忠は岡山口を受け持ちます。

5月7日、大坂城総攻撃が開始しました。予想通り、家康がいた天王寺口は大混戦となります。真田幸村が家康の首を狙ったという有名なエピソードが知られていますが、家康が切腹を口走るほどに危うい場面があったようです。

大河ドラマ「真田丸」では、真田幸村の猛追を秀忠が退けた演出でした。史実はどうであれ、心情的にはここからは秀忠の時代だということがよくわかる展開でした。

これまで散々だった秀忠が(特にこのドラマでは意図的にひどい扱いでしたね)、二代目として立派になった姿を星野源が最終回でとても魅力的に演じていて、一視聴者として秀忠の成長を喜びたくなりました。

この戦、最終的に大坂城は落城、秀頼と淀殿は自害して豊臣氏は滅亡します。

歌舞伎の演目に、大坂城落城を扱った「沓手鳥孤城落月」があります。明治時代の作家である坪内逍遥が書いた、秀頼と淀殿がお互いを思いやる心を描いた作品です。

明治時代、五世中村歌右衛門が当たり役とした淀の方ですが、近年では坂東玉三郎が常軌を逸していく淀の方を見事に演じて話題になりました。秀頼と淀殿の物語は、いつの世も日本人の琴線に触れる話のようです。

千姫の救出

大坂夏の陣では、秀頼に嫁いでいた千姫を助けるというミッションもありました。千姫は家康の陣に届けられます。そこで千姫は、秀頼と淀殿の助命を願い出ましたが、家康は判断を秀忠に預けました。

この時の秀忠の心中は察するに余りあります。

秀忠の性格を考えると、真摯な娘の訴えを邪険にするような父親とは思えません。その一方、二代将軍としての立場もあります。家康の期待に応えたいという気持ちもわかります。

おそらく、この戦に出陣する際、秀忠は江戸城で小督と話したはずです。豊臣が滅ぼされる結果になることも予想していたでしょう。秀忠も小督も、最悪の結果を覚悟して戦に臨んだと思われます。

千姫は助けるという方針は、家康も秀忠も当初から決めていたと考えられるので、淀殿や秀頼を見殺しにした時の千姫からの恨みつらみも、秀忠は引き受ける覚悟ができていたのかもしれません。結局、秀忠は千姫の訴えを聞き入れませんでした。

この判断を聞いた家康は、秀忠の成長に安心したのでしょうか、これ以降本格的な隠居の身になることを決意したようです。今後は駿府へ意見を聞く必要はないから、将軍が決めて実行するよう秀忠に伝えたと言われています。

一国一城令

6月13日、秀忠の名前で一国一城令が出されます。大坂夏の陣後、大名の統制のため、一領国には居城一城のみとし、それ以外は破却するよう命じたものです。城がたくさんあると謀反の拠点になりやすいと考えて出されました。

この法令は、主に西国大名を対象としていました。西国には豊臣恩顧の大名が多かったので、その勢力を削ぐ必要があったのです。

注目しておきたいのは、この法令が秀忠から出されたという点です。西国大名に関してはこれまで大御所家康が管轄下に置いていましたが、大坂の陣以降、西国大名も秀忠が差配するようになったことが、この一件からよくわかります。

家康が、秀忠の政治から身を引いたことがわかる一例です。

武家諸法度

武家諸法度は7月7日に出されました。大名統制の法です。徳川幕府は、信長や秀吉のように英雄のような個人との結びつきで行われる政治ではなく、法制度の元に諸大名を管轄し、将軍が政治を行うことを表しています。

この法度に関しては、家康が命じて作らせたものでした。しかし、申し渡しをしたのは秀忠です。以後、新将軍就任後には諸大名に読み聞かせるのが慣例になりました。

禁中並公家諸法度

7月17日には、禁中並公家諸法度が定められます。家康と秀忠、そして前関白二条昭実の連署で出されました。江戸時代の朝廷の法的枠組みを決めたものですが、実際には朝廷を抑え込むための法度でした。

平清盛や源頼朝、足利尊氏など、武家政権の頂点に立った者たちは、皆朝廷の扱いに苦心していました。家康はその前例を踏まえた上で、朝廷支配の枠組みを作ろうとしたのです。

家康の入念な幕府の土台作りがあったからこそ、以後約250年もの間江戸幕府が存続したのでしょう。

1616年 – 37歳「家康の死去」

大御所家康が他界

秀忠が家康の発病を聞いたのは、1月22日でした。23日には側近の青山忠俊を見舞いに使わし、自身も2月1日、江戸を立って駿府に向かっています。家康は4月17日に他界しますが、秀忠はずっと駿府に留まっていました。

家康の死期が近い頃の秀忠とのエピソードが史料に残っています。家康が、自分が死んだら天下がどうなると思うか秀忠に尋ねると、秀忠が、天下は乱れるでしょうと答えます。家康はその秀忠の答えに満足していた様子だったというのです。

命尽きそうな人に声をかけるのであれば、普通は安心させるような言葉をかけるのでしょうが、家康としては、秀忠が常に危機感を持って政権運営にあたる姿勢を持っていると確認できたのが嬉しかったと思われます。

家康の遺骸は久能山に移され、秀忠は4月22日に久能山の神廟に詣でた後、24日に駿府を発ちました。

家康の神号

家康が他界して、秀忠の最初の仕事となったのは、家康の神号をどうするかという問題でした。

議論が重ねられましたが、最終的には秀忠が「東照大権現」とするように命じます。後水尾天皇も、秀忠の意向を尊重したため、全て将軍である秀忠優位の形で進められました。

千姫の再婚

大坂城から助け出された千姫は、まだ19歳でした。秀忠は千姫を伊勢桑名藩主、本多忠政の嫡子である本多忠刻に輿入れさせました。

この千姫の再婚にあたっては、俗に千姫事件と呼ばれる出来事が起こります。

千姫が大坂城から脱出する際に助けたのは坂崎出羽守直盛でした。千姫を公家に再嫁させたいと考えていた秀忠は、公家に顔の広い坂崎出羽守に仲介を頼み、輿入れが決まります。しかし千姫自身が公家に嫁ぐことを嫌がったため、本多忠刻に嫁ぐことになったのです。

この事態に怒ったのが坂崎出羽守でした。それなら千姫を嫁入り行列から奪って公家の元に連れて行こうと考えます。結局この計画は秀忠に伝わってしまい、坂崎出羽守は自害、坂崎家は改易となりました。

忠輝に対する処断

家康の他界によって秀忠がまず手をつけたのは、実弟忠輝の処分でした。松平忠輝は、家康の六男です。伊達政宗の長女、五郎八姫を正室に迎えていました。

忠輝については、素行の悪さや義父伊達政宗との幕府転覆の密議など、真偽はともあれいろいろな噂が取りざたされています。しかし忠輝が処分される最大の理由となったのは、大坂夏の陣での失態でした。

忠輝は、真田幸村隊と戦っていた伊達政宗の軍勢が苦戦しているのを見つつも援護しなかったのです。

政宗としては、家康の息子である忠輝を危険な目にあわすわけにはいかないという思いから、わざと出兵させなかったのかもしれないですが、秀忠は弁明の機会を与えませんでした。

忠輝は家康の見舞いにも駆けつけるものの、秀忠が面会を許しませんでした。忠輝に謀反の噂があったからです。謀反は噂でしたが、大坂夏の陣の問題で謹慎処分を受けていた忠輝が、家康に不満を持っていたことは事実だったと考えられます。

家康の死後、秀忠は忠輝の所領没収、改易、そして伊勢国朝熊に流罪としました。忠輝自身に問題があったことはもちろんですが、秀忠が二代目将軍として、徳川幕府の安定を最優先とし、たとえ身内でも問題があれば厳しく対処することを示す事件でもありました。

1619年 – 40歳「御三家の成立」

御三家の成立

家康は尾張徳川家と水戸徳川家を創設していましたが、秀忠は家康の第十子であった頼宣を和歌山藩に封じ、紀伊徳川家としました。家康は子供達に、兄秀忠によく仕えるよう遺言したと言われています。

御三家は、徳川宗家存続のために創設されたと言われていますが、実際に7代将軍家継で宗家は断絶したため、御三家から将軍が出されました。万が一を考えた家康や秀忠に、先見の明があったと言えるでしょう。

福島正則の改易

家康ができなかった秀忠独自の政策として、徳川が天下を取る上で世話になった大名の取り潰しがあります。その代表格が福島正則でした。

福島正則はもともと秀吉子飼いの武将でした。豊臣に対して恩義を感じるものの、石田三成には従えず、関ヶ原の戦いでは東軍に味方しました。

しかしあくまで秀頼には忠誠を誓っていたので、江戸幕府が開かれてのちも秀頼が最優先と考える福島正則は、徳川にとって危険人物であったのです。

1617年、豪雨のため広島城が被災しました。福島正則は城の修復が必要と考えます。1615年に定められた武家諸法度にて、城の修復は必ず幕府に届け出てから行うように決められていました。

福島正則は修復を申し出ていたのに幕閣に握りつぶされたとか、許可がなかなか下りなかったので無断で修理したとか、いろいろ言われていますが、結局、正則は城の修復を行った罪で武家諸法度違反に問われたのは事実です。

福島正則は改易処分を受け、出家します。

この事件は、もし家康が存命中であったなら、改易処分のような大事にはならなかったのではないかと言われています。なぜなら、福島正則自身が、家康になら弁明もするけれども、秀忠には何を言っても意味がないといった発言をしたと記録にあるからです。

福島正則の発言は、家康との関係が、利害関係を超えた濃いものであったからかもしれませんが、逆に言うと、私情も挟むことがない秀忠だったからできた処断でもありました。そして家康自身もそれを望んでいたように思います。

大坂の直轄化

福島正則の改易を受けて、正則の旧領を中心に大名の転封がなされ、大坂は幕府の直轄になりました。

大坂城を中心に、徳川家ゆかりの大名たちを配置し、西国における幕府の軍事拠点となります。もちろん軍事的な意味だけではなく、大阪の経済力を幕府が握るという意義もありました。

9月には、秀忠は新たな大坂城の設計も指示しました。徳川家の威信にかけ、秀吉が築いた大坂城よりも大きいものを目指したようです。最近の発掘調査からは、秀吉が建てた大坂城を覆い隠すように土を盛り上げ、江戸時代の大坂城が築かれたことがわかっています。

1620年 – 41歳「和子の入内」

禁中並公家諸法度という法からもわかる通り、家康と秀忠は、朝廷対策に力を入れていました。東福門院和子の入内も、そのための一手であったと考えられます。

武家の娘が入内するのは、平清盛が徳子を高倉天皇に輿入れさせて以来でした。実に450年ぶりです。それを思うと、和子を入内させることで、徳川家が朝廷にも影響を与えるほど権力があることを世間にアピールできるという思惑があったのではないでしょうか。

和子の入内は家康存命中から話がありましたが、和子自身の成長を待つ必要があったこと、そして豊臣家を滅ぼして江戸幕府が盤石な体制になりつつあったこのタイミングが、世間に徳川の威信も示せる一番良い時であろうと考えたのでしょう。

立花宗茂の所領復帰

秀忠は大名の取り潰しも多く行いましたが、逆に取り立てた大名もいました。立花宗茂です。関ヶ原の戦いで西軍に属して改易となり、浪人をしていましたが、秀忠は陸奥棚倉で一万石を与えた後、1620年には旧領の柳川で大名に復帰させました。

この処遇は立花宗茂の、義侠心に溢れ、清廉潔白な人柄に秀忠が惚れ込んだためとも言われています。今でも戦国武将の中で大変人気の高い立花宗茂ですが、存命中も秀吉を始め家康や加藤清正など多くの武将たちから評判の高かった武将だったようです。

1622年 – 43歳「元和大殉教」

元和大殉教

戦国時代から江戸時代初期にかけては、キリスト教の布教の背景に複雑な事情が絡み合っているせいで、ややこしいものになっていました。

江戸幕府は当初キリスト教を黙認していました。しかし、徐々にキリスト教禁止を明確に示すようになります。

理由の一つとして、キリスト教布教にあまり熱心ではないオランダが貿易に参入するようになり、幕府がキリスト教布教と貿易を分けて考えるようになったためです。

スペインやポルトガルはキリスト教の布教にも力を入れていたので、幕府は徐々にスペインとポルトガルを遠ざけるようになります。

この事態の裏には、オランダの思惑もあります。オランダが当初関心を持っていたのは、日本との貿易品よりも、東南アジア地域で得られる香料でした。そのための寄港地として日本は利用されていました。

東南アジアでオランダは、イスパニア勢力との抗争を続けていました。1619年にはイギリスとの間でイスパニア勢力を駆逐するための協定を結び、防御艦隊を編成します。平戸を母港としたオランダとイギリスの艦隊は、ポルトガルやスペイン、中国の船を拿捕し貿易品を略奪していました。

この関係性から、オランダは幕府に近づき、スペインやポルトガルの中傷をしたと言われています。スペインやポルトガルが、キリスト教布教で日本を侵略する企みがあると伝えたというのです。

また、時期的な問題として、大坂の陣が起こっています。禁教令に異を唱える者たちが、幕府に対する反感から、大坂城に集まって豊臣側につくことも幕府は恐れていました。そのため、布教の主軸となる宣教師の摘発に重点を置いて動いています。

秀忠としては、キリスト教信徒が信仰のために団結して運動を起こすことも危惧していたと思います。江戸幕府の基盤作りを進めている時期でしたから、警戒するのはある意味当然のことです。

こういった流れの延長線上で起きたのが、元和の大殉教でした。

1620年にオランダとイギリスの防御艦隊が捕まえてきた外国人2人が、2年に及ぶ拷問の末に宣教師であることを白状します。7月、宣教師が乗っていた船にいた水夫や商人を斬首しました。

そして8月には、これまで捕らわれていた宣教師とその宿主、家族が処刑されます。合計55人の殉教でした。

この事件は国内はもちろん、海外にも大々的に報告がなされました。そういった事情と幕府の取り締まり強化の結果、宣教師の密入国はほとんどなくなります。秀忠の、キリスト教に対する断固とした姿勢がはっきり見て取れる事件です。

有力外様大名の処分

福島正則の改易でわかるように、秀忠は政権強化のために大名の取り潰しを積極的に行っていました。中でも有力外様大名であった出羽山形藩五十七万石最上義俊の改易は、規模の大きいものでした。

最上家といえば、伊達政宗の伯父であった最上義光が有名です。1987年の大河ドラマ「独眼竜政宗」で原田芳雄が怪演していましたね。義俊は義光の孫にあたります。

義光が関ヶ原の戦いの際、上杉封じ込めを行ったことを評価し、家康は戦国時代の最上家の本領をほぼ安堵する形で五十七万石という大大名のまま残していました。秀忠は石高が大きすぎることに危惧していたのでしょう。改易の機会を狙っていたと思います。

改易の理由は、最上義俊の素行の悪さと家中の内紛でした。酒ばかり飲んで政務をおろそかにしている義俊に家臣たちが怒り、義俊の叔父にあたる義忠を家督につけようと画策していたことが幕府に伝わったのです。

秀忠は最上義俊を改易にし、近江三河一万石に格下げしました。秀忠の大名取り潰し、改易処分は合計二十三家にものぼっています。将軍権威を高める効果的な方策であったのでしょう。

本多正純の失脚

秀忠が改易処分を下したのは、外様大名だけではありませんでした。家康の懐刀と言われた本多正信の子、本多正純も改易になっています。

本多正純の失脚は、宇都宮釣り天井事件がきっかけだったと言われています。

秀忠が家康の七回忌で日光に参詣した帰途、宇都宮城に泊まる予定でしたが、宇都宮城主本多正純が秀康を殺そうと、宿泊部屋に仕掛けを作っていると密書が届いたせいで取りやめにしたというのです。

この事実関係は不明です。ただ、正純は年寄筆頭という幕府政治の中枢にある役職に就き、宇都宮十五万石という禄高も持っていることから、権力を持ちすぎていることを周囲に快く思われていなかったことは想像できます。

加えて、秀忠にも正純を処分したい心情がありました。まず、大久保忠隣の失脚は、本多正信、正純親子にしてやられたという思いがあったでしょう。大久保忠隣は秀忠を側近として支えていた武将でした。しかし秀忠はこの一件にほとんど関われなかったのです。

もう一つの可能性として、秀忠は、家光の代における政権運営を考えた際、将軍以上に力を持ちそうな本多正純はいない方が良いと考えたかもしれません。

結局、本多正純は、最上義俊の改易処分に伴い山形城へ出向いた際、突然改易を申し渡されます。十五万石は収公するものの、出羽国由利に五万五千石を与えるというお達しでした。

しかし正純は固辞します。正純は秋田の佐竹義宣に預けられ、横手に配流と決まり、亡くなりました。

1623年 – 44歳「家光が三代将軍となる」

松平忠直の改易

秀忠の三女、勝姫が嫁いでいた松平忠直が改易されたのは、秀忠が将軍職を退く直前のことでした。

松平忠直は六十七万石という徳川一門で最大の大名でした。忠直は大坂夏の陣での戦功もある上、血筋では秀忠の兄、秀康の子供であり、秀忠の娘を正室に迎えているという状況に、胡座をかいていた節があります。

わがままを言っても自分は大丈夫といった驕りから、ちょっとした不満ですぐ文句を言い続け、だんだんと鬱屈した気分になっていったのかもしれません。

酒色に耽る、近習や小姓を手討ちにする、参勤交代では病気だと言い出して途中で帰るなど、常軌を逸した行動が史料には残されています。今でいう鬱状態だった可能性もあります。

事態を重く見た秀忠は、忠直を隠居させ配流にしました。家光への政権移譲の前に忠直を処分しているあたりは、息子家光に対する父秀忠の思いやりのようにも感じられます。家光に引き継いで困らせてしまいそうな要件は、秀忠が対応して決着をつけたのです。

家光が三代将軍に就任

5月12日に江戸を発った秀忠は、6月8日に二条城に入ります。7月27日、伏見城で家光が将軍宣下を受けました。家光に将軍職を譲った秀忠は、大御所としてこれ以後の幕府政治に関わることになります。

秀忠はしばらく二条城に留まり、閏8月1日、シャムの使節を引見します。使節が持っていた国書は、シャム国王から日本国王「秀忠」に宛てたものでした。

シャム国王が将軍交代を知らずに秀忠に国書を送っているとはいえ、使節がきた時点で家光が将軍になっているのであれば、家光が返事をしてもおかしくないのですが、返書は秀忠の名で出されています。外交権は大御所秀忠が握っていたということでしょう。

東福門院和子が興子内親王を出産

この年、後水尾天皇に輿入れしていた和子が、第一皇女興子内親王を出産しています。のちの女帝、明正天皇です。

1624年 – 45歳「家光への権利移譲」

秀忠の隠居パフォーマンス

1月23日、秀忠は軍事指揮権の象徴である馬印と旗を家光に譲ります。そして4月29日、秀忠は本丸を出て西の丸へ移ります。表面的には家光に全権を移し、秀忠は隠居するかのように見えました。

1625年 – 46歳「大御所としての秀忠」

秀忠が握る領知宛行権

将軍職は退いた秀忠ですが、家康の大御所時代のように、新将軍に全ての権利を譲ったわけではありませんでした。

7月から12月にかけて譜代大名と旗本を対象に多くの領知朱印状が出されています。これは大名や旗本が新将軍に対して忠誠を誓い、それに対して行われる所領、知行の確認書です。家光への代替わりのタイミングで行われました。

この朱印状を交付したのは家光ではなく秀忠でした。大名や旗本への領知宛行権は、秀忠が掌握していたのです。

1626年 – 47歳「朝廷との良好な関係」

後水尾天皇が二条城へ行幸

9月6日から後水尾天皇は二条城へ行幸します。家光が天皇を迎えるために禁裏へ向かい、秀忠は二条城で迎えました。後水尾天皇は10日まで、舞楽や管弦、能楽などを楽しみました。11日、秀忠は太政大臣に任じられています。

この行幸は、徳川に臣従するほとんどの大名が動員されました。これによって世間に徳川の権勢を示したことになります。また、後水尾天皇は和子を中宮としていることも相まって、徳川幕府と朝廷との関係が良好である証ともなりました。

小督の死去

秀忠、家光が二条城で後水尾天皇を迎えている最中、江戸で小督が危篤に陥ります。小督の死因は伝わっていないのでわかりませんが、9月15日に他界しています。

小督危篤の知らせが届いても、秀忠も家光も状況的にすぐに江戸に戻ることができませんでした。仕方なく家光は側近や典医を江戸城へ向かわせます。家光の弟忠長は京都から江戸城へ急ぎ戻りましたが、臨終には間に合いませんでした。

小督は家光によって増上寺に埋葬されました。現在は夫秀忠とともに合葬されています。

1629年 – 49歳「紫衣事件」

紫衣事件

事の起こりは1627年7月まで遡ります。後水尾天皇が二条城へ行幸した翌年です。後水尾天皇が幕府に相談もなく僧に紫衣を与えたとして、禁中並公家諸法度違反だと幕府が問題にしました。朝廷より幕府が上位にいることを明示するものでした。

こうした幕府の圧迫に抵抗しようと、1629年11月8日、後水尾天皇は突然譲位します。

実際には、後水尾天皇の譲位問題については、この数年間何度も取りざたされていたことでした。譲位ということは次に誰が即位するかという問題もありました。和子が産んだ親王が次々に夭折してしまったという悲しい事情も重なりました。

紆余曲折ありつつも、秀忠は12月27日、結局後水尾天皇の譲位と和子の産んだ興子内親王の即位を認めました。明正天皇は、奈良時代に即位した称徳天皇以来、859年ぶりの女性天皇でした。

1631年 – 51歳「秀忠が病に倒れる」

忠長事件

徳川家の恩人や親類までも二代目将軍として厳しい処断を下してきた秀忠でしたが、家光の弟忠長については最後まで処遇を悩んだ様子がわかります。

最終的に秀忠が忠長を蟄居させたのは、1631年5月。小督が他界して5年後のことでした。小督は忠長を幼少の頃は殊の外可愛がっていましたし、忠長自身も母小督を慕っていましたから、小督存命中にはできなかった決断なのかもしれません。

秀忠は、忠長の蟄居を解かないまま、臨終を迎えます。

秀忠の病

秀忠は5月7日以降、目を患っています。そして6月になると微熱が続き下痢が止まらない症状が出始めました。7月17日には病状を公にします。21日に病気平癒祈願を五山に命じました。30日、胸の痛みがはじまります。

9月に朝廷の使者が見舞いに訪れていますが、病状は重くなる一方で、12月半ばには一時重体となりました。

1632年 – 52歳「秀忠死去」

秀忠の臨終

どうにか年は越したものの、正月の大名たちの年賀の挨拶を受けるだけで精一杯という状況でした。

1月23日、危篤。24日、秀忠はついに帰らぬ人となりました。享年五十二。奇しくも先に身罷った小督の享年と同じでした。

徳川秀忠の関連作品

徳川秀忠に関連するおすすめ書籍・本・漫画

葵 ー 徳川三代

NHK大河ドラマの原作です。徳川家康、秀忠、家光の話ですが、ほとんど秀忠が主役と言っていいストーリーです。偉大な家康の息子であり、江戸幕府の形を整えた家光の父でもあるという板挟みの秀忠ですが、ただの繋ぎではなく有能な将軍として描いています。

風雲児たち 2巻

徳川秀忠とお静の方とのロマンスが語られ、秀忠の人間的な部分に親しみが湧く漫画です。秀忠に対して、パッとしない二代目というイメージぐらいしか持ってない人に、ぜひお勧めしたい本です。秀忠に自然と興味が湧くと思います。

徳川秀忠「凡庸な二代目」の功績

NHK大河ドラマの時代考証も担当する歴史学者、小和田哲男氏による著作です。徳川秀忠の生涯を、史料をもとに丹念に紐解いていきます。秀忠に対する歴史的評価を知るのに最適な一冊です。

おすすめ動画

徳川家康没後400年記念 特別展 大関ヶ原展

関ヶ原の戦いに関連した武具や書状を展示していました。実際に武将たちが使っていたものや、書いた文字を見ると、過去の歴史が身近に感じられるものです。徳川秀忠の具足も展示されていました。

PV第3弾「戦国無双〜真田丸〜」

ゲームのイケメンキャラクターで人気のある戦国武将も多いですが、徳川秀忠もその一人。自分が秀忠になったつもりで、合戦に参加したり調略に挑戦したりできるのは楽しいですね。

国宝「三日月宗近」「岡田切吉房」VR

刀剣ブームで大人気となっている国宝の太刀、三日月宗近は、高台院から秀忠に贈られたものと伝わっています。天下五剣のうちの一つで、日本史上最高に美しい刀剣と言われます。ブラウザゲーム「刀剣乱舞ONLINE」の刀剣男子、三日月宗近も人気が高いですね。

おすすめ映画

関ヶ原

司馬遼太郎原作「関ヶ原」の映像化作品です。石田三成から見た関ヶ原の戦いが主軸の映画なので、秀忠はほとんど出てきませんが、関ヶ原の戦いのスケール感や迫力は、この時代を描いた作品の中でも屈指のものです。天下分け目の戦いをリアルに感じられます。

千銃士

徳川秀忠は種子島銃を愛用していたと言われています。このアニメでは、その銃を擬人化したイケメンキャラクター「ヒデタダ」が登場します。趣味が温泉というあたり、秀忠らしい温和な雰囲気を感じますね。

ミュージカル「刀剣乱舞」〜葵咲本紀〜

ゲームから始まった刀剣乱舞ですが、ミュージカル版は2018年に紅白歌合戦にも出場し、世間の認知度が上がりました。「葵咲本紀」では、刀剣男子に加えて人間役として徳川秀忠も登場します。

おすすめドラマ

NHK大河ドラマ 江

賛否両論ある大河ドラマでしたが、江が主役であるが故に、江と秀忠との関係を丁寧に描いていたのが印象的です。秀忠役の向井理は、屈折した青年期の影のある表情に始まり、二代将軍という重責を担う覚悟を決めた表情まで、意思を持った秀忠の成長を好演していました。

NHK大河ドラマ 真田丸

徳川秀忠を星野源が演じて話題になりました。常にみんなに言われ放題、翻弄されてばかりですが、二代目としての貫禄を見せ始める終盤まで、つい応援したくなる秀忠でした。星野源のおかげで、秀忠は皆に愛されるキャラクターになったように思います。

新春ワイド時代劇「影武者 徳川家康」

このドラマでは、影武者の家康と秀忠の対決が描かれます。秀忠を憎々しげに演じたのは山本耕史。こういったヒール役を演じさせると、本当にいい味を出す役者です。家康役の西田敏行を始め、時代劇に慣れた役者が顔を揃えていて、今でも評判の高いドラマです。

関連外部リンク

徳川秀忠についてのまとめ

最初に徳川秀忠に興味を持ったのは、小督の夫であったからです。戦国時代の超有名三姉妹の末の娘を嫁にもらった秀忠とはどんな人なのか知りたくなりました。

調べていくうちに、戦国時代の武将には珍しい、とても真面目で周囲の空気を読むタイプの人だったことがわかってきました。

大河ドラマ「真田丸」で、星野源が秀忠を演じる際、時代劇っぽい喋り方はしないように、できるだけ普通に話すようにしたとインタビューで言っていましたが、秀忠は確かに、この性格ゆえに周囲から浮くような存在だったと思います。

戦国時代は個の時代ですから、どう考えても秀忠は戦国武将らしくない人です。しかし、家康はそこを秀忠の長所と見ていたのでしょう。

群雄割拠の時代は終わり、安定の時代に必要なのは、今までとは違うタイプの人間でした。秀忠は、時代に必要とされた人間だったのです。

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