小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

ローマ帝国とは?歴史・年表まとめ【滅亡や分裂理由、歴代皇帝も紹介】

「ローマ帝国の成り立ちや歴史を知りたい!」
「どんな文化や暮らしだったの?」
「ローマ帝国の皇帝たちはどんな人?」

世界史に興味のある方ならば、一度は「ローマ帝国」という言葉を耳にしたことがあるのではないでしょうか。ローマ帝国は地中海領域のみならず、バルカン半島やエジプト流域、メソポタミア地域までを吸収・統一し、大帝国を築き上げました。

しかしこのローマ帝国は一夜にしてできたわけではありません。「ローマは一日にしてならず」ということわざがあります。大帝国となるほど繁栄したローマ帝国も、築き上げるまでに約700年もの歳月を費やした長い苦難の歴史がありました。

この記事ではローマ帝国の歴史を一から紐解き、成り立ちから滅亡までを解説していきます。歴代の皇帝たちやローマの宗教・文化についても触れていきますので、長い記事となりますが最後までお付き合いいただけると幸いです。

ローマ帝国とは?簡単に概要を解説

ローマ帝国の遺跡・コロッセオ
名称ローマ帝国
(Imperium Romanum)
首都ローマ
面積5,000,000㎢
人口56,800,000人
公用語ラテン語、ギリシャ語
(西暦629年から公用語)

ローマ帝国とは、イタリア半島に誕生した都市国家から、地中海領域を支配するまでに発展した段階を指しています。そのためローマ帝国の歴史は古代ローマ時代から続いています。

ローマ帝国の最大領域

古代ローマ時代は王を擁立し、王政をとっていましたが、領地や国力が拡大するにつれて貴族の権力が強くなりました。紀元前509年には王を追放し、貴族が中心となって政治を行うようになっていきました。

やがて政務官や財務官などの役職が定められ、公職経験者からなる「元老院」といった政治システムが構築されていきます。時が流れるにつれ市民たちの力が増大したことで、身分闘争といった貴族と市民の戦いが起きましたが、法律の改正により紀元前2世紀ごろには落ち着きました。

元老院

同じ2世紀ごろ、ローマ帝国はイタリア半島を統一し、徐々に地中海領域へ進出していきます。地方から兵士を募ったことで、地方の働き手は減少し農村は荒廃します。対して戦果を上げた兵士や貴族たちの収入は増大し、貧富の差が拡大しました。

元老院内部での汚職や不正が相次いだことで、元老院の権力は急速に低下していきます。そして市民たちからの強い支持を得て「執政官」という政治を執り行う役職が生まれ、元老院中心の政治は終わりを告げました。

しかし次第に執政官の権力が強まったことにより独裁政権が生まれてしまいます。紀元前27年に覇権争いに勝利したオクタウィアヌスによって共和制の復活が宣言されました。元老院は彼に「アウグストゥス(尊厳なる者)」という称号を与え、オクタウィアヌスを初代皇帝とした帝政が開始されました。

ローマ帝国の歴史

パンテオン

紀元前8世紀ごろ:都市国家ローマの形成

紀元前8世紀ごろ、ラテン人の一派がイタリア半島を南下し、ティベリス川のほとりに都市国家を形成しました。この都市国家がローマ帝国の起源です。

ローマには建国神話があり、国民的詩人であるウェルギリウスの「アエネイス」の叙事詩に記されています。内容をご紹介します。

ギリシアのトロイア戦争で、トロイアの城が落城し、トロイアの勇者アエネイスだけが脱出することができました。アエネイスはトロイアの再建のため、新天地を探し求め、苦難の末にイタリアに辿り着きます。アエネイスはそこで知り合ったラティウム王の娘と結婚し、子どもが生まれました。

トロイア戦争

アエネイスの子はアルバ・ロンガの王となりました。その約200年後、王位を巡って2人の王子が争います。

兄ヌミトルの王位を狙った弟アムリウスは隙を見て、ヌミトルの孫のうち男子たちを皆殺しにし、女子たちを神殿の巫女にしてしまいます。巫女にされてしまったレアは川辺で居眠りをしていたところ、軍神マルスに見初められてマルスの子を身ごもります。

彼女は双子の男の子を出産しましたが、アムリウスに見つかってしまい双子は川に流されてしまいました。しかし双子は運よく川岸に流れ着き、そこにやってきた一匹の雌狼が双子に乳を与えます。

その後双子は羊飼いに発見されて、ロムルスとレムスと名付けられ育てられました。やがて成長した2人はアムリウスを討ち、祖父であるヌミトルを復位させました。

狼から乳を与えられるロムルスとレムス

そして自分たちが拾われた場所に新たに都を建てようと、2人はそれぞれ丘を選びます。どちらが王になるかを鳥占いで決する事になり、ロムルスが選ばれました。

しかしこの結果に不満があるレムスはロムレスに歯向かい、殺されてしまいます。そしてロムレスは自身の都を聖域と表現、この聖域を侵すものは殺すと宣言し支配者となりました。

この都はロムレスの名にちなんで、ローマと名付けられました。この出来事は紀元前753年4月21日とされており、今でもローマの住民たちは、この日が近づくと祭りを行い祝っています。

紀元前509年:共和制ローマへ

共和制の仕組み

都市国家が形成される過程で、有力者の子孫たちは貴族となっていきました。貴族の話し合いの場として元老院が作られました。

紀元前509年、元老院は7代目の王であったタルキニウスを追放し、共和制に移行させました。この共和制において「パトリキ」と呼ばれる貴族と「プレブス」と呼ばれる平民では権力や立場においても差があり、平等とはほど遠いものでした。

元老院から選出され、政権を担当する執政官(コンスル)の2人もパトリキに独占されていましたが、経済の発展とともにプレブスの力も強まり、パトリキに対して政治的平等を求める身分闘争を起こしました。この身分闘争は紀元前5世紀から紀元前3世紀まで続きました。

フォロ・ロマーノ

身分闘争の結果、紀元前494年に平民会と護民官の設置が認められ、紀元前367年にはリキニウス・セクスティウス法でコンスルの一人は必ず平民から選出されることが制定されました。こうして貴族と平民が同等の権限を持つようになっていき、共和制を成立させていったのです。

イタリア半島の統一

イタリア半島統一

共和制が成立したころ、これと並行してイタリア半島統一戦争を展開していきます。近隣にあるラテン系の都市から制圧し、イタリア半島中部まで征服します。

やがてイタリア半島南部に位置するギリシア人都市タレントゥムに迫ります。タレントゥムの援軍エペイロス王に苦戦するも、紀元前272年タレントゥムを制圧し、イタリア半島を統一しました。

ポエニ戦争

ポエニ戦争時の地中海

紀元前264年、イタリア半島を統一したローマは更なる領土拡大のため、地中海に進出します。まず最初に進出したのが地中海に浮かぶシチリア半島です。

しかしシチリア半島は西半分をカルタゴが、東半分を傭兵部隊マメルティニが制圧していました。マメルティニはもともとシラクサの傭兵でしたが、離反し無理やり領土を占領していた形でした。

シラクサはマメルティニに占領されている土地を奪い返すために、シチリア半島に対して攻撃をしかけます。この攻撃に対し、マメルティニはローマとカルタゴの両者に助けを求めたことでシチリア島にはローマ軍、カルタゴ軍、シラクサ軍の3軍が集まることとなりました。

カルタゴの名将ハンニバル

この時ローマでは戦争をするか話し合いが行われました。元老院内部ではシチリア半島を他国に占領されると、他国がローマまで侵攻してくる可能性が高くなります。ローマの安全を考えて予防的に戦争するべきだとの考えで一致しました。

異例ではありましたが、特別に民会を開催し、元老院・執政官・民衆の三者が集まる機会が設けられました。執政官の間では自分の任期中に功績を残したいとの考えがあり、民衆の中でも戦利品が欲しいという気持ちであったため、戦争に反対する者もおらず第一次ポエニ戦争が開戦されました。

激しい戦争の結果、ローマ軍は勝利しシチリア半島を手中に納めました。多くの戦利品と奴隷たちを手にしたローマ軍は進軍を止めず、アフリカ大陸へと進出していきます。

紀元前256年、アフリカ上陸作戦が行われました。カルタゴ艦隊との戦いはローマ軍の新兵器「コルウス」により大勝し、アフリカ大陸に上陸しました。

新兵器コルウス

順調に各地を侵攻していったローマ軍ですが、バグラダス河畔での戦いにおいてカルタゴ軍に敗退し、アフリカ上陸作戦は失敗に終わりました。

アフリカ上陸作戦が失敗に終わったローマはシチリア半島周囲に目を向けるようになります。この時周囲の島国はカルタゴ軍が占領していました。

ローマは再びカルタゴと戦争を引き起こしました。すでに20年以上長く続く戦争に疲弊したカルタゴはローマに和平交渉を持ちかけます。

和平交渉に応じたローマはカルタゴから多額の賠償金とサルディニア、コルシカの2つの島を手に入れたのでした。

三頭政治

三頭政治の虐殺

ローマの支配する領地が増えたことで、各地の統率が難しくなってきます。もともと政治への不満があったことに加え、税として収める食料の徴収が厳しいことなども相まって、各地で内乱が起こるようになっていきました。

元老院は内乱を収めるための軍事指揮を当時のコンスルに就任していたスラに任せました。スラは手にした軍事力を使って内乱ではなく元老院に向け、権力を独裁しました。

独裁官スラ

独裁官となったスラは元老院の体制改革に着手します。さらに自分に歯向かうものがいないように、独断で政敵を処刑、騎士層の政治力を弱め、常設法廷の審判人を騎士から元老院議員にするなどの改革を行ったことで、元老院のメンバーはスラに忠誠を誓う者たちが中心となっていきました。

しかしそんなスラにとって目障りな者がいました。それが「ローマのアレクサンドロス」とも言われたグナエウス・ボンペイウスとパトリキの名門ユリウス家の嫡男であるガイウス・ユリウス・カエサルの2人です。

2人はスラの死後、多くの功績を残しましたがこれが元老院に認められることなく不満がありました。そこにローマ一番の資産家であったマルクス・リキニウス・クラッススが手を貸し、ボンペイウスの軍事力とクラッススの資金力、カエサルの人脈を利用して密約が交わされました。これを「第1回三頭政治」と言います。

カエサル、ボンペイウス、クラッススの3人

カエサルはコンスルに就任し、元老院の指示を無視して政策を実施します。その後ガリアの総督となりガリア戦争の指揮官として戦勝をあげました。

しかしその間、ローマは元老院と護民官の間では折り合いがつかず国政が混乱していました。カエサルは間に入って調停しようとしましたが、その努力もむなしく失敗に終わりました。これを機に元老院はカエサルを公敵と宣言しました。

ガリアでの戦いが終わり、カエサルはローマに戻ることとなりました。しかしこのまま戻ってしまったらカエサルは国敵と見なされ処刑されてしまいます。カエサルは元老院を廃止し、自身が独裁官となることを決意しました。

終身独裁官となったカエサル

ローマに戻ったカエサルはボンペイウスやクラッススと決別し、終身独裁官となります。彼はガリアで戦績を残したことやローマ国内の内乱を終結させたことが認められ、「国父」という称号とともに民衆から祝福されました。紀元前44年、元老院保守派ブルトゥス・カッシウスにより、カエサルは暗殺されました。

カエサルが暗殺された後、ローマは混乱を極めました。しかしこの混乱の時だからこそ共和制を守るために立ち上がらなくてはならないと考えたのが、カエサルと同世代の政治家であるキケロです。

彼は元老院の体制を立て直し、カエサルの腹心であったマルクス・アントニウスをローマから追放します。しかしカエサルの姪の息子であるオクタウィアヌスはアントニウスとカエサルの副官だったレピドゥスと手を組み、キケロを追放しました。

第2回三頭政治

アントニウスとオクタウィアヌス、レピドゥスの3者で新たに第2回三頭政治が始まりました。3人は前回の教訓を生かし、アントニウスが東方、オクタウィアヌスが西方、レピドゥスがアフリカの土地を管轄する取り決めをしました。

紀元前27年:帝政ローマへ

各地で土地を分配し管理していた3者でしたが、シチリア半島を誰が管理するかでオクタウィアヌスとレピドゥスは争い、レピドゥスは政治から引退しました。アントニウスは遠征に使う資金調達のためエジプト王国に接近し、女王クレオパトラと初めて対面します。

アントニーとクレオパトラ

2人はあっという間に恋に落ち、結婚します。アントニウスはクレオパトラに自身が所有している多くの土地と資金を渡しました。

これを知ったローマはアントニウスが裏切ったとみなし、アントニウスを敵としました。そしてアントニウスとオクタウィアヌスの東西対決が起こり、オクタウィアヌスの勝利で終わりました。クレオパトラはアントニウスの死を知り、自死したと言われています。

ローマの統治はオクタウィアヌスに任されることとなり、いかにして安定した政治体制を築くかということに注力しました。そして紀元前27年、元老院においてオクタウィアヌスは全ての権限を元老院と民衆に返還すると宣言しました。

この宣言により、元老院は名実と共に復活し、オクタウィアヌスに今後も連続してコンスルに就任すること、ヒスパニア、ガリア、キリキア、キプロス、シリア、エジプトの統治を10年間引き受けてくれるよう要請しました。要請を受けたオクタウィアヌスは元老院より「アウグストゥス(尊厳ある者)」という称号を与えられました。

初代皇帝アウグストゥス

以降、帝政が開始されアウグストゥスは初代皇帝になったと言われています。帝政と言っても、アウグストゥスは共和制を尊重していたため、自身はあくまで調整役という立場でいたようです。

ユリウス・クラウディウス朝

ティベリウス・カエサル

2代目を継いだのはティベリウス・カエサルというアウグストゥスの養子でした。彼は有能な軍人であり、保守的な性格でした。民衆からはあまり人気はありませんでしたが、新体制を安定させた有能な皇帝でした。

ティベリウスの死後、3代目皇帝となったのは当時英雄と言われていたゲルマニクスの遺児カリグラでした。多くの期待とともに即位したものの、カリグラには奇行が見られ民衆は「狂気の皇帝」と恐れました。悲しいことに最後はカリグラ親衛隊の士官によって暗殺されました。

元老院により次の皇帝を誰にするか検討していたところ、なんと親衛隊の兵士たちが勝手にカリグラの叔父、クラウディウスを皇帝と宣言してしまいます。クラウディウスは軍事関係はからっきしで学問の道で大成していた人物でした。かと言って皇帝としては、それなりに有能で水道建設などの大規模事業を進め民衆の安定を第一に政治を進めた人物でした。

クラウディウス

クラウディウスは有能な皇帝でしたが、一方で女性には頭が上がりませんでした。何度目かの結婚でゲルマニクスの元に嫁いできたのが、姪のアグリッピナです。しかし彼女は非常に野心家で、自分の連れ子であるドミティウスをクラウディウスの養子にし、さらにネロ・クラウディウス・カエサルと改名させるのです。

しかも改名後はクラウディウスを暗殺し、息子のネロを5代目皇帝にしてしまいました。弱冠16歳という若さで皇帝となったネロは母や周囲の人々の後押しもあり、善政を進めました。しかし年齢を重ね、自分で政治を取り決められるようになると、専制君主化してしまいます。流行し始めていたキリスト教徒を公開処刑したり、多くの元老院議員、哲学者、文化人と多くの人々が処刑されました。

ネロ

ネロの悪政により各地では反乱が起きるようになります。そしてネロの親衛隊隊士は反乱の鎮圧に向かいますが、逆に反乱軍の一員となりネロに反抗するようになります。親衛隊に見捨てられたネロは自殺し、暴君として後世までその名は語り継がれました。

四皇帝の年

ネロの死去後は政治が安定せず、4人の皇帝が次々と擁立され政権交代していきます。これを「四皇帝の年」と呼びます。

西暦68年、元老院により名門貴族であるガルバが皇帝に選ばれます。ガルバは保守的で厳格な人物でした。

ガルバ

西暦69年の元日、皇帝に対しての忠誠宣誓行事を軍側が拒否し、彼らはゲルマニアの総督であったウィテリウスを皇帝だと宣言します。実子のいなかったガルバは名門貴族のピソを養子にし、次期皇帝に指名し、政治体制を整えようとしました。

しかしこの決定に親衛隊は失望し、ガルバを暗殺。そして彼らが支持するオトを次の皇帝と宣言しました。

ウィテリウスを皇帝とするゲルマニア軍と、オトを皇帝とする親衛隊で争いが起こります。オトは自分のせいで兵士たちが死んでいくことを嘆き、自殺してしまいます。

そして次期皇帝としてウィテリウスが後を継ぎました。しかしこの内乱の状況を知った総督たちは、一致団結して、混乱を収めるために動きます。そしてローマ市街地は激しい戦いの中心地となっていくのです。

フラウィウス朝

フラウィウス・ウェスパシアヌス

内乱の勝者としてフラウィウス・ウェスパシアヌスが皇帝の座に就きます。彼は精力的な政治家で、ガリアやゲルマニアでの反乱を早期に鎮め、ネロによって破綻した国家財政を建て直しました。

そして皇帝の座は、彼の嫡男であったティトゥスが継ぎます。ティトゥスは有能な皇帝でしたが、短命のためすぐに亡くなってしまいます。

ティトゥスの死去後、弟のドミティアヌスが跡を継ぎ皇帝となりました。しかし元老院の議員たちと対立することが多く、西暦69年に暗殺されてしまいました。

五賢帝の時代(ネルウァ=アントニヌス朝)

コッケイウス・ネルウァ

度重なる皇帝を巡る争いに終止符を打つため、元老院は次期皇帝を元老院の議員の中から選出することにしました。そして選ばれたのがコッケイウス・ネルウァでした。

しかし元老院貴族のネルウァは兵士たちからは人気がなく、兵士たちからの支持を集めるために軍人の息子であるウルピウス・トラヤヌスを養子に迎え後継者に指名しました。最善の人物を選び帝位を継がせる「五賢帝の時代」の始まりでした。

西暦97年、トラヤヌスが即位します。彼は積極的に国外へ遠征し、多くの土地を征服します。征服した先々で手に入れた大量の戦利品と金を、ローマ市内の公共事業に注ぎ込んだため、民衆からの支持も熱い皇帝でした。

しかし度重なる遠征による疲れのためかトラヤヌスは病に倒れます。彼が後継に選んだのは、同じ元老院議員であったアエリウス・ハドリアヌスでした。ハドリアヌスは議員の一人でしたが、軍功があり兵士たちにも信頼されていました。

アエリウス・ハドリアヌス

帝位についたハドリアヌスは、遠征により疲弊した帝国内に休息を与えることを重視し、平和と安定を回復するため政策を行なっていきました。税負担の軽減や官僚制化や法整備など帝国統治に努めました。

西暦138年、ハドリアヌスが死去しアントニヌス・ピウスという温厚な貴族が次期皇帝となりました。特筆すべき反乱や侵攻もなく、真に安定した時代を築き上げました。

ピウスが亡くなった後、西暦161年にマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスの2人が皇帝となる共同統治の時代になりました。彼らの治世は多くの出来事が起こります。

マルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルス

まずパルティア王国からアルメニアへ攻撃してきました。アルメニアを守るために動いたカッパドキア総督は死亡、シリア地方まで侵攻される事態に陥りました。

ルキウスや有能な将軍たちの活躍により、パルティア軍を押し返すことに成功します。しかし勝利目前にしてローマ兵士たちの間で疫病が流行し、作戦は中止、パルティア軍を完全撤退させることはできませんでした。ルキウスはこの一件で、すっかり衰弱してしまいましたが、西暦166年、なんとかパルティア軍を押さえ込み、メソポタミアとアルメニアの奪還に成功しました。

しかし疫病流行によってローマ市民の数は大きく減少し、兵力不足・財政状況の悪化などの弱みにつけこまれ近隣諸国から攻め込まれます。なんとか傭兵を雇うことでこの攻撃から耐えましたが、この時にルキウスは病死し、マルクス一人で戦い続けなくてはなりませんでした。

マルクスはローマ兵団を立て直し、逆にゲルマニア征服戦争を始めました。しかし度重なるトラブルによってゲルマニア征服は成し得ませんでした。

セウェルス朝

セプティミウス・セウェルス

西暦193年、マルクスの実子であるコンモドゥスが帝位を継ぎましたが、彼は政治に興味がなく賭博や剣闘士試合に出場するなど、皇帝としてふさわしくない行動により暗殺されてしまいます。その後皇帝の座を巡り、各地で争いが起こりました。

西暦193年、パンノニア総督のセプティミウス・セウェルスが自身を皇帝と宣言し、ローマへ入城します。他の皇帝候補者たちを追い詰め、地位を確立し、名実ともに皇帝の座に就きました。以降を「セウェルス朝」と呼んでいます。

セウェルスは先代により弱体化したローマ兵団を強化し、軍事力を高めた他、元老院の役割を縮小して改革を推し進めていきました。西暦211年、セウェルスは死去し、息子のカラカラが皇帝となります。

カラカラ

カラカラは自身をアレクサンドロス大王の再来と信じており、東方遠征のルートをなぞって東方へ征服戦争に出ます。しかしこれに反発を覚えた兵士たちはカラカラを暗殺。次期皇帝はマクリヌスが継ぎますが、戦争に敗退し、兵士からの信頼を失い拘束の末、処刑されてしまいました。

セウェルスの家系から、エラガバルスが皇帝に選ばれました。しかし彼はもともと神官で皇帝として選出された後でも生活様式を変えることなく、さらにはローマ市内に神殿を建造したりと皇帝にふさわしくない行動が目立ち、暗殺されました。

軍人皇帝時代

トラクス

皇帝の不甲斐ない姿が目立ち、民衆や軍の中でも不満が溜まっていきます。結果、軍内部でクーデターが発生し、一兵卒からのし上がった、たたき上げの軍人トラクスが皇帝となりました。「軍人皇帝時代」の始まりです。

しかし西暦235年から285年にかけて22人もの皇帝が入れ替わり立ち替わりという混乱が続きました。この混乱も相まってか、元老院の権威は失墜し経済は悪化しました。「ローマの平和」は終わったのです。

西暦285年、デォクレティアヌスが皇帝と宣言されました。彼は思い切った改革を行い、帝国に平和と安定をもたらしただけでなく、約20年間に渡り帝位を守り抜きました。

西暦395年:帝国の分裂

テオドシウス1世

新しく皇帝となったテオドシウスはカトリック教会を国教と制定し、ゲルマン人と条約を結びました。ゲルマン人はローマに軍事力を、ローマは彼らに食料とローマの一市民としての生活を与えました。

テオドシウスはゲルマン人の軍事力を使って内乱を制しようと考えたのですが、宮廷内の陰謀により処刑されてしまいます。彼は死の間際、2人の息子にローマを東西に分けて統治するようにと遺言を残しました。

ローマの東西分裂

その遺言を聞きいれ、東ローマは18歳のアルカディウスが、西ローマは11歳のホノリウスが帝位に就きました。ただしホノリウスはまだ幼く、実権を握っていたのは軍司令官のスティリコです。

西ローマ帝国

東西で分裂したローマはお互いをライバル意識するようになり、対立が激化します。これに追い討ちをかけるように同盟軍のゲルマン人たちが牙をむきます。トラキア、マケドニア、ギリシアの土地を荒らし回るようになりました。

ゲルマン人

これをスティリコが阻止したのですが、これに異を唱えた東ローマ帝国の文官たちによってスティリコは司令官の地位を剥奪されてしまいました。あろうことかゲルマン人の大将であるアラリックに司令官の地位を与えたのです。

スティリコはその後もアラリック率いるゲルマン軍に対抗しようとしますが、西ローマ帝国内部での反感を買い、暗殺されてしまいます。そしてアラリックはローマ市内に侵攻し、三日三晩略奪を続けました。貴族の多くはローマ市内から散り散りに逃げ、ローマ市内は荒れ果ててしまいました。

ローマに入るアラリック

西暦405年に入ると、ヴァンタル族、スエビ族などがイタリアに侵入し、ヒスパニアや地中海の島国を支配。海上からローマ市内を攻撃し、アラリックよりも恐ろしい略奪を行いました。

その後も多くのゲルマン民族がローマの年に侵攻し、定住するようになっていきます。もはや西ローマ皇帝の支配が届く地域はイタリアとガリアだけになっていました。

東ローマ帝国

コンスタンティノポリス

対してコンスタンティノポリスを首都とした東ローマ帝国は安定した統治を続けました。東ローマ帝国が安定した理由として特定の軍司令官に権力を集中させず、ゲルマン人を要職から外していたためです。また東ローマ帝国の国力拡大および帝国の再統一を願い、大聖堂の建設やローマ法大全という法典を完成させ、キリスト教を広く普及させました。

しかしながら7世紀以降、イスラム教勢力が台頭してきます。イスラム勢力の度重なる侵攻がコンスタンティノポリスを襲いましたが、耐えしのぎ、さらには追い返していました。

帝国の滅亡

コロッセオ

西暦486年:西ローマ帝国滅亡

西ローマ帝国は変わらず、軍司令官が実権を握り続けました。さらにはローマ教皇の独断により多くの権力が皇帝から教皇に移っていく中で、軍内部で不満が募っていきます。

そしてゲルマン人傭兵であるオドアケルが主導となってクーデターを起こします。軍司令官だったオレステスを殺害し、皇帝アウグストゥルスを廃位としました。こうして西ローマ帝国は滅亡を迎えたのです。

西暦1475年:東ローマ帝国滅亡

十字軍

東ローマ帝国は実は二度、滅亡しています。一度目は十字軍の侵攻により、コンスタンティノポリスが攻略され滅亡しました。しかしその際は皇帝の血筋を継ぐ人物が地方に逃げていたため、そこを起点に東ローマ帝国を再興します。

名をビザンツ帝国と変え、帝国としての威厳を保っていましたが、その実情は兵士や民衆はすでに過去のローマ帝国とは比にならないほど弱体化していました。最終的にビザンツ帝国は隣国のオスマン帝国によって侵略され、姿を消しました。

ローマ帝国はなぜ滅亡した?理由や流れ、その後の歴史まで解説

ローマ皇帝一覧と在位期間

ローマ皇帝

初期ローマの王

1.ロムルス紀元前753〜715年初代王、建国の祖
2.ヌマ・ポンピリウス紀元前715〜673年祭司や葬儀、
暦などを創設
3.トゥルス・ホスティリウス紀元前673〜641年アルバ・ロンガ征服
4.アンクス・マルキウス紀元前641〜616年エトルリアより
祭祀導入
5.タルキニウス・プリスクス紀元前616〜579年競走場、広場、
神殿建造
6.セルウィウス・トゥリウス紀元前579〜534年ディアナ神殿建造
ローマ市の城壁建設
7.タルキニウス・スペルブス紀元前534〜509年追放、
初期ローマ最後の王

帝政ローマの王【ユリウス・クラウディウス朝】

1.アウグストゥス紀元前27〜14年最初のローマ皇帝
多くの称号を与えられる
2.ティベリウス紀元前14〜西暦37年新体制を安定させた
法整備、恐怖政治
3.カリグラ西暦37〜41年奇行により狂気の皇帝とされる
4.クラウディウス西暦41〜54年公共事業の推進
5.ネロ西暦54〜68年芸術家、競技者として
名をはせる
暴君

帝政ローマの王【四皇帝の年】

1.ガルバ西暦68〜69年元老院の推薦で皇帝となる
2.オト西暦69年ローマ軍の推薦で皇帝となる
3.ウィテリウス西暦69年親衛隊の推薦で皇帝となる
4.ウェスパシアヌス西暦69〜79年内乱の終結
国家財政の建て直し
公共事業の推進

帝政ローマの王【フラウィウス朝】

1.ウェスパシアヌス西暦69〜79年四皇帝より引き続き
フラウィウス朝初代皇帝
2.ティトゥス西暦79〜81年地方の反乱の収束
3.ドミティアヌス西暦81〜96年反乱鎮圧
ダキア人と講和
元老院と対立

帝政ローマの王【五賢帝、ネルウァ=アントニヌス朝】

1.ネルウァ西暦9年〜98年元老院尊重の姿勢
2.トラヤヌス西暦98〜117年元ゲルマニア総督
史上初属州出身の皇帝
3.ハドリアヌス西暦117〜138年行政の合理化
官僚制化、法整備
帝国巡回
4.アントニヌス・ピウス西暦138〜161年「アントニヌスの壁」建造
5.マルクス・アウレリウス西暦161〜180年ストア派の哲学者
「自省録」執筆
6.ルキウス・ウェルス西暦161〜169年パルティア戦争を指揮
7.コンモドゥス西暦180〜192年剣闘士試合に自ら出場
暴君の再来

帝政ローマの王【混乱期】

1.ペルティナクス西暦193年親衛隊の支持で皇帝へ
2.ディディウス・ユリアヌス西暦193年資金力で皇帝の地位へ

帝政ローマの王【セウェルス朝】

1.セプティミウス・セウェルス西暦193〜211年元パンノニア総督
帝権・軍事力の強化
2.カラカラ西暦198〜217年東方遠征実施
3.ゲタ西暦209〜211年
4.マクリヌス西暦217〜218年
5.ヘリオガバルス西暦218〜222年元神官
ローマ市内に大神殿建造
6.アレクサンデル・セウェルス西暦222〜235年14歳で即位
母ママエアが実権

帝政ローマの王【軍人皇帝時代(前期)】

1.マクシミヌス・トラクス西暦235〜238年市民出身
クーデターにより皇帝へ
2.ゴルディアヌス1世西暦238年元老院貴族の反発により
皇帝へ
3.ゴルディアヌス2世西暦238年父の跡を継ぐ
カルタゴの戦いで戦死
4.プピエヌス西暦238年バルビヌスと口論の最中、
暗殺
5.バルビヌス西暦238年プピエヌスと口論の最中、
暗殺
6.ゴルディアヌス3世西暦238〜244年ゴルディアヌス1世の孫
7.ピリップス西暦244〜249年ゴルディアヌス3世の
元近衛隊長
8.デキウス西暦249〜251年アプリットゥスの戦いで
戦死
9.ホスティリアヌス西暦251年疫病で病死
10.トレボニアヌス西暦251〜253年アエミリアヌスの
裏切りにより暗殺
11.アエミリアヌス西暦253年兵士により暗殺
12.ウァレリアヌス西暦253〜260年エデッサの戦いで処刑
13.ガッリエヌス西暦253〜268年ガリア帝国、パルミラ王国の
分離独立
14.クラウディウス・
ゴティクス
西暦268〜270年ゴート族との
ナイススの戦いに勝利
15.クィンティッルス西暦270年アウレリアヌスに暗殺
16.アウレリアヌス西暦270〜275年蛮族との戦いに勝利
治世を安定
17.タキトゥス西暦275〜276年ペルシア戦争時に病死
18.フロリアヌス西暦276年軍により暗殺
19.プロブス西暦276〜282年カルスの反乱により暗殺
20.カルス西暦282〜283年ペルシャ戦争の指揮
落雷による事故で急死
21.カリヌス西暦283〜285年ディオクレティアヌス
遠征軍により戦死
22.ヌメリアヌス西暦283〜284年配下の裏切りにより死亡

帝政ローマの王【軍人皇帝時代(後期)】

23.ディオクレティアヌス西暦284〜305年属州出身、内乱を集結
24.マクシミヌス西暦286〜311年ディオクレティアヌスと
ともに退位
25.ガレリウス西暦305〜311年
26.コンスタンティウス・
クロルス
西暦305〜306年
27.フラウィウス・
ウァレリウス・セウェルス
西暦306〜307年マクセンティウスに
反乱を起こされ死亡
28.マクセンティウス西暦306〜312年
29.リキニウス西暦308〜324年コンスタンティウスとの
争いに敗北し帝位を退く
30.マクシミヌス・ダイア西暦311〜313年
31.コンスタンティヌス1世西暦306〜337年コンスタンティヌス朝創始者
「大帝」の称号をもつ
キリスト教を国教として公認
32.コンスタンティヌス2世西暦337〜340年弟コンスタンティウス2世に
殺害される
33.コンスタンティウス2世西暦337〜361年
34.コンスタンス1世西暦337〜350年
35.ウェトラニオ西暦350年
36.ユリアヌス西暦360〜363年
37.ヨウィアヌス西暦363〜364年
38.ウァレンティニアヌス
1世
西暦364〜375年ヨウィアヌスの急死により
皇帝に即位
39.ウァレンス西暦364〜378年ハドリアノポリスの戦いで
戦死
40.グラティアヌス西暦367〜383年マグヌス・マキシムスに
殺害される
41.ウァレンティニアヌス
2世
西暦375〜392年
42.テオドシウス1世西暦379〜395年ローマ帝国単独支配
東西分裂の指示

ローマ帝国の宗教

軍神マルス

古代ローマにおいて、祭儀や礼拝をすることで神々が人間に祝福を与えてくれると信じていました。ギリシアの神々と融合し、軍神マルスや美の女神ウェヌスなどを信仰していたと考えられています。

また次第に「勝利」や「平和」といった観念も神格化するようになりました。皇帝が誕生するようになると、皇帝の存在が神格化し、特に属州では女神や皇帝への礼拝・信仰が盛んに行われていたようです。

そんな中、ローマ圏内にもキリスト教が流行し始めます。当初は密教や異教と揶揄され、公然とその名を口に出すことはできませんでしたが、皇帝コンスタンティヌスによりキリスト教が公認され、大聖堂の建造が行われました。これを機にキリスト教へ改宗する者も多くなり、ローマはキリスト教を信仰する国へと一歩踏み出したのです。

ローマ帝国の文化

フォロ・トライアーノ

ローマの建築・土木

アッピア街道

ローマの土木建築は非常に優れていました。ローマへ続く道はほとんどが石畳で作られ、軍隊の移動でも使われていました。

特に代表的な道としてローマと南イタリアを結ぶアッピア街道です。この道は紀元前4世紀に作られ、「街道の女王」としての異名を持っています。

他にも水道の建築やコロッセウムに代表される公共建造物まで、多くの建造物がその姿を現代にまで残しています。ローマの繁栄は、この卓越した建築と土木技術があったからこそとも言えるでしょう。

ローマの法律

ローマ法大全

古くからローマ人の間では法律がありました。元老院時代には民法が作られ、それに準じて民会や執政官などの告示もされています。

これは帝政になってからも続き、帝国内のあらゆる民族でも適用される万民法というものが作られます。歴代の皇帝たちによって多少の法改正や新法が作られましたが、西暦6世紀に入ってからユスティニアヌス1世の命により「ローマ法大全」が編纂されました。

ローマ帝国に関するおすすめの本・書籍

ローマ人の物語 (1) ― ローマは一日にして成らず(上)

古代ローマを語る上で絶対に外せない一冊です。著者の塩野七生さんは古代ローマ史を日本に広めた功績を讃えられイタリア政府より表彰されているほどです。

ローマ建国から滅亡に至るまでの建国史をあっけらかんとした口調で説明しており、歴史書でありなfら、すんなり理解することができます。何十巻と続いている作品なので(ローマの歴史を考えれば当たり前ですが)、ローマの全てを知りたいと考えている方にはおすすめです。

絵で旅する ローマ帝国時代のガリア

ユリウス・カエサルが統治したガリア地方を中心にまとめた書籍です。特に住居や水道建設、闘技場などについても図説を多く用いて解説しているため、普段文章をあまり読まないという方にもおすすめの一冊です。

書籍は大型本となっているので、購入するときは大きいカバンを持って行った方がいいかもしれませんね。

アンティークコインマニアックス コインで辿る古代オリエント史

アンティークコインとは主に古代や中世時代に作られたコインをさしています。時のローマ皇帝たちも自身の顔を刻んだコインを作っていました。

本書はそのコインから歴史を紐解いていくという、別視点からの著書になります。またローマ時代に限らずオリエント地方でまとまっているので、ローマと他国の関係性を合わせて知ることができます。

ローマ帝国に関するまとめ

ローマ帝国について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

ローマ帝国は長い歴史のなかで、さまざまな文化を築いてきました。しかしこれらの文化の根底には戦争と侵略によって生じた多くの犠牲の元に成り立っています。

筆者もこの記事を書くことで、ローマ帝国の歴史を再認識することができました。皆さんもぜひローマ帝国の歴史や文化に興味を持っていただけますと幸いです。長い記事となりましたが、お読みいただきありがとうございました。

コメントを残す