契丹人の文化や風俗
契丹人の髪型
契丹をはじめとするモンゴル周辺の遊牧民族の髪型は、頭髪の一部を残して剃り上げ、残りの髪の毛のみを伸ばす「辮髪(べんぱつ)」でした。一口に辮髪といっても民族や時代によって、どの部分を残すかはかなり異なっていました。契丹人の場合、頭頂部を大きく削ぎ落す髠髪(こんぱつ)でした。
契丹人の文字
中国周辺の異民族は、西方から伝わったアラム文字やソグド文字、中国の漢字などの影響を受け、民族ごとに独自の文字を生み出しました。契丹文字は主に漢字の参考にして作った文字です。建国者の耶律阿保機が創案したと伝えられます。契丹文字は表意文字と表音文字からなり、1600から1700文字が知られています。そのうち、読み方がわかっているのは180余でまだまだ未解読といってよいでしょう。
契丹と中国の関係
中国の混乱に乗じ、燕雲十六州を獲得
唐の重臣朱全忠は、907年に唐を滅ぼし、後梁を建国しました。以後、979年に宋が中国を統一するまで、中国は分裂時代に入ります。この時代を五代十国時代といいました。このうち、華北にできた5つの王朝を五代と呼びます。後梁滅亡後、後唐が成立します。
936年、後唐の臣下だった石敬瑭(せきけいとう)は契丹に支援を求めました。契丹の支援を受けた石敬瑭は後晋を建国しました。後晋は建国支援の見返りに、現在の北京周辺地域である燕雲十六州を契丹に割譲し、毎年、貢物を献上すると約束します。
契丹が行った二重統治体制とは
燕雲十六州を獲得することで、領土の中に漢人農耕民を抱え込んだ契丹は、遊牧民と農耕民を別の仕組みで統治します。遊牧民に対しては以前からの部族制でコントロールし、農耕民に対しては中国風の州権制で統治します。
契丹人は遊牧民の制度を維持しながら、中国的な支配も取り入れました。このような支配の仕組みを二重統治体制といいます。二重統治体制は、金や元、清にも引き継がれました。漢民族の文化に同化せず、自分たちの独自性を維持した王朝を征服王朝と呼びます。
宋との戦いと澶淵の盟
後周の節度使趙匡胤は960年に中国を統一し、宋を建国します。宋は五代十国の争乱を終わらせ、中国を統一しました。宋王朝にとって、契丹人が支配する燕雲十六州のみがいまだに回復できていない領土となります。宋は連年、契丹と戦いますが軍事力に優れる契丹に勝利することはできませんでした。
1004年、契丹の皇帝聖宗は大軍を率いて宋に侵攻し、宋の都開封に迫りました。同時に北西から西夏の侵攻も受けた宋は契丹と講和を結びます。これが、澶淵の盟です。澶淵の盟の内容は以下の通りです。
宋を兄、契丹(遼)を弟とし友好関係を結ぶこと
宋は毎年、銀10万両と絹20万匹を贈ること
これは、契丹にとって非常に有利な条件でした。しかし、この莫大な贈り物が契丹人を軟弱にし、金によって滅ぼされる原因となったのは何とも皮肉なことです。
契丹に関するまとめ
いかがだったでしょうか。契丹はモンゴル高原から中国東北部や北京周辺を支配した最初の征服王朝でした。中国風の国号である遼を名乗りながらも、完全に中国に同化しなかった点でそれまでの遊牧民とは違う存在となります。
一方、中国側からすれば燕雲十六州を契丹に奪われたままでは完全な中国統一とは言えず、宋王朝はたびたび奪還のため出兵しました。しかし、契丹の軍事力は強く、かえって契丹の侵攻を招き澶淵の盟を結びます。
契丹とはどんな国か、近隣の渤海や高麗、女真人と何が違うのか、中国と契丹の関係はどうだったのかなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。それでは、長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。