東條英機は戦前に陸軍を主導し、内閣総理大臣として太平洋戦争を指揮した人物です。日米戦争は日本が圧倒的に不利だった為、総理大臣の他に様々な役職を歴任し、権力の集中を図る事で戦局を乗り切ろうとしました。
快進撃を続けた日本でしたが徐々に戦局は悪化します。日本の主要な防衛圏であったサイパン島が陥落した責任を取り、東條内閣は総辞職となったのです。戦後は連合国による東京裁判で死刑判決を受け、処刑されました。
東條は優れた実務能力を持ちつつも、リーダーシップと戦局へのビジョンが欠けていた秀才でした。同世代に石原莞爾という真逆の天才タイプの人材がいましたが、最終的に石原は左遷されています。東條が総理大臣になった事は、陸軍だけでなく日本の組織における問題点を端的に表しています。
東條は戦争指導者のイメージが強いですが、卓越した実務能力を持ち、優秀な軍官僚でした。強硬派の1人でしたが、昭和天皇に対する忠義は誰よりも高く、昭和天皇も全幅の信頼を寄せていました。世間でイメージされる東條は戦後に作られたものであり、実像は異なっています。
今回は近代史を詳しく学んだ筆者が東條英機の生涯を通じ、当時の陸軍の状況や社会情勢について紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
東條英機とはどんな人物か
名前 | 東條英機 |
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誕生日 | 1884年7月30日(戸籍上は12月30日) |
没日 | 1948年12月23日 |
生地 | 東京府麹町区(現千代田区) |
没地 | 巣鴨拘置所 |
配偶者 | 東條かつ子(1890〜1982年) |
埋葬場所 | 雑司ヶ谷霊園(東京都豊島区)・三ヶ根山(愛知県西尾市) |
東條英機の生涯をダイジェスト
東條英機の人生をダイジェストすると、以下のようになります。
- 1884年 東京市麹町区で誕生
- 1905年 陸軍士官学校を卒業
- 1912年 陸軍大学校に2度目の挑戦で合格
- 1921年 ドイツに駐在し、バーデンバーデンの密約に参加
- 1929年 歩兵第1連隊長に就任
- 1935年 上司の永田鉄山が惨殺される
- 1940年 第二次近衛内閣の陸軍大臣となる
- 1941年 内閣総理大臣に就任、間も無く太平洋戦争勃発
- 1944年 戦局の悪化に伴い内閣総理大臣を辞任
- 1945年 終戦後、自殺未遂を図る 戦犯として逮捕
- 1948年 東京裁判にて死刑判決。死刑が執行される
東條英機の家族構成や子孫はどんな人?
東條英機は1909年にかつ子と結婚し三男四女をもうけました。終戦後もかつ子は英機の元を離れていません。新聞記者から追われたり、捏造した発言が報道される等の苦労もありました。
息子達の簡単な経歴としては、
- 東條英隆(長男) :首都圏警察や鴨緑江発電職員を務め、戦中は伊豆に居住。父と折り合いが悪く、巣鴨拘置所にも面会せず。
- 輝雄(次男) :零戦や国産旅客機の開発に携わった技術者。後に三菱自動車工業の会長を務める。
- 敏夫(三男) :戦中に陸軍に入り、戦後は航空自衛隊となる。
となっています。また、東條英機の子孫は、
- 東條由布子(孫) :英隆の長女でA級戦犯分祀反対を唱え、メディアにも度々登場
- 東條英勝(孫) :英隆の長男で西武運輸に勤務
- 東條英利(曽孫): 英勝の息子で国際教養振興協会代表理を務める
以上3名が有名です。英利によると英隆(祖父)は仕事が見つからず、英勝(父)は小学校の先生が担任を拒否した等、イジメや差別に苦しんだとの事です。東條家には「何と揶揄されようと忍の一文字で堪え忍ぶように」という家訓があるそうです。
大正デモクラシーの影響を受けた青年期
東條英機は20〜30代の青年時代を、大正デモクラシー期に過ごしました。自由主義・民主主義的な風潮が高まった時代で、東條もその思想に大きな影響を受けました。妻であるかつ子が姑との関係で悩むと、両親と別居する道を選んでいますが、その辺りも「平等」を強く意識した大正時代らしい人柄が表れています。
また、大正デモクラシーによって世論が力を持つ時代になりました。実際に大正時代には、世論の批判の声が高まったことで総辞職せざるを得なかった内閣がいくつもあります。
東條が世論の力の大きさを肌で感じた経験が、のちに首相となった折、戦争へ世論が傾いているがために、開戦へ舵を切らざるを得ないという苦渋の判断をすることに繋がっていくのです。
東條英機の性格は?陸軍での人間関係について
会議では些細な事でもメモを取り、帰宅後に清書する等とても几帳面でした。金銭的に無欲を貫き、私邸もとても質素だったそうです。自分だけでなく他者にも厳しく、軍の規律を乱す者には容赦なく処罰を下しています。
部下には優しかったと言われる一方、意見も合わない人は徹底的に排除する等、極端な一面もありました。戦中に東條を批判した新聞記者や官僚を危険な戦地に送り込んだり、非協力的な将官を退官させています。
陸軍では陸大出身者による統制派という派閥に属していました。リーダー格の永田鉄山惨殺後は、統制派のリーダーとして君臨していきます。
統制派にも有能な人物はいましたが、東條は自分に忠実な部下を重用しています。花谷正・牟田口廉也・富永恭次等、評価の良くない軍人が多いのは事実であり、東條の評価を下げる要因にもなっているのです。
東條英機内閣の政策は?退陣後は何をしていた?
東條は対米開戦の最強硬派でしたが、昭和天皇の意向には絶対でした。総理大臣に推挙したのは内大臣の木戸幸一ですが、東條をあえて総理大臣に任命し、陸軍の暴走を抑える目的があったとされます。
東條内閣は1941年10月に発足。昭和天皇から戦争回避に全力を尽くすよう指示されます。外務大臣に対米協調派の東郷茂徳を起用し、中国からの徹兵にも妥協案を提示しますが交渉は決裂。12月に太平洋戦争が勃発します。
戦局の悪化に伴い
- 軍需省を設立し軍需大臣となる
- 実務責任者である参謀総長職の兼務 等
様々な役職を歴任し、総理大臣という政治的任務だけでなく戦争全体に関わっていきます。この様子は東條幕府と揶揄されました。
和平派の工作と戦局悪化の責任を取り、東條内閣は1944年7月に総辞職しました。時々行われる会議に参加する他は、畑仕事を営む生活を送り、事実上引退します。敗戦後、東條は連合国により裁かれる事となるのです。
死因は死刑判決による絞首刑
東條英機の最期は絞首刑でした。東京裁判で平和に対する罪があるとしてA級戦犯に指名され、死刑判決が下されたのです。1948(昭和23)年11月12日のことでした。
A級の他にB、C級戦犯もいましたが、A級だからといってBやCより重い罪という意味ではなく、Bは戦争犯罪、Cは人道に対する罪というように内容による区別です。東條英機の場合、開戦時に内閣総理大臣を務めていたことで、A級戦犯に訴追されたのです。
戦犯収容所であった東京の巣鴨拘置所で刑は執行されました。12月23日、同じくA級戦犯として有罪判決を受けた土肥原賢二ら6人と共に絞首刑が執行されます。浄土真宗の僧侶であり、巣鴨拘置所の教誨師であった花山信勝が処刑に立ち会いました。
東條英機の功績
功績1:「陸軍では優秀な軍務官僚だった」
東條は軍務官僚として力を発揮し、メモを駆使した情報処理能力の高さから「カミソリ東條」と呼ばれました。夜12時まで職務をこなし、日曜にも書類整理を行う等、職務に忠実すぎる程に熱心でした。
また戦中に兵が行なった略奪や虐殺には身分に関係なく軍法会議にかけています。軍の規律や風紀の引き締めを行った為、軍内でのモラルは向上したと言われます。
歩兵第1連隊長に任命時は兵卒の調書を取り寄せて情報を得てから着任。食事管理から受験兵の負担を減らす等の気配りをしています。連隊長と兵卒が話をする等あり得ない事だった為、東條は多くの兵から慕われました。
東條は平時の部下としてはとても優秀な人材でした。戦時下のリーダーという最も不得手な立場に立った事は、東條だけでなく日本全体にとっても不運だったでしょう。
功績2「多くのユダヤ人を救った」
あまり知られていませんが、東條は多くのユダヤ人を救出しています。1938年に東條が満州で関東軍参謀長を務めていた時の事です。
満州の国境近くにあるソ連のオトポールにナチスの迫害から逃れたユダヤ人が到着します。彼らは受け入れをソ連に求めたものの、拒否され満州に助けを求めたのです。人数は諸説あるものの、多い数で2万にも登ります。
関東軍の機関長樋口季一郎少将は当時の参謀長だった東條に許可を求め、東條はこれを承諾。ドイツの抗議に対し、「当然なる人道上の配慮によって行われたもの」と述べて一蹴しています。
残念ながら東條は立場上当時のユダヤ人と関わる機会がなく、許可を出した事はあまり知られていませんでした。もしこの事が知られていれば、東京裁判で多くの嘆願書がマッカーサーに届いた可能性もあるのです。
功績3「戦争責任を一身に引き受けた」
戦後に戦争に関わった人達は東京裁判により裁かれる事になります。裁判は今でも様々な議論があるものの、戦勝国が一方的に敗戦国を裁きを下しており、アメリカの原爆投下等の犠牲は罪には問われていません。
アメリカは昭和天皇の戦争責任を問わずに象徴とする事で、日本の統治をスムーズに行う事を決めました。しかし連合国の多くは責任を追及する事を求めています。東條は裁判中にこのように述べています。
開戦の責任は自分のみにあって、昭和天皇は自分たち内閣・統帥部に説得されて嫌々ながら開戦に同意しただけである
裁判では多くの被告が自己弁護と責任転嫁をする中で、東條は国家弁護と天皇擁護に徹し、自己弁護は行いませんでした。結果的に東條は死刑判決を受けるものの、戦争の責任を引き受けたのです。