東條英機とはどんな人?生涯・年表まとめ【子孫や名言、死因、遺書も紹介】

東條英機の名言

日系人よ異邦の国の為に尽くせ

戦時下にアメリカの日本語学校の生徒に向けて東條が送った手紙です。多くの日系二世三世は日本かアメリカのどちらに立つべきか悩んでいました。

この手紙は彼らがアメリカ軍に志願する後押しをし、戦後における日系人の地位向上に大きく貢献したのです。

日本をおおっている暗雲はやがて晴れ、中秋の名月が拝める日は必ず再来するであろう。

戦後に逮捕された東條が孫に送った言葉です。戦争で悲惨な目に合わせた次の世代に必ず平和が訪れると、東條は確信していたのでしょう。

いま、アメリカは仏法がないと思うが、これが因縁となって、この人の国にも仏法が伝わってゆくかと思うと、これもまたありがたいことと思うようになった。

死刑判決後、東條は仏教に傾倒するようになります。処刑される事を恐れる事はなく、自分の死をもって仏教が日本にも伝わる事を望み、勇んで処刑台に立ったのでした。

東條英機の人物相関図

こちら東京裁判で死刑判決を受けた7人です。

東條英機にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「東條英機が国民のゴミ箱を漁っていたのは何故」

『朝日新聞』東京版、昭和17年4月19日付夕刊2面

東條のエピソードとして、民家のゴミ箱をあさって(視察して)いたというものがあり、この行為自体は都市伝説でもなく事実です。贅沢品を買ってないか調査していたと考える人もいますが、それは誤解です。

東條は当時の新聞でゴミ箱を確認するのは「国民の実生活について心配して居り、其実情を此の目で確認したいと思うから」と述べたと言われます。全て確認しないと気が済まないという性格からくるものでしょう。

国民の生活を心配する人情さと共に、彼が総理としてではなく、憲兵や中間管理職としてなら力を発揮できたのではと思わせるエピソードでした。

都市伝説・武勇伝2「泣いていた?高ぶっていた?開戦間近の東條英機」

湯沢三千男

東條は対米開戦を回避出来なかった事を悔やんでいたと言われます。開戦を昭和天皇に伝える際は何度も涙声となっていました。開戦日2日前には首相官邸で皇居の方を向き、正座で号泣する事をかつ子が目撃しています。

これは東條の悲劇性と天皇への忠誠心を示すエピソードとして伝えられます。しかし最近新たなメモが見つかりました。当時の内務次官、湯沢三千男が東條の言動を書き留めたもので湯沢メモと呼ばれています。

湯沢メモによると「東條は興奮を抑えられず、天皇が覚悟を決めてくれた段階で「すでに勝った」とほろ酔い気分で語った」と書かれていたと言われます。

このメモにどの程度信憑性があるのかは分かりません。日記ではないので、その日に書かれたのかも不明です。個人的には東條が昭和天皇を裏切るとは思えず、新たな資料が見つかると良いと思っています。

都市伝説・武勇伝3「東條英機は戦後に自殺未遂をしたが実は暗殺未遂だった?」

自殺未遂後の東條英機

1945年9月11日、連合国により逮捕される直前に東條は拳銃で自殺未遂をしています。東條は拳銃で自らの心臓を撃った状態で見つかりました。東條を殉職者にせず戦犯として裁く為、GHQは最先端の治療を施されました。

東條が自殺に失敗したのは、左利きにもかかわらず右手で拳銃を使用したから、娘婿の遺品の拳銃を使用したから等と言われています。しかし額田坦という陸軍軍人は暗殺説を1977年の回顧録で述べたのです。

内容は「東條が服を着替えに奥の部屋に行ったのを逃亡すると勘違いした憲兵が拳銃で撃ったと報告された」というものです。しかしその報告者は忘れたと話しており、あやふやなものでした。

後にロバート・ビュートーや保阪正康等の歴史研究家や評論家は暗殺説を明確に否定しています。これは完全なる創作と考えて良いですね。

東條英機の簡単年表

1884年 – 0歳
東條英機誕生

東條は1884年7月30日に東京府麹町区で生まれます。長男次男は母千歳の乳房にあった鉛毒による影響で生まれて1年以内に亡くなりました。東條は家督を継ぐ長男として大切に育てられます。

1905年 – 21歳
陸軍士官学校を卒業

幹部将校生を育てる為の学校「陸軍幼年学校」に進んだ後、「陸軍士官学校」に進学。360人中10番で卒業した後、近衛歩兵第三聯隊に赴任します。

1912年 – 28歳
陸軍大学校に合格

陸軍のエリートを育てる陸軍大学校を受験するものの不合格。東條は諦めずに勉強を重ねて無事合格します。1915年に陸大を卒業し、陸軍歩兵大尉となりました。

1921年 – 37歳
ドイツに駐在し、バーデンバーデンの密約に参加

その後は陸軍兵器廠と陸軍省副官に任命される等、多忙な日々を送ります。

1921年にドイツに赴任。ドイツのバーデンバーデンで先輩(岡村寧次、永田鉄山、小畑敏四郎)が陸軍改革を約束した会合(バーデンバーデンの密約)に参加し、改革派の中核として頭角を表しました。

1929年 – 45歳
一夕会を結成

板垣征四郎や石原莞爾ら陸軍中堅閣僚と一夕会を結成。陸軍の人事刷新、満蒙問題解決について話し合います。その計画のもとで1931年に満州事変が勃発します。

1935年 – 51歳
相沢事件により永田鉄山死去

青年将校による皇道派と陸大出身の統制派による派閥争いが激化。統制派の中心人物永田鉄山が皇道派の相沢三郎に惨殺されます。皇道派が二・二六事件で没落すると、統制派の東條が陸軍内で勢力を拡大します。

1941年 – 57歳
内閣総理大臣に就任

日中戦争によりアメリカと対立する中、東條は内閣総理大臣に就任。東條は対米開戦派の急先鋒でしたが、昭和天皇から開戦回避をする事を求められると、一転して開戦回避に努めます。

しかし交渉は上手くいかず、日本は太平洋戦争に突入する事になるのです。

1944年 – 60歳
内閣総理大臣を辞任する

開戦後半年程は連戦連勝する日本でしたが、1942年6月のミッドウェーの海戦で大敗します。更にガダルカナルの戦いにも敗北。東條は行政権の強化や、憲兵隊の出動にて反対運動を押さえつけます。

日本の劣勢が顕著になるにつれ、元総理大臣や内大臣による重臣グループによる東条内閣倒閣の動きが加速。1944年7月に東條内閣は総辞職し、東條は表舞台から退きます。

1945年 – 61歳
東京裁判

1945年に戦争が終結し、東條は連合国による逮捕は免れないと覚悟していました。9月11日に拳銃自殺を図るものの、奇跡的に回復します。
その後は東京裁判で自己弁護は行わず、国家弁護と天皇擁護に徹します。

1948年 – 64歳
死刑判決により絞首刑

1948年11月4日に言い渡しが始まり、東條を含む7人が死刑判決が下ります。12月23日に巣鴨拘置所で絞首刑が執行。64歳で生涯を終えました。

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