チャールズイームズとはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や代表作品、名言についても紹介】

チャールズイームズは、20世紀に活躍した建築家・デザイナーであり、ミッドセンチュリー期のインテリアを語るのに欠かせない人物です。

イームズと聞くと、彼の代表作であるスタイリッシュなデザインの椅子が思い浮かぶ方が多いかと思います。中には、イームズは人物の名前ではなく椅子の名前だと思っていた、という方もいるかもしれません。

チャールズイームズの代表作シェルチェア

建築から写真、映像制作まで、チャールズイームズの活動は多岐に渡るものでしたが、やはり特筆すべきなのは彼の家具デザイナーとしての功績でしょう。妻のレイ・イームズと共に、それまでの家具にはなかった芸術的で革新的なデザインを施した数々の名品を作り上げました。

遊び心あるデザインと機能性の両方を追究したイームズ夫妻の家具は人々を魅了し、その人気は瞬く間に世界中に広がりました。そしてその魅力は、60年以上の時を経た今も色あせることはありません。

今回は歴史に残るデザイナーであるチャールズイームズがどんな人物だったのか、その生涯や代表作、知られざる武勇伝や妻レイとの関係についても詳しく解説していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

チャールズイームズとはどんな人物か

名前チャールズ・オーモンド・イームズ Jr
誕生日1907年6月17日
没日1978年8月21日
生地アメリカ ミズーリ州 セントルイス
没地アメリカ ミズーリ州 セントルイス
配偶者レイ・カイザー
埋葬場所セントルイス カルバリー墓地

チャールズイームズの生涯をハイライト

チャールズ・イームズ

まずは、チャールズイームズの生涯について簡単にご説明します。

  • 1907年アメリカのミズーリ州セントルイスで誕生
  • 美術の名門校クランブルックアカデミーで妻レイと出会う
  • レイと共に、デザイン性に優れ低コストで大量生産できる家具をいくつも生み出す
  • 映像制作や展示会プロデュースなど幅広く活動
  • セントルイスへの帰省中に心臓発作で死去

チャールズイームズは1907年、アメリカのミズーリ州、セントルイスにて誕生します。イームズの父は探偵機関の職員でしたが、家計は苦しく、イームズは10歳の頃から外に働きに出ていました。高校生の時に製図事務所で働いたことをきっかけに、建築家を目指すようになります。

18歳になったイームズは、セントルイスにあるワシントン大学に入学します。しかし、大学の教育方針に背き2年半で退学処分となります。大学で知り合った女性と結婚し、友人と建築事務所を設立しますが、世界恐慌による不況により事業は失敗に終わります。

その後、妻子を置いて8カ月間メキシコを放浪したイームズは、帰国後再起をかけて建築事務所を設立。ここで手がけた作品が、ミシガンにある美術学校クランブルックの校長の目にとまり、同校に特別研究員として招待されます。ここクランブルックで、後に再婚する妻レイと出会います。

レイ・イームズ
出典:Wikipedia

妻と離婚したイームズはレイと結婚。クランブルックを辞め、ロサンゼルスに拠点を移します。映画会社の美術スタッフとして働きながら、低コストで大量生産できる成形合板の開発に取り組みます。そして、成形合板の技術を活かした骨折時の足用の添え木「レッグスプリント」を開発し、海軍からの大量受注に成功します。

イームズはその後自身の作品の展示会や参加したコンペで、メディアや有名家具メーカーから注目を集めるようになります。1949年ハーマンミラー社と専属契約を結び、1950年には自身の代名詞とも言える作品「シェルチェア」を発表。その後も数々の名作を生み出し、ミッドセンチュリー期を牽引するデザイナーとなります。

その後イームズの家具デザインはオフィス用に移行していき、また映画製作や展示会のプロデュースなど家具の仕事以外にも手を広げます。

1978年8月21日、故郷セントルイスに帰省中だったイームズは、心臓発作により71歳で亡くなります。

チャールズイームズの代表作

シェルチェアに劣らず人気を誇るラウンジチェア

チャールズイームズの代表作として最も名高いのは、「シェルチェア」と「ラウンジチェア」ではないでしょうか。

「シェルチェア」は1950年に発表され、ガラス繊維で強化したプラスチック(通称FRP)を使いアーム・座面・背もたれを一枚のシートによって一体成型することに成功した、画期的な作品です。

1956年に誕生した「ラウンジチェア」は、その優雅なデザインと全身を包み込むような極上の座り心地で、誰もが憧れる椅子として世代を超え愛され続けています。

チャールズイームズと妻レイとの関係

チャールズ&レイ・イームズ

インテリアの世界で「イームズ」は、チャールズとレイの夫婦2人のことを指します。チャールズイームズにとって妻レイは人生の、そして仕事においても最良のパートナーでした。

クランブルックで出会い、お互いの才能と感性に惹かれあった2人は1941年に結婚。もともと画家志望だったレイの豊かな色彩センスと明快なアイデアは、2人の作品づくりにおいて欠かせないものでした。

チャールズは、何かに迷ったときはいつも真っ先にレイに相談していたといいます。2人は家具製作以外にも、おもちゃや建築、映画の製作など、夫婦でいくつもの作品を手がけました。

チャールズイームズの邸宅

ロサンゼルスのビーチを見下ろす丘の上に建つイームズハウス

イームズ夫妻は、自宅兼アトリエとしてロサンゼルスにイームズハウスを建てています。正式名は「ケーススタディハウスNo.8」といい、1945年に雑誌『アーツ&アーティテクチャー』の企画で夫婦が手掛けた建築です。

この邸宅の特徴は、そのシンプルな構造と低予算設計へのこだわり。アメリカ国内で流通していた既成の工業製品のみで作られており、内部には夫妻が集めた世界中のカラフルな民芸品が散りばめられていました。

家具づくりにおいても、シンプルさと低コスト、そして遊び心を追究し続けたイームズ夫妻ならではの邸宅で、2人が亡くなった今でも多くの人が見物に訪れています。

チャールズイームズの功績

功績1「ミッドセンチュリー・モダンを世に広める」

自由なカラーや曲線がかったフォルムが特徴のミッドセンチュリー・モダンのインテリア

チャールズイームズの功績として最も大きいのが、モダン・デザイン家具を世間一般に浸透させ、インテリア業界に新たな潮流を生み出したことです。

イームズが作り出した家具は、美しいシルエットと鮮やかな配色、シンプルな設計でありながらも、そのディテールへのこだわりから人の手によるあたたかみが感じられるのが特徴です。

ミッドセンチュリー期のイン定リアを牽引したイームズの作品は、戦後の人々の暮らしを彩り、60年以上経った今でも多くの人を魅了し続けています。

功績2「新しい素材を用いた家具の開発に尽力」

イームズが手がけたワイヤーメッシュチェア

軽量かつ強度があり、ローコストで大量生産が叶う家具の開発を目指していたチャールズイームズは、木材や金属、プラスチック、ワイヤーなど、あらゆる素材にその可能性を見出しました。

最新技術で成型された積層合板を使用した初期のプライウッドチェアや、ガラス繊維で強化されたプラスチックFRPを用いたシェルチェアは、素材の持つ強度とシンプルで軽やかなデザインが好まれ、家庭や公共のシーンで広く取り入れらました。

功績3「展示会デザインや映像制作などマルチに活躍 」

ハリウッドで撮影するチャールズイームズ

チャールズイームズの活躍は、家具の製作だけに留まりませんでした。イームズは妻のレイと共に、映画の制作や写真、展示会のプロデュースなど、亡くなる前年までそのエネルギーを創作活動に注ぎ続けます。

映像制作においては、その作品数はなんと100本以上。特に1968年に制作された映画『Powers of Ten』はショートフィルムの最高傑作との呼び声が高く、教育現場でも使用されるなど高い評価を得ています。

チャールズイームズの名言

結局、ひとでもアイデアでも物でも…あらゆるものにはつながりがある。どのように結びついているかによって、その価値が決まる

チャールズイームズは家具からおもちゃ、建築、写真、展覧会まで、すべてが結びついていると考えていました。

また、自身の創作活動における妻や仲間の協力、思考錯誤を重ねることで得られる新たなアイデアなど、たくさんのことがつながって生み出されるものの価値を実感してきたイームズの想いが、この言葉に現れています。

(妻レイについて)彼女の方が何でも上手だ

チャールズイームズは、画家志望だった妻レイの才能や感性を信頼し、敬愛していました。椅子の色を決めるのは、いつもレイの役目であったといいます。

才能の塊だったチャールズにこう言わせるほど、レイはセンスと才能に満ちた女性だったのでしょう。

チャールズイームズにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「大学に入るも方針に従わず退学処分に」

チャールズイームズが傾倒した建築家フランク・ロイド・ライト

チャールズイームズは奨学金を得てセントルイスのワシントン大学建築学科へ入学します。勉強熱心で優秀な学生だったイームズでしたが、研究課題として取り上げた近代建築家フランク・ロイド・ライトにのめり込みます。

ライトに関する授業の開講を求めるほど熱中したイームズを、過度なモダニズム思考は学校の方針に合わないとし、大学は退学処分としてしまいました。

都市伝説・武勇伝2「メキシコで投獄されたことも」

チャールズイームズがメキシコで描いた水彩画

世界恐慌により設計事務所の経営が立ちいかなくなったチャールズイームズは、メキシコへ放浪の旅に出かけます。ところが、なんと現地で投獄されてしまいました。

理由は、彼が持っていたメキシコの建築に関する本に、母国について悪い見解が書かれていると現地の役人に判断されたためだったといいます。チャールズはスペイン語が話せなかったため抵抗できず、留置所に入れられてしまったのだそうです。

都市伝説・武勇伝3「イームズの才能を有名企業が取り合い」

イームズを引き抜いたハーマンミラー社のデザイナー、ジョージ・ネルソン

チャールズイームズの家具が世界に大きく飛躍するきっかけとなったのは、1946年にMoMAにて開催された自身の作品の展示会でした。展示会の高評価をきっかけに、ノル社やハーマンミラー社といった家具の大手メーカーがこぞってチャールズイームズの獲得に動きます。

最終的には、ハーマンミラー社がイームズを専属デザイナーとして採用することに成功し、現在でもイームズ家具の販売権限は同社が保持しています。

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