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板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】

2018年に生誕180年を迎えた政治家、板垣退助。彼は、幕末の時期に生まれ、明治維新を経て、明治政府の役人に抜擢されました。しかし、征韓論により政府を辞職。そして、海外との不平等条約をなどを変えるために、政府の藩閥政治を止め、国民から議員を選ぶような改革運動を起こしました。これが、「自由民権運動」です。

現在、日本に国会があるのは板垣退助達のおかげであると言っても過言ではありません。彼らのおかげで、日本の政治が民主主義に大きく方向転換されました。こういった庶民の味方をしていたために、庶民からの人気は高く、50銭紙幣、100円紙幣と2度もお札の肖像画に選ばれました。

板垣退助

ですが、彼は元々、土佐藩の上士の出身です。江戸時代、土佐藩は藩の中でも身分の上下関係がとにかく厳しく、板垣らの上士と坂本龍馬らの郷士は会話することはおろか、道端で出くわしたら、郷士は必ず頭を下げなければならなかったと言います。

そのような立場でありながら、板垣は下士や郷士達にとても寛容でありました。実は、ある事件がきっかけで庶民たちと交流を深める機会があったのです。このことがきっかけで、後に、自由民権運動へと発展していく原動力となりました。

今回は、大学の研究で板垣退助についての発表を行った筆者が、板垣退助の生涯と功績についてご紹介いたします。気になった方は、ぜひ、参考にしてください。

板垣退助とはどんな人物か

名前板垣退助
没日1919年7月16日
生地日本 土佐国高知城下中島町 (現・高知県高知市)
没地日本 東京府東京市
配偶者林益之丞政護妹(正妻)
中山弥平治秀雅次女(継妻)
板垣鈴(継妻)
板垣絹子(継妻)
板垣清子(継妻)
埋葬場所東京都品川区北品川3-7-15(品川神社社殿裏)

板垣退助の生涯をハイライト

板垣退助

板垣退助の生涯をダイジェストに纏めると、このようになります。

  • 1837年5月21日土佐国高知城下中島町の上士の家で誕生
  • 1867年に薩土密約を結ぶ
  • 1868年に戊辰戦争へ参加
  • 1873年、明六年の政変で下野
  • 1878年に「民撰議院設立の建白書」を提出
  • 愛国社、愛国公党、自由党などを立ち上げる
  • 1882年、岐阜県で演説中に暴漢に襲われる
  • 1898年、日本初の政党内閣に入閣するも、4か月で解散
  • 1919年に肺炎のため逝去

板垣退助の家族構成、子孫は?

板垣退助の先祖が仕えた武田家家紋・武田菱

板垣退助が出生した乾家は、先祖に武田信玄の宿将でもあり武田四天王の1人として恐れられた武将・板垣信方がおります。その孫にあたる乾家の当主・乾正成です。この正成の父・板垣信憲が自身の失態により、改易され板垣姓も取り上げられたために、乾姓を名乗るようになったと言われております。

板垣退助像除幕式にて

板垣には権妻含め5人の妻がおり、子供も5人の男子と5人の女子、合わせて10人の子供達がおりました。中でも、長男である鉾太郎は高知県に私立学校である泰平小学校を設立し、高知県内の教育に心血を注ぎました。また、退助の玄孫にあたる高岡功太郎さんは現在「一般社団法人板垣退助先生顕彰会」の理事長を務めていらっしゃいます。

板垣退助の性格は?

板垣退助の50銭札

板垣について、薩摩藩士である有馬藤太はこのように述べております。「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」。

元々、板垣は江戸へ兵法などを学んでいたので、本来は軍人向きの性格だったことが伺えます。ですが、その反面、学問がないことを谷干城や初代・伊藤痴遊は指摘しており、その演説は聞くに堪えるものではなかったという側面も見られます。

板垣退助と坂本龍馬にはつながりはあった?

板垣は、幕末の風雲児こと坂本龍馬と同じ土佐藩出身です。ですが、生前、板垣と龍馬の間には直接の交流はなかったそうです。ですが、龍馬の脱藩の罪を免除するべく勝麟太郎と対面したり、大政奉還の原動力となった後藤象二郎と交流があったりと、龍馬の周辺人物とは大変関わりが深い関係にありました。

また、龍馬が暗殺された後、板垣はこのような言葉を述べております。「豪放磊落、到底吏人べからず、龍馬もし不惑の寿得たらんには薩摩の五代、土佐の岩崎たるべけん」豪快な性格は、役人ではなく

五代友厚や岩崎弥太郎のように商人になっていたかもしれない、と述べています。板垣にとって、龍馬は尊敬すべき人だったことがうかがえます。

板垣退助の功績

功績1「自由民権運動の主導者として政治改革を積極的に行う」

ビゴーの風刺画

板垣は明六年の政変後、明治政府を去り、薩長の藩閥政治ではなく、国民が選んだ人選によって政治を行うべきという民主主義的な政治を執り行うべきである、という考えを後藤象二郎や副島種臣など共に政府へ提案します。これが、「民撰議院設立の建白書」です。

この民撰議院設立の建白書提出以降、国民の間にも、国民がもっと政治に参加できるべきであるという考えが広まりました。これが、「自由民権運動」です。板垣は、自由民権運動の主導者として先頭に立ち、日本の民主主義に大きく貢献しました。

功績2「日本初の政党内閣を結成」

明治維新後、帝国議会は主に薩長出身の役人によって政治が執り行われてきました。これを藩閥政治と呼びます。明六年の政変以降、大久保利通、伊藤博文らの発言力が増し、内閣だけではなく、軍部・警察、さらには財界にまでその派閥を形成していきました。

板垣は、自由民権運動により、藩閥ではなく国民から広く議員を集うことを主張し続けました。そして、1898年に板垣率いる自由党と大隈重信率いる進歩党が合流した憲政党による初の政党内閣が誕生しました。大隈が総理を務め、板垣は内務大臣を務めました。

功績3「国会議事堂内に銅像が建立される」

国会議事堂内の板垣退助像

国会議事堂内の中央広間には銅像が3体置かれており、そのうちの1人が板垣退助です。この銅像は、議会政治の基礎を築いた功労を称えたもので、板垣の自由民権運動や政党内閣を成立させるための日本初の政党・自由党を発足させたことなどが選ばれた理由として挙げられます。

国会議事堂内の中央広間銅像

また、残りの二人は、板垣と共に政党内閣を発足させ、その後、立憲改進党として議会政治の確立を目指した大隈重信、日本初の内閣総理大臣である伊藤博文です。また、一つだけ銅像が存在せず台座のみが置かれている場所があります。これは、4人目の人選が出来なかったという説と「政治に完成はない」という象徴のために作られた、という説があります。

板垣退助の名言

板垣死すとも自由は死せず

板垣退助と自由民権運動を象徴する名言。ですが、この名言については諸説あり、最近の研究では実際に板垣はこの言葉を発言していなかったという説も出ております。

私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺してもかまわぬ

上述の暴漢事件後、板垣は犯人である相原尚褧の助命嘆願書を送り、相原は極刑を免れました。そして、保釈後に謝罪に来た相原に、板垣は上述の言葉をかけました。もう一度刺されてもかまわない、という強い覚悟で国家を変えようとする気持ちが伺える逸話です。

自由とは天地自然の普遍的な原理であり、人は自由によって生まれ、国はそれによって存立するものである。自由がなければ、人は人生を完遂することはできず、国は国家を維持することができないものである。

板垣退助が描いていた自由という意味を表した言葉。自由というのは人が生まれ持った権利であり、その権利があるからこそ国家が成り立っています。国を作るうえで、人々を政治などで縛り付けるのは本当の国家とは呼べないのかもしれません。

板垣退助にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「あの名言は実は言ってなかった」

岐阜事件

1882年4月、板垣は岐阜の演説を終えた直後に「将来の賊」と叫びながら、相原尚褧が板垣を暗殺しようと短刀を左胸へ突き刺しました。これが岐阜事件です。その後、相原は取り押さえられ、板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と言い放ったという逸話が残っております。

ですが、板垣本人はあまりの事に唖然とし、言葉が出なかったと述べております。また、当時、この岐阜事件を報じた新聞の中に、相原を取り押さえた内藤魯一という人物がが叫んだという説や、板垣は言葉を発したが土佐弁で医者を呼んでくれという言葉だった、と複数の説が存在し、中には新聞社が大げさに報じたという説もあります。

都市伝説・武勇伝2「日本最古のルイ・ヴィトンの持ち主」

日本最古のルイ・ヴィトン

フランスに本社がある高級ブランド会社「ルイ・ヴィトン」。日本では古くから親しまれていたブランドであり、現在でも財布やハンドバッグなど、目にする機会も多いでしょう。その、ルイ・ヴィトンの製品を日本人で初めて購入した人物が、板垣退助です。

時は1883年、フランスへ立憲政治視察のために後藤象二郎と共にパリを訪れておりました。板垣は、この年の1月9日にヴィトンのトランクを購入したことが帳簿に記載されているのが発見され、日本初のヴィトンの購入者として認定されました。現在、このトランクは高知市立自由民権記念館に保管されております。

都市伝説・武勇伝3「三菱のマークを決めたのは板垣退助?」

三菱マーク

明治以降、日本の経済界において多大な影響を与えた財閥の一つである「三菱」。この、三菱の創始者である岩崎弥太郎は、土佐藩の出身であり上士や郷士よりもさらに低い、地下浪人という身分でした。

ですが、藩の役人に取り立てられ、持ち前の商才を発揮し、三菱の基になった「郵便汽船三菱会社」を設立します。

岩崎弥太郎

板垣は、岩崎とも面識があり、明治3年の10月17日の岩崎の日誌に板垣と共に三菱の商標登録について語り合ったという記述が残っており、その際に、現在の三菱のマークについて決めたという逸話が残っております。現在の三菱があるのは、板垣退助の功績の一つともいえるのかもしれません。

板垣退助の簡単年表

1837年 - 0歳
高知城下中島街にて誕生
1837年5月21日、土佐国高知城下中島町の上士・乾正成の嫡男として誕生しました。現在、この場所には石碑が建立されております。
1856年 - 20歳
吉田東洋と出会い、抜擢される
幼少期から悪童と呼ばれた退助は、ある喧嘩がきっかけで惣領職褫奪と四ヵ村の禁足、蟄居を罰せられました。この時、藩の重役であった吉田東洋に見出され、土佐藩の役人に抜擢されました。
1860年 - 26歳
山内容堂の側用人として仕える
江戸へ出向したのちに、藩主である山内容堂の側用人として仕え、藩主の御前にて同じく側用人の寺村道成と時勢についての対論において、尊王攘夷論を唱えたという逸話が残っております。
1863年 - 27歳
中岡慎太郎と知り合う
八月十八日の政変後、退助の元へ中岡慎太郎がやって来たという記述が残されております。退助は、中岡が自分を暗殺に来た事を悟り、逆に説得し、この件がきっかけで中岡と親睦を深めていくことになりました。
1865年 - 29歳
江戸へ修行しに出る
この年、江戸へ兵法修行のために出向し、オランダ式騎兵術などを習いました。また、幕臣や他藩の武士などと情報交換などもしておりました。
1866年 - 30歳
薩長同盟が成立
退助が江戸に滞留している頃、京都では龍馬の仲介の元、倒幕のために薩摩藩と長州藩が手を結びました。
1867年 - 31歳
薩土討幕の密約を結ぶ
退助は、薩長同盟が組まれたことを聞き、山内容堂へと差も加わるように進言するも聞き入れられませんでした。その後、中岡の仲介により退助は西郷らと共に薩摩と土佐の間に倒幕の密約を結びました。
1868年 - 32歳
戊辰戦争に総督府参謀として参加
戊辰戦争へ参加し、退助は東山道先鋒総督府の参謀として参戦しました。主な功績としては、甲州勝沼の戦いで旧新選組を撃破するなどの戦績を挙げました。
1869年 - 33歳
新政府の参与に就任
明治政府樹立の際、参議として薩長土肥の4藩から参議を選抜することになり、板垣は土佐出身者として、新政府の参与に抜擢されました。
1873年 - 36歳
征韓論を唱え、明治政府を辞職
岩倉具視らが欧米視察してる間、朝鮮国の度重なる無礼に対し、世論が集中し、板垣や西郷らは武力で朝鮮を従属させようとする論調が強まりました。これが征韓論です。しかし、帰国した岩倉らの穏健派によってこの案は否決され、西郷らと共に板垣は政府を辞職し、下野しました。
1874年 - 37歳
「民撰議院設立の建白書」を提出
下野後、板垣は江藤新平、後藤象二郎らとともに政治団体「愛国公党」を結成し、五か条のご誓文の一つ「万機公論に決すべし」を根拠とする「民撰議院設立の建白書」を左院に提出するも、却下されてしまいました。
1875年 - 38歳
大阪会議にて政府に復職するも辞職
板垣は、大久保利通、木戸孝允と共に今後の議会についてと参議就任についての会議である「大阪会議」へ出席しました。この会議により、板垣は参議へ復職するも、江華島事件を背景に、板垣はまた辞職することになります。
1881年 - 44歳
自由党を結党し、党首となる
この年に「10年以内の議会開設を目指す」という「国会開設の詔」が発布され、これを受けて板垣らは後藤象二郎、中島信行らと共に日本初の近代政党「自由党」を結党しました。
1882年 - 45歳
演説中に暴漢に襲われる
板垣は、岐阜での演説後、相原尚褧に短刀で襲われるという事件が発生しました。これが「岐阜事件」です。この時に板垣は「板垣死すとも自由は死せず」と発言したことが話題になり、板垣の名が広く知れ渡ることになります。
1884年 - 47歳
加波山事件が発生し、自由党を解党
自由民権運動が盛んの中、各地で若き民権家による激化事件が発生します。そのうちの一つが、加波山事件です。この事件に関与した疑いで、自由党幹部の内藤魯一が逮捕され、自由党は一旦解党されてしまいます。
1887年 - 50歳
「一代華族論」を主張
1884年に華族を細かく区分する「華族令」が発布され、この世襲の華族制について、板垣は批判的な位置を取りました。板垣は「一代華族論」を主張し、のちに伯爵の爵位を授爵するも、没後その爵位は長男へ受け継がれませんでした。
1890年 - 53歳
国会開設に向け、愛国公党を結成
大同団結運動分裂後、帝国議会開設に向けた動きとして、板垣は旧自由党土佐派であった林有造らと共に、再び愛国公党を結党しました。
1893年 - 56歳
自由党が再結成される
愛国公党を始め、自由党、大同倶楽部、九州同志会、ら4団体が合流し、「立憲自由党」が結党され、政党内閣組閣を目指しました。
1898年 - 61歳
日本初の政党内閣を組閣し、内務大臣に入閣
第二次伊藤内閣や松方内閣で内務大臣に入閣後、1898年に自由党と対立関係になった大隈重信の進歩党と共に合流し、憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣を組閣、板垣は内務大臣として入閣し、「隈板内閣」と呼ばれました。
1900年 - 63歳
立憲政友会を結成し、政治家を引退
大隈内閣解散後、板垣は伊藤博文が立ち上げた「政友会」へ参加し、旧憲政党の党員を含めた「立憲政友会」を結成しました。板垣は後進に道を譲るという事で、政治家を引退しました。
1904年 - 67歳
機関紙「友愛」を発行
政治家勇退後、板垣は社会事業に携わることになり、現在も慈善事業などを行っている機関紙「友愛」を発刊するなどの活動を行いました。
1919年 - 83歳
肺炎のため逝去
1919年7月16日に肺炎のため、都内の自宅にて逝去しました。

板垣退助の年表

1837年 – 0歳「高知城下中島町にて誕生」

板垣退助生誕の地

上士の元で誕生

1837年5月21日、土佐藩高知城下中島町の上士・乾正成の嫡男として誕生しました。幼名は「猪之助」という名前で、由来として先祖である乾和三が初代藩主である山内一豊から「猪助」という名前をもらったという話にあやかり、「猪之助」という名前にしたという逸話が残っております。

乾家は土佐藩では上士にあたり、藩内での身分は上におりました。ですが、退助は後の蟄居がきっかけで下士に対しても寛大になります。また、近所には後藤象二郎が滞在し、2人は竹馬の友と言うべき親友となり、幕末の動乱などを経て、自由民権運動で行動を共にすることになります。

後藤象二郎

喧嘩に明け暮れた幼少期

退助の幼少期は、腕白小僧として知られ、近所では餓鬼大将としてその名が知られていました。退助は、後年、幼少期を振り返り、「母が予を戒めて云ふに喧嘩しても弱い者を苛めてはならぬ、喧嘩に負けて帰れば母叱って直ぐに門に入れない。」と述懐しております。

退助が20歳の時、喧嘩により「惣領職褫奪、四ヵ村の禁足」が命じられます。惣領職褫奪とは、家督を継ぐ権利をはく奪されること、禁足は外出禁止、という事です。退助は神田村に4年間ほど蟄居生活を送ることになります。この時に、庶民と交わり、下士への想いが寛大になり、のちに自由民権運動への目覚めのきっかけとなりました。

1860年 – 26歳「山内容堂の側用人として仕える」

吉田東洋・山内容堂との出会い

蟄居中、退助は土佐藩の家老であった吉田東洋と出会います。当時、東洋は私塾を開いており、そこには岩崎弥太郎や後藤象二郎などが通っており、退助は私塾の門下生にはなりませんでしたが、東洋の影響を受け、勉学に励むようになりました。

蟄居後、退助は土佐藩の役人となり、文久元年には江戸留守居役に任ぜられ、江戸へ出向しました。その翌年、江戸の土佐藩邸に幽居されていた前藩主の山内容堂の側用人として仕えることになります。また、この年に土佐勤皇党の変が起こり、吉田東洋が暗殺されてしまいます。

勝海舟

江戸へ出向し勝麟太郎らと対面

江戸へ出向後、退助は土佐勤皇党である間崎哲馬や尊王攘夷派の人物と交わったことで、退助自身も尊王攘夷の思想へと傾倒するようになります。そして、容堂の御前にて同じく側用人の寺村道成と時勢についての対論において、尊王攘夷論を唱えたという逸話が残ってます。

その後、江戸の薩摩藩邸にて大久保一蔵(後の大久保利通)と出会い、その数日後には容堂の本陣にて勝麟太郎と対面しております。この時、勝と共に坂本龍馬の脱藩について赦すことを協議し、龍馬の脱藩の罪は無罪という事になりました。

1867年 – 30歳「薩土密約を結ぶ」

薩長同盟結成の地

薩長同盟と板垣退助

江戸から土佐へ帰国し、退助は容堂へ藩の人事について旧吉田派の人物を使うと、尊王攘夷派と佐幕派の役人たちと衝突が起きると進言し、旧吉田派は使わないようにと願い出ました。しかし、退助の意見は聞き入れられず、退助自身が罷免されるという出来事がありました。

その後、退助を暗殺しに来た中岡慎太郎を説得し仲良くなり、互いに討幕を志す同志となりました。そして、退助は江戸へ兵学修行へと出向し、オランダ式騎兵術などを学びました。その頃、龍馬や中岡たちは京都にて、西郷隆盛と木戸孝允の仲介を行い、薩長同盟を成立させておりました。

西郷隆盛

薩土密約を結ぶ

このような流れの中で、土佐藩は公議政体論の考えを持つ人が多くいました。ですが、退助は尊王攘夷を唱えておりました。1867年の2月には江戸の土佐藩邸に水戸浪士を独断で匿い、討幕を図ろうとしました。これが、「水戸浪士隠匿事件」です。

さらに、その年の5月には中岡の仲介により、京都へ上洛し薩摩藩士・小松帯刀の邸宅にて、谷干城らと共に西郷隆盛と対面。武力討伐の際には土佐藩も協力するという旨を語り、薩土密約を結びました。この時に、匿っていた水戸浪士を薩摩藩へ引き渡し、のちに「江戸薩摩藩邸焼き討ち事件」へと発展します。

1868年 – 31歳「戊辰戦争に参加」

戊辰戦争

乾性から板垣性へ名を改める

1867年、薩土密約締結後、退助は容堂へ時勢が武力討伐へと傾いていることを進言し、土佐藩邸に水戸浪士を匿っていることを報告しました。その後、密約に基づきアルミニー銃を購入し、藩の武装を整えました。そして、薩長芸に伏見の警備の勅命が下ると退助は密約を基に、この警備につきました。

後に、鳥羽伏見の戦いが開戦し、土佐藩の一部の人間が藩命を待たずにこの戦いに参戦し、退助は迅衝隊を率いてこの戦いに参戦しました。この時期に、それまでの乾という姓から、岩倉具視などの進言により甲州の民衆からの支持を得るため、板垣姓へ名を改めることになりました。

甲州勝沼の戦い

戊辰戦争での活躍

板垣は土佐勤皇党の隊士などで結成された迅衝隊の総督として、東山道先鋒総督府の参謀として戊辰戦争へ参戦しました。甲府城へ入城した時には「武田家の家臣が甲州へ帰ってきた」と地元住民から歓迎され、その勢いのまま、近藤勇らの旧新選組などの甲陽鎮撫隊を打ち破るなど甲州勝沼の戦いにおいて勝利を収めました。

日光の板垣退助像

また、板垣は旧幕臣の1人である大鳥圭介との戦いにおいて、日光東照宮を戦火から守るため、東照宮に立てこもった伝習隊へ無血開城を迫り、説得に成功しました。このことから、日光市の金谷ホテル前には板垣退助を称える銅像が建立されております。

1873年 – 36歳「征韓論を唱え、明治政府を辞職」

戊辰戦役凱旋記念写真(前列中央・板垣退助)

明治政府に参加

戊辰戦争勝利後、板垣は高知藩にて大参事へ就任します。そして、四民平等の制にならい、藩内に「人民平均の理」を発布します。この法令は無礼討ちなどこれまで士族の特権であったものを廃止し、平民でも乗馬をすることが可能になる、など差別待遇を撤廃することに務めた内容となっております。

参議時代の板垣退助

1871年には西郷、大久保、木戸らと共に協議し、それまでの藩という制度を廃止し、地方統治を中央菅下において府と県に一元化した「廃藩置県」を全国に制定しました。そして、西郷、木戸、大隈重信と共に参与として任ぜられました。

征韓論

征韓論と明治六年政変

1873年、朝鮮へ全権公使の副島種臣を派遣した際、朝鮮側は日本の皇室を侮蔑する発言をし国書を受け取らなかったという「書契事件」が発生し、このことが国内で大々的に報じられると、西郷や板垣らは武力で朝鮮に報復しようと「征韓論」を主張しました。

しかし、欧米視察から帰ってきた岩倉や大久保らの反対に遭い、征韓論の閣議決定は否決されました。この決定に西郷らは異議を唱え、西郷、板垣、江藤新平、後藤象二郎ら数名の参議が辞職し、これに続き600名の官僚も辞職し、その多くが地元へ下野しました。これが、「明六年の政変」です。

1874年 – 37歳「政治団体「愛国公党」「立志社」を結成」

民撰議院設立建白書

明治政府へ「民選議院設立の建白書」を提出

下野した板垣は、イギリスから帰国した古沢滋や小室信夫などから意見を聞き、イギリスの政治システムに倣い政党を結成しようと画策しました。その一環として、結成されたのが「愛国公党」です。愛国公党は、板垣のほか、副島種臣らと共に結成した政治団体です。

愛国公党を結成後、明治政府成立の際に発布された「五か条のご誓文」のうちの一つである「万機公論に決すべし」という理念に基づき、板垣ほか副島、江藤、後藤、由利公正らの署名と共に平民などの国民から広く議員を集う「民撰議院設立の建白書」を左院へ提出します。しかし、この建白書は却下されました。

大阪会議

大阪会議への参加

建白書提出後、板垣は高知へ帰郷し、江藤が佐賀の乱に参加したことから愛国公党は自然消滅しました。その後、板垣は地元の高知で片岡健吉、植木枝盛らと共に政治団体「立志社」を結成しました。立志社は、生まれながらに人は平等であるという「天賦人権」を掲げ、人民主権などを織り込んだ独自の憲法案を草案しました。

1875年、明治政府への不満から士族の反乱などが頻発するようになり、自由民権運動の始動など混迷を極めておりました。政府の中心人物であった大久保は、台湾出兵を巡り辞職した木戸と板垣と連携するために、大阪会議を開き、板垣と木戸は共に参議として復職します。しかし、板垣は議会制政治を目指すために、ほどなくして辞職しました。

1882年 – 45歳「演説中に暴漢に襲われる」

岐阜事件

自由党を結成

1881年に黒田清隆らの「開拓使官有物払下げ事件」が世に取り沙汰されたことをきっかけに、大隈重信はこれを強く批判、結果的に政府から大隈は追放されることになりました。これを「明治十四年の政変」と言います。この事件がきっかけで民権運動はさらに熱を増し、政府は「10年以内の議会開設を目指す」という「国会開設の詔」が表明されました。

この表明を受け、板垣は国会期成同盟を基盤とする政党「自由党」を結成し、板垣は自由党の党首になりました。この翌年の1882年には、下野した大隈重信を中心に、尾崎行雄、小野梓、犬養毅らが参加した政党、「立憲改進党」が誕生しました。

「板垣死すとも、自由は死せず」

自由党結成後、自由民権運動の先鋒として各地に運動を広げておりました。しかし、政府による言論弾圧など、度重なる妨害工作に苦戦しておりました。そのうちの一つが、「集会条例」の布告です。この条例は、政治に関する演説や集会などを取り締まるための法令で、自由党や改進党などが主な対象として各地で取り締まられておりました。

1882年4月、岐阜での演説終了後、相原尚褧が板垣を暗殺しようと短刀を左胸へ突き刺すという事件が発生しました。この事件にて、「板垣死すとも自由は死せず」という発言をしたことが大々的に報じられ、板垣の名が全国的に広まるきっかけとなりました。

1893年 – 56歳「自由党を再結成」

加波山事件の墓

加波山事件にて、自由党を解党

1882年、板垣は視察として後藤象二郎と共に欧米へ視察へと出かけました。しかし、このことについて党内から批判が噴出し、馬場辰猪、末広重恭などが離党してしまいました。また、板垣の外遊中、自由党員や農民を弾圧するという「福島事件」、「高田事件」などが続けざまに発生しました。

その後、板垣は自由党の立て直しを図るため、資金を集めようと画策するもこれに失敗。そして、1884年の9月には数名の自由党員が、福島事件の当事者である県令三島通庸の暗殺未遂を起こしたとして逮捕され、これが引き金となり、止む無く自由党は解党されることになりました。

第一回衆議院議員総選挙の風刺画

国会開設に向け、愛国公党、自由党を再結成

その後、運動家たちによる自由民権運動は後藤象二郎を中心とした「大同団結運動」が結成され、政府へ議会政治の開設、不平等条約の改正、地租・財政問題の解決などを要求しました。しかし、政府は新たに保安条例を発令し、民権運動家たちを取り締まりました。

この大同団結運動分裂後、板垣は新たに愛国公党を結成し、来るべき議会開設へと動き出します。その後、自由党、大同倶楽部、九州同志会、ら4団体が合流し、「立憲自由党」が結党され、第1回衆議院議員総選挙にて過半数の130議席を獲得するなど健闘しました。

1898年 – 61歳「日本初の政党内閣を組閣」

第二次伊藤内閣へ参加

板垣率いる立憲自由党は、自由党へと名称を変え、大隈の改進党と共に政府へ批判的な立場をとっておりました。しかし、第2回衆議院議員総選挙において第一次松方内閣は選挙干渉を行い、自由党の幹部らが多数落選するという結果になり、議席数を94席と減少してしまいました。

この結果、自由党は政府との妥協路線をとることになり、伊藤内閣と共に条約改正などの路線を共に歩むことになりました。その協調を証明するために、板垣は伊藤内閣において内務大臣として初入閣を果たしました。

大隈重信像と板垣退助像

大隈重信と共に「隈板内閣」を組閣

第二次松方内閣が総辞職し、第三次伊藤内閣が衆議院解散を宣言し、第4回衆議院議員総選挙からわずか3か月後に第5回衆議院議員選挙が開かれることになりました。板垣率いる自由党は、大隈率いる改進党と合流し、新たに「憲政党」という新党を立ち上げました。

憲政党は二つの党を合わせた209議席を獲得し、与党となりました。そして、1898年の6月に第一次大隈重信内閣が成立し、日本初の政党内閣が組閣されることとなりました。板垣は、内務大臣となり、大隈は総理と外務大臣を兼任することになりました。また、この内閣は2人の名前から「隈板内閣」と名付けられました。

1900年 – 64歳「立憲政友会を創立後、政界引退」

隈板内閣の終焉

政党内閣として組閣された大隈内閣ですが、周囲からは不安の声が上がり、明治天皇からは「本当に大丈夫か」と念押しされるほどの評判だったそうです。組閣後、旧自由党と旧改進党同士の軋轢が激しく、組閣人事の多くが旧改進党出身者だったことに旧自由党員は不満を持っていたそうです。

その後、1898年8月に文部大臣の尾崎行雄が行った「共和演説事件」について、旧自由党の星亨が尾崎を激しく糾弾。この事件により、改進党と自由党は断絶状態になり、尾崎は文部大臣を辞任。後継に大隈の独断で犬養毅を抜擢したことが決定的となり、自由党は憲政党を一方的に解党し、大隈内閣は僅か4か月ほどで崩壊しました。

立憲政友会本部

立憲政友会の創立

1900年に伊藤博文は超然主義の崩壊と政党政治の必要性という観点から、新党「政友会」を組織しました。この政友会には、旧自由党が組織した憲政党や帝国党などの関係者が集い、星亨、尾崎行雄、西園寺公望、原敬などが集まり組織されました。

板垣も、この組織の結成について尽力しますが、自身は後進に道を譲るとして、政治家を勇退することになりました。立憲政友会はその後、第四次伊藤内閣の組閣、桂園時代、原敬内閣の成立など、長きにわたって政治の中心として活躍する政党となりました。

1919年 – 82歳「肺炎のため逝去」

板垣退助の墓

晩年と逝去

政治家としての勇退後、板垣は社会事業などに取り組み、その一環として機関紙「友愛」の発刊に勤めました。また、大正に入ってからは日本統治下におかれていた台湾を訪れ、日本と台湾の友好関係を築くための団体「台湾同化会」の設立などにも携わりました。

その後、1919年7月16日に肺炎のため東京の自宅にて逝去いたしました。享年83歳。没後、板垣は従一位に叙せられ旭日桐花大綬章を受章することになりました。

板垣退助の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

板垣退助―孤雲去りて

直木賞作家・三好徹さんの板垣退助が主人公の歴史小説。上下巻に分けて発刊され、上巻は戊辰戦争での活躍、下巻は明治以降の活躍を描いた内容となっております。板垣の生き様について、少しは分かるかもしれません。

自由は死せず

2018年に「銀河鉄道の父」で直木賞を受賞した門井慶喜さんが描いた長編歴史小説。札付きの悪童として名を馳せた板垣退助が幕末を経て、自由民権運動家として駆け抜けた生涯について書いた物語。明治維新の動きなどについても描かれているので、おすすめの作品です。

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 13 近代国家への道 明治時代後期

角川の学習漫画シリーズ「日本の歴史」の明治時代後期。自由民権運動から日露戦争までについて描いた作品となっています。このあたりの議会成立までの動きは複雑なので、板垣を知るついでに歴史の流れを整理したいという方には、漫画で知ることをおすすめします。

おすすめドラマ

西郷どん

大河ドラマ第57作目、鈴木亮平さん主演の作品で、西郷隆盛の生涯について描いた物語。板垣退助は明治時代以降に登場しますが、西郷と共に行動する事が多い役柄となっております。

関連外部リンク

板垣退助についてのまとめ

近年、選挙の投票率の低下などが社会問題となっております。板垣などが活躍した時代には、選挙権は直接国税15円以上を納税した25歳以上の男性という僅かな人にしか与えられませんでした。こうした不平等な状態を正すべく、板垣をはじめとする自由民権運動家たちは政府と戦い続けたのです。

その中で、多くの人たちが政府からの弾圧に遭い、厳しい罰を受けたという記録もあります。そのような涙ぐましい努力の末に、現在の選挙権や民主主義が政治が成り立っているのだなと改めて感じました。個人的には、板垣退助を主人公にした大河ドラマなども見てみたいです。

今回の記事をきっかけに、板垣退助という人物に興味を持っていただければ幸いです。

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