板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】

2018年に生誕180年を迎えた政治家、板垣退助。彼は、幕末の時期に生まれ、明治維新を経て、明治政府の役人に抜擢されました。

しかし、征韓論により政府を辞職。そして、海外との不平等条約をなどを変えるために、政府の藩閥政治を止め、国民から議員を選ぶような改革運動を起こしました。これが、「自由民権運動」です。

板垣退助

現在、日本に国会があるのは板垣退助達のおかげであると言っても過言ではありません。彼らのおかげで、日本の政治が民主主義に大きく方向転換されました。こういった庶民の味方をしていたために、庶民からの人気は高く、50銭紙幣、100円紙幣と2度もお札の肖像画に選ばれました。

ですが、彼は元々、土佐藩の上士の出身です。江戸時代、土佐藩は藩の中でも身分の上下関係がとにかく厳しく、板垣らの上士と坂本龍馬らの郷士は会話することはおろか、道端で出くわしたら、郷士は必ず頭を下げなければならなかったと言います。

そのような立場でありながら、板垣は下士や郷士達にとても寛容でありました。実は、ある事件がきっかけで庶民たちと交流を深める機会があったのです。このことがきっかけで、後に、自由民権運動へと発展していく原動力となりました。

今回は、大学の研究で板垣退助についての発表を行った筆者が、板垣退助の生涯と功績についてご紹介いたします。気になった方は、ぜひ、参考にしてください。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

板垣退助とはどんな人物か

名前板垣退助
没日1919年7月16日
生地日本 土佐国高知城下中島町 (現・高知県高知市)
没地日本 東京府東京市
配偶者林益之丞政護妹(正妻)
中山弥平治秀雅次女(継妻)
板垣鈴(継妻)
板垣絹子(継妻)
板垣清子(継妻)
埋葬場所東京都品川区北品川3-7-15(品川神社社殿裏)

板垣退助の生涯をハイライト

板垣退助
  • 1837年5月21日土佐国高知城下中島町の上士の家で誕生
  • 1867年に薩土密約を結ぶ
  • 1868年に戊辰戦争へ参加
  • 1873年、明治六年の政変で下野
  • 1874年に「民撰議院設立の建白書」を提出
  • 1882年、岐阜県で演説中に暴漢に襲われる
  • 1898年、日本初の政党内閣に入閣するも、4か月で解散
  • 1919年に肺炎のため逝去

板垣退助は1837年5月21日、土佐藩上士の家で生まれます。幼いころから正義感が強く、弱い者いじめをする人が許せない性格でした。上士の家で生まれたものの、庶民とも何ら変わりなく接していたそうです。

1867年、倒幕に前向きだった板垣退助は、薩摩藩の西郷隆盛たちと同盟を組み「幕府と戦になれば薩摩藩と共に戦う」と誓います。その後の戊辰戦争では約束通り、迅衝隊の総督として、薩摩藩と共に戦い抜きました。

この活躍により、新政府の一員となった板垣退助ですが、明治六年に起きた征韓論政変にて、韓国侵略を主張した板垣退助は反対され、政府を去ることになりました。その後、板垣退助は愛国公党を立ち上げ、天皇や国民が一体の政治体制にするべきだと主張する、建白書を提出します。これによって自由民権運動の気運が高まりました。

1882年、自由民権運動に強い反感を持っていた相原尚褧に板垣退助は短刀で襲われます。計7ヶ所を短刀で刺された板垣退助は「吾死スルトモ自由ハ死セン」と言い、これが後に「板垣死すとも自由は死せず」という名言として残ることになります。

1898年、大隈重信と共に憲政党を組織した板垣退助は、内務大臣として入閣します。ただ隈板内閣と言われたこの内閣は、もめごとが多く、たった4か月で総辞職することになりました。政界を引退した後も様々な活動を続けましたが、1919年7月16日に板垣退助は83歳で肺炎で亡くなりました。

土佐藩上士にしては珍しく倒幕の意思があった

土佐藩では上士と下士に別れており、上士は下士を差別するという構図が出来ていました。また初代藩主、山内一豊が徳川家に恩を感じていた流れから、土佐藩では幕府に味方する勢力が強くありました。

山内一豊像

そんな土佐藩の上士として生まれた板垣退助は、上士にしては珍しく下士を差別することもなく、倒幕の意志もありました。そのため1867年には西郷隆盛率いる薩摩藩と同盟を組み「幕府と戦になるのなら土佐藩は薩摩藩に協力する」と約束します。

その後、戊辰戦争では約束通り薩摩藩とともに戦いました。

後藤象二郎とは幼馴染でいつも喧嘩をしていた

若いころの板垣退助

板垣退助は、同じ土佐藩上士の後藤象二郎とは幼馴染でした。土佐藩でも新政府でも自由民権運動でも共に行動するなど、非常に気が合い仲良しに見える2人ですが、子供の頃はいつも喧嘩をしていたそうです。

喧嘩になった際は、板垣退助はいつも後藤象二郎の苦手な蛇を振り回して、喧嘩に勝利していました。

板垣退助は軍人向きの性格だった?

板垣退助の50銭札

板垣について、薩摩藩士である有馬藤太はこのように述べております。

「或時西郷先生に『今の時に於て、二十万の兵を授けて海外に派遣し、能く国威を発揚し得る者は誰ですか』と尋ねた所、先生は即座に『それは板垣じゃ』と答えられた」

元々、板垣は江戸へ兵法などを学んでいたので、本来は軍人向きの性格だったことが伺えます。ですが、その反面、学問がないことを谷干城や初代・伊藤痴遊は指摘しており、その演説は聞くに堪えるものではなかったという側面も見られます。

軍事の才能があり多くの偉人に評価されている

西郷隆盛

板垣退助は軍事の才能において非常に長けており、多くの偉人にその才能を評価されていました。戊辰戦争で共に戦った西郷隆盛からは「日本の中で海外と戦うことが出来る人間は、板垣退助しかいない」と言われています。

大正天皇からも「板垣退助は、戊辰戦争にて軍を率いて先鋒となり、知略巧に兵を動かしていた」と評価され、陸軍大将である川上操六からも「板垣退助が軍人の道を歩んでいたら間違いなく元帥(軍隊の最上級の階級)になっていた」と評価されています。

経験した戦いは戊辰戦争のみでありながら、これだけの評価をされているということは、板垣退助は軍事に対する理解が、他よりも圧倒的に深かったということが良くわかります。

板垣退助の家族構成、子孫は?

板垣退助の先祖が仕えた武田家家紋・武田菱

板垣退助が出生した乾家は、先祖に武田信玄の宿将でもあり武田四天王の1人として恐れられた武将・板垣信方がおります。その孫にあたる乾家の当主・乾正成です。この正成の父・板垣信憲が自身の失態により、改易され板垣姓も取り上げられたために、乾姓を名乗るようになったと言われております。

板垣退助像除幕式にて

板垣には権妻含め5人の妻がおり、子供も5人の男子と5人の女子、合わせて10人の子供達がおりました。中でも、長男である鉾太郎は高知県に私立学校である泰平小学校を設立し、高知県内の教育に心血を注ぎました。また、退助の玄孫にあたる高岡功太郎さんは現在「一般社団法人板垣退助先生顕彰会」の理事長を務めていらっしゃいます。

板垣退助と坂本龍馬にはつながりはあった?

坂本龍馬

板垣は、幕末の風雲児こと坂本龍馬と同じ土佐藩出身です。ですが、生前、板垣と龍馬の間には直接の交流はなかったそうです。ですが、龍馬の脱藩の罪を免除するべく勝麟太郎と対面したり、大政奉還の原動力となった後藤象二郎と交流があったりと、龍馬の周辺人物とは大変関わりが深い関係にありました。

また、龍馬が暗殺された後、板垣はこのような言葉を述べております。「豪放磊落、到底吏人べからず、龍馬もし不惑の寿得たらんには薩摩の五代、土佐の岩崎たるべけん」豪快な性格は、役人ではなく

五代友厚や岩崎弥太郎のように商人になっていたかもしれない、と述べています。板垣にとって、龍馬は尊敬すべき人だったことがうかがえます。

国会議事堂内に銅像が建立される

国会議事堂内の板垣退助像

国会議事堂内の中央広間には銅像が3体置かれており、そのうちの1人が板垣退助です。この銅像は、議会政治の基礎を築いた功労を称えたもので、板垣の自由民権運動や政党内閣を成立させるための日本初の政党・自由党を発足させたことなどが選ばれた理由として挙げられます。

国会議事堂内の中央広間銅像

残りの二人は、板垣と共に政党内閣を発足させ、その後、立憲改進党として議会政治の確立を目指した大隈重信、日本初の内閣総理大臣である伊藤博文です。

また、一つだけ銅像が存在せず台座のみが置かれている場所があります。これは、4人目の人選が出来なかったという説と「政治に完成はない」という象徴のために作られた、という説があります。

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