板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や名言、子孫、死因についても紹介】

1874年 – 37歳「政治団体「愛国公党」「立志社」を結成」

民撰議院設立建白書

明治政府へ「民選議院設立の建白書」を提出

下野した板垣は、イギリスから帰国した古沢滋や小室信夫などから意見を聞き、イギリスの政治システムに倣い政党を結成しようと画策しました。その一環として、結成されたのが「愛国公党」です。愛国公党は、板垣のほか、副島種臣らと共に結成した政治団体です。

愛国公党を結成後、明治政府成立の際に発布された「五か条のご誓文」のうちの一つである「万機公論に決すべし」という理念に基づき、板垣ほか副島、江藤、後藤、由利公正らの署名と共に平民などの国民から広く議員を集う「民撰議院設立の建白書」を左院へ提出します。しかし、この建白書は却下されました。

大阪会議

大阪会議への参加

建白書提出後、板垣は高知へ帰郷し、江藤が佐賀の乱に参加したことから愛国公党は自然消滅しました。その後、板垣は地元の高知で片岡健吉、植木枝盛らと共に政治団体「立志社」を結成しました。立志社は、生まれながらに人は平等であるという「天賦人権」を掲げ、人民主権などを織り込んだ独自の憲法案を草案しました。

1875年、明治政府への不満から士族の反乱などが頻発するようになり、自由民権運動の始動など混迷を極めておりました。政府の中心人物であった大久保は、台湾出兵を巡り辞職した木戸と板垣と連携するために、大阪会議を開き、板垣と木戸は共に参議として復職します。しかし、板垣は議会制政治を目指すために、ほどなくして辞職しました。

1882年 – 45歳「演説中に暴漢に襲われる」

岐阜事件

自由党を結成

1881年に黒田清隆らの「開拓使官有物払下げ事件」が世に取り沙汰されたことをきっかけに、大隈重信はこれを強く批判、結果的に政府から大隈は追放されることになりました。これを「明治十四年の政変」と言います。この事件がきっかけで民権運動はさらに熱を増し、政府は「10年以内の議会開設を目指す」という「国会開設の詔」が表明されました。

この表明を受け、板垣は国会期成同盟を基盤とする政党「自由党」を結成し、板垣は自由党の党首になりました。この翌年の1882年には、下野した大隈重信を中心に、尾崎行雄、小野梓、犬養毅らが参加した政党、「立憲改進党」が誕生しました。

「板垣死すとも、自由は死せず」

自由党結成後、自由民権運動の先鋒として各地に運動を広げておりました。しかし、政府による言論弾圧など、度重なる妨害工作に苦戦しておりました。そのうちの一つが、「集会条例」の布告です。この条例は、政治に関する演説や集会などを取り締まるための法令で、自由党や改進党などが主な対象として各地で取り締まられておりました。

1882年4月、岐阜での演説終了後、相原尚褧が板垣を暗殺しようと短刀を左胸へ突き刺すという事件が発生しました。この事件にて、「板垣死すとも自由は死せず」という発言をしたことが大々的に報じられ、板垣の名が全国的に広まるきっかけとなりました。

1893年 – 56歳「自由党を再結成」

加波山事件の墓

加波山事件にて、自由党を解党

1882年、板垣は視察として後藤象二郎と共に欧米へ視察へと出かけました。しかし、このことについて党内から批判が噴出し、馬場辰猪、末広重恭などが離党してしまいました。また、板垣の外遊中、自由党員や農民を弾圧するという「福島事件」、「高田事件」などが続けざまに発生しました。

その後、板垣は自由党の立て直しを図るため、資金を集めようと画策するもこれに失敗。そして、1884年の9月には数名の自由党員が、福島事件の当事者である県令三島通庸の暗殺未遂を起こしたとして逮捕され、これが引き金となり、止む無く自由党は解党されることになりました。

第一回衆議院議員総選挙の風刺画

国会開設に向け、愛国公党、自由党を再結成

その後、運動家たちによる自由民権運動は後藤象二郎を中心とした「大同団結運動」が結成され、政府へ議会政治の開設、不平等条約の改正、地租・財政問題の解決などを要求しました。しかし、政府は新たに保安条例を発令し、民権運動家たちを取り締まりました。

この大同団結運動分裂後、板垣は新たに愛国公党を結成し、来るべき議会開設へと動き出します。その後、自由党、大同倶楽部、九州同志会、ら4団体が合流し、「立憲自由党」が結党され、第1回衆議院議員総選挙にて過半数の130議席を獲得するなど健闘しました。

1898年 – 61歳「日本初の政党内閣を組閣」

第二次伊藤内閣へ参加

板垣率いる立憲自由党は、自由党へと名称を変え、大隈の改進党と共に政府へ批判的な立場をとっておりました。しかし、第2回衆議院議員総選挙において第一次松方内閣は選挙干渉を行い、自由党の幹部らが多数落選するという結果になり、議席数を94席と減少してしまいました。

この結果、自由党は政府との妥協路線をとることになり、伊藤内閣と共に条約改正などの路線を共に歩むことになりました。その協調を証明するために、板垣は伊藤内閣において内務大臣として初入閣を果たしました。

大隈重信像と板垣退助像

大隈重信と共に「隈板内閣」を組閣

第二次松方内閣が総辞職し、第三次伊藤内閣が衆議院解散を宣言し、第4回衆議院議員総選挙からわずか3か月後に第5回衆議院議員選挙が開かれることになりました。板垣率いる自由党は、大隈率いる改進党と合流し、新たに「憲政党」という新党を立ち上げました。

憲政党は二つの党を合わせた209議席を獲得し、与党となりました。そして、1898年の6月に第一次大隈重信内閣が成立し、日本初の政党内閣が組閣されることとなりました。板垣は、内務大臣となり、大隈は総理と外務大臣を兼任することになりました。また、この内閣は2人の名前から「隈板内閣」と名付けられました。

1900年 – 64歳「立憲政友会を創立後、政界引退」

隈板内閣の終焉

政党内閣として組閣された大隈内閣ですが、周囲からは不安の声が上がり、明治天皇からは「本当に大丈夫か」と念押しされるほどの評判だったそうです。組閣後、旧自由党と旧改進党同士の軋轢が激しく、組閣人事の多くが旧改進党出身者だったことに旧自由党員は不満を持っていたそうです。

その後、1898年8月に文部大臣の尾崎行雄が行った「共和演説事件」について、旧自由党の星亨が尾崎を激しく糾弾。この事件により、改進党と自由党は断絶状態になり、尾崎は文部大臣を辞任。後継に大隈の独断で犬養毅を抜擢したことが決定的となり、自由党は憲政党を一方的に解党し、大隈内閣は僅か4か月ほどで崩壊しました。

立憲政友会本部

立憲政友会の創立

1900年に伊藤博文は超然主義の崩壊と政党政治の必要性という観点から、新党「政友会」を組織しました。この政友会には、旧自由党が組織した憲政党や帝国党などの関係者が集い、星亨、尾崎行雄、西園寺公望、原敬などが集まり組織されました。

板垣も、この組織の結成について尽力しますが、自身は後進に道を譲るとして、政治家を勇退することになりました。立憲政友会はその後、第四次伊藤内閣の組閣、桂園時代、原敬内閣の成立など、長きにわたって政治の中心として活躍する政党となりました。

1919年 – 82歳「肺炎のため逝去」

板垣退助の墓

晩年と逝去

政治家としての勇退後、板垣は社会事業などに取り組み、その一環として機関紙「友愛」の発刊に勤めました。また、大正に入ってからは日本統治下におかれていた台湾を訪れ、日本と台湾の友好関係を築くための団体「台湾同化会」の設立などにも携わりました。

その後、1919年7月16日に肺炎のため東京の自宅にて逝去いたしました。享年83歳。没後、板垣は従一位に叙せられ旭日桐花大綬章を受章することになりました。

板垣退助の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

板垣退助―孤雲去りて


直木賞作家・三好徹さんの板垣退助が主人公の歴史小説。

上下巻に分けて発刊され、上巻は戊辰戦争での活躍、下巻は明治以降の活躍を描いた内容となっております。板垣の生き様について、少しは分かるかもしれません。

自由は死せず


2018年に「銀河鉄道の父」で直木賞を受賞した門井慶喜さんが描いた長編歴史小説。

札付きの悪童として名を馳せた板垣退助が幕末を経て、自由民権運動家として駆け抜けた生涯について書いた物語。明治維新の動きなどについても描かれているので、おすすめの作品です。

角川まんが学習シリーズ 日本の歴史 13 近代国家への道 明治時代後期


角川の学習漫画シリーズ「日本の歴史」の明治時代後期。自由民権運動から日露戦争までについて描いた作品となっています。

このあたりの議会成立までの動きは複雑なので、板垣を知るついでに歴史の流れを整理したいという方には、漫画で知ることをおすすめします。

おすすめドラマ

西郷どん


大河ドラマ第57作目、鈴木亮平さん主演の作品で、西郷隆盛の生涯について描いた物語。板垣退助は明治時代以降に登場しますが、西郷と共に行動する事が多い役柄となっております。

関連外部リンク

板垣退助についてのまとめ

近年、選挙の投票率の低下などが社会問題となっております。板垣などが活躍した時代には、選挙権は直接国税15円以上を納税した25歳以上の男性という僅かな人にしか与えられませんでした。

こうした不平等な状態を正すべく、板垣をはじめとする自由民権運動家たちは政府と戦い続けたのです。

その中で、多くの人たちが政府からの弾圧に遭い、厳しい罰を受けたという記録もあります。そのような涙ぐましい努力の末に、現在の選挙権や民主主義が政治が成り立っているのだなと改めて感じました。個人的には、板垣退助を主人公にした大河ドラマなども見てみたいです。

今回の記事をきっかけに、板垣退助という人物に興味を持っていただければ幸いです。

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