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2代目将軍「徳川秀忠」の死因とは?父・家康の遺伝が病気の原因なのか詳しく解説

徳川秀忠は江戸幕府の2代目将軍です。父・家康は江戸幕府を開いた人物で、死後は神様として祀られるほどのカリスマ性がありました。

その息子である秀忠はともすれば影が薄い将軍と見られがちですが、実は江戸幕府の260年の歴史には欠かせない人物です。

秀忠はどんな人生を送り、どんな最期を迎えたのか、そして死因はなんだったのか気になりますね。秀忠の死因を性格や体質、家康との共通点から解明していきます。

徳川秀忠の死因は「胃がん」だった

京都・知恩院の徳川秀忠坐像

徳川秀忠の死因は胃がんだったと言われています。亡くなったのは54歳でしたが、それまでは病気になったという記録もなく、健康体だったそうです。

現代でも胃がんはよく聞かれる病気です。秀忠の場合は何が原因になったのでしょうか。健康体だった秀忠が突然胃がんになるのでしょうか。

「胃がん」とはこんな病気

胃がんは長い間、胃の中の環境が悪くなることで発症します。具体的には過度の喫煙や飲酒、塩分の摂りすぎなどが原因になります。これ以外にもストレスや過労なども原因になるし、両親や祖父母などに胃がんの患者がいる場合は、自分もリスクを抱えていると自覚しなくてはなりません。

しかも50代以上の男性が発症することが多いので、秀忠は胃がんのリスクを多く抱えていたということができます。

これから秀忠の抱えていたリスクについて具体的に説明します。

秀忠と父・家康との共通点

秀忠の父・家康も胃がんで亡くなっています。家康は太っているというイメージが強いかもしれませんが、それは中年以降のことです。若いときから健康を気遣い、鷹狩りを楽しむアクティブな人物でした。胃がんで亡くなったとは言え年齢は75歳、これは当時としては長命でした。

秀忠は家康の影響を少なからず受けていたのでしょう。体は筋肉質で引き締まっており、戦場で自ら指揮を取っていたこともありました。親子でアクティブなアウトドア派という共通点があったのです。

また、家康と秀忠は親子ですから食の好みなども共通していたのではないでしょうか。これも胃の病気には大きく関係するはずです。

秀忠の性格と体質が「胃がん」に関係?

胃がんへの不安

秀忠の体質は胃がんに大きく関係していたと思われます。父親が胃がんで亡くなったわけですから、秀忠はもっと胃の病を警戒するべきでした。

胃がん自体は遺伝する病気ではないと言われていますが、親子は食の好みが似るなど同じような生活習慣の場合が多いため、同じ病気にかかりやすいのは事実のようです。

また秀忠は大変真面目な性格で、周りにも気を遣う人だったそうです。将軍という職務でストレスが溜まり、疲労も蓄積したに違いありません。

筋肉質がゆえに健康であると過信していた

筋肉質で引き締まった体を持っていた秀忠、しかも父の家康が長命だったわけですから、自分の健康を過信したとしても不思議はありません。

胃がんは初期には目立った症状が現れません。それまで健康だったために、余計に秀忠は自分の体の声に耳を傾ける機会を失ってしまったのです。

気づいたときには症状がかなり進行していたのでしょう。1631年に体調を崩した後、1632年の1月には亡くなってしまいました。

2代目の苦労があった?秀忠の真面目な性格

カリスマ性のあった父・家康の後を継ぐだけでも、秀忠は相当なストレスを感じていたはずです。何かといえば、父と比べられることがわかっているからです。

しかも父の作った幕府を絶やしてはいけないというプレッシャーがそこに加わるわけです。秀忠はとても真面目な性格だったため、このストレスやプレッシャーにも正面から向き合ったと想像できます。

家康は自分の跡継ぎには幕府を守り育てるための将軍を必要としており、秀忠が最適だと考えていました。何かを始めるよりも、それを守り育てる方が苦労が大きいことを家康はわかっていたようです。

家康ほどの人が苦労が大きいと感じた道に進んだ秀忠、彼は2代目特有の苦労をしていたと言えるでしょう。

秀忠はどんな将軍だったのか

秀忠が英国王に贈ったとされる甲冑

江戸幕府の基礎を固めたのは秀忠です。秀忠は家康の願いに応えて、江戸幕府を守り育てることに専念しました。

幕府そのものを作るよりも、それを守り育てていく仕事は苦労が多いだけでなく、目立ちません。その証拠にテレビの時代劇でも秀忠が名君として登場することはほとんどありません。目立たないということは、評価もされにくく苦労が報われたと感じることも少なかったのではないでしょうか。

もともと真面目な性格だった秀忠が余計にストレスを溜めてしまい、胃がんという病を引き寄せてしまったのかもしれません。

2代目として守りを固めた将軍

将軍となった秀忠は国の守りを固めるために、「武家諸法度」と「公家諸法度」という2つの法律を作り、幕府が武家と公家の両方の上に立つことをはっきりさせました。

また外国船の寄港地を限定して、その後の鎖国政策の基礎を作ったのも秀忠です。こうして秀忠が幕府の草創期に立ち位置をはっきりさせ、しっかりと固めておいたからこそ、江戸幕府が260年もの間続くことになったのです。

もし秀忠がこれを怠っていたら、もっと早くに幕府は転覆させられていたでしょう。

職務を全うした後での秀忠の死

秀忠が亡くなった54歳(満年齢では52歳)は、現在の感覚では早すぎる死ということができるでしょう。しかし、江戸時代の平均寿命は30~40代でした。昭和に入ってからも、50歳代だったことを考えると、秀忠の死は決して早すぎるとは言えません。

同じ病気で亡くなったとされる家康に比べると、20年余りも早いために短命だというイメージが付いてしまったのでしょう。

2代目としての仕事をすべてやり切り(秀忠は自分の娘を朝廷に嫁がせ、天皇の外戚にまでなっています)、将軍職を息子に譲った後の死は決して不幸ではなかったはずです。

徳川秀忠の死因に関するまとめ

徳川秀忠の死因は胃がんであることがわかりました。それまでも戦国武将は胃がんで亡くなる人が多く、ストレスが多かったのだと感じざるを得ません。

しかし秀忠の場合には父の家康も関係する独特なストレスがあったようです。それに真面目な性格の彼が将軍の職務を遂行するには、ストレスやプレッシャーと無縁ではいられなかったに違いありません。

結果としては胃がんという病を引き寄せてしまいましたが、だからこそ江戸幕府は260年の天下泰平の世を作ることができました。秀忠の頑張りがなければ現代はもっと違った世の中になっていたでしょう。

これほどの人が、自分の体の異変に気付かず50代で亡くなってしまったのは、残念でたまりません。

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