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ローマ法大全とは?内容を分かりやすく紹介【日本語訳の解説付き】

「ローマ法大全ってなに?」
「誰が、いつ作ったの?」
「ローマ法大全の内容は?」

ローマ法大全とは西暦534年にユスティニアヌス帝の命により、これまで作られてきた法律を編纂しまとめたものです。このローマ法大全は後世の法律にも影響したとされています。

この記事ではローマ法大全がいつ、誰に作られたのか、概要を簡単に解説していきます。内容や日本語訳も一部お伝えしていくので、ぜひ最後までご覧ください。

「ローマ法大全」とは?概要を簡単に解説

ローマ法大全

皇帝ユスティニアヌスによって編纂

東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス

ローマ帝国は東西に分裂後、それぞれの帝国で新たに政治体制が作られました。しかし法律は過去から続いているものをそのまま使用していたので、当時の情勢と見合わないような法律も多々ありました。さらに新しい法律が作られると、昔の似た法律に上書きされるようなシステムだったため、どの法律が今も使われているのか非常にわかりづらいものでした。

そのため東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、法務長官のトリボニアヌスやテオフィルスを中心とした10人のメンバーに、古代ローマから続く法律や布告内容、新たに発出された勅令を集め編纂させました。こうしてできたのが「ローマ法大全」です。

ローマ法は現代まで続く法律の元となった

ローマ法大全はヨーロッパの基準となった

ローマ法大全が作られてから、この法典が基準となり東ローマ帝国の基準であり続けました。11世紀以降、西欧でも採用されるようになり、西欧を中心に多大な影響を与えるようになったのです。

これらの法律は西欧でのローマ法研究によって、12世紀には「ユスティニアヌスの市民法大全」としてまとめられ、西暦1583年フランスの法学者であるゴトフレドゥスによって「ローマ法大全」と名付けられました。

ローマ法大全の内容

ローマ法大全の内容は?

ローマ法大全は大きく分けて4つで構成されています。1つずつ見ていきましょう。

勅法彙纂(ちょくほういさん)

皇帝ハドリアヌス

別名「ユスティニアヌス法典」とも呼ばれ、ハドリアヌス帝の時代から、ユスティニアヌス帝時代までの勅法を集大成したものです。基本的には過去に作られた法律をまとめたものになっており、「グレゴリウス法典」や「ヘルモゲニウス法典」、「テオドシウス法典」などを簡略化したものになっています。

ローマ法大全の中で最も早く作られた部分で、西暦534年ごろに完成しました。なお、6世紀ごろから東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったため、勅法彙纂もギリシア語で記されています。

学説彙纂(がくせついさん)

帝政の初期から500年代までを中心に法学者の学説をまとめたものです。帝政初期の頃は法学者の数が多く、発表される学説も多かったことから、この学説彙纂が最も多い割合を占めています。

もともと1528巻もあった資料を、50巻の学説彙纂にまとめきった当時の法学者たちの苦労がわかりますね。このことから別名Digesta(ダイジェスト)と呼ばれることもあるそうです。

法学提要(ほうがくていよう)

法学者ガイウス

法学提要は法律をまとめたものではなく、当時の法学者を目指していた学生や初学者のためにユスティニアヌス帝が編集したものになります。西暦533年に公布され、法学校では教科書としても使っていたそうです。

具体的な内容は、古代ローマの法学者ガイウス(西暦130年ー西暦180年ごろ)が記した「法学提要」とほぼ同じとされています。法学提要では法律を「人」「物」「訴訟」の3つに分類し、法律の背景にある論理的な思考や根拠を突き詰めています。

修正や加筆がされているため一部異なる部分はありますが、古い時代から法学を目指すものの志や考えは変わらないものですね。

新勅令集(しんちょくれいしゅう)

新勅令集は勅法彙纂以降、ユスティニアヌス帝が亡くなるまでに発せられた158もの勅法の総称です。これに関してはユスティニアヌス帝生前に一体化されたものではなく、死後私人によって編纂されました。

そのため他の編纂されたものに比べ巻数は少なくなっています。法律に理解のあったユスティニアヌス帝が発した勅令は他の法律と比較して大胆で自由なものが多く、特に親族や相続法に関しては広い視野を持った法律が作られました。

ローマ法の基本法律

サンタ・マリーア・マッジョーレ教会(ローマ)

十二表法

十二表法

十二表法とは古代ローマにおいて初めて定められた成文法です。12枚の銅板に刻まれたことで、この名前がつけられました。

当時のローマはパトリキと呼ばれる貴族たちが法律の権限を持っており、それに対するプレプス(市民)の不満は相当なものでした。後に身分闘争というプレプスの権利拡大を巡った争いが起きた際に、法律に関しても正当なものをという訴えを受けて作られたのです。

法律を作る上で、参考となるものがなくてはなりません。そこで成文法の作成権限が与えられたアッピウス・クラウディウスをはじめとする10人のメンバーは、ギリシアのアテナイに向かい、ギリシアの法律を参考に作ったのです。

公布された十二表法をみるパトリキとプレプス

こうして制定された十二表法はローマ人の教養として徹底されました。内容が公布されたことで、それまでにあったパトリキとプレプスの間での法知識は共有されるようになり、パトリキの独断による法律改定は難しくなっていきます。

しかし十二表法は完全なものではありませんでした。その内容として民事訴訟や家族、相続、不動産、結婚、犯罪などの法律が中心となっていたものの、結果的にはパトリキに優位に働くものが多く、法の前の平等というのはあってないようなものでした。

リキニウス・セクスティウス法

民主政治の基礎となる

紀元前367年、護民官ガイウス・リキニウス・ストロ、ルキウス・セクスティウス、セクスティヌス・ラレラヌスの3人によって提唱され作られた法律です。法律名は2人の提案者の名前に由来しています。

この法律によって債務問題、いわゆる借金からプレプスが救われただけでなく、富裕層による土地所有の独占などが禁止されました。またこの法律の一番のポイントが、これまでコンスルは必ず貴族層から選んでいましたが、法律によって必ず一人はプレプスから選出するように規定されたことでした。

パトリキとプレプスの間にある身分的な違いは依然としてあったものの、この法律によってプレプスも積極的な政治運営に関われるようになっていきました。

ホルテンシウス法

フォロ・ロマーノ

紀元前287年、独裁官クィントゥス・ホルテンシウスによって制定された法律です。この法律によってパトリキとプレプスの法的な平等が実現し、両者の間で起こっていた身分闘争は完全に終結したとされています。

これまで民会と呼ばれるプレプスの集会で決められたことは、必ず元老院に持ち込まれ、そこで承認を得ないといけませんでした。しかしこの法律によって、民会で決まったことは元老院の承認を得なくてもローマの法律となることが明確に制定されたのです。

【厳選】ローマ法大全日本語訳

ローマ法大全を日本語に訳すと?

学説彙纂第1巻第1章

法律学に従事せんと欲する者は先づ法なる名称の由来を知らざるべからず。此の名称は正義より出づ、ケルススが法は正善及び衝平の術なりと定義せるは洵(まこと)に巧妙なりと謂ひつべし。

簡単にまとめると、「法律学や判事などの法律に関係する職種に従事する者は、法律の名前の由来を知るべきだ。法律の名前は正義が根幹にあり、ケルスス(古代ローマの法学者)が法は正善及び衝平の術と定義しているが、まさにその通りだ。」といった内容になっています。

「法は正善及び衝平の術」というのはケルススの格言です。正善とは正しく理にかなっていること、衡平とは釣り合いが取れていることを意味しており、ケルススは法律を「正しく理にかなっており、かつ釣り合いが取れていること」と定義していたのです。

学説彙纂第3巻第1章

法務官は人に就て適当なる区別を設け、且つ自己の威厳を保たんが為め、此の章を設け以て何人たるを問はず区別なく裁判上の申立を為すことを得ざらしめたり。

簡単にまとめると「法務官は人に関して適切な区別を行い、自己の威厳を保つために誰であろうと区別なく裁判の申し立てをすることを認める」といった内容になっています。当時の古代ローマは貴族の方が権力を持っており、市民は表立って反対することができませんでした。

この法律によって例え市民であろうと、自身の尊厳のために裁判を起こすことを法的に認めたのです。法律で規定されたことで、貴族は自分達に優位なように物事を進ませることができなくなり、有権者である市民と対等な立場に近づくこととなりました。

ローマ法大全に関するまとめ

ローマ法大全について解説してきました。いかがでしたでしょうか。

ローマは古くから身分闘争や民会が開かれ、正義と平等を重んじ、法律が作られていました。しかし法律への理解と激動の時代背景が逆に法律が飽和させてしまったのです。

ユスティニアヌス帝の命により飽和していたローマ法が簡潔になりました。わかりやすく明快になったことが他の国々でもお手本として用いられた要因かもしれませんね。

ぜひローマ法大全について興味を持っていただけますと幸いです。最後までお読みいただきありがとうございました。

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