「ローマ法大全ってなに?」
「誰が、いつ作ったの?」
「ローマ法大全の内容は?」
ローマ法大全とは西暦534年にユスティニアヌス帝の命により、これまで作られてきた法律を編纂しまとめたものです。このローマ法大全は後世の法律にも影響したとされています。
この記事ではローマ法大全がいつ、誰に作られたのか、概要を簡単に解説していきます。内容や日本語訳も一部お伝えしていくので、ぜひ最後までご覧ください。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
「ローマ法大全」とは?概要を簡単に解説
皇帝ユスティニアヌスによって編纂
ローマ帝国は東西に分裂後、それぞれの帝国で新たに政治体制が作られました。しかし法律は過去から続いているものをそのまま使用していたので、当時の情勢と見合わないような法律も多々ありました。さらに新しい法律が作られると、昔の似た法律に上書きされるようなシステムだったため、どの法律が今も使われているのか非常にわかりづらいものでした。
そのため東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌスは、法務長官のトリボニアヌスやテオフィルスを中心とした10人のメンバーに、古代ローマから続く法律や布告内容、新たに発出された勅令を集め編纂させました。こうしてできたのが「ローマ法大全」です。
ローマ法は現代まで続く法律の元となった
ローマ法大全が作られてから、この法典が基準となり東ローマ帝国の基準であり続けました。11世紀以降、西欧でも採用されるようになり、西欧を中心に多大な影響を与えるようになったのです。
これらの法律は西欧でのローマ法研究によって、12世紀には「ユスティニアヌスの市民法大全」としてまとめられ、西暦1583年フランスの法学者であるゴトフレドゥスによって「ローマ法大全」と名付けられました。
ローマ法大全の内容
ローマ法大全は大きく分けて4つで構成されています。1つずつ見ていきましょう。
勅法彙纂(ちょくほういさん)
別名「ユスティニアヌス法典」とも呼ばれ、ハドリアヌス帝の時代から、ユスティニアヌス帝時代までの勅法を集大成したものです。基本的には過去に作られた法律をまとめたものになっており、「グレゴリウス法典」や「ヘルモゲニウス法典」、「テオドシウス法典」などを簡略化したものになっています。
ローマ法大全の中で最も早く作られた部分で、西暦534年ごろに完成しました。なお、6世紀ごろから東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語に変わったため、勅法彙纂もギリシア語で記されています。
学説彙纂(がくせついさん)
帝政の初期から500年代までを中心に法学者の学説をまとめたものです。帝政初期の頃は法学者の数が多く、発表される学説も多かったことから、この学説彙纂が最も多い割合を占めています。
もともと1528巻もあった資料を、50巻の学説彙纂にまとめきった当時の法学者たちの苦労がわかりますね。このことから別名Digesta(ダイジェスト)と呼ばれることもあるそうです。
法学提要(ほうがくていよう)
法学提要は法律をまとめたものではなく、当時の法学者を目指していた学生や初学者のためにユスティニアヌス帝が編集したものになります。西暦533年に公布され、法学校では教科書としても使っていたそうです。
具体的な内容は、古代ローマの法学者ガイウス(西暦130年ー西暦180年ごろ)が記した「法学提要」とほぼ同じとされています。法学提要では法律を「人」「物」「訴訟」の3つに分類し、法律の背景にある論理的な思考や根拠を突き詰めています。
修正や加筆がされているため一部異なる部分はありますが、古い時代から法学を目指すものの志や考えは変わらないものですね。
新勅令集(しんちょくれいしゅう)
新勅令集は勅法彙纂以降、ユスティニアヌス帝が亡くなるまでに発せられた158もの勅法の総称です。これに関してはユスティニアヌス帝生前に一体化されたものではなく、死後私人によって編纂されました。
そのため他の編纂されたものに比べ巻数は少なくなっています。法律に理解のあったユスティニアヌス帝が発した勅令は他の法律と比較して大胆で自由なものが多く、特に親族や相続法に関しては広い視野を持った法律が作られました。