片山哲は戦後間もない時期に総理大臣を務めた人物で、日本初の社会党出身の総理大臣、高潔な人物像といった背景から国民の期待値は高く、就任当初の支持率は68%になりました。
しかし片山内閣はGHQの統治下での運営であった事や内閣での争いもあり、僅か8ヶ月で退陣。その後の選挙で片山は落選する憂き目に遭いました。政治運営の不手際等から片山は「クズ哲」と呼ばれてしまいます。
片山は総理大臣としての評価はあまり高くないものの、彼自身は優秀な弁護士であり、男女平等を唱えた時代の先駆者でした。総理大臣退陣後も野党の重鎮として政界に大きな影響も与えています。
弱者救済への精神、平和を愛する信条等、彼の事を学ぶ程、何故彼が戦後の混乱期に総理大臣に選ばれたのかが分かるでしょう。今回は歴代総理大臣について調べ抜いた筆者が片山哲について紹介します。
この記事を書いた人
片山哲とはどんな人物か
名前 | 片山哲 |
---|---|
誕生日 | 1887年7月28日 |
没日 | 1978年5月30日 |
生地 | 和歌山県田辺市 |
没地 | 神奈川県藤沢市 |
配偶者 | 片山菊江 |
埋葬場所 | 大庭台霊園(藤沢市) |
片山哲の生涯をダイジェスト
片山哲の人生をダイジェストすると、以下のようになります。
- 1887年 和歌山県田辺市で誕生
- 1908年 東京帝国大学に進学し東大キリスト教青年会の寄宿舎に入る
- 1917年 弱者救済の為の簡易法律相談所を開設
- 1930年 衆議院議員選挙に神奈川二区から当選
- 1945年 日本社会党の書記長となり、翌年総理大臣となる
- 1957年 日中国交回復国民会議の代表委員となる
- 1963年 選挙で落選し政治家を引退
- 1978年に死去
片山哲の性格は?クリスチャンだった?
片山哲の父省三は謹厳実直な弁護士、母雪江は熱心なクリスチャンでした。片山は父の「清廉で己を律する性格」と母の「奉仕の精神」を受け継いだ性格に育ちます。勿論キリスト教にも早くから入信していました。
非常に優しい性格だった片山ですが、政治の世界には不向きだったとも言えます。総理大臣就任時に片山はこのように述べました。
政治は自己犠牲、献身の崇高な一つの精神運動、道義高揚の運動である
片山は政治を崇高な精神運動と述べており、知略や謀略が求められる政治の駆け引きは苦手だったのです。
片山哲の家族構成や子孫は?
片山は清水菊江(1894-1985)と結婚し、2男3女をもうけます。清水家に跡取りがおらず、長男の純は中学の頃には既に清水家の養子になりました。後に父の秘書官となった他、丸善石油に入社し世界中を飛び回りました。
次男の民雄、長女の照代の情報は見当たらなかったものの、次女の文代は三菱日本重工業に勤めた青池繁に嫁いでいます。
また三女の澄は東レ・テキスタイル取締役の山本義雄に嫁ぎ、2男1女をもうけました。片山哲の血筋は現在にも続いているのです。
片山哲内閣の政策は?社会党ってどんな政党?
片山哲内閣は日本初の社会主義を掲げた政党が主体となった内閣です。
共産党と社会系政党は混同されがちですが、
- 社会主義は国が経済活動を管理して平等な社会を目指す。
- 共産主義は社会主義が発展したもので、階級がなくなり、財産を人々が共同で所有する事で戦争がなくなり、政府すらも必要なくなる。
という違いがあります。社会主義国は中国やベトナム等がありますが、市場経済を導入して資本主義に近づいています。共産主義国家は未だに実現しておらず、社会国家や共産国家の成立は難しい事が分かります。
片山哲内閣はマッカーサーの指示で実行された法案が多いのですが、当時のエネルギー源である石炭の増産と国有化を目指した「臨時石炭鉱業管理法」は片山の意思によるもので、社会主義の根幹となる法案でした。
この法案は炭鉱主の反発を招き、与野党から批判を受けます。妥協して法案は通されるのですが、それに不満を感じた社会党内で対立が起こり、内閣倒閣の原因となったのです。
片山哲の功績
功績1「GHQと共に日本の民主化に務めた」
一般的に片山内閣はGHQの言いなりだったと言われます。ただこの時代の政策が後の民主化に寄与したのは間違いありません。
この内閣では、
- 労働組合法の成立
- 国家公務員法の制定
- 内務省の解体
- 警察制度の改革を実施
- 職業安定法の交付や失業保険の創設
- 国民健康保険法の改正
- 民法や刑法の改正
等が実現しました。更に戦後の日本は食糧難の為、餓死者が急増。片山はGHQから輸入食糧の放出を交渉し同意を得ており、多くの国民が救われたのです。
GHQの掲げる民主化政策は、平等を掲げる片山にとっても意義のあるものでした。国家公務員法や失業保険の創設等、社会主義政策も実現させています。
言いなりではなく、共に民主化を進めたという解釈が正しいのではないでしょうか。
功績2「中国との国交回復に尽力した」
戦後の日本は様々な国と国交を回復します。1956年にはソ連と国交が回復する中、中国とは経済的な関係が続くだけでした。片山は1957年に日中国交回復国民会議の代表委員となり、日中関係の友好に努めます。
片山は社会党に属している事から、社会主義国である中国と太いパイプを持っていました。1959年には毛沢東と会見しています。1972年の田中角栄内閣の時代に日中国交正常化が果たされますが、片山達の努力があったからです。
1978年にようやく日中友好条約が締結。その1年前にも当時の総理大臣である福田赳夫に条約締結の要望書を提出する等、最後まで中国との友愛に務めています。
片山哲の名言
民主主義、平和主義を生かしてくれる青い鳥を探しに、慣れない空の旅を強行している。青い鳥は何処かにいるに違いない。
1949年の総選挙で落選後、欧米に視察に出かけた時の言葉です。民主主義を青い鳥と評する片山の発言は、あくまでも理想主義である事が分かります。
歳をとっても隠居せず、貧しくても官位を求めず、造化(天地自然)の力を求めるのみ
政界を引退した時の言葉であり、白楽天の詩を引用したものです。老いても高い理想を持ち続ける事の大切さを説いたのでした。
片山哲にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1 「1件1円の法律相談事務所の開設」
片山は1918年に簡易法律相談所を開設しています。この相談所は訴訟を行わず和解専門。争いではなく、平和に物事を解決する為の相談所でした。これはキリスト教の精神である「弱者救済の精神」から来ています。
この相談所ですが相談料はなんと1円。1920年の銀行員の初任給が50円であり、現在の価値で20万円程になります。相談料の破格の安さが分かるでしょうか?当然ながら相談所はとても繁盛したのです。
都市伝説・武勇伝2「首班指名選挙で史上最高支持率を記録。更に全大臣も務めた?」
戦後の総理大臣は、衆議院本会議の首班指名選挙で選ばれた人が就任します。片山の指名数は460票中420票で堂々の1位。2位の吉田茂と齋藤晃は1票と実に419票差もあり、この記録は未だに破られていません。
片山内閣で片山は総理大臣だけでなく、以下の役職を9日間担当し、一人内閣と呼ばれました。
- 外務大臣
- 内務大臣
- 大蔵大臣
- 司法大臣
- 文部大臣
- 厚生大臣
- 農林大臣
- 商工大臣
- 運輸大臣
- 通信大臣
- 国務大臣
これは片山が凄いのではなく、親任式までに閣僚を集める事が出来なかった不手際であり、波乱を思わせる幕開けでした。
片山哲の簡単年表
1887年7月28日に和歌山県田辺市にて生まれます。片山の母は謙虚なクリスチャンであり、片山もその影響を強く受けました。
上京して東大に進学。東大キリスト教青年会(東大YMCA)というキリスト教主義の学生寮に入ります。学業を経て父と同じ弁護士を志します。
1912年に大学卒業し父の下で弁護士として働きます。後に上京して簡易法律相談所を開設しました。
大正デモクラシーの高まりの中、勤労者のための政党として社会民衆党が結成。片山は書記長となりました。後に全国労農大衆党と合同し社会大衆党となります。
戦後になり社会主義運動家が集まり日本社会党が結成されます。片山は代表委員となりました。
衆議院選挙が行われ、日本社会党は第1党となります。とはいえ過半数の議席を獲得出来なかった為、連立にて片山内閣が発足されました。期待された片山内閣でしたが、思うような政治運営を行えず8ヶ月で総辞職します。
その後は憲法擁護国民運動や日中国交回復国民会議の委員になる等、独自の立ち位置で活動。野党の重鎮として影響力を与えるものの、1963年の総選挙で落選。政界を引退しました。
政治家引退後も政界浄化・公営選挙連盟会長等の役職を歴任する等、活動的に活躍します。死の前年からはベッドで寝たきりの状態でした。1978年5月30日に家族に看取られて亡くなります。
繁田哲夫と言います。自分の名前、哲夫は、片山 哲さんの「哲」から、父が名付けたと聞いています。父は、社会党の党員でした。
片山 哲さんに関してきわめて公平にしてまた愛情を感じる記述です。片山さんの政権の昭和23年は私は小学校4年生でした。終戦で食べるものに事欠き、学校はガラス窓は紙で補修され、机も二人かけを三人かけで授業を受ける状況でした。父は電機会社にあって労組の初代の委員長であり、この年に社会党から川崎市議に当選しています。その関係で、わが家は、片山さんを尊敬しており、イギリス労働党を範とする社会主義そしてキリスト教的な倫理をもつこの方にこれからの日本人の在り方を学ぶ想いでした。政権は、GHQ支配とはいえ、その後の日本の基本枠組みを決定づける法制をすすめ、こどもこころにもこころ踊る新生日本をおもわせたものがあると思います。政治力学からみれば議員数が過半に満たず、内閣のなかみはガタガタであったことを後に知りますが、短命であったことにに落胆をおぼえました。「グズ哲」というあだ名になにか不可解なもの、そしてそのあとの政権が「反動」とよばれた日本の政治位置回転の不安定さを肌に感じたことを思い出します。しかし、わが家の片山さんへの敬意はその後も底流で生きていたとおもいました。この記事をみながら、秀才で、東大法学部で、大抵は役人か大企業にて自らの将来を選ぶであろうなか、一円料金の社会派弁護士として、実践的キリスト教伝道を社会改革運動という形で無産党に身を投ずるというのはなみの人ではない。明治開国以降、日本にはこのような出世主義と一線を画す高潔なる人たちの群像があったことをもっと知っていてよい。また、誇りとして称揚してよいと思いました。そういえば高校時代に学校が藤沢にあり通学の湘南電車二等車の戸だまりに乗車すると、あとから、しずかに乗車してくるハットの紳士があった、あっ、片山さんだと、ひそかに身に緊張を感じたことを昨日のようにおもいだします。