片山哲とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や息子、政策内容や死因についても紹介】

片山哲の年表

1887年 – 0歳「片山哲誕生」

片山哲生誕の地

片山哲誕生

片山哲は1887年7月28日に和歌山県田辺市で誕生します。中学卒業までこの地で過ごすものの、卒業後に数年移り住んだ以外は藤沢市を生活の拠点としていました。

現在片山一家の生誕地には顕彰碑があるものの、地元の知名度は低いようです。

1908年 – 21歳「東京帝国大学法科大学独法科へ入学」

田辺市出身の南方熊楠

同郷の人たちとの関わり

田辺中学校卒業後は旧制第三高等学校(現京大)へ進学。田辺市出身の鳥山啓の家に一家全員で寄宿します。鳥山啓は「日本人の可能性の極限」と名高い南方熊楠の恩師でした。

東京帝国大学法科大学独法科へ進学

1908年に東京帝国大学に進学し、東大キリスト教青年会の寄宿舎に入ります。片山に大きく影響を与えたのは恩師の吉野作造と牧野英一です。吉野は同じくクリスチャンであり、卒業後も片山のサポートを行います。

牧野は「犯罪が社会に与える弊害」について講義を行っており、片山が弱者救済の為に弁護士となるきっかけを作りました。

1918年 – 31歳「簡易法律相談所を開設」

吉野作造

弁護士として経験を積む

大学卒業後、田辺市に戻り父のもとで経験を積みます。1917年に上京し、翌年に東大キリスト教青年会の寄宿舎の1室で簡易法律相談所を開設。吉野作造が宣伝をしています。

1920年には事務所を日比谷に移し、中央法律相談所と名前を変えました。

社会派として活動する

その年には「中央法律新報」を刊行。死刑制度や治安警察の撤廃廃止を訴えています。更に東京女子大学の講師も務め、女性参政権や封建制制度の廃止の必要性を講義しています。

片山は弁護士だけでなく、実際に行動し社会を変えていこうと考え始めます。

1925年 – 38歳「社会民衆党の結成」

安部磯雄と片山哲

労働者や農家の権利を主張する

この頃は富裕層(財閥や地主)と、無産層(財産を持たない労働者や小作人等)の間で貧富の差が拡大していました。片山は無産政党として安部磯雄達と社会民衆党を結成。片山は1930年の選挙で当選し、議員となりました。

1932年 – 45歳「社会大衆党の結成」

日中戦争期の社会大衆党の動向を報道する記事

社会大衆党を結成

社会主義思想にも微妙な違いがあり、片山や安部は社会主義と「隣人を愛する」というキリスト教的人権思想を融合させた「キリスト教社会主義」という立場でした。

当時無産政党は最大で30程に分裂しており、二大政党の政友会や民政党に押されています。

状況を打開する為、以下の党が合同して1932年社会大衆党が結成。第三政党としてある程度の発言権を持つのです。

  • 労農党
  • 全国大衆党
  • 社会民衆党←片山が在籍
  • 社会民衆党合同賛成派
  • 全国労農大衆党

軍部の暴走に併合される

時代は戦争に近づき始め、党内では軍部接近派と反対派で対立が起こります。1940年に斎藤隆夫議員が反軍演説を行い除名処分を受けますが、片山や阿部ら8名はそれに反対。片山は社会大衆党から除名されます。

1940年には大政翼賛会の発足で社会大衆党自体が消滅。1941年の翼賛選挙で片山は非推薦で立候補するも妨害を受けて落選。最後まで戦争反対の立場に立ちました。

1945年 – 58歳「日本社会党の結成」

第1党となった日本社会党

社会主義勢力が結集する

戦後、阿部の呼びかけで社会大衆党党員の他、労働運動関係者や社会運動家が集まり、日本社会党が発足。片山は書記長を経て委員長となりました。

日本国憲法が制定後に吉田茂は内閣を解散。総選挙が行われます。結果は以下の通りです。

  • 日本社会党 141議席
  • 日本自由党(旧政友会の保守派で党首は吉田茂) 131議席
  • 民主党(旧民政党の緊縮財政派で党首は芦田均) 124議席
  • 国民協同党(中道派で党首は三木武夫) 31議席

国民は社会党を選びました。これは新たな政策に期待していた結果だったのです。

1947年 – 60歳「内閣総理大臣就任」

片山哲内閣後に総理大臣となる芦田均

内閣総理大臣就任

日本社会党は政権を担うのですが、片山は第1党になる事を想定していませんでした。更に過半数の議席は取れず、民主党と国民協同党と連立を組みます。ただ思想も政策も異なる為、足並みが揃いません。

片山は自由党の吉田茂にも入閣を求めますが、日本社会党の中に共産主義者がいる事に難色を示し、合同には加わりませんでした。3党合同という政権に不安を感じたとも言われます。

内閣倒閣

アメリカとソ連(社会主義国)と対立が深まるにつれ、日本はソ連中国の防波堤の役割を担わされます。1948年1月にはアメリカは日本を資本主義国家とし、自衛隊の保持を認めると方針を変更。大企業の多くは賛同しました。

片山内閣では企業や石炭の国営化を目指しており、アメリカの方針と対立。同時期に臨時石炭鉱業管理法をめぐり民主党の幣原喜重郎が造反します。日本社会党内でも対立が起こり、片山は2月10日に退陣を表明しました。

1950年 – 63歳「日本社会党の委員長を退く」

憲法擁護国民連合に在籍時の片山哲

選挙での落選

1948年10月に自由党の吉田内閣が発足し、日本社会党は野党へ転落。翌年1月の選挙で日本社会党の議席は48に減り、片山は落選したのです。自身を顧みる為に片山は5月に欧州へ外遊し、翌年に委員長を辞します。

1951年にサンフランシスコ平和条約が締結されますが、社会主義国のソ連や中国とは締結されていません。日本社会党は講和の是非をめぐり、

  • 社会党左派(講和条約反対・思想はソ連中国寄り)
  • 社会党右派(講和条約賛成・思想はイギリス寄り)

に分裂しました。

国会復帰を果たす

1952年には片山は社会党右派から立候補し、トップ当選を果たします。当時の日本は吉田茂内閣による保守政策や憲法改正が議論に上がっており、片山は反対の立場を取っています。

1954年1月に片山は憲法擁護国民連合を結成。労働組合の中央組織(総評)等の144団体が賛同しています。この団体はフォーラム平和・人権・環境と名を変え、現在にも続いていくのです。

1955年 – 68歳「野党の重鎮となる」

自由民主党の結成時の様子

日本社会党の再統一

1955年の選挙で日本社会党は左右合わせて158議席となり、全体議席の1/3を占めました。両党は政権を奪還する為、10月に再統一を果たします。それに合わせて自由党と日本民主党は合同し、自由民主党を結成しました。

1956年にソ連と国交が正常化された事で、国交が回復されていない主要国は中国のみとなりました。片山はそれに先立ち1957年に日中国交回復国民会議を開催。代表委員として毛沢東とも2度会見を行っています。

1963年 – 73歳「政治家を引退する」

民主社会党

引退ならぬ勇退

片山は1960年に民社党を結成し最高顧問に就任した他、世界連邦運動にも参加しています。憲法改正に反対し、中国への友愛を図る等、野党の重鎮として存在感を示し続けました。

しかし政治家の世代交代が進む中、1963年の選挙で落選。これを機会に73歳で政治家を引退しました。その後も平和への情熱は冷める事はなく、

  • 1971年 国際平和協会会長
  • 1973年 酒害予防協会会長

等の活動を続けました。

1978年 – 90歳「片山哲死去」

藤沢市にある片山哲の銅像

死の直前まで平和を願う

片山は死の前年は寝たきりでした。1977年に中国大使の符浩氏が片山の元を訪ねています。福田赳夫内閣が日中友好条約を締結を目指した時期であり、片山は弱る身体で口頭で書簡を作り、嘆願書を提出しています。

1978年5月30日、片山は家族に手を握られて老衰で亡くなります。享年90歳。死の直前まで「平和を 平和を」と繰り返し口にしていました。

それから数ヶ月後の8月12日に悲願だった日中友好条約が締結されています。

片山哲の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

誇り高き宰相・第四十六代総理大臣 父・片山哲を語る

著者は実の息子である清水純。父親としての片山についても触れています。親子ゆえに美化した部分もあるものの、片山の人物像に触れるには最適です。

池上彰と学ぶ日本の総理 第30号 幣原喜重郎/片山哲/芦田均 (小学館ウィークリーブック)

池上彰が総理大臣について深く掘り下げていく書籍です。片山だけでなく幣原喜重郎と芦田均も取り上げられており、戦後の日本について学ぶにもオススメの本となります。

戦後史のなかの日本社会党―その理想主義とは何であったのか (中公新書)

社会系の政党は片山が総理大臣として政権を担うものの、単独政権は果たせずに時代の中に消えていきます。冷戦、派閥抗争、そして片山哲という存在を社会主義の観点から分かりやすく教えてくれる本です。

おすすめの動画

【日本史】 現代5 昭和戦後5 占領下の日本5 (15分)

戦後間もない時期の総理大臣と政策について詳しく述べられています。映像授業動画ですが、分かりやすい為、この時期の歴史を学びたい人にオススメです。

おすすめの映画

保阪正康解説 日本ニュースが伝えた戦中・戦後 ~昭和・激動期の首相たち~ 第9回 東京裁判・社会党政権誕生 〜片山哲内閣〜 [DVD]

映画というより片山の記事を集めたドキュメンタリーです。東京裁判や公職追放で国の指導者か不在になる中、社会党や片山の思想に期待が高まる様子が克明に分かります。

関連外部リンク

片山哲についてのまとめ

今回は片山哲について紹介しました。片山はクズ鉄と呼ばれていますが、短い政権の中で様々な改革を成し遂げています。残念なのは連立政権だった事と、アメリカの方針転換でしょうか。

片山政権が続いていたら日本はどのような発展を遂げたのか、少し考えてしまいますね。

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2 COMMENTS

繁田哲夫

 繁田哲夫と言います。自分の名前、哲夫は、片山 哲さんの「哲」から、父が名付けたと聞いています。父は、社会党の党員でした。

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荒井康全

片山 哲さんに関してきわめて公平にしてまた愛情を感じる記述です。片山さんの政権の昭和23年は私は小学校4年生でした。終戦で食べるものに事欠き、学校はガラス窓は紙で補修され、机も二人かけを三人かけで授業を受ける状況でした。父は電機会社にあって労組の初代の委員長であり、この年に社会党から川崎市議に当選しています。その関係で、わが家は、片山さんを尊敬しており、イギリス労働党を範とする社会主義そしてキリスト教的な倫理をもつこの方にこれからの日本人の在り方を学ぶ想いでした。政権は、GHQ支配とはいえ、その後の日本の基本枠組みを決定づける法制をすすめ、こどもこころにもこころ踊る新生日本をおもわせたものがあると思います。政治力学からみれば議員数が過半に満たず、内閣のなかみはガタガタであったことを後に知りますが、短命であったことにに落胆をおぼえました。「グズ哲」というあだ名になにか不可解なもの、そしてそのあとの政権が「反動」とよばれた日本の政治位置回転の不安定さを肌に感じたことを思い出します。しかし、わが家の片山さんへの敬意はその後も底流で生きていたとおもいました。この記事をみながら、秀才で、東大法学部で、大抵は役人か大企業にて自らの将来を選ぶであろうなか、一円料金の社会派弁護士として、実践的キリスト教伝道を社会改革運動という形で無産党に身を投ずるというのはなみの人ではない。明治開国以降、日本にはこのような出世主義と一線を画す高潔なる人たちの群像があったことをもっと知っていてよい。また、誇りとして称揚してよいと思いました。そういえば高校時代に学校が藤沢にあり通学の湘南電車二等車の戸だまりに乗車すると、あとから、しずかに乗車してくるハットの紳士があった、あっ、片山さんだと、ひそかに身に緊張を感じたことを昨日のようにおもいだします。

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