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カデシュの戦いとは?原因や結末、その後の影響まで解説

「カデシュの戦いってなに?」
「カデシュの戦いは、いつ、どこで、誰と誰が戦ったの?」
「カデシュの戦いの後で結ばれた平和条約とは?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。カデシュの戦いとは、紀元前1286年頃にシリア西部のオロンテス川周辺で起きたヒッタイトとエジプト新王国の戦いです。カデシュとは、戦場の地名です。

カデシュの戦い地図

シリア・パレスティナ地方の覇権をめぐって争っていたヒッタイトとエジプト新王国が戦ったカデシュの戦いは詳細な戦闘記録が残されています。戦闘は膠着状態となり、両国は記録に残る世界最古の平和条約であるカデシュの平和条約を結びました。

この記事では、古代オリエントで行われたカデシュの戦いとオリエント史を動かしたヒッタイト、エジプト新王国、戦いの時の両国の王、戦闘後に結ばれたカデシュの平和条約について解説します。

カデシュの戦いとは

戦車に乗って戦うラムセス2世

紀元前1286年、小アジアを拠点とするヒッタイトとエジプト新王国は両国の中間地点にあたるシリア・パレスティナ地方をめぐって激しい戦いを繰り広げました。それが、カデシュの戦いです。

戦闘はムワタリ王率いるヒッタイト軍が優勢でしたが、エジプト王ラムセス2世の奮戦によりエジプトが巻き返し、膠着状態となります。結局、カデシュの戦いは引き分けとなり、両軍は兵を引きました。

戦闘終結後、ヒッタイトとエジプトは世界最古の国際条約とされるカデシュの平和条約を結びました。カデシュの平和条約ではシリア・パレスティナ地方の交易ルートを両国が分割支配することで合意します。

カデシュの平和条約により、戦闘後、カデシュ周辺地域はヒッタイトの支配下に入りました。

戦いの原因とは?

小アジア東部を支配するヒッタイトとエジプト新王国はどうして戦争を行ったのでしょうか。戦争の原因は、両国が中間地点にあたるシリア・パレスティナ地方の支配権をめぐって争ったからでした。

エジプトとヒッタイトの中間に位置するシリア・パレスティナ地方は交通の重要地点として栄えました。そのため、ヒッタイトもエジプト新王国もシリア・パレスティナ地方を支配して、交易の利益を独占したいと考えます。

北からシリア・パレスティナ地方に侵入したヒッタイトは現在のレバノンにあたるアムル王国を従属させます。一方、エジプト新王国のラムセス2世は現在のイスラエル周辺にあたるカナン地方を制圧し、その勢いでシリア北部に進出しアムル王国を圧迫し従わせました。

これを知ったヒッタイト王ムワタリはアムル王国を取り戻すため軍団を編成し、エジプト軍と戦うため出撃しました。ラムセス2世も4つの軍団を編成しヒッタイト軍を迎え撃ちました。

両軍の激突

アブシンベル神殿のラムセス2世の壁画

南から4軍団を北上させていたラムセス2世は、ヒッタイト軍がシリア北部のアレッポに集結していることを知ります。ラムセス2世はヒッタイト軍が到着する前に防備が手薄なカデシュを占領しようとしました。

ラムセス2世は進軍スピードを優先したため、4軍団はバラバラに行軍することになります。実は、これこそがヒッタイト王ムワタリの狙いでした。

ヒッタイトは、ラムセス2世にヒッタイト軍の位置について偽情報を流していました。本当は、ヒッタイト軍はカデシュのすぐ近くに来ていたのです。

エジプト軍が分断したことを知ったヒッタイト軍はラムセス2世率いるアメン軍団をおびき出し、後続のラー軍団を撃破してラムセスをカデシュ周辺で孤立させることに成功しました。

ヒッタイト軍は戦車(馬にひかせた戦闘用の馬車、チャリオット)軍団でラムセス2世に襲い掛かります。このとき、ラムセス2世は自ら弓を取りヒッタイト軍を相手に奮戦します。激戦の中、奮戦するラムセス2世の様子が、アブシンベル神殿の壁画として残されています。

戦いの勝敗はどうなった?

王自らが弓を取って戦うエジプト軍の劣勢は変わりませんでした。しかし、突如、ラムセス2世に援軍が現れます。援軍を得たラムセス2世は態勢を立て直しました。

再終結に成功したエジプト軍はヒッタイト軍の戦車隊を追い払います。しかし、ヒッタイト軍も総崩れとならず、両軍はオロンテス川周辺でにらみ合いを続けました。

結局、戦闘の決着がつかず、ヒッタイト王ムワタリはラムセス2世に停戦を申し入れました。ラムセス2世もこれを受け入れ、両軍は兵を引きます。戦いは引き分けに終わりました。

オリエントの歴史を動かした2つの大国

ヒッタイトの都ハットゥシャシュ(現在のボアズキョイ)

“鉄の王国”ヒッタイト

ヒッタイトはインド=ヨーロッパ語族の一派です。紀元前1900年頃に東方からやってきて、現在のトルコにあたる小アジアに国を作りました。

都のハトゥシャッシュを拠点とし、ヒッタイト軍はメソポタミアにあったバビロン第一王朝を滅亡に追いやります。さらに、ミタンニ王国にも軍事的な圧力をかけ、メソポタミア北部に領土を拡大します。

では、なぜヒッタイトはこんなにも強かったのでしょうか。その理由はヒッタイトが周辺諸国にはない鉄の精錬技術を持っていたからです。鉄騎はこれまで使われてきた青銅器に比べ、利便性や強度に優れ、武器としても高い性能を発揮しました。

紀元前1200年頃、「海の民」とよばれる謎の人々がヒッタイトを襲撃し滅亡させます。しかし、その詳細についてはいまだにわかっていません。ヒッタイトの滅亡後、鉄の精錬技術は西アジアから東地中海全体に広がりました。

ナイルの恵みを受けたエジプト新王国

紀元前16世紀中ごろ、エジプトでは新王国とよばれる新しい王朝が生まれました。ヒクソスとよばれた異民族を追い出し、テーベを都として繁栄します。

エジプト新王国の領土を最大にしたのは紀元前15世紀にあらわれたトトメス3世でした。軍事的才能に恵まれたトトメス3世は西アジアやスーダン方面に領土を拡大しエジプト新王国の領土を最大にします。そのため、エジプトのナポレオンとよばれました。

新王国時代のエジプトでファラオの次に力を持っていたのがテーベにいたアメン神の神官たちでした。紀元前14世紀に在位したアメンホテプ4世はアメン神官団の力を削ぐため宗教改革を実施し、都をテル=エル=アマルナに移します。

アメンホテプ4世の実行した改革はアマルナ宗教改革とよばれました。しかし、アメンホテプ4世の死後、即位したツタンカーメンは宗教改革をとりやめ、アメン神信仰に戻します。

ツタンカーメンの死後、新王国は混乱しますが、ハトシェプスト女王やラムセス2世など著名な王が登場し、新王国の力を維持しました。

カデシュの戦いの時の両国の王は?

ヒッタイト人の戦車

ヒッタイト王ムワタリ

ヒッタイト王ムワタリ(ムワタリ2世)は、祖父シュッピルリウマ1世から始まったシリア拡大政策を引き継ぎました。

ヒッタイトはシリアにあったアムル王国やカデシュ王国を属国として従えます。その後、同じくシリア進出をはかるエジプト新王国とたびたび戦いました。

カデシュの戦い以前にも、ラムセス2世の前の王であるセティ1世と戦っています。ムワタリにとってアムル王国やカデシュ王国は絶対に手放せない場所でした。

エジプト王ラムセス2世

ラムセス2世(ラメス2世、ラメセス2世)はエジプト新王国第19王朝の王(ファラオ)です。エジプト新王国では領土を最大にしたトトメス3世と並ぶ名君とされました。

ラムセス2世は24歳で即位し、66年にわたってエジプトのファラオとして君臨しました。その間、多くの后との間に111人の息子と69人の娘をもうけたとされます。その一部、または大半が養子だったともいわれますが、定かではありません。

1881年、エジプトの王家の谷でラムセス2世をはじめ多くのファラオや貴族のミイラが発見されました。現在、ラムセス2世のミイラはエジプト考古学博物館に納められています。

ラムセス2世の死後、エジプトも海の民の襲撃を受けました。これにより、エジプト新王国は大ダメージを受けてしまいます。

終戦後に結ばれたカデシュの平和条約とは

戦いの後、ヒッタイトとエジプト新王国は平和条約を結びました。ヒッタイトとエジプトはシリア・パレスティナ地方を分割統治することを定めます。

ヒッタイトからすれば、エジプトの北上を防ぎ、交易ルートを守ったといえるでしょう。その後、アムル王国は再びヒッタイトに服属します。北上を阻止されたエジプト側からすれば、得るものが少ない戦いでした。

カデシュの戦いに関するまとめ

いかがだったでしょうか。カデシュの戦いはオリエントを支配する2大強国であるヒッタイトとエジプト新王国が真正面からぶつかった戦いでした。鉄のイメージから力押しをしてきそうなヒッタイトが、実は策略を用いてラムセス2世を危機に陥れたのは驚きでした。

一方、ラムセス2世は戦いに勝利できませんでしたが、戦闘の様子を神殿に描かせ、勇猛に戦ったファラオとしてのイメージを広める戦略とします。
両国の間で結ばれた世界最古の国際条約は、戦争と条約の締結がワンセットとなる西洋の歴史の始まりでもありました。

カデシュの戦いとはどんな戦いなのか、カデシュの戦いの勝者は誰なのか、カデシュの戦いの時の王(ファラオ)は誰だったのかについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

それでは、長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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