「カデシュの戦いってなに?」
「カデシュの戦いは、いつ、どこで、誰と誰が戦ったの?」
「カデシュの戦いの後で結ばれた平和条約とは?」
この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。カデシュの戦いとは、紀元前1286年頃にシリア西部のオロンテス川周辺で起きたヒッタイトとエジプト新王国の戦いです。カデシュとは、戦場の地名です。
シリア・パレスティナ地方の覇権をめぐって争っていたヒッタイトとエジプト新王国が戦ったカデシュの戦いは詳細な戦闘記録が残されています。戦闘は膠着状態となり、両国は記録に残る世界最古の平和条約であるカデシュの平和条約を結びました。
この記事では、古代オリエントで行われたカデシュの戦いとオリエント史を動かしたヒッタイト、エジプト新王国、戦いの時の両国の王、戦闘後に結ばれたカデシュの平和条約について解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
カデシュの戦いとは
紀元前1286年、小アジアを拠点とするヒッタイトとエジプト新王国は両国の中間地点にあたるシリア・パレスティナ地方をめぐって激しい戦いを繰り広げました。それが、カデシュの戦いです。
戦闘はムワタリ王率いるヒッタイト軍が優勢でしたが、エジプト王ラムセス2世の奮戦によりエジプトが巻き返し、膠着状態となります。結局、カデシュの戦いは引き分けとなり、両軍は兵を引きました。
戦闘終結後、ヒッタイトとエジプトは世界最古の国際条約とされるカデシュの平和条約を結びました。カデシュの平和条約ではシリア・パレスティナ地方の交易ルートを両国が分割支配することで合意します。
カデシュの平和条約により、戦闘後、カデシュ周辺地域はヒッタイトの支配下に入りました。
戦いの原因とは?
小アジア東部を支配するヒッタイトとエジプト新王国はどうして戦争を行ったのでしょうか。戦争の原因は、両国が中間地点にあたるシリア・パレスティナ地方の支配権をめぐって争ったからでした。
エジプトとヒッタイトの中間に位置するシリア・パレスティナ地方は交通の重要地点として栄えました。そのため、ヒッタイトもエジプト新王国もシリア・パレスティナ地方を支配して、交易の利益を独占したいと考えます。
北からシリア・パレスティナ地方に侵入したヒッタイトは現在のレバノンにあたるアムル王国を従属させます。一方、エジプト新王国のラムセス2世は現在のイスラエル周辺にあたるカナン地方を制圧し、その勢いでシリア北部に進出しアムル王国を圧迫し従わせました。
これを知ったヒッタイト王ムワタリはアムル王国を取り戻すため軍団を編成し、エジプト軍と戦うため出撃しました。ラムセス2世も4つの軍団を編成しヒッタイト軍を迎え撃ちました。
両軍の激突
南から4軍団を北上させていたラムセス2世は、ヒッタイト軍がシリア北部のアレッポに集結していることを知ります。ラムセス2世はヒッタイト軍が到着する前に防備が手薄なカデシュを占領しようとしました。
ラムセス2世は進軍スピードを優先したため、4軍団はバラバラに行軍することになります。実は、これこそがヒッタイト王ムワタリの狙いでした。
ヒッタイトは、ラムセス2世にヒッタイト軍の位置について偽情報を流していました。本当は、ヒッタイト軍はカデシュのすぐ近くに来ていたのです。
エジプト軍が分断したことを知ったヒッタイト軍はラムセス2世率いるアメン軍団をおびき出し、後続のラー軍団を撃破してラムセスをカデシュ周辺で孤立させることに成功しました。
ヒッタイト軍は戦車(馬にひかせた戦闘用の馬車、チャリオット)軍団でラムセス2世に襲い掛かります。このとき、ラムセス2世は自ら弓を取りヒッタイト軍を相手に奮戦します。激戦の中、奮戦するラムセス2世の様子が、アブシンベル神殿の壁画として残されています。
戦いの勝敗はどうなった?
王自らが弓を取って戦うエジプト軍の劣勢は変わりませんでした。しかし、突如、ラムセス2世に援軍が現れます。援軍を得たラムセス2世は態勢を立て直しました。
再終結に成功したエジプト軍はヒッタイト軍の戦車隊を追い払います。しかし、ヒッタイト軍も総崩れとならず、両軍はオロンテス川周辺でにらみ合いを続けました。
結局、戦闘の決着がつかず、ヒッタイト王ムワタリはラムセス2世に停戦を申し入れました。ラムセス2世もこれを受け入れ、両軍は兵を引きます。戦いは引き分けに終わりました。
“再終結”?