安藤忠雄は、日本で最も有名な建築家の一人です。表参道ヒルズや地中美術館、大阪の光の教会など多くの有名建築を残しました。また、現在では当たり前に用いられているコンクリートの打ちっぱなしを世に広めた人物として知られています。
安藤の建築は、日本だけではなく世界中に広がりを見せています。例えば、アメリカのテキサス州にある「フォートワース現代美術館」や上海の「上海保利大劇場」は、安藤建築のなかでも傑作であると高く評価されています。安藤は世界中から優れた建築家として認められているのです。
また、安藤は教育者としても一流の功績を残しました。自身の設計事務所から巣立った建築家として、山口隆や芦澤竜一、芦澤竜一らがいます。また、長年東京大学で教鞭をとった安藤は、定年後に史上初となる東京大学特別名誉教授の役職を与えられています。
この記事では、安藤の代表的な建築物を写真とともに紹介しつつ、安藤の性格やこだわり、武勇伝など内面的な面も合わせて紹介していきたいと思います。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
安藤忠雄とはどんな人物か
名前 | 安藤忠雄 |
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誕生日 | 1941年9月13日 |
生地 | 大阪府大阪市港区 |
配偶者 | 安藤由美子 |
出身校 | 大阪府立城東工業高等学校 |
安藤忠雄の生涯をハイライト
安藤忠雄の生涯について、はじめに簡単にご説明したいと思います。
- 1941年に双子の兄として大阪で生まれる
- 中学生の頃に建築に興味を持ち建築家への道を志す
- 経済上の理由で大学には通えなかったが、一日15時間の勉強により独学で建築士の資格を取得
- 建築事務所のアルバイトで得た収入をもとに世界を放浪する度に出る
- 安藤忠雄建築研究所を大阪に設立し多くの設計を行う
- 表参道ヒルズ、地中美術館など数多くの著名な建築物を残す
安藤忠雄の性格は?
安藤忠雄は、面白く軽妙な語り口をもった「大阪のおじちゃん」ということばが似合うような人柄です。仕事についてはストイックで、徹底的に合理性を追求する性格です。
一方で、そのこだわりの強さから周囲と衝突することも多かったと言われています。代表作である「住吉の長屋」では、なんと依頼主である建築主と衝突し、安藤は住宅の機能性を残ったとしても光と風を活用した自然あふれる建築を行いたいと考え、依頼主の要望をほぼすべて無視して、トイレに行くにも一度外に出なければならないなどの使い勝手が悪い住宅を作り上げました。
しかし、その結果「住吉の長屋」はその芸術性の高さから、建築の世界で大きな注目を集めることになりました。
安藤忠雄の代表的な建築作品は?
安藤の作品で最も有名なのは我々の身近にもある東京の表参道ヒルズです。原宿駅を出てすぐにあるこの建物は、安藤忠雄の代表的な作品として知られています。
また、ベネッセとの関連も深い安藤は、アートの島として知られる香川県直島のベネッセハウスや地中美術館の設計も行っており、これらも安藤の代表的な建築物として知られています。
安藤忠雄の安藤忠雄の建築へのこだわりは?
安藤忠雄の建築物は、コンクリートと自然の光を調和させることで評価されています。コンクリートを装飾せず利用する、いわゆる「打ちっぱなし」を世に広めたのは安藤忠雄であると言われています。
コンクリートの無機質さと自然光などの自然物を併用することで、調和の取れたデザインを作り上げています。
安藤忠雄の功績
功績1「コンクリートの打ちっぱなしによる独創的なスタイルを作り上げた」
光の教会に代表されるように、コンクリートを用いた幾何学的で独創的なデザインを得意としています。今ではコンクリートの打ちっぱなしはお洒落なデザインとして世に広まっていますが、このスタイルを作り上げたのは安藤忠雄であると言われています。
コンクリートの打ちっぱなしの魅力を世に伝えたのは安藤の大きな功績と言えるでしょう。
功績2「史上初の東大特別名誉教授に就任」
安藤忠雄は、史上初めて東大の特別名誉教授に就任しました。特別名誉教授は素晴らしい功績をあげた人物に贈られる称号で、現在ではノーベル賞を受容した小柴昌俊、梶田隆章などがわずか6名が名前を連ねる希少なポジションです。
安藤は、世界的に通用するその実績や晩年の東京大学での功績が認められ、特別名誉教授の栄誉を与えられました。
安藤忠雄の名言
人生というのは所詮どちらに転んでも大した違いはない。ならば闘って、自分の目指すこと、信じることを貫き通せばいい。
安藤忠雄は、若い頃に世界を放浪する旅に出ました。その中でインドのガンジス川を見て、死者の横で沐浴する人達を見て、この名言のようなことを考えたと語っています。
人間にとって本当の幸せは、光の下にいることではないと思う。その光を遠く見据えてそれに向かって懸命に走っている、無我夢中の時間の中にこそ、人生の充実がある。
安藤忠雄は、安住の地から抜け出して戦い続けることの重要性を度々語っています。自分の理想のために戦い続けることが人生を充実させるポイントであると言います。
安藤忠雄にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「実はプロボクサーだった時代があった」
実は、安藤忠雄は一時期プロボクサーだった時代がありました。安藤は高校在学中の17歳の時にプロボクサーのライセンスを取得し、フェザー級でデビューします。リングネームは「グレート安藤」だったそうです。
以後、プロボクサーとして10試合戦いましたが、自身の身体能力に限界を感じて1年半ほどでボクシングから引退しました。
都市伝説・武勇伝2「独学で建築士の資格をとった」
安藤忠雄は、金銭的な理由で大学に通うことができませんでした。しかし、建築に興味があった安藤は独学で建築士の資格を取得することを決意します。
建築士の資格は本来は大学に通って学ぶべき難関試験です。その試験に合格するため、安藤は一日15時間勉強をしたといいます。そして、大学で4年かけて学ぶ内容を1年半で学習したといいます。
都市伝説・武勇伝3「世界を放浪する旅に出たことがある」
安藤忠雄は、24歳の時から4年間アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジアへ放浪の旅に出ました。当時はようやく海外への個人旅行が認められた時代で、安藤も出発する前に知人に「もう二度と帰れないかもしれない」と告げて旅立ったと言われています。
このときの旅で得た経験は、自身の設計思想に大きな影響を与えたと安藤は後に語っています。
安藤忠雄の簡単年表
安藤忠雄は、1941年に大阪の港区に生まれました。生まれたあと、母方の家系に養子として引き取られ、学生時代を大阪の下町である旭区で過ごします。安藤が暮らした家は、小さい長屋だったそうです。
安藤忠雄は、一般人の海外旅行が自由化されるとすぐに海外を放浪する旅にでました。この旅でランス、イタリアなどのヨーロッパやインドをめぐります。この旅は建築士としてのキャリアに大きな影響を与えたものであったと後に語っています。
安藤忠雄は若くして独立し、自身の建築事務所を立ち上げます。そして、若い頃は主に個人の住宅の設計を生業としていました。その建築技術の高さが認められ、徐々に大口の顧客も獲得するようになります。この時期に、「住吉の長屋」などに代表されるようにコンクリートを用いた打ちっぱなしの設計技法を完成させていきます。
その後も安藤忠雄は多くの傑作を残し続けました。そして、晩年である2005年にはこれまでの功績が認められ、東京大学が新たに設置した「特別名誉教授」という役職につくことになります。
安藤の建築は日本全国はもちろんのこと、全世界に多く残され、愛されています。