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竹中半兵衛の子孫とは?天才軍師の息子や孫、現在の子孫を紹介

戦国時代に活躍した軍師、竹中半兵衛は若くしてこの世を去りました。彼の死で竹中家の血筋が絶えてしまったようなイメージがありますが、実は彼の死後も竹中家は旗本として江戸時代を乗り切り、なんと現代でも子孫が活躍しています。

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竹中家はなぜ現代まで続いているのか、その秘密を解明して行く上で重要な存在となるのが半兵衛の息子の「重門」と幕末に活躍した「重固」、そしてその娘の「鶴」です。

そこで今回は、竹中半兵衛の子孫の方々について詳しく紹介していきます。

竹中半兵衛の子孫を紹介

禅幢寺(ぜんとうじ)所蔵の竹中重治像

今回登場する竹中半兵衛と子孫の方々です。現在の当主・竹中重男氏で17代目なので、かなり抜粋して紹介しています。竹中家が長い間続いてきたことがよくわかりますね。

竹中重治(半兵衛)

半兵衛は通称。同じ軍師である黒田官兵衛とともに豊臣秀吉に仕え、活躍をしました。36才の若さで、息子の重門を残して世を去ります。

竹中重門

半兵衛の長男。関ヶ原の戦いのときは徳川方として戦います。このときの手柄のおかげで竹中家は旗本になり、現代まで生き残ります。

竹中重常

半兵衛の孫にあたります。

竹中重明(13代)

14代・重固の養父。明治になってから重固とともに北海道に入植します。

竹中重固(14代)

幕府では陸軍奉行を務め、戊辰戦争後は北海道で殖産事業に取り組みました。

竹中鶴(15代)

重固の3人いた娘の1人です。明治になって平民となった竹中家の生活を支えるために、ある仕事を始めます。

竹中重男(17代)

昭和10年生まれの重男氏は鶴が始めた仕事を受け継ぎ、妻とともに現代に伝えています。

竹中半兵衛の長男「重門」

重門が築城したと言われる竹中氏陣屋(岩手城)の櫓門

半兵衛の長男・重門は父を失ったときはまだ6歳という幼さでした。そこで父のいとこにあたる竹中重利の後見を受けることになりました。

また、半兵衛は同時期に活躍した黒田官兵衛の長男の命を救ったことがありました。半兵衛の死後も官兵衛はその恩を忘れず、重門が元服するときの烏帽子親を務めたということです。

烏帽子親とは
当時、武家の男子が成人するときの儀式を元服と言い、成人する男子はこのとき初めて烏帽子という帽子をかぶせてもらい、一人前の正装をしました。この烏帽子をかぶせる役目を担う人を烏帽子親と言い、わざわざ有力者に頼むこともありました。

烏帽子親は成人後の生活に長い間関わり、面倒を見ることも多かったため、これを引き受けた官兵衛は、重門の将来についても真剣に考えていたはずです。

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半兵衛は若くして亡くなったとは言え、父親としての愛情が残り、重門を育んだのかもしれません。後で詳しく説明しますが、この重門こそ現代まで続いていく竹中家の鍵になる人物です。

江戸時代から明治にかけての竹中家

江戸時代、竹中家は旗本になりますが、それに貢献したのが先程の重門です。

成長した重門が仕えたのは、父と同じ豊臣秀吉でした。しかし、関ヶ原の戦いで彼は東軍(徳川方)として戦います。そこにはどんな経緯があったのでしょうか。

旗本になった「重門」

関ヶ原の戦いの黒田長政・竹中重門陣跡

関ヶ原の戦いでは、最初は重門も豊臣方につこうと考えていたはずです。しかし幼馴染の黒田官兵衛の息子・長政(官兵衛が烏帽子親を務めるほどでしたから、長政と重門は仲が良かったそうです)は徳川方につき、早くから徳川方に有利にことが運ぶように手を尽くしていました。

長政によって、この情報も重門の耳に入っていたのかもしれません。

結果、重門は徳川方として戦い、敵の小西行長を捉えるという手柄を立てます。これに対しては徳川家康から直筆の感謝状をもらっているということです。

こうして竹中家は旗本となり、長い江戸時代を乗り切っていきます。旗本ではありましたが、参勤交代を許される家柄だったということです。重門がいなければ、竹中家は豊臣方として戦って破れ、滅亡してしまったかもしれません。

幕末に活躍・15代当主「重固」

竹中重固

竹中家14代目の当主・重固は幕府では陸軍奉行を務め、戊辰戦争では函館戦争に参戦しました。新政府軍に投降して、許された後は士族の貧しい生活を救うために北海道の殖産事業に力を尽くします。

明治に入り、平民になった竹中家の生活は厳しいものでしたが、それを支えたのが娘の鶴です。鶴は重方の3人いた娘の1人でしたが、竹中の名字を継いでいます。家を絶やしてはいけないという責任感が強かったことがわかります。

そんな鶴が始めた新しい仕事により、竹中家の生活は今までとは違ったものになっていきます。

竹中家が絶えなかったのは幸運だった?

竹中重治の墓 三木市平井山

竹中半兵衛が亡くなったのは36歳、現代ならまだ独身という人も多い年齢です。そして半兵衛は正室だった得月院だけを愛し、生涯側室を持ちませんでした。

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これは戦国武将としてはとても珍しいことです。昔の人が側室を持ったのは、個人的な趣味と言うよりも、自分の子孫を確実に残すための保険でした。

半兵衛はそれをしなかった上に、子どもは重門1人だったと言います。もし重門に何かあったら、その時点で竹中家は滅亡したでしょう。竹中家が現代まで続いているのは、運も味方したからだと言えます。

現在、竹中半兵衛の子孫たちの生活とは

かつて旗本だった竹中家の現代の子孫はとても意外な生活を送っています。それは東京都内で雛人形の製作所を経営して、見る人の心を癒やす人形作りをするというものです。

重固の娘・鶴が始めた新しい仕事というのは人形作りだったのです。

重固の娘「鶴」が始めた人形作り

鶴屋半兵衛の人形

鶴が人形制作を始めたのは明治25年ごろ、鶴は18歳くらいでした。

最初は内職のようなものだったそうですが、鶴の技術は受け継がれ、現在は鶴から数えて3代目の当主・重男氏が夫婦で人形作りをしています。お二人が今も参考にするのは、鶴の人形作りだということです。

屋号として現在も「鶴屋半兵衛」という名前が使われています。「鶴」と「半兵衛」、2人の名前が入った屋号には、竹中家の人々の誇りが現れています。

現在の当主「重男」

現在の当主・重男氏は竹中家17代目です。半兵衛については小説などで得た知識が多いと語っているので、私たちとあまり変わりがないように思います。

ただ重男氏の父は重固についてよく語っていたそうです。そのためドラマなどで戊辰戦争の場面があると、幕府軍が敗れるのが悲しくて見られなかった、と重男氏は語っています。

重男氏にも重固と同じく3人の娘がいますが、次女と三女は竹中の名字を継いだそうです。誰に言われなくても、この名字を絶やしてはいけないと感じるのでしょう。これからも竹中家は続いていくはずです。

竹中半兵衛の子孫に関するまとめ

早世した天才軍師・竹中半兵衛ですが、ちゃんと子孫を残し、現代までその家系が続いていることがわかりました。

もちろん竹中家の人々の努力や能力があったから、厳しい世の中を渡ってこられたわけですが、それだけでなく運が味方をしたことも大きな要因となっています。

現在も屋号の中に半兵衛の名前が残っていますが、時とともに姿を変えても、自分のルーツである家に誇りを持ち、大切にできるのは素晴らしいことだと感じます。

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