戦国時代に活躍した軍師、竹中半兵衛は若くしてこの世を去りました。彼の死で竹中家の血筋が絶えてしまったようなイメージがありますが、実は彼の死後も竹中家は旗本として江戸時代を乗り切り、なんと現代でも子孫が活躍しています。
竹中半兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】
竹中家はなぜ現代まで続いているのか、その秘密を解明して行く上で重要な存在となるのが半兵衛の息子の「重門」と幕末に活躍した「重固」、そしてその娘の「鶴」です。
そこで今回は、竹中半兵衛の子孫の方々について詳しく紹介していきます。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
竹中半兵衛の子孫を紹介
今回登場する竹中半兵衛と子孫の方々です。現在の当主・竹中重男氏で17代目なので、かなり抜粋して紹介しています。竹中家が長い間続いてきたことがよくわかりますね。
半兵衛は通称。同じ軍師である黒田官兵衛とともに豊臣秀吉に仕え、活躍をしました。36才の若さで、息子の重門を残して世を去ります。
半兵衛の長男。関ヶ原の戦いのときは徳川方として戦います。このときの手柄のおかげで竹中家は旗本になり、現代まで生き残ります。
半兵衛の孫にあたります。
14代・重固の養父。明治になってから重固とともに北海道に入植します。
幕府では陸軍奉行を務め、戊辰戦争後は北海道で殖産事業に取り組みました。
重固の3人いた娘の1人です。明治になって平民となった竹中家の生活を支えるために、ある仕事を始めます。
昭和10年生まれの重男氏は鶴が始めた仕事を受け継ぎ、妻とともに現代に伝えています。
竹中半兵衛の長男「重門」
半兵衛の長男・重門は父を失ったときはまだ6歳という幼さでした。そこで父のいとこにあたる竹中重利の後見を受けることになりました。
また、半兵衛は同時期に活躍した黒田官兵衛の長男の命を救ったことがありました。半兵衛の死後も官兵衛はその恩を忘れず、重門が元服するときの烏帽子親を務めたということです。
当時、武家の男子が成人するときの儀式を元服と言い、成人する男子はこのとき初めて烏帽子という帽子をかぶせてもらい、一人前の正装をしました。この烏帽子をかぶせる役目を担う人を烏帽子親と言い、わざわざ有力者に頼むこともありました。
烏帽子親は成人後の生活に長い間関わり、面倒を見ることも多かったため、これを引き受けた官兵衛は、重門の将来についても真剣に考えていたはずです。
竹中半兵衛と黒田官兵衛の出会いや関係は?友情がわかるエピソードも紹介
半兵衛は若くして亡くなったとは言え、父親としての愛情が残り、重門を育んだのかもしれません。後で詳しく説明しますが、この重門こそ現代まで続いていく竹中家の鍵になる人物です。
元々分家出身の15代目の重固は 14代目の重明から勘当され
別の分家の重時が 重明の養子として 本家の16代目を継いだと聞いていますが……。
ちなみに半兵衛が生まれ育った竹中家の元々の領地(岐阜県揖斐郡大野町)を
先祖代々引き継いだのは 分家だった重時の家系で
今も現地で多くの血縁者が住んでいます。
ちなみに重時が 養子として本家に行ったときは
沢山の牛車に家財道具を運ばせるなど 町中が大騒ぎだったそうです。
一度本家を勘当された重固の子孫が何故 今も本家を名乗るのか疑問です。
重固は竹中の15代目です。
その後男子が継いでいないので、正確には竹中本家は絶えています。
三女の方が16代目を名乗り継いでくださったので、今も継続できています。