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竹中半兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

竹中半兵衛とは、戦国時代から安土桃山時代に活躍した武将です。知略に優れた軍師として名が知られ、木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣として腕を振るい、数多くの戦で功績をあげました。

竹中半兵衛

当時、あの織田信長ですら攻め落としきれなかった稲葉山城(いなばやまじょう)を、内部からとはいえ15人程度の勢力で占領。天才軍師として語り継がれていた諸葛孔明(しょかつこうめい)の名を借り「今孔明」と称されるなど、半兵衛の聡明さを示すエピソードは数多く残されています。

「竹中“半兵衛”」の名がよく知られていますが、実際の名前は「重治(しげはる)」。「半兵衛」の名は通称だと言われています。顔立ち良い美貌を持ちながら36歳という若さで世を去ったというドラマ性もあり、現代では数多くの漫画やアニメ、ゲームのモチーフになっていますね。

しかし、竹中半兵衛の名前を聞いたことはあっても、彼にまつわる逸話を知らなかったり、どんな人物だったのか?具体的にどんな功績をあげた武将だったのか?はあいまいですよね。

そこで今回は、天才武将竹中半兵衛の生涯について解説します。性格や功績はもちろん、36歳という若さでこの世を去った死因まで網羅解説。

この記事を通して、謎多き竹中半兵衛の生涯に迫っていきましょう。

※なお、この記事では年齢を「数え年」で表記させていただきます。ご留意ください。

竹中半兵衛とはどんな人物か

名前竹中重治(通称:竹中半兵衛)
誕生日1544年9月27日
生地美濃(現在の岐阜県)
没日1579年7月6日(36歳)
没地播磨(現在の兵庫県)
配偶者得月院(生没年不明)
埋葬場所不明(墓所は、兵庫県三木市の他、岐阜県垂井町、滋賀県能登川町にも現存)

竹中半兵衛の生涯をハイライト

半兵衛の生誕地である岐阜県大野町にある「半兵衛の生誕地」を示す石碑

竹中半兵衛は、1544年9月美濃国を治める斎藤家の家臣として生まれました。幼少はぼんやりした印象で「あまり武士らしくない少年」だったと記録されている一方で、中国の軍学書に親しむなど後の頭脳の片鱗を見せる部分もあったと伝わっています。

あまり武士らしくない容姿のまま成長した半兵衛でしたが、1556年の長良川の戦いで初陣。父が不在の中、13歳という若さで防衛戦の大将を務め、若年ながら手堅い戦術で敵軍を退ける華々しい初陣を飾りました。

斎藤竜興が家督を継承したのを機に、半兵衛の運命は大きく動き出すことに

その後竹中家の家督を継承した半兵衛は、かねてから美濃へ侵攻していた織田家との戦いに参戦。得意とする「十面埋伏の陣」などの策略を駆使して、織田の大軍相手に一歩も退かない戦いを繰り広げ、戦国に名を上げました。

しかし、斎藤竜興が家督を継承したのを機に半兵衛を取り巻く状況は一変。半兵衛の真面目さを疎ましがる竜興から度重なる冷遇を受けた半兵衛は、なんと内部から斎藤家の居城・稲葉山城を制圧してしまうのです。

実質的に美濃を手にした半兵衛ですが、数か月ほどで稲葉山城を放棄。斎藤家への士官もやめて、隠居生活に入りました。

隠居していた半兵衛を見出した豊臣秀吉

斎藤家を出奔した半兵衛は旧領に戻って隠棲。しかし、後の豊臣秀吉である木下秀吉が半兵衛を表舞台に戻します。自身の配下へと勧誘する秀吉の熱意に負け、半兵衛は秀吉に仕えることとなります。

秀吉の配下となった半兵衛は、「信長包囲網」の戦で大活躍。人脈を生かし相手の裏切りを誘発させた「姉川の戦い」や、敵軍の策略を見抜いた「長篠の戦い」など、頭脳を活かして織田家の勝利に貢献しました。

また、半兵衛は秀吉に同行し中国攻めにも参戦。しかし、中国攻めの真っ最中に病に倒れます。「京都で療養をしてはどうか」と勧めた秀吉の提案を拒否、「武士として戦場で死にたい」と戦場で指揮をとりながら病に倒れ、この世を去りました。

享年は36歳。秀吉の天下を見ることもない若すぎる死でしたが、彼の教えや形見などは黒田官兵衛に受け継がれ、秀吉の天下統一の礎となったのが記録されています。

誇り高く公明正大な気性の持ち主

半兵衛は、誇り高く公明正大な気性の持ち主でした。

ある日の軍議(戦略会議)の最中、半兵衛の息子が用を足しに席を立つと、半兵衛は激怒し息子を怒鳴りつけました。「たとえ失禁しようと、軍議の席を離れることは許さん。むしろ、軍議に聞き入って失禁したというなら、それは家の恥ではなく家の誉れだろう」と。

竹中半兵衛の軍師という立場への誇り高さがよくわかるエピソードでしょう。

竹中半兵衛は12歳の若さで初陣

半兵衛の初陣は、弘治2年(1556年)に起こった長良川の戦いです。

初陣の舞台となった長良川

齋藤道三とその息子齋藤義龍(さいとうよしたつ)の間で起こった家督を巡る内紛で、竹中家は道三側に味方しました。父である重元が不在の中、初陣でありながら大将という大役を任された半兵衛、手堅い籠城戦で勝利を収めています。

しかし、竹中家の奮戦も空しく道三は敗北。竹中家は、戦後も齋藤家に仕えるのを許されますが、やはり遺恨はあったよう。父である重元の留守中に屋敷に襲撃を受けたという話が残っています。

ちなみに、襲撃は半兵衛や弟の重矩、母の妙海大姉の奮戦によって退けられたと語られており、当時の竹中家は文武に優れた様子がうかがえますね。

名馬や名品を持たなかった竹中半兵衛

いつも貧相な馬に乗っていたと言われている半兵衛

半兵衛は、名馬や名品を持たずに過ごしていたとされています。

軍師として戦場を俯瞰するのが多かった半兵衛は、様々な精神的要因で戦流れが変わるのを苦々しく思っていたようです。中でも「名品を惜しんで勝利を逃す」という事態を避けたがっていたのが、記録された発言などから読み取れます。

そのため、半兵衛は「いざという時に捨てても惜しくない」という意味で、名馬や名品を持たずに過ごしていたのだと言います。自分を理解し整え続けていた半兵衛。彼のカッコよさや人気は、こうした信念に裏付けられているわけです。

竹中半兵衛の死因は肺結核

半兵衛の死因は、肺結核だとされています。天正7年(1579年)4月、半兵衛は戦の最中で病に倒れ、その2か月後に戦場で病没しました。

実は病で倒れた際、秀吉は半兵衛に対し「京都に行って療養をしてはどうか」と勧めていました。半兵衛も初めは了承し、京都で養生を始めます。

しかし、自分の命がもう長くないのを悟ったのか、養生を取りやめ再び戦場へ。「戦場で死ぬことこそ武士の本望」と、最後まで戦場に立ち続け36年の短い生涯を駆け抜けました。

半兵衛の墓所は各地に点在していますが、実際に病没した地である兵庫県三木市、平井山観光ぶどう園内が特に有名。今でも地元の方々によって手厚く管理されており、花などのお供え物が絶えないそうです。

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竹中半兵衛の異名は「今孔明」

半兵衛は諸葛孔明になぞられて「今孔明」という異名がある

竹中半兵衛には、三国志の軍師である諸葛孔明になぞらえ「今孔明」という異名があります。「優れた頭脳の持ち主」を示すこの異名は、まさに半兵衛にふさわしいですね。

しかし、半兵衛が生前に「今孔明」で呼ばれた記録は残っておらず、『絵本太閤記』などの史料価値が疑問視される書物で出展されているのがほとんどです。そのため、「今孔明」という異名は「後世の創作である」とする説が一般的だと言えるでしょう。

とはいえ、幾度も秀吉を助け「半兵衛の生前は、儂に怖いものなど何一つとしてなかった」とまで評価されていた半兵衛のことです。異名が創作であったとしても、実際に諸葛亮孔明並の頭脳に例えられても不思議には思えませんよね。

ちなみに織田信長の「第六天魔王」、上杉謙信の「越後の竜」、伊達政宗の「独眼竜」のように、優れた功績を持つ戦国武将の中には異名を持つ人物が大勢います。

竹中半兵衛の功績

功績1「長篠の戦いで秀吉を窮地から救う」

1575年 長篠の戦い

信長包囲網大戦の一つ長篠の戦いで、半兵衛は秀吉を窮地から救いました。

武田軍の陽動に引っかかった秀吉の命令をあえて無視することで、秀吉の危機を救ったのです。「誰某を討った」という槍働き方面の活躍ではありませんが、同時に策略家である半兵衛らしい、彼にしかできない戦働きだったと言えるでしょう。

功績2「わずか数人で稲葉山城を切り崩す」

半兵衛は織田信長ですら簡単に攻め落とせなかった稲葉山城を切り崩す

半兵衛は、僅か数人の手勢で稲葉山城を内部から乗っ取しました。俗にいう「稲葉山城乗っ取り事件」は竹中半兵衛のエピソードとして最も有名です。

戦国時代において、稲葉山城は堅城と名高い城であり、あの織田信長ですらなかなか侵攻しきれなかった難攻不落の城塞でした。もちろん、外部から侵攻せざるを得なかった信長と、内部から行動できた半兵衛では状況の差があるものの、堅城を易々と攻め落とせる手腕は、流石という他ありません。

功績3「信長を騙し松寿丸を救った半兵衛」

徳川家康からも高く評価された黒田長政は、半兵衛によって命を救われた

若くして病に倒れた半兵衛ですが、彼は死の間際まで策を弄し続け、戦国末期に至るため多くの道筋を残しています。

中でもとりわけ有名なのが、「黒田官兵衛の息子である松寿丸を匿い、命を救った」というもの。主君である織田信長の命令に真っ向から逆らう行為でしたが、半兵衛は信頼のおける一部の家臣たちと共謀して松寿丸を匿い、自身の死後に至るまで彼を生き残らせるのに成功しました。

これによって黒田官兵衛と長政父子は、半兵衛に多大な恩を感じたようで、黒田家と竹中家は戦国末期に至るまで積極的に交流。関ヶ原の陣でも、黒田長政軍と半兵衛の息子である竹中重門の軍が隣り合わせで布陣(一説では重門が長政の軍に客将として所属したとも)したとも伝わっており、両家の交流が盛んだったことは記録からも読み取れます。

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