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竹中半兵衛とはどんな軍師?生涯・年表まとめ【死因や子孫、名言についても紹介】

竹中半兵衛とは、戦国時代から安土桃山時代を生きた武将です。知略に優れた軍師として名が知られる人物であり、織田信長の下にいた頃の木下秀吉(後の豊臣秀吉)の家臣として知略と辣腕を振るい、数多くの勝利を秀吉と信長にもたらしました。

竹中半兵衛

当時、あの織田信長ですら攻め落としきれなかった稲葉山城(いなばやまじょう)を、内部からとはいえ15人程度の勢力で占領する。当時でも天才軍師として語り継がれていた諸葛孔明(しょかつこうめい)の名を借り、「今孔明」と称されるなど、彼の頭脳の鋭さを示すエピソードは、数多く残されています。

「竹中“半兵衛”」の名がよく知られていますが、実際の名前は「重治(しげはる)」とされていて、「半兵衛」の名前は通称だと言われています。

歴史書に残されるほどの美貌や、36歳という若さで世を去った天才というドラマ性もあって、現代でも数多くの漫画やアニメ、ゲームのモチーフとなっている人物である竹中半兵衛。しかし、彼自身に関して残るエピソードは、実はそこまで多くありません。

この記事では、そんな謎多き竹中半兵衛のエピソードについて、迫っていきたいと思います。

※なお、この記事では年齢を「数え年」で表記させていただきます。ご留意ください。

竹中半兵衛とはどんな人?

名前竹中重治(通称:竹中半兵衛)
誕生日1544年9月27日
生地美濃(現在の岐阜県)
没日1579年7月6日(36歳)
没地播磨(現在の兵庫県)
配偶者得月院(生没年不明)
埋葬場所不明(墓所は、兵庫県三木市の他、岐阜県垂井町、滋賀県能登川町にも現存)

竹中半兵衛の生涯をハイライト

半兵衛の生誕地である岐阜県大野町には、「半兵衛の生誕地」であることを示す石碑がある。

竹中半兵衛は、1544年9月、美濃国を治める斎藤家の家臣として誕生しました。幼少の半兵衛は、ぼんやりした印象の「あまり武士らしくない少年」だったと記録されていますが、一方で中国の軍学書に親しむなど、後の頭脳の片鱗を見せる部分もあったと伝わっています。

そんな性格のまま、あまり武士らしくはない人物として成長した半兵衛でしたが、1556年の長良川の戦いで初陣。父が不在の中、13歳の若さで防衛戦の大将を務め、若年ながら手堅い戦術で敵軍を退けるという華々しい初陣を飾りました。

斎藤竜興が斎藤家の家督を継承したことで、半兵衛の運命は大きく動き出すことになる。

こうして竹中家の家督も継承した半兵衛は、かねてから美濃へ侵攻してきていた織田家との戦いに参戦。得意とする「十面埋伏の陣」などの策略を駆使して、織田の大軍相手に一歩も退かない戦いを繰り広げ、戦国に名を上げることになりました。

しかし斎藤家中において、斎藤竜興が家督を継承したことで半兵衛を取り巻く状況は一変します。半兵衛の真面目さを疎ましがる竜興から度重なる冷遇を受けることになった半兵衛は、なんと内部から斎藤家の居城である稲葉山城を制圧してしまうのです。

こうして実質的に美濃を手にした半兵衛ですが、なんと彼は数か月ほどで稲葉山城を放棄。斎藤家への士官もやめて、隠遁生活に入ることになりました。

半隠居状態にあった半兵衛を見出したのが、あの豊臣秀吉だった

こうして斎藤家を出奔した半兵衛は旧領に戻って隠棲。しかし、そんな半兵衛を表舞台に戻したのは、後の豊臣秀吉である木下秀吉でした。彼は主君である織田信長からの指示を受け、半兵衛を自身の配下に勧誘しにきたのです。初めは誘いを断っていた彼ですが、熱意に負け、ついには彼に仕えることを了承したのだと言います。

そして、これにより秀吉の配下となった半兵衛は、いわゆる「信長包囲網」との戦において大活躍。人脈を生かして相手の裏切りを誘発させた「姉川の戦い」や、敵軍の策略を見抜いた「長篠の戦い」など、その頭脳を活かして織田家の勝利に貢献しました。

様々な戦で活躍し、それに合わせて秀吉の懐刀としての立ち位置を明確にしていった半兵衛は、当然ながら中国攻めにも参戦。しかし、中国攻めの真っ最中に半兵衛は病に倒れることに。これを受けた秀吉は、半兵衛に「京都で療養をしてはどうか」と勧めますが、半兵衛はこれを拒否。「武士として戦場で死にたい」として、戦場で指揮をとりながら病に倒れこの世を去ることになりました。

享年は36歳。秀吉の天下を見ることもない、若すぎる死でしたが、彼の教えや形見などは黒田官兵衛に受け継がれ、秀吉の天下統一の礎となったことが記録されています。

竹中半兵衛の異名「今孔明」とは?

半兵衛は諸葛孔明になぞられて「今孔明」という異名を頂く

織田信長の「第六天魔王」、上杉謙信の「越後の竜」、伊達政宗の「独眼竜」のように、優れた功績を持つ人気の戦国武将の中には、インパクトのある異名を持っている人物も大勢存在しています。

そんな人物たちの中で、竹中半兵衛も例に漏れることはなく、彼は三国志の軍師である諸葛孔明になぞらえて「今孔明」という異名を戴いています。あたりまえですが「優れた頭脳の持ち主」を示すこの異名は、まさに半兵衛に誂えたようなものだと言えるでしょう。

しかし、半兵衛が生前にこの異名を用いた、あるいはこの異名で呼ばれたという記録は残っておらず、その出典は『絵本太閤記』などの史料価値が疑問視される書物がほとんどです。そのため、この「今孔明」という異名は「後世の創作である」とする説が一般的だと言えるでしょう。

とはいえ、秀吉を幾度も助け、晩年の秀吉から「半兵衛の生前は、儂に怖いものなど何一つとしてなかった」とまで評価されていた半兵衛の事。その異名が創作であったとしても、実際に諸葛亮孔明並の頭脳を持っていても不思議だとは思えません。

竹中半兵衛の初陣はいつ?

半兵衛の初陣は、弘治2年(1556年)に起こった長良川の戦いです。

初陣の舞台となった長良川

齋藤道三と、その息子の齋藤義龍(さいとうよしたつ)の間で起こった、家督を巡る内紛のような戦で、竹中家は道三の側に味方をしました。

父である重元が不在の中、初陣でありながら大将という大役を任された半兵衛でしたが、手堅い籠城戦を行うことで勝利を収めています。

しかし、竹中家の奮戦も空しく道三は敗北。竹中家は、戦後も齋藤家に仕えることは許されますが、やはり遺恨はあったようで、父である重元の留守中に、屋敷に襲撃を受けたという話が残っています。

しかしその襲撃も、半兵衛や弟の重矩、何より母の妙海大姉の奮戦によって退けられたと語られており、当時の竹中家の文武に優れた様子がうかがえます。

竹中半兵衛の主君は?

竹中半兵衛の主君と言えば、やはり有名なのは木下秀吉(後の豊臣秀吉)ですが、実は半兵衛は秀吉に仕える前に、2人の武将に仕えています。

一人目は父が仕えていた齋藤家の当主「齋藤龍興(さいとうたつおき)」。

ただ、この龍興は酒と女に溺れ、一部の家臣に対しての露骨な贔屓や遠ざけなど、お世辞にも有能とは言えない主君でした。

半兵衛も辛く当たられていたようで、龍興の重臣である齋藤飛騨守(一説によると龍興本人とも)から、女性のような容姿をからかわれ、櫓の上から小便を掛けられたという逸話も残っています。

そんな扱いに堪忍袋の緒が切れた半兵衛は、持ち前の知略を駆使し、同じく龍興から遠ざけられていた仲間や家族たちと共に、龍興の居城、稲葉山城を占拠しました。その占拠の際の人数は僅か15人ほどだったと言われ、半兵衛の知略の鋭さを物語っています。

しかし半兵衛は占領の半年後に、突如として稲葉山城を龍興に返還。そのまま齋藤家を去ってしまいます。

稲葉山城を返還した理由は諸説ありますが、どの説も決め手に欠け、判断が付かない状態です。人気がある説としては、「城そのものが目的ではなく、占拠は齋藤龍興を諌めるための行動だったから」というものがあり、半兵衛の清廉な格好良さを印象付けています。

あの豊臣秀吉、ひいては織田家の配下になった半兵衛

齋藤家を去った半兵衛は、北近江(現在の滋賀県)を治めていた浅井長政(あさいながまさ)の客分として雇われます。そこでは客分として、それなりの禄を得ますが、その碌も1年ほどで辞し、自分がかつて治めていた領地に戻って隠棲を始めてしまいます。

そんな半兵衛に目を付けたのが、織田信長でした。

半兵衛に目をつけた信長

信長は、半兵衛の知略と才覚を高く買い、当時目覚ましい功績をあげ出し、出世頭となりつつあった木下秀吉に勧誘を命じます。その勧誘の際に、秀吉は半兵衛を自ら3度(一説では7度)も訪ねる、いわゆる「三顧の礼」をもって半兵衛を勧誘したとされています。

近年では「三国志になぞらえた創作」と見られるエピソードではありますが、劉備に対する諸葛亮の立場として語られる辺り、半兵衛の頭脳に対する評価を物語るエピソードだと言えるでしょう。

ともかく、勧誘を受けて秀吉に仕えることになった半兵衛。一説では、信長に仕えることは拒否していましたが、「あなた(秀吉)になら仕えてもいい」と、秀吉の器に惚れこんで仕官を決めたとも言われています。

秀吉の配下、ひいては織田家の配下となった半兵衛は、やはり智謀を駆使して多くの戦の勝利に貢献します。浅井家時代の人脈を駆使し、調略で勝利に貢献した浅井・朝倉攻めや、血気に逸る秀吉を諌め、軍の被害を最小限にとどめた長篠の戦いなどは、その中でも代表的なものです。

竹中半兵衛と黒田官兵衛の関係は?

齋藤家、浅井家、織田家と、3つの有力な大名家に仕えた半兵衛ですが、同僚との付き合いについては、あまり後世に残っていません。

そんな半兵衛ですが、黒田官兵衛(くろだかんべえ)との関係については、数多くの記録が残されています。互いに知略に優れ、同じく織田家、ひいては秀吉に仕えた身の二人は、現在においても「両兵衛」「二兵衛」と称され、戦国を生きた軍師の代表格として語り継がれている程です。

半兵衛との親交が深かったと言われる黒田官兵衛

「両兵衛」という呼称や、同じ軍師という立場もあってか、今ではコンビとして扱われることも多い半兵衛と官兵衛ですが、実は同じ戦で活躍したことは、記録上は1度しかありません。その期間というのも、天正5年(1577年)に信長が行った播磨攻め(中国攻め)の開始から、半兵衛の病没(1579年)までの僅か2年ほどでしかなく、戦国に名高い智者2人が、揃って秀吉の下で戦ったことは、実はほとんどありませんでした。

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しかし、戦場以外での彼らの親交は深く、その親交を示す様々なエピソードが残っています。

有名なものに、官兵衛の裏切りを疑い、「官兵衛の息子である、松寿丸を殺せ」という信長の命令に対し、半兵衛は危険を冒し、信長から官兵衛への疑いが晴れるまで松寿丸(しょうじゅまる)を、家臣の屋敷に匿ったという逸話があります。

官兵衛も、息子の命を救ってもらった恩からか、半兵衛の死後、その嫡子である竹中重門(たけなかしげかど)の後見人を務めた他、半兵衛から形見分けとして託された軍配と軍団扇を終生大事に扱い、黒田家の家紋として、竹中家が使っていた黒餅紋という家紋を使うようになりました。

共に在った期間は短くとも、同じ主を仰ぎ、知略で戦場を生きた者同士。お互いに通じ合う友情があったことに、疑いを挟める余地はないでしょう。

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竹中半兵衛の性格は?

竹中半兵衛と言えば、先に書いた通り、色が白く線が細い、儚げで女性のような風貌。戦場においては、槍や刀ではなく、天才的な頭脳で勝利へ貢献する天才軍師。

それだけを聞くと、文化人的で物静かな、穏やかな人物像を想像する人が多いかと思います。しかし、記録に残る半兵衛の性格は、どちらかと言えば誇り高い熱血漢で、公明正大な人物。そして何より、あまりに無欲な人物だったそうです。

語り継がれる容姿や、戦場を指揮する軍師のイメージとは異なり、意外と熱血漢だった半兵衛。そんな半兵衛の誇り高い性格を示すエピソードには、こんなものがあります。

ある日の軍議(戦略会議)の最中、半兵衛の息子が用を足しに席を立つと、半兵衛は激怒し、息子を怒鳴りつけました。「たとえ失禁しようと、軍議の席を離れることは許さん」「むしろ、軍議に聞き入って失禁したというなら、それは家の恥ではなく、家の誉れだろう」と。

竹中半兵衛と言う人物の、軍師という立場への誇り高さがよくわかるエピソードでしょう。

竹中半兵衛は貧乏だった?

竹中半兵衛という人物のエピソードを調べていくと、「いつも貧相な馬に乗っていた」「名物コレクターである信長の配下にもかかわらず、様々な名物や名品を持っていなかった」という情報に行き当たります。

半兵衛はいつも貧相な馬に乗っていたと言われている。

これだけを見ると「半兵衛は貧乏侍だったのか?」とも思われるかもしれませんが、実際のところ竹中家は、さほど貧乏だったわけではありません。むしろ秀吉の懐刀として活躍していた以上、同期の武将たちよりも多めの禄(給料)を得ていたとしても不思議ではないでしょう。

では、半兵衛はなぜ貧相な馬に乗り、名物や物品を持たなかったのか。それは単に、竹中半兵衛という人物の性格や性質に由来します。

軍師として戦場を俯瞰する事の多い半兵衛は、様々な精神的要因で戦流れが変わることを苦々しく思っていたようです。その中でもとりわけ「名品を惜しんで勝利を逃す」という事態を避けたがっていたことが、記録された発言などから読み取れます。

そのため、半兵衛は「いざという時に捨てても惜しくない」という意味で、名馬や名品を持たずに過ごしていたのだと言います。

自分も含めた人間心理を理解したうえで、キチンと「やるべき時にやるべき事をやれる」ように自身を整えて続けていた半兵衛。彼のカッコよさや人気は、こう言った人間的な側面にも由来しているのかもしれません。

竹中半兵衛の死因は?

後の天下人である秀吉に仕え、その知略と辣腕を惜しみなく振るった半兵衛ですが、彼が主君の天下をその目で見ることはありませんでした。

半兵衛は天正7年(1579年)4月、戦の最中に病に倒れ、その2か月後に戦場で病没しました。死因は、後の世の沖田総司や高杉晋作と同じ、肺結核だとされています。

実は病で倒れた際、秀吉は半兵衛に対し「京都に行って療養をしてはどうか」と勧めていました。半兵衛も、その勧めを一度は了承し、京都で養生を始めます。しかし、自分の命がもう長くないことを悟ったのでしょう。養生を取りやめ、戦場へと舞い戻り、「戦場で死ぬことこそ武士の本望」と、最後まで戦場に立ち続け、36年の短い生涯を駆け抜けたのです。

前述の通り、半兵衛の墓所は各地に点在していますが、実際に病没した地である兵庫県三木市、平井山観光ぶどう園内のものがとくに有名です。地元の方々によって手厚く管理されたその場所は、現代になっても、花などのお供え物が絶えないそうです。

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竹中半兵衛の功績

功績1「長篠の戦いにて。秀吉を窮地から救う”土壇場の命令違反”」

表立った活躍のエピソードが少ない半兵衛だが、「長篠の戦い」においては明確な戦功が記録されている。

「軍師」という裏方仕事に徹していた半兵衛は、実は表立った功績をさほど残している人物ではありません。彼の献策によって功績を上げるのは、前線に立つ武将や主君である秀吉ということになるため、それも無理からぬことではあるのでしょう。

しかし、信長包囲網の中での大戦の一つ、「長篠の戦い」において、半兵衛は明確に記録された戦功を残しています。

その戦功と言うのは、「武田軍の陽動に引っかかった秀吉の命令をあえて無視することで、秀吉の危機を救った」というもの。

「誰某を討った」という槍働き方面の活躍ではありませんが、同時に策略家である半兵衛らしい、彼にしかできないタイプの戦働きだったと言えるでしょう。

功績2「わずか数人で稲葉山城を切り崩す手腕」

斎藤氏の居城・稲葉山城は、あの織田信長ですら簡単には攻め落とせなかった堅城なのだが…。

竹中半兵衛のエピソードとして最も有名なのは、おそらく「稲葉山城乗っ取り事件」でしょう。僅か数人の手勢で城を内部から乗っ取るその手腕は、それを裏付ける頭脳がなければ間違いなく不可能な行動です。

更に稲葉山城と言えば、戦国時代においても堅城と名高い城であり、あの織田信長ですらなかなか侵攻しきれなかった難攻不落の城塞でした。

もちろん、外部から侵攻せざるを得なかった信長と、内部から行動することができた半兵衛の違いはありますが、それでも堅城を易々と攻め落とせる手腕は、流石という他ありません。

功績3「信長すら騙し通した”半兵衛、最期の大仕掛け”」

戦国末期、徳川家康からも高く評価された黒田長政は、実は半兵衛によって命を救われている。

若くして病に倒れ、そのまま病没してしまった半兵衛ですが、彼はその死の間際まで策を弄し続け、戦国末期に至るための多くの道筋を残しています。

その中でもとりわけ有名なのが、「黒田官兵衛の息子である松寿丸を匿い、命を救った」というもの。主君である織田信長の命令に真っ向から逆らうことになる行動でしたが、半兵衛は信頼のおける一部の家臣たちと共謀して松寿丸を匿い、自身の死後に至るまで彼を生き残らせることに成功しました。

これによって黒田官兵衛と長政父子は、半兵衛に多大な恩を感じたようで、黒田家と竹中家は戦国末期に至るまで積極的に交流。関ヶ原の陣でも、黒田長政軍と半兵衛の息子である竹中重門の軍が隣り合わせで布陣(一説では重門が長政の軍に客将として所属したとも)したとも伝わっており、両家の交流が盛んだったことは記録からも読み取ることができます。

竹中半兵衛にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「十面埋伏の陣」

半兵衛の知略を示すエピソードの中でも有名なものに、「“十面埋伏の陣”によって、織田信長を撤退に追い込んだ」というエピソードがあります。

そのエピソードの中に語られる“十面埋伏の陣”とは、元々は『三国志』中にて語られる陣組みでした。イメージ図としては、以下をご覧下さい。

引用元:ニコニコ大百科より

この陣の強いところは、敵の逃げ道を塞ぎつつ、圧倒的に有利な状況で奇襲ができるところです。しかしそこには、相応のリスクや難しさも伴います。

リスクの第一に、軍の全てを小さな部隊に分けなければならない事です。部隊の人数が少ない程、当然ながら各個撃破されるリスクは高まります。

第二に、敵の進軍経路の予測をほとんど完璧に的中させなくてはならない事です。「敵を取り囲んで倒す」という戦い方が陣組みの肝である以上、少しでも敵の進軍経路がズレてしまうと、陣の効力は途端に薄れてしまいます。

そんな、ハイリスク・ハイリターンな戦術が“十面埋伏の陣”。

使いこなすには天才的な戦術眼が必要な策でしたが、半兵衛はその陣を見事に成功させ、織田軍に壊滅的な被害を与えました。

当時の半兵衛が仕えていた齋藤家の居城は、難攻不落の城と名高く、最終的に城を攻め落とした織田信長も、しばらくの間本拠地として扱った程の名城でした。その「難攻不落」の名声の裏には、もしかすると半兵衛の策略の力があったのかもしれません。

都市伝説・武勇伝2「慣用句『知らぬ顔の半兵衛』」

『山勘』『天王山』など、戦国時代の有名な逸話を元にした慣用句は、意外と多く存在します。そして実は、竹中半兵衛の名前を元にした慣用句も存在しています。

その慣用句は『知らぬ顔の半兵衛』。「あえて素知らぬ顔をして、物事に取り合わない事」を意味する慣用句です。

この慣用句にまつわるエピソードは、二つほど残っています。

一つは、半兵衛が齋藤家に仕えていた時代の話。齋藤家を攻め落とそうとする織田信長は、半兵衛を寝返らせようと、前田利家(まえだとしいえ)を差し向けます。利家はまず、半兵衛の娘である千里と仲良くなり、そこから半兵衛と接点を持ち、寝返りを勧めようと企てます。

しかし、半兵衛は利家の企てを見抜いていました。そのうえで、半兵衛は利家を泳がせ、挙句、自ら利家との接点を持ち、信長や利家の企てとは反対に、利家から織田の兵力や陣組みに関する情報を聞き出してしまったそうです。

もう一つは、先にも少しだけ書いた、長篠の戦での話。秀吉の待機する陣の目前で、攻め寄せる武田の軍勢の一部が、陣の左手へと移動を開始しました。秀吉はこれを「挟み撃ちにされるのではないか」と考えましたが、半兵衛は「陽動なので構う必要はない」と進言。しかし秀吉は従わず、迎撃のために兵を動かしてしまいます。

半兵衛も当然従わなくてはならないのですが、半兵衛は秀吉の命令に従わず、陣から動こうとしませんでした。そしてまもなく、左へと回っていた武田の軍勢は本隊と合流し、半兵衛の待機する陣に攻めかかります。

攻め寄せる武田の軍勢を、半兵衛は何とか食い止め、秀吉率いる本隊の帰還までの時間を稼ぎました。半兵衛が“知らぬ顔”で秀吉の命令を無視したからこそ、壊滅は防がれたと言えるでしょう。

敵の策略にも上司からの命令にも、あえて「知らぬ顔」を決め込むことで大きな戦果を挙げた半兵衛。心の隅にそこから生まれた言葉を留めておくと、何かの役に立つかもしれません。

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竹中半兵衛の生涯歴史年表

竹中半兵衛の早見年表

1544年
美濃国、大御堂城にて誕生
竹中半兵衛は、1544年9月27日に、齋藤道三の家臣である竹中重元の子として生まれました。
長良川の戦いにて、初陣
半兵衛の初陣は、齋藤家内の内部抗争である長良川の戦いです。父の代わりに、初陣の身でありながら、防衛戦の大将という大役を担いましたが、手堅い籠城戦で敵方を退けています。
1560年
竹中家の家督を継承
父の隠居(一説では死去)をきっかけに、半兵衛が竹中家の家督を継承。父と同様に、美濃国を治める齋藤家に仕えます。
1561年~1563年
織田信長による美濃侵攻が激化
激化する織田の侵攻を軍略で撃退し、半兵衛の名声があがり始めます。しかし、主である齋藤家は、暗君である齋藤龍興が家督を継いだこともあり、次第に追い詰められていきます。
1564年
稲葉山城乗っ取り事件
主君である龍興からの冷遇と嫌がらせに、堪忍袋の緒が切れた半兵衛は、龍興の居城である稲葉山城を僅か15人ほどで乗っ取ってしまいます。そして、半年で龍興へ城を返還。そのまま齋藤家を去り、浅井長政の下に身を寄せますが、そこからも1年ほどで去って、隠棲してしまいます。
1567年
木下秀吉、半兵衛を織田家へと勧誘
信長の命を受けた秀吉は、半兵衛を織田家へと勧誘します。半兵衛もその勧誘を受け入れ、以降、半兵衛は秀吉の腹心として、その知恵を振るいます。
1570年
織田信長VS浅井長政、勃発
織田信長と浅井長政が敵対関係になると、半兵衛は浅井家に仕えていたころの人脈を利用し、次々と浅井側の武将や城を寝返らせ、織田の勝利に貢献しました。
1577年
秀吉、中国攻めの指揮官に着任
信長の命により、秀吉が中国地方攻略の指揮官に着任。半兵衛はその懐刀として参戦し、1578年には、敵方の要所である備前八幡山城を調略。落城させ、信長に絶賛されます。
1578年
荒木村重の謀反により、黒田官兵衛が囚われの身に
織田家の重臣、荒木村重(あらきむらしげ)が、中国攻めに乗じて謀反。黒田官兵衛が囚われ、音信不通に。官兵衛の裏切りを疑い、「官兵衛の息子を殺せ」と命じる信長から、半兵衛は密かに、官兵衛の息子を匿うのでした。
1579年
病魔に侵され、陣中にて病没
肺の病を患った半兵衛は、秀吉の勧めもあって、一度は京都で療養を始めます。しかし、死期を悟ったのか、戦場へ帰還。「戦場で死ぬことこそ武士の本望」と戦場に立ち続け、陣中で没しました。

竹中半兵衛の具体年表

1544年 – 1歳「美濃国、大御堂城にて生誕」

1544年、美濃国に命を授かる

現在の岐阜県南部に位置する美濃国で生まれた半兵衛

竹中半兵衛は、1544年9月27日に、齋藤道三の家臣である竹中重元の子として生まれました。

幼少期の頃から、後の天才軍師の片鱗を見せていた……わけではなく、内気で大人しく、本を読むことが好きなインドア派で、どこかぼんやりした印象の、あまり武士らしくない少年であったそうです。

しかし、その幼少期に好んで読んでいた本が、中国の軍学書や三国志であったという話もあり、もしかすると、それが後の天才軍師の片鱗であり、原点だったのかもしれません。

1556年 – 13歳「後の天才軍師、初陣」

長良川の戦い

初陣は岐阜の長良川

長良川の戦いは、齋藤家内部で起きた、いわゆる家督継承戦争です。半兵衛たち竹中家は、その一方である齋藤道三の側に立って参戦しました。

戦が激しさを増す中、竹中家は、当主である重元が不在の中で城を攻められるという難局に立たされます。

そんな中、重元の長男である次期当主、半兵衛は、初陣の身でありながら、総大将という大役に任じられることになります。弱冠13歳の彼が背負わされた重圧は、並大抵のものではなかったでしょう。

そんな重圧の中、半兵衛は手堅く籠城戦を指揮し、見事に父不在の城を守り抜きます。もしかすると、この時点で半兵衛の類稀な戦略眼は発揮されていたのかもしれませんね。

1560年 – 17歳「 家督を継承し、竹中家の当主に」

父の隠居と、家督継承

1560年、父である竹中重元が、半兵衛に家督を譲って隠居します。

父同様に、齋藤家に仕えますが、半兵衛が家督を継いでから1年ほど経った頃、齋藤家当主であった齋藤義龍が急死。その子である齋藤龍興が、齋藤家の当主となります。

1561年 – 18歳「 織田信長の美濃侵攻を、知略を持って退ける」

齋藤家の劣勢

齋藤道三が治めていた時代から、信長は度々、美濃を手中に収めるべく侵攻を繰り返していました。

長い間、信長の侵攻を上手く退け、美濃を統治し続けていた齋藤家でしたが、道三や義龍と比べると凡庸で、まだ年若い龍興が当主となってからはそうもいかず、齋藤家は徐々に劣勢に追い込まれていってしまいます。

半兵衛の策略「十面埋伏の陣」

そんな劣勢の齋藤家の中、半兵衛はその軍師としての才覚を発揮しだします。

侵攻してくる織田軍を、「十面埋伏の陣」という計略を用いて迎撃し、その後の数年、攻め寄せる織田の軍勢に、何度も壊滅的な被害を与え、撤退に追い込みます。

信長を破った半兵衛の十面埋伏の陣

戦場の他にも、半兵衛の調略を狙った前田利家から、逆に織田家の兵力や陣組み等の情報を聞き出すなど、戦の内外を問わずにその頭脳を発揮。冴えわたる智謀をもって、美濃、ひいては齋藤家の居城である稲葉山城の防衛に、大きく貢献したようです。

結局、信長が美濃を手中に収めたのは1567年。半兵衛が齋藤家を去った3年後のことでした。半兵衛の出奔から、急速に齋藤家の力が弱まっていったことも相まって、信長にとって、いかに半兵衛が脅威だったのかが伺えます。

1564年 – 21歳「 半兵衛、齋藤家を去る」

龍興からの嫌がらせ

半兵衛の主君であった齋藤龍興は、一言で言って、暗君でした。

酒と女に溺れて、政治を顧みることはなく、自分の周りにはイエスマンばかりを置き、耳の痛いことを言う忠臣達を自分から遠ざけ、冷遇するような人物だったとのこと。

中でも、龍興から重用されていた齋藤飛騨守(さいとうひだのかみ)と半兵衛の相性は最悪だったようです。有名な逸話の中に、飛騨守が半兵衛に対し、櫓の上から小便を引っ掛け、その女性のような容貌を嘲笑したという逸話があります。

しかし半兵衛は、龍興や飛騨守からの嫌がらせにも知らぬ顔。ますます調子づく龍興と飛騨守でしたが、それで終わる半兵衛ではありませんでした。

稲葉山城乗っ取り事件

信長を破り半兵衛が手に入れた稲葉山城

度重なる嫌がらせに、半兵衛の堪忍袋の緒はとっくに切れていました。

彼は同じく冷遇されていた西美濃三人衆の一人、安藤守就(あんどうもりなり)らと共に、「病気の弟の見舞いだ」と理由を付けて稲葉山城の奥深くに侵入。看病のための道具や、見舞いの品に偽装した荷物から、刀などの武装を取り出し、齋藤飛騨守ら6名を、瞬く間に討ち取ってしまいます。

そんな半兵衛に恐れをなした龍興は、稲葉山城から逃亡。半兵衛は、信長が喉から手が出るほど欲しがり、数年以上をかけても手に入れることが叶わなかった稲葉山城を、内部から数日も掛からずに手に入れてしまったのです。

このエピソードでとりわけ語られるのは、半兵衛と共に稲葉山城を攻略した者たちの人数でしょう。

その人数はなんと、たったの15人程度だったと語られています。

策略をもって信長すら手玉に取り、僅かな手勢で城を落とす手腕。天才軍師である竹中半兵衛は、この時点で完全に花開いていたと言えるでしょう。

稲葉山城の返還と、齋藤家からの出奔

稲葉山城を内部から落とし、手に入れた半兵衛ですが、わずか半年程度で、城を龍興に返還してしまいます。

返還した理由については諸説ありますが、人気がある説としては「城を手に入れることが目的ではなく、龍興を諌めることが目的だったから」。近年の研究では「領国の経営を行おうとはしたが、それに関してはうまく行かなかったから」「僅かな手勢、それも搦め手で城を落としたため、城を取り返そうとする龍興の軍勢に対抗しきれないと判断したため」という理由が挙げられています。

ともかく、半年程度で稲葉山城を放棄した半兵衛は、そのまま齋藤家を去ってしまいました。

その後、半兵衛は浅井長政の下で客分として雇われますが、そこからも1年ほどで去ってしまいます。以降半兵衛は、秀吉からの勧誘を受けるまでの数年間を、以前の領地であった岩手(現在の岐阜県垂井町西部)で隠棲して過ごすこととなります。

1567年 – 24歳「木下秀吉より、織田家への勧誘」

齋藤家の滅亡と、秀吉との出会い

秀吉との出会いで半兵衛は戦場に戻る

半兵衛の出奔から3年後、度重なる織田軍からの侵攻によって、遂に稲葉山城が落城。齋藤龍興は城を追われ、事実上、半兵衛の主家であった齋藤家は滅亡します。

もっとも、浪人として隠棲していた半兵衛に、齋藤家滅亡による直接的な被害はありませんでした。しかし、齋藤家の滅亡と、ほとんど時を同じくして、運命は再び、半兵衛を戦場へと呼び戻そうとしていました。

美濃攻めの折、半兵衛の策略に散々苦しめられた信長は、半兵衛の頭脳と戦略眼をとりわけ高く評価し、ぜひとも配下に迎え入れたいと考えていました。そして、齋藤家の滅亡を好機と考えたのか、当時、信長の配下の中でも頭角を現してきた、木下秀吉に勧誘を命じたのです。

信長に命じられ、半兵衛のもとへ赴き、勧誘する秀吉でしたが、半兵衛の反応はあまり良いものではなく、一度目はむべもなく断られてしまったようです(諸説あり。一度の勧誘で登用に応じたとする説もありますが、本記事では断られたという説を採用しています)。

「三顧の礼」と、半兵衛の主君

登用を断られた秀吉は、それでも諦めずに半兵衛のもとへ通い続けました。

当時の時点で、天下に名高い織田軍の出世頭となっていた秀吉が、いかに軍略の才能があるとはいえ、一介の浪人に過ぎない半兵衛のもとへ、これほどまでに通い続け、スカウトすべく口説き続けることは、身分について厳しい戦国の世においては、相当に珍しいことだったようです。

そして、秀吉が半兵衛のもとを訪れた3度目(一説では7度目とも)のこと。半兵衛はとうとう、秀吉からの誘いに首を縦に振ったのです。

現在では、三国志における「三顧の礼」のエピソードになぞらえた創作と言われている話ですが、諸葛孔明のような天才的な軍略の才能を持つ半兵衛の事。本当にこのようなエピソードがあったとしても、そこまで不思議ではないと思います。

そして、これにも諸説がありますが、この登用についても、あるエピソードが存在します。それは、秀吉からの勧誘に首を縦に振った半兵衛が、「だが、信長に仕えることは断る」と言ったというもの。

半兵衛は、自分のもとへ足しげく通っていた秀吉の才気を見抜き、「信長に仕えるのではなく、私は秀吉殿に仕えましょう」と、秀吉個人の配下として仕えることを了承したと言われています。

ともかく、そうして秀吉の配下として、ひいては織田家の配下として登用された半兵衛。戦場に舞い戻った半兵衛は、秀吉の懐刀として、様々な戦場で知略を振るうこととなります。

1570年~ – 27歳「 信長包囲網との戦い、勃発」

各地の武将による信長包囲網、締結

当時の織田家は、少し前では考えられないほど広大な領地を治め、押しも押されぬ勢力として天下に名を轟かせていました。中でも、信長が室町幕府15代将軍、足利義昭(あしかがよしあき)の後見人になったことは、政治的にも大きな意味を持ち、事実上、織田家は天下取りに最も近い勢力となりつつありました。

しかしその一方、そんな織田家を疎んじる勢力も多く、そんな彼らは互いに手を組み、「信長包囲網」として、織田家へと襲い掛かります。

そんな「信長包囲網」との度重なる戦の中でも、半兵衛は持ち前の知略を駆使して、織田家、ひいては秀吉に多大な貢献をし続けるのでした。

1570年、VS朝倉義景、浅井長政連合軍

信長包囲網の中には、半兵衛のかつての主でもある、浅井長政の姿もありました。

長政は、信長の妹であるお市の方を妻に持つ、つまりは信長の義弟でしたが、親の代からの付き合いである朝倉氏との同盟を優先し、信長包囲網に参加していました。

そんな長政との戦いでも、半兵衛は、浅井家に仕えていた際の人脈と、持ち前の智謀を惜しみなく発揮。浅井方の武将や城を次々と調略して、織田家の勝利へと多大な貢献をします。

また、信長に追い詰められ、自害に及ぶ長政に殉じようとしたお市の方を救出する際にも、半兵衛の知略が一枚噛んでいたという噂も存在しています。

1575年、VS武田家、長篠の戦

歴史的な長篠の戦

厳密には信長包囲網が瓦解した後の戦ですが、包囲網との戦いの最中からの因縁の戦のため、便宜上ここに。

信長の天下取りにあたって、目下最大の障害になっていたのは、甲斐の虎と呼ばれた戦国の古豪、武田信玄でした。

しかし、信玄は1573年に病死。信長包囲網もほとんど瓦解し、これ幸いにと天下に王手をかける信長ですが、父である信玄の遺志を継いだ武田勝頼(たけだかつより)は、父同様に信長に反抗し、当時の織田家の同盟相手、徳川家康の治める三河へと、度々侵攻を続けてきます。

侵攻を受ける徳川家からの救援要請を、信長が受諾する形で始まった長篠の戦。長きにわたる武田家との決戦とあって、織田方にはやはり秀吉の姿が。そして、そんな秀吉の傍らには、やはり半兵衛の姿がありました。

激戦の中、半兵衛は武田軍の陽動に引っかかった秀吉の命令をあえて無視することで、秀吉の危機を救うという活躍を見せます。

先に書かせていただいた通り、「知らぬ顔の半兵衛」という慣用句のもととなったエピソードですが、間違った指示に対しては、たとえ後に自分が不利益を被る可能性があろうと、梃子でも動かないという、半兵衛の清廉で公正な格好良さが詰まったエピソードでもあると言えそうです。

1577年 – 34歳「 中国攻め勃発。秀吉、中国攻めの指揮官に」

織田家の西進

東の大勢力である武田家が滅亡し、東側にはほとんど敵がいなくなった信長は、いよいよ西へと本格的に手を伸ばします。

当時、西の勢力として大きく版図を広げていたのは毛利家。その総大将は、戦国初期の謀将と名高い毛利元就(もうりもとなり)の息子、毛利輝元(もうりてるもと)でした。

毛利元就の息子、毛利輝元

信長は中国攻めに際して、秀吉を総指揮官に任じ、中国攻めの指揮をとらせました。半兵衛も秀吉の懐刀として参陣。ここに、半兵衛最期の戦が幕を開けたのです。

中国攻めにおいても、半兵衛の活躍は目覚ましく、秀吉が前進基地として重要視した福原城を、黒田官兵衛と手を組んで陥落させたほか、翌1578年には、要地である備前八幡山城の城主に調略を仕掛け、城を落城させる戦果を上げています。

備前八幡山城を調略によって落としたことを、信長はたいそう喜んだらしく、報告に来た半兵衛を褒め称え、銀100両を与えたという記録が残っています。

1578年 – 35歳「 「黒田官兵衛に謀反の疑いあり」」

黒田官兵衛が行方をくらませる

中国攻めの戦が激化する中、その気に乗じる形で、信長に謀反を起こす勢力や、信長を倒すべく毛利家に手を貸す勢力も続出します。

信長の配下であり、有岡城を治めていた荒木村重(あらきむらしげ)も、信長に謀反を起こした一人でした。

秀吉は、謀反を起こした村重を説得すべく、村重と旧知の中であり、自分の腹心でもある黒田官兵衛を使者として向かわせます。しかし、そこから官兵衛が戻ってくることも、情報がもたらされることもありませんでした。

実は官兵衛は、村重によって捕らえられ、有岡城の地下牢に監禁されてしまっていたのです。

しかし、その事実を知るものは、織田方には誰もいません。それどころか、官兵衛から何の音沙汰も無い事に不信を覚えた信長は、「官兵衛は村重に寝返ったに違いない」と考えるようになってしまいます。

そうして、官兵衛が謀反を起こしたと思い込んだ信長は、秀吉にこう命じるのでした。

「官兵衛の息子、松寿丸を殺せ」と。

半兵衛、松寿丸を匿う

命令を下された秀吉は悩みます。子のいない秀吉にとって、幼いころから面倒を見てきた松寿丸は、それこそ我が子同然。しかし、信長からの命令に逆らってしまえば、自分の命も危ない。

そんな板挟みの中、秀吉を救ったのは半兵衛でした。半兵衛は、松寿丸を居城である菩提山城に密かに引き取り、家臣であった不破矢足(ふわやたり)に命じて、彼の屋敷に匿わせたのです。

当時、討ち取った敵将や処刑された罪人の首を、大将が検分する「首実検」という作業もありましたが、半兵衛・矢足主従は、そこには別人の首(一説では、松寿丸の遊び相手の首)を提出し、なんとか松寿丸を匿うことに成功したのでした。

1579年 – 36歳「 天才軍師、病に倒れる」

播磨三木城攻めの最中、病に倒れる

荒木村重と同じく、信長に反旗を翻した別所長治(べっしょながはる)は、堅城として名高い三木城で、秀吉と交戦していました。

半兵衛は、堅城である三木城の攻略に、兵糧攻めを提案しますが、それとほとんど時を同じくして、病に倒れてしまいます。病は肺のものであったようで、肺結核、もしくは肺炎であるという説が一般的です。

半兵衛は肺結核、もしくは肺炎で命を落としたと言われている

腹心である半兵衛の身を案じ、秀吉は「京都で療養をしてはどうか」と半兵衛に提案をします。半兵衛もその提案を受け入れ、陣を去り、一度は京都で療養生活に入りますが、自分の死期を悟ったのでしょうか。再び戦場へと戻ってきてしまいます。

「戦場で死ぬことこそ、武士の本望」

上記は、戻ってきた半兵衛の身を案じ、「もっとしっかり養生せよ」と説得する秀吉に対し、半兵衛が伝えた言葉だと言われています。

その身を案じる秀吉の言葉に、半兵衛が再び頷くことはなく、結局彼は戦場に立ち続けたまま、その短い生涯を終えたのでした。

享年は36歳。秀吉のために尽くしながら、半兵衛は主君である秀吉の天下をその目で見ることも、友である官兵衛の救出を見ることもなく、その短い人生を駆け抜けたのです。

半兵衛の死に対し、秀吉は人目もはばからず、大粒の涙をこぼし、声を上げて号泣したという逸話が残っています。秀吉がどれだけ半兵衛を信頼していたのかが、そのエピソードだけでもよくわかるでしょう。

半兵衛の死後、ほどなくして有岡城が落城。救出された官兵衛は、無事に息子である松寿丸と再会。息子を守り、匿ってくれた半兵衛や矢足、身代わりの首を差し出した者たちに深く感謝した他、半兵衛の形見として軍配と軍団扇を受け継ぎ、それを終生大事に扱ったとの記録が残っています。

短い人生を誇り高く駆け抜けた天才軍師、竹中半兵衛。彼の生き様や考え方、遺した策は、主である秀吉や、同じ知略の徒であった官兵衛らに対して、とても大きな影響を与えたようです。

竹中半兵衛の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

軍師の門 上 (角川文庫)

竹中半兵衛がメインとして描かれている書籍は少なく、ほとんどが官兵衛や秀吉とセットとして書かれています。この作品は、上巻は半兵衛が、下巻は官兵衛がメインとなって描かれています。

小説という事もあり、若干キャラクター性が付け足されている部分もありますが、半兵衛の概ねのイメージを掴むにはうってつけの作品だと思います。

戦国武将 死ぬ前の3日間をどう過ごしたか (impress QuickBooks)

この書籍も、半兵衛がメインで描かれているわけではありません。しかし、半兵衛についての紹介は丁寧で、少ないページ数ながら、分かりやすく彼の人物像を紹介してくれています。

半兵衛だけでなく、他の戦国武将にも興味がある方であれば、この本は自信を持ってお勧めできる良書です。

竹中半兵衛を描いた創作作品

創作の題材として人気の高い戦国時代。創作の中で、多くの戦国武将がキャラクター化されて現在も親しまれていますが、半兵衛も例にもれず、多くの作品で取り上げられて人気のキャラクターとして親しまれています。

このトピックでは、そんなキャラクター化された半兵衛の特徴や、史実とのリンクについて簡単に解説していきたいと思います。

戦国BASARA

ぶっ飛んだ歴史観で度々話題になる『戦国BASARA』。そこに登場する半兵衛は、親友である豊臣秀吉の夢をかなえるため、自らの残り少ない命を燃やして戦う天才軍師として描かれます。

目を引く紫色の仮面や洋装、使う武器である蛇腹剣、親友である秀吉への心酔など、その見た目や表向きの性格設定こそぶっ飛んでいますが、「肺の病に侵されている」「病をおして戦場に立ち続ける」などの根の部分は意外と史実に即した部分が多いキャラクターです。

また、ゲーム中の台詞などは史実を知っていると深みが増すものが多い、非常に多面的なキャラクターとなっているのも、本作の竹中半兵衛の大きな特徴となっています。

歴史好きの間では度々議論になる本作ですが、細かいセリフなどに史実のエッセンスがちりばめられている事が多いため、食わず嫌いせずに一度触れてみてほしい作品です。

戦国無双

『戦国無双』に登場する半兵衛は、少年のような容姿をした飄々とした人物として描かれています。『戦国BASARA』では描かれていない黒田官兵衛との友情もクローズアップされており、史実を上手くエンタメに落とし込んでいるのは、どちらかと言えばこちらの半兵衛だと言えるでしょう。

「天才軍師」としての手腕や、「知らぬ顔の半兵衛」と称された飄々とした性格も、このキャラを語るうえで重要なキャラクター性として描かれており、見た目や表層の態度だけでは読み取れない、非常に難解ながら魅力的なキャラクターが、この竹中半兵衛です。

こちらも見た目のインパクトで食わず嫌いしがちな作品ですが、半兵衛好きなら是非触れてみてほしい作品だと言えるでしょう。

信長協奏曲

ドラマ化や映画化もされた作品である本作は、いわゆる「歴史改変もの」であり、「半兵衛と秀吉が敵視しあっている」などの史実では起こり得なかった事件が多く描かれる作品です。

しかし、本作で描かれる半兵衛の性格は、おおむね史実に即した形であり「天才的な頭脳を持つ策士」「忠義に篤い性格の持ち主」などの部分を踏襲した、主人公の良き相談役のような立場で登場します。

比較的史実に即した造形のキャラクターながら、「歴史改変もの」の常道である「この時もしも○○だったら」というわくわく感も強い作品ですので、是非一度手に取っていただければと思います。

おすすめドラマ

軍師官兵衛

「両兵衛」の片割れである黒田官兵衛をメインに据えた大河ドラマです。

この作品での半兵衛は、官兵衛を時代の秀吉の軍師に育て上げる、官兵衛の師匠筋のように扱われています。

半兵衛を演じるのは谷原章介さん。聡明で透明感のある半兵衛を、見事に演じられています。

戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち

半兵衛と官兵衛の活躍を描いた、7時間にも及ぶ超大作です。

山本耕史さんが半兵衛を演じられ、線が細く、どこか飄々とした半兵衛を演じられています。

半兵衛ファンとしては間違いなく見ておきたい作品なのですが、2011年1月に放送され、残念なことにDVD等にもなっていないようなので、現在の視聴は少し厳しいかもしれません…。

関連外部リンク

竹中半兵衛についてのまとめ

豪傑揃いの戦国乱世の中で、知略を武器に短い人生を駆け抜けた天才軍師、竹中半兵衛。

この記事を読んでくださった皆様に、その格好良さが少しでも伝えられたでしょうか?

実際のところ、半兵衛に関しての歴史的な資料というのは、ほとんど残っていません。この記事で書いたエピソードや逸話についても、少し経てば別の真実が明らかになり、嘘に代わってしまうのかもしれません。

しかし、残っているエピソードについて、「まあ、半兵衛相手ならそれぐらいやるかもしれない…」「竹中半兵衛ならやりかねない」と考えることができてしまうのも、彼の面白いところだと思います。

歴史の考察については、大なり小なり、妄想や想像が影響を与えるもの。

皆さんもぜひ、「もし半兵衛が長生きしていれば…」「あの時の半兵衛の狙いは、実はこういうところにあったんじゃないか…?」など、想像を飛ばしてみてください。

この記事で半兵衛に興味を持ってくれた皆さんと、半兵衛について話すことができる機会などあれば、記事を書いた者として、それ以上嬉しいことはありません。

それでは、長文並びに乱文にお付き合いいただき、誠にありがとうございました!

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