アドラーの簡易年表
アルフレッド・アドラーはオーストリアのウィーン郊外にある町・ルドルフスハイムで生まれました。6人兄弟の次男でした。アドラーの家庭は、ユダヤ人の中産階級で、穀物商を営んでいました。
幼い頃の弟の死の遭遇や自分自身の死への危機を目の当たりにして、1888年にウィーン大学へ入学し、医学の道へ進むことを選びました。その後は眼科医として、のちに内科の診療所を開業しました。
一生の伴侶となるライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚しました。彼女もアドラーと同じく、ユダヤ人(ロシア系)でした。
アドラーは研究会に招かれて、ここで初めてジーグムント・フロイトに出会います。この出会いこそがアドラーがその後、精神分析を研究していく発端となったのです。
処女作となる『器官劣等性の研究』を執筆しました。アイディアのモチーフとなったのは、アドラーが医師として働いていたころの患者とのやりとりや状況によるものでした。
アドラーは仲間たちとともに、自由精神分析協会を設立(1913年に個人心理学会へ名称変更)しました。これを機に、フロイト路線とは完全に決別し、自らの心理学・理論を確立していきました。
軍医として第一次世界大戦へ従軍し、多くの患者や負傷者を治療・観察しました。のちに、共同体感覚こそ重要だと気づき、それは彼の理論の根幹をなす一つの柱となりました。
終戦後は児童相談所を設立し、子どもたちの精神的な健康と教育に精を出すようになりました。その後、ウィーン教育研究所治療教育部門では教授に就任しました。
1935年に渡米して以来、ヨーロッパのあちこちで講演をしていました。何の変哲もない朝を迎えた後、舖道の上で意識を失って、倒れたとされています。病院に搬送される救急車の中で、心臓発作のため亡くなり、享年67歳でした。
アドラーの生涯年表
1870年 – 0歳~5歳「オーストリアにて誕生」
ウィーン郊外で生まれる
アルフレッド・アドラーはオーストリアのウィーン郊外にある町・ルドルフスハイムで、ハンガリー系の父と、チェコスロヴァキア系の母との間に生まれ、6人兄弟の次男でした。アドラーの家庭はユダヤ人の中産階級で、父が穀物商を営み、母が父の仕事の手伝いをしていました。
アドラーは幼い頃、声帯のけいれんとくる病に苦しんでいました。また4歳のころ、弟ルドルフがジフテリア(感染症)で亡くなりました。5歳ごろには、アドラー自身が肺炎にかかって、あやうく死にかけるという出来事もありました。こうした様々な経験を経て、アドラーは医師を目指すようになりました。
1895年 – 25歳「医学の道へ進む」
ウィーン大学で医師の資格を取得する
アドラーはギムナジウムというヨーロッパの中等教育機関を卒業後、1888年にウィーン大学の医学部へ入学します。1895年に卒業し、最初は眼科医として働いていました。
その後、自ら内科の診療所を開業し、多くの患者を看ていきました。診療所の近くには、遊園地があったため、軽業師や大道芸人など、自らの身体や身体能力を活かして、活動を行っている人が多かったようです。その中には、身体的に劣っていたり、弱かったりした部分があっても、努力や訓練で、そのネガティブポイントを克服し、かつ強化している人も少なからずいたと言われています。
こうした経験から、アドラーはのちに「器官的劣等性」と呼ぶことになるアイディアについて、考え始めるようになりました。
ライザとの結婚
このころ(1897年)、私生活では一生の伴侶となるライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚しています。彼女もアドラーと同じく、ユダヤ人(ロシア系)でした。
結婚の翌年には長女が生まれ、1901年には次女が誕生しています。
1911年 – 41歳「精神分析学との出会い」
ジーグムント・フロイトとの出会い
アドラーが医師として働いていたころ、次第に心理学に関心を持つようになりました。そして1902年に、ジーグムント・フロイトの誘いを受け、フロイト率いる研究グループに参加します。このグループがのちにウィーン精神分析協会へと発展していきます。アドラーにとっては、この出会いこそが精神分析を研究していくきっかけとなったのです。
アドラーはよくフロイトの弟子だと勘違いされることがありますが、それはこの研究グループに属していたためです。しかしながら、本人も強調しているように、アドラーはフロイトの弟子ではなく、いわば同僚のようなものでした。
また、このウィーン精神分析協会には、ユング心理学の創始者カール・グスタフ・ユングも参加していました。心理学での三大巨頭は同時期に、フロイトを起点に、同じグループに所属していたということになります。ただ、アドラーとユングの交流は、ほとんどなかったと言われています。
フロイトとの決別
その後、アドラーとフロイトの関係にも怪しい雰囲気が漂い始めます。
フロイトは、アドラーの主張する学説を軽んじるようになり、アドラーもまたフロイトの学説を支持できなくなっていきました。こうして1911年、アドラーはフロイトと袂を分かつことになりました。
アドラーは仲間とともに、自由精神分析研究会を設立し、1913年には個人心理学会と、会の名称を変更しました。また、フロイトとの関係が悪化する頃から、アドラーは診療所での治療をやめて、精神科医として専念していました。
アドラー心理学の確立
フロイトから離れた後、アドラーは1916年から軍医として第一次世界大戦へ従軍することになります。多くの患者や負傷者を治療・観察することになりました。この経験はアドラーに多大な影響を与え、のちに、共同体感覚(社会と共存し、自分もまたその一部であるという感覚)こそ重要だと気づくことになります。それは彼の理論の根幹をなす一つの大きな柱となりました。
終戦後は児童相談所を設立したり、各地で講演を行ったりと、子どもたちの精神的な健康に対して、精力的に活動を行うようになりました。また、1924年にはウィーン教育研究所治療教育部門で教授に就任しました。
1926年末にはアメリカで数か月にわたる講演を行い、アメリカでアドラーの心理学が受け入れられるようになってきます。その後は、1年の半分をヨーロッパと北米とで過ごし、カウンセリングと講演で、大陸各地をめぐる生活が続きました。
その後、オーストリアでファシストの勢力が増していき、アドラーとその家族は1935年に渡米することを決意します。それ以来、アドラーはヨーロッパのあちこちで講演をしていました。
しかしながら、1937年5月、スコットランドでの講演の日に、朝を迎え、ホテルを出た後、舖道の上で意識を失って倒れたとされています。病院に搬送される救急車の中で、心臓発作のため亡くなりました。享年67歳でした。
アドラーに関するおすすめ本
嫌われる勇気
1冊目は言わずと知れた、ベストセラーの『嫌われる勇気』です。すでに累計185万部以上も発行されています。(2018年12月現在)
本書は、わかりやすく、かつドラマチックにアドラーの教えを伝えるために、哲学者と青年の対話形式で、その思想を解き明かしています。
「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な答えを提示してくれています。人生や生き方に悩んでいる方に、是非読んでもらいたい入門書です。
アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉
次にご紹介するのは、『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』です。
この本では、1つのテーマが2ページで完結しており、シンプル、かつわかりやすく説明されています。自分の気になる箇所から読み始めることもできます。
人間関係で悩んでる方や幸せになりたいと願う方にはオススメの本です。物事の捉え方や考え方が変えるだけで、人生は少しは変わるものだと前向きに考えられるようになる1冊です。
まとめ
いかがだったでしょうか。この記事では、アドラーの生涯について、年表とともに振り返ってみました。
アドラーの名前については知っているものの、アドラーの人生を見てみると、そんな人生・ドラマがあったのかと、ふと感心させられる部分が多くあります。
今回を通して、アドラーの思想の多くは、実体験をもとに、形成されていることが多いことがわかりました。
この記事をきっかけに、アドラーの人生やアドラーの思想について興味を持ってくれる方が増えてくれれば幸いです!
アドラー心理学で一番刺さったのは「全ての悩みは他者との比較から生まれる」ってやつ。ほんとその通りなんだよな、と、思った。つまり他者と比較しなければ悩みはなくなるんだけど、それって簡単そうでめっちゃ難しい。修行の日々です。