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心理学者アドラーとはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や魅力、名言についても紹介】

アルフレッド・アドラー(Alfred Adler、ドイツ語発音: [alfreːt aːdlɐ]、1870年2月7日 – 1937年5月28日)は、ユダヤ系オーストリア出身の精神科医、心理学者です。ジークムント・フロイト、カール・グスタフ・ユングと並んで、心理学の三大巨匠と呼ばれる1人。現代のパーソナリティ理論や心理療法を確立しました。

かつてはフロイトとともに研究していたのですが、1911年にフロイト学派とは完全に決別し、独自の「個人心理学(アドラー心理学)」を構築しました。

アルフレッド・アドラー

近年、日本では『嫌われる勇気』というベストセラーになった本の影響で、もしかしたらアドラーという名前は聞いたことがあるかもしれません。一躍有名になったアドラーですが、名前は知っていても、彼の生い立ちはどのようなもので、彼の思想はどこから生まれ、彼がどのような人生を送ったのかについてまで知っている方は多くはないでしょう。

そこで今回は、アドラーの生涯について歴史年表にまとめつつ、その生涯で残した功績や人物像についてとことん掘り下げていきます。アドラーを歴史から紐解き、彼の人生を一緒に学んでいきましょう。

アドラーとはどんな人?

名前アルフレッド・アドラー
誕生日1870年2月7日
没日1937年5月28日(67歳)
生地ウィーンの郊外ルドルフスハイム
職業精神科医,心理学者
配偶者ライザ・エプシュタイン

アドラーの生涯をハイライト

アドラーの肖像

心理学者のアドラーがどんな人生を送ったのでしょうか?はじめに簡単にご説明したいと思います。

アルフレッド・アドラーはウィーン郊外で生まれた6人兄弟の次男でした。ユダヤ人の中産階級に生まれたアドラーは、幼い頃声帯のけいれんやくる病(乳幼児に起きやすい骨格の異常)に苦しみました。体も弱く、5歳の頃には肺炎にかかって死にかけたこともあります。

こうした経験があり、アドラーは医学の道へ進みました。医師として働くなか、アドラーは次第に心理学に関心を持つようになり、1902年にフロイトの率いる研究グループに参加します。

しかし1911年、意見の違いからアドラーはフロイトと袂を分かちます。その後仲間と共に、後に個人心理学会と呼ばれる会を設立しました。この頃から、アドラーは精神科医として活動していました。

第一次世界大戦時、アドラーは軍医として従軍しました。そこでの経験はアドラーの理論の柱の一つである「共同体感覚」を発想するきっかけになります。終戦後は児童相談所を設立したり、各地で講演したりと子どもたちの精神的な健康について精力的に活動していました。

アドラーの人生

アドラーの思想は特にアメリカで受け入れられ、アドラー心理学として周知されました。有名になるにつれ、1年の半分をヨーロッパと北米で過ごして大陸各地を飛び回る生活が続きます。

オーストリアでファシストの勢力が増したのをきっかけに渡米してからも、その生活は続きました。しかし、1937年スコットランドでの講演の日に心臓発作を起こし、67歳に亡くなりました。

アドラーは病弱で小柄だった

幼少期のアドラー

アドラーの経験は、アドラー心理学の理論に影響を与えています。

アドラーは、1870年(明治3年)2月7日、オーストリアのウィーン郊外にある町・ルドルフスハイムで生まれました。6人兄弟の次男で、2歳上の兄がいました。

また、アドラーは生まれたときから病弱で、声帯がけいれんしたり、くる病(乳幼児に起きやすい骨格の異常)にかかったりしていました。

さらに5歳のときには肺炎を患い、生死の境をさまよったこともあります。そのためか身長も男性としては小柄な150cmでした。他の男性から見下ろされることは、彼にとってコンプレックスとなっていたようです。

こうした経験を経て、アドラーは医師を目指すようになります。

アドラーは陽気で外交的な性格だった

夕陽と音楽を楽しむ人たち

アドラーは精神分析で有名なフロイトとは正反対の性格でした。

二人とも医学の道を進みましたが、フロイトは研究が目的だったのに対し、アドラーは診療が目的でした。アドラーにとっては研究室にこもるよりも、患者の治療の方が魅力的だったのです。

自宅で読書を楽しむよりも、友人とにぎやかなカフェで過ごすことを好んだアドラーの気質は、彼の心理学にも影響しています。

アドラーの魅力・凄さは?

行動にはその目的がある

アドラーは、フロイトやユングの理論とは大きく異なる立場を取っていました。

例えば、アドラーはフロイトのように、苦しみの原因を「トラウマ」や「欲求」などに求めることはしません。

フロイト派の精神分析やユング派の分析心理学のような、問題の原因は何なのかを追求する「原因論」ではなく、どのような目的があってその問題は引き起こされているのかを探る「目的論」という立場をアドラーは取っているのです。

人間が行動する際に、なぜその行動をするのかという観点だけでなく、なんのためにその行動を起こすのかという別の観点で現象を捉えようとしたという点において、心理学を前進させた人物だと評価できるでしょう。

アドラーの死因は過労が原因?

デスクで仕事をする男性

アドラーはワーカーホリックで有名でした。彼の生活は診療や講演、著作活動など多忙を極めていました。それは、子どもの教育について効果のある新しい方法が常に求められていたからです。

さらに1926年末からはヨーロッパ各地をめぐる生活を亡くなるまで送っていました。特にアドラーが亡くなる1937年は長女が行方不明になったことで心を痛めており、体調も優れなかったようです。

働きづめの体に心労が加わったからでしょうか。アドラーはホテルから散歩に出かけたさいに心臓発作を起こして、そのまま亡くなりました。

フロイトとユングとの関係

フロイト

心理学の三大巨匠として有名な3人の関係は、一言で表すと同じ研究をする仲間でした。とは言っても、アドラーとユングは直接関わりを持ったことはありません。2人ともフロイトの弟子として語られることがありますが、アドラーはフロイトの同僚のようなものでした。

アドラーとフロイトは初め、一緒に精神分析の研究を行っていましたが、考えの違いから仲違いします。心理学の確立方法も正反対で、アドラーが外に出て実践の中で理論を組み立てたのに対し、フロイトは研究室にこもって理論を組み立てました。

2人の仲は良好とは言えないもので、フロイトは論文でアドラーの論を否定したほどです。フロイトの精神分析とアドラー心理学を見比べてみるとわかるのですが、トラウマを肯定する精神分析と、トラウマを否定するアドラー心理学はお互い相容れない関係と言えます。

そこから考えると、フロイトとアドラーが袂を分かつのは当然の結果だったのかもしれませんね。

アドラーの功績

功績1「心理学の三大巨匠」

心理学の三代巨匠

アドラーは精神分析のフロイトと分析心理学のユングと並んで、現代の心理学やカウンセリングなどの心理療法を確立した心理学の巨匠です。

アドラーはもともと医師だったため、軍医として第一次世界大戦にも参加していました。戦争で多くの患者とやりとりするなか、彼はアドラー心理学の基礎である「共同体感覚(社会と共存し、自分もまたその一部であるという感覚)」こそが重要だと考えました。

彼は「世界をより良くすること」にも関心を持っており、アドラー心理学はその機会を提供できると考えていました。彼の教えは多くの人に引き継がれ、今もたくさんの人を癒しています。

功績2「アメリカで人気になったアドラー心理学」

アメリカの街並み

アドラー心理学は、特にアメリカで評価されました。アドラーは仕事熱心で、子どもたちの精神の健康のために奔走していました。

彼が世に出した理論やカウンセリングの手法は一定の効果があったことはもちろん、画期的だったこともあり、アメリカで広く受け入れられました。

その功績は、ロングアイランド医科大学の医学心理学の教授に任命されたほどです。

功績3「世界で初めての児童相談所を設立 」

児童相談所

アドラーは世界で初めて児童相談所を設立したことでも有名です。

アドラーが児童相談所を設立した当時は、戦後だったこともあり、戦争孤児や非行に走る少年たちが問題になっていました。

そこでアドラーは政府にかけあい、こうした子どもたちや子どもたちに関わる大人が気軽にカウンセリングが受けられるようにたくさんの児童相談所を設立しました。彼のカウンセリング方法はユニークで、通常、個室で行われるものを公開して診療していたそうです。

アドラーの名言

落ち葉と本

「人生が困難なのではない。あなたが人生を困難にしているのだ。
人生はきわめてシンプルである。」

お金や人間関係、将来のことなど生きていると悩みがなくなりませんよね。人生は困難だ、と思ってしまいます。しかしアドラーは人生が困難なのは、あなた自身がそうしているだけだ、と説いています。

アドラー心理学では、あなた自身の考えが人生を決めているのであって、あなたが決意をすればいつでも複雑怪奇な人生をシンプルにできると考えています。

「苦しみから抜け出す方法はたった1つ。他の人を喜ばせることだ。
『自分に何ができるか』を考え、それを実行すればよい。」

アドラーは人生の苦しみの大半は、人間関係にあると考えました。人間は社会的な動物であるため、わたしたちは家庭や友人などの人との関わりに居場所を求めます。そして、ここがわたしの居場所だ、と感じる方法は相手を喜ばせることです。

道に落ちているごみを拾って捨てたり、お年寄りに席をゆずったり、ちょっとした親切を実践するとわたしたちは幸福を感じます。

最近、なんだか苦しいなぁと思ったら、相手が喜びそうなことをしてみてはいかがでしょうか。小さな幸せが見つかるかもしれません。

「健全な人は、相手を変えようとせず自分がかわる。
不健全な人は、相手を操作し、変えようとする。」

この名言は、相手ではなく自分を変えて問題を解決しよう、という意味です。

相手の悪いところを変えようと思うと、大変な労力が必要です。場合によっては、こちらがどんなに努力をしようと変わらないことも珍しくありません。

相手を変えようとするより、自分を変える方が圧倒的に簡単です。そして一人一人が良い方向へ変わることによって、全体も良くなっていきます。この名言はアドラー心理学が目指している世界の一つと言っても良い言葉です。

また、その他にもアドラーはいくつもの心に刺さる名言を残していますので、少し紹介しておきます。

「人間の悩みは、全て対人関係の中にある」

「重要なことは人が何を持って生まれたかではなく、
与えられたものをどう使いこなすかである。」

「人間は自分の人生を描く画家である。あなたをつくったのは、あなた。
これからの人生を決めるのも、あなただ。」

「自分を嫌う人がいるということは、
自分が自由に生きていることの証なのです。」

アドラーにまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「アドラー心理学はキリスト教の影響を受けている?」

十字架

自分より他人を大切にすることで幸せになれる、という考え方はキリスト教の説く精神と似通っています。アドラーはユダヤ教の家に生まれましたが、34歳のときにキリスト教へ改宗しました。

そのことから、アドラー心理学はキリスト教の影響も受けているのではと考えられています。あくまで噂レベルの話ですが、アドラーの思想とキリスト教の教義は相性が良いと言えます。

都市伝説・武勇伝2「アドラー心理学にはアドラーの幼少期の経験が反映されている」

父親と歩く子ども

アドラー心理学を学ぶうえで重要な思想に、優越コンプレックス理論があります。優越コンプレックス理論とは、人は常に理想の状態を求めていて、その理想と違っている自分に劣等感を覚えることです。

アドラーは上で述べたように病弱で、運動音痴でもありました。歩いているところを馬車にひかれたことが2度あるほどです。優越コンプレックス理論を思いついたキッカケは、診療所近くで働いている、身体的に不利な点を持ちながらそれを克服している姿の人でした。

しかし、そんな彼らの姿を見て優越コンプレックス理論を思いついたのは、アドラー自身も幼少時にコンプレックスを抱いていたからかもしれません。

アドラー の年表を簡単にまとめると?

1870年
オーストリアで生まれる
アルフレッド・アドラーはオーストリアのウィーン郊外にある町・ルドルフスハイムで生まれました。6人兄弟の次男でした。アドラーの家庭は、ユダヤ人の中産階級で、穀物商を営んでいました。
1895年
ウィーン大学で医師の資格を得る
幼い頃の弟の死の遭遇や自分自身の死への危機を目の当たりにして、1888年にウィーン大学へ入学し、医学の道へ進むことを選びました。その後は眼科医として、のちに内科の診療所を開業しました。
1897年
ライザとの結婚
一生の伴侶となるライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚しました。彼女もアドラーと同じく、ユダヤ人(ロシア系)でした。
1902年
ジーグムント・フロイトとの出会い
アドラーは研究会に招かれて、ここで初めてジーグムント・フロイトに出会います。この出会いこそがアドラーがその後、精神分析を研究していく発端となったのです。
1907年
『器官劣等性の研究』を上梓
処女作となる『器官劣等性の研究』を執筆しました。アイディアのモチーフとなったのは、アドラーが医師として働いていたころの患者とのやりとりや状況によるものでした。
1911年
ジーグムント・フロイトとの決別
アドラーは仲間たちとともに、自由精神分析協会を設立(1913年に個人心理学会へ名称変更)しました。これを機に、フロイト路線とは完全に決別し、自らの心理学・理論を確立していきました。
1916年
第一次世界大戦へ従軍
軍医として第一次世界大戦へ従軍し、多くの患者や負傷者を治療・観察しました。のちに、共同体感覚こそ重要だと気づき、それは彼の理論の根幹をなす一つの柱となりました。
1924年
教授に就任
終戦後は児童相談所を設立し、子どもたちの精神的な健康と教育に精を出すようになりました。その後、ウィーン教育研究所治療教育部門では教授に就任しました。
1937年
突然死
1935年に渡米して以来、ヨーロッパのあちこちで講演をしていました。何の変哲もない朝を迎えた後、舖道の上で意識を失って、倒れたとされています。病院に搬送される救急車の中で、心臓発作のため亡くなり、享年67歳でした。

アドラーの年表を具体的にまとめると?

1870年 – 0歳~5歳「オーストリアにて誕生」

ルドルフスハイムの街

ウィーン郊外で生まれる

アルフレッド・アドラーはオーストリアのウィーン郊外にある町・ルドルフスハイムで、ハンガリー系の父と、チェコスロヴァキア系の母との間に生まれ、6人兄弟の次男でした。アドラーの家庭はユダヤ人の中産階級で、父が穀物商を営み、母が父の仕事の手伝いをしていました。

アドラーは幼い頃、声帯のけいれんとくる病に苦しんでいました。また4歳のころ、弟ルドルフがジフテリア(感染症)で亡くなりました。5歳ごろには、アドラー自身が肺炎にかかって、あやうく死にかけるという出来事もありました。こうした様々な経験を経て、アドラーは医師を目指すようになりました。

1895年 – 25歳「医学の道へ進む」

ウィーン大学

ウィーン大学で医師の資格を取得する

アドラーはギムナジウムというヨーロッパの中等教育機関を卒業後、1888年にウィーン大学の医学部へ入学します。1895年に卒業し、最初は眼科医として働いていました。

その後、自ら内科の診療所を開業し、多くの患者を看ていきました。診療所の近くには、遊園地があったため、軽業師や大道芸人など、自らの身体や身体能力を活かして、活動を行っている人が多かったようです。その中には、身体的に劣っていたり、弱かったりした部分があっても、努力や訓練で、そのネガティブポイントを克服し、かつ強化している人も少なからずいたと言われています。

こうした経験から、アドラーはのちに「器官的劣等性」と呼ぶことになるアイディアについて、考え始めるようになりました。

ライザとの結婚

このころ(1897年)、私生活では一生の伴侶となるライザ・ティモフェヤーニャ・エプシュタインと結婚しています。彼女もアドラーと同じく、ユダヤ人(ロシア系)でした。

結婚の翌年には長女が生まれ、1901年には次女が誕生しています。

1911年 – 41歳「精神分析学との出会い」

ジーグムント・フロイト

ジーグムント・フロイトとの出会い

アドラーが医師として働いていたころ、次第に心理学に関心を持つようになりました。そして1902年に、ジーグムント・フロイトの誘いを受け、フロイト率いる研究グループに参加します。このグループがのちにウィーン精神分析協会へと発展していきます。アドラーにとっては、この出会いこそが精神分析を研究していくきっかけとなったのです。

アドラーはよくフロイトの弟子だと勘違いされることがありますが、それはこの研究グループに属していたためです。しかしながら、本人も強調しているように、アドラーはフロイトの弟子ではなく、いわば同僚のようなものでした。

また、このウィーン精神分析協会には、ユング心理学の創始者カール・グスタフ・ユングも参加していました。心理学での三大巨頭は同時期に、フロイトを起点に、同じグループに所属していたということになります。ただ、アドラーとユングの交流は、ほとんどなかったと言われています。

フロイトとの決別

その後、アドラーとフロイトの関係にも怪しい雰囲気が漂い始めます。

フロイトは、アドラーの主張する学説を軽んじるようになり、アドラーもまたフロイトの学説を支持できなくなっていきました。こうして1911年、アドラーはフロイトと袂を分かつことになりました。

アドラーは仲間とともに、自由精神分析研究会を設立し、1913年には個人心理学会と、会の名称を変更しました。また、フロイトとの関係が悪化する頃から、アドラーは診療所での治療をやめて、精神科医として専念していました。

アドラー心理学の確立

講演をするアドラー

フロイトから離れた後、アドラーは1916年から軍医として第一次世界大戦へ従軍することになります。多くの患者や負傷者を治療・観察することになりました。この経験はアドラーに多大な影響を与え、のちに、共同体感覚(社会と共存し、自分もまたその一部であるという感覚)こそ重要だと気づくことになります。それは彼の理論の根幹をなす一つの大きな柱となりました。

終戦後は児童相談所を設立したり、各地で講演を行ったりと、子どもたちの精神的な健康に対して、精力的に活動を行うようになりました。また、1924年にはウィーン教育研究所治療教育部門で教授に就任しました。

1926年末にはアメリカで数か月にわたる講演を行い、アメリカでアドラーの心理学が受け入れられるようになってきます。その後は、1年の半分をヨーロッパと北米とで過ごし、カウンセリングと講演で、大陸各地をめぐる生活が続きました。

その後、オーストリアでファシストの勢力が増していき、アドラーとその家族は1935年に渡米することを決意します。それ以来、アドラーはヨーロッパのあちこちで講演をしていました。

しかしながら、1937年5月、スコットランドでの講演の日に、朝を迎え、ホテルを出た後、舖道の上で意識を失って倒れたとされています。病院に搬送される救急車の中で、心臓発作のため亡くなりました。享年67歳でした。

アドラーに関するおすすめ本

嫌われる勇気

1冊目は言わずと知れた、ベストセラーの『嫌われる勇気』です。すでに累計185万部以上も発行されています。(2018年12月現在)

本書は、わかりやすく、かつドラマチックにアドラーの教えを伝えるために、哲学者と青年の対話形式で、その思想を解き明かしています。

「どうすれば人は幸せに生きることができるか」という哲学的な問いに、きわめてシンプルかつ具体的な答えを提示してくれています。人生や生き方に悩んでいる方に、是非読んでもらいたい入門書です。

アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉

次にご紹介するのは、『アルフレッド・アドラー 人生に革命が起きる100の言葉』です。

この本では、1つのテーマが2ページで完結しており、シンプル、かつわかりやすく説明されています。自分の気になる箇所から読み始めることもできます。

人間関係で悩んでる方や幸せになりたいと願う方にはオススメの本です。物事の捉え方や考え方が変えるだけで、人生は少しは変わるものだと前向きに考えられるようになる1冊です。

まとめ

いかがだったでしょうか。この記事では、アドラーの生涯について、年表とともに振り返ってみました。

アドラーの名前については知っているものの、アドラーの人生を見てみると、そんな人生・ドラマがあったのかと、ふと感心させられる部分が多くあります。

今回を通して、アドラーの思想の多くは、実体験をもとに、形成されていることが多いことがわかりました。

この記事をきっかけに、アドラーの人生やアドラーの思想について興味を持ってくれる方が増えてくれれば幸いです!

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