由利公正は、幕末から明治時代を生きた福井藩出身の志士です。幼少期は三岡石五郎と呼ばれ、後に八郎と名を変え、明治時代からは由利公正と名乗りました。明治新政府の立ち上げに必要な資金を作り、基本方針となる五箇条の御誓文を起草して、新時代の幕開けに大きな力を発揮しました。
しかし、偉大な業績がありながら、由利公正については知っている人が少ないのが実情です。筆者は大学で近世史を専攻していましたが、近世でも江戸時代初期を専門にしている学生の中には、由利公正の名前さえも聞いたことがないという人もいたほどでした。
一方、歴史好きの人なら、由利公正は坂本龍馬が暗殺される数日前に会っていた人として知っているかもしれません。坂本龍馬に「彼なしに新政府は成り立たない」とまで言わしめた由利公正はどんな人物だったのか、この記事を通して迫ってみたいと思います。
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由利公正とはどんな人?
生涯をダイジェストで紹介
由利公正は1829年に福井で生まれます。横井小楠との出会いから財政学を学ぶようになり、殖産興業を推し進めることで福井藩の財政改革を行いました。その後、坂本龍馬による強い推挙で新政府への登用の道が開け、「五箇条の御誓文」の起草に参画したり、金融財政政策を推し進めて太政官札を発行しました。
廃藩置県後には初代東京府知事となり近代的な都市計画を作案し実行しました。その後、岩倉使節団に随行して欧米の議院制度を研究し、帰国後には民撰議員設立の建白書に名を連ねます。晩年は元老院議官や貴族院議員などを歴任し、1909年に81歳で息を引き取りました。
文武両道を目指した若き日々
幼い頃、四書五経には手こずっていましたが、武道は得意でした。福井藩には、正月恒例の伝統的な行事「馬威し」があります。馬に乗った藩士が、歌ったり踊ったりと様々な邪魔をする見物人たちの間をくぐり抜けて城下町を駆け抜ける競技です。若き日の由利公正はこれを得意としていました。この姿が福井藩の重臣に認められ、藩に出仕するようになったのです。
乗馬以外にも、剣術・槍術・砲術についても免許皆伝の腕前でした。砲術に関しては、実技だけではなく、学問としても知識が豊富で、韮山反射炉で学んだ内容を応用して新型のかまど「へっつい」を考案します。従来のものより火力が強いのにも関わらず、燃料が少なくて済むとあって、福井県では昭和に至るまでよく使われていました。
享年81歳、死因は脳溢血
由利公正は1909年4月28日、東京市芝区高輪にあった自宅で、脳溢血により亡くなりました。享年81歳でした。
由利公正を取り巻く人間関係
横井小楠
肥後藩士であった横井小楠は、1809年生まれの幕末期に活躍した儒学者です。「実学」という実践的朱子学を提唱しました。松平春嶽が福井藩に招き、藩政改革を指導してまとめた「国是三論」が有名です。
由利公正は、横井小楠との出会いで人生が大きく変わりました。財政学に目覚めただけでなく、横井小楠が公正を認めたことで、福井藩内での評価が一変し、藩の財政再建だけでなく、橋本左内とともに藩という枠を超えた政治的な活動にも身を置くことになるのです。
橋本左内
福井藩が生んだ幕末の天才として知られるのが橋本左内です。幼少より聡明で、才能を見込んだ松平春嶽が取り立てました。春嶽が提唱する有力大名の政治参加という発想は左内によるものでした。これはいわゆる「公議政体論」の発端になったものです。
左内は公正と共に、公議政体論を成立させるために必要な、一橋慶喜を将軍に迎えるための画策に奔走しますが、折からの条約勅許問題も絡み、失敗してしまいます。その結果安政の大獄が行われ、左内は26歳という若さで刑死しました。左内の影響力がどれほど大きかったのか、死罪という判決が物語っているとも言えます。
松平春嶽(慶永)
幕末の名君として知られる松平春嶽は1828年、徳川御三卿の一つである田安家に生まれました。その後、越前松平家の養子に入り、福井藩主となります。公正にとって大きな転機となった横井小楠との出会いは、春嶽あってのことでした。
春嶽は早くから開国論を主張していた点で先進的な人ですが、それ以上に、才能ある人物を見出して登用したという点で、明治維新を迎える日本に大きな役割を果たしたと言えます。公正と同世代の年齢でありながら、混迷の幕末において藩主としての役割を十二分に果たした春嶽のおかげで、公正を始め、才能ある若者が活躍の機会に恵まれたのです。
福岡孝弟
福岡孝弟(たかちか)は1835年生まれの土佐藩出身の志士です。新政府では参与となり、由利公正と共に五箇条の御誓文の起草に参画します。
五箇条の御誓文は由利公正が起草し、福岡孝弟が修正、そして木戸孝允が加筆して1868年に公布されました。明治新政府の国是になるものでした。横井小楠の「国是三論」が坂本龍馬の「船中八策」に姿を変え、そして五箇条の御誓文としてまとめられたのです。
坂本龍馬
由利公正が坂本龍馬と初めて会ったのは1863年5月のことでした。横井小楠も交え、公正の家で飲み明かしたと記録にあります。そして2回目に会ったのが1867年11月1日で、龍馬と公正は深夜まで新国家の財政策について話したと言われています。
近年発見された、龍馬が暗殺される5日前に書いたとされる手紙には、公正の新政府への登用が強く訴えられていました。「三岡の上京が一日先になったならば新国家の家計の成立が一日先になってしまう」という文面からは、龍馬の公正に対する期待の大きさが伝わってきます。
由利公正の功績
福井藩財政改革
幕末はどこの藩も財政が逼迫していましたが、福井藩も90万両(藩の1年あたりの収入の約27倍)の借財を抱えていました。由利公正は横井小楠の教えに従い、倹約ではなく殖産興業を推進することで財政を潤そうと考えます。養蚕を奨励し、蚊帳や紙といった福井の特産物の改良を行いました。
また、藩債という切手を5万両発行し、20万人の生糸生産者に貸し、それを元手に一人一日10文ずつ増産することで半年で6万両の収益になります。そしてその生糸を外国に売ることで利益を得て藩の財政を好転させました。一時はこの貿易の利益で藩の金蔵の床が抜けたとも言われています。
五箇条の御誓文を起草
話の発端は、由利公正が新政府の財政担当になったことから始まります。明治政府は戊辰戦争の費用が嵩んでいた上、新政府の財源もなかったために、会計基立金(御用金)を調達する必要がありました。会計基立金とはつまり京都や大阪の大商人から借りるお金のことです。借金には新政府の方針を示す必要があったのです。
そこで公正は五カ条からなる「議事之体大意」を記します。これを福岡孝弟が修正し、木戸孝允が加筆して「五箇条の御誓文」として公布したのです。公正の草案は庶民の暮らしを最優先にすることに重きを置いていましたが、福岡孝弟や木戸孝允が手を入れ、結果的には天皇が政府を主導するという朝廷色の濃い内容となりました。
太政官札発行
会計基立金だけでは新政府の金不足は解消されず、由利公正は太政官札発行を目論みます。これは日本初の政府発行の紙幣でした。そのため、当初は新政府の信用が薄いのに加え、金と交換できない不換紙幣であったことから社会で混乱をきたしてしまい、公正は責任をとって職を辞すことになります。
しかし、太政官札は全国で通用するものであったことや、金属貨幣より軽く、高額紙幣であったため、遠距離での取引を行う商人には好都合であったこともあり、太政官札の通用期限であった1879年まで全国で流通しました。西郷隆盛は後に、この公正の太政官札がなかったら、維新はあと数年かかっていただろうと述べています。
初代東京府知事
1871年7月23日に東京府知事に就任した由利公正は、東京府職員の人員整理を行い、空き家になっていた大名屋敷が盗賊の住処にならないように、3,000人の警官を配置して治安維持に務めました。
また、東京の不燃性都市化計画にも着手します。火事で再建が必要になった銀座には不燃性の煉瓦建築を建てさせ、銀座大通りをロンドンやニューヨークの目抜き通りを参考に拡張し、火除け地を設けたのです。
しかし、府知事任期中に公正は岩倉使節団に随行することが決まります。この背景には、都市計画について公正と井上馨との対立があり、大久保利通がそれを解消させるために公正を連れ出したとも言われています。公正は帰国後も府政を続けるつもりだったようですが、公正が洋行に出た後、府知事は免官されています。
由利公正の名言
経済なるものは金でも石でも信用がもと
福井藩の財政再建の際、由利公正は藩内を視察し、借財まみれだった福井藩の信用が落ちていたために藩札の価値が下がって、庶民が苦しむ様子を目の当たりにしています。経済では信用が第一ということを、身を以て実感していたのでしょう。
だからこそ新政府の財源確保のためには、まずは新政府を信用してもらう必要があると考え、国是ともなる五箇条の御誓文の起草に参画した訳です。
貢士期限を以て賢才に譲るべし
五箇条の御誓文の元となった、「議事之体大意」にあった一条です。貢士(藩主の推薦で選ばれた新政府の役人)は任期を決め、優れた才能を持つ人に後を譲るべきという内容です。
五箇条の御誓文では省かれてしまったのですが、この謙虚さは現代社会でも通用する大切な一条だと思います。
公共の道によりて、公共の責に任するものは、自ら公共の心あり、公共の心を心とするものは、すなわち無偏無党地方全体のために謀りて偏依せず
由利公正は、武士の存在価値は、物事に処する心掛けだと捉えていました。つまり、領民を慈しむ心がけを大事にすることで、福井藩、ひいては日本国という「公」の役に立つと考えていたのです。そのため、公正の行動には出世欲などの私心があまり感じられません。
「特定の者の利益だけではなく、地方全体の発展を考えた庶民のための政治をするべし」というこの言葉は公正の晩年のものですが、終生この考えを大切にしました。だからこそ、これほど新政府の立ち上げに功績のあった人であるのに、晩年は名誉職に近い地位しか与えられず、結果的に今でも歴史の中に埋もれてしまって知名度が低いのでしょう。