フェリックス・メンデルスゾーンとはどんな人?生涯・年表まとめ

メンデルスゾーンの年表

1809年 – 0歳「メンデルスゾーン誕生」

ドイツ・ハンブルク

メンデルスゾーンはドイツ・ハンブルクで1809年2月3日に誕生しました。祖父のモーゼフはカントにも影響を与えた哲学者、父アブラハムは有能な銀行家で裕福な家庭に生まれました。

他の兄弟たちについても簡単にご紹介します。姉ファニーは有名なピアニスト・作曲家で、メンデルスゾーンとは苦難を共にし生涯助け合う仲でした。女性作曲家のパイオニアであり、メンデルスゾーンと同じく優れた楽曲を制作しました。弟は銀行を継ぎ、妹は数学学者と結婚し安定した人生を歩んだようです。

1816年 – 7歳「キリスト教プロテスタントに改宗」

ルター

メンデルスゾーン一族はユダヤ人でした。しかし父・アブラハムの代からは伝統であった割礼をさせず、プロテスタント風の教育を施していたようです。そして1816年にメンデルスゾーンをルター派プロテスタントに改宗させ、「バルトルディ」という姓を名乗らせてユダヤ人であることを隠し、差別による嫌がらせなどから彼を守ろうとしていました。

しかしメンデルスゾーン本人はユダヤ人であることや祖父・モーゼフの血を受け継いでいることにに誇りを持っており、「バルトルディ」の姓をあまり名乗りたがらなかったようです。しかし彼の宗教観的には敬虔なルター派プロテスタントの一面もあり、このことはその後の音楽観にも大きく影響していきます。

1821年 – 12歳 「文豪・ゲーテとの親交がはじまる」

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテ

8歳からメンデルスゾーンは優れた指導者たちからピアノや作曲を習い、恵まれた環境によってその才能を伸ばしていきました。ある時作曲の師・ツェルターの紹介によってメンデルスゾーンとゲーテは知り合いになります。

ゲーテはメンデルスゾーンの才能に感動し、祖父と孫のように年齢が離れていた二人ですが、その後も親交を深めていきます。メンデルスゾーンはゲーテの詩に曲をつけたり、曲を献呈したりしました。

1829年 – 20歳「マタイ受難曲」再演

自筆総譜より#61レチタティーヴォ開始部分

14歳の頃祖母からJ.S.バッハの「マタイ受難曲」のスコアをプレゼントされたメンデルスゾーンは、20歳になって自らの指揮によりマタイ受難曲の再演を果たしました。

この公演は当時の人気俳優と協賛したチャリティ公演という形で話題を集め、それまでは音楽の専門家たちの間で細々と受け継がれているに過ぎなかったJ.S.バッハの作品を一般的に広めるきっかけとなります。

1843年 – 34歳「ライプツィヒ音楽院」設立

現在はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学ライプツィヒに

自ら設立資金を調達し、高等教育機関として音楽の専門教育を行う音楽院を設立
、自身が院長となりました。作曲とピアノの教授にはロベルト・シューマンが招聘され、20世紀になると滝廉太郎が留学するなど、音楽史的にも非常に重要な音楽院です。

現在もフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ音楽演劇大学としてライプツィヒに学校があり、約900人以上の学生が今でも学んでいます。

1847年 – 38歳 脳卒中で死亡

姉のファニー・メンデルスゾーン=ハンゼル

1847年5月に姉・ファニーが脳卒中で急死すると、メンデルスゾーンはひどい神経障害を起こすようになりました。一時回復しましたが、11月に意識を失い自らも脳卒中で亡くなります。最後の言葉は「疲れた、ひどく疲れた」でした。

メンデルスゾーンは特に病弱というわけではなく、趣味でスポーツなどにも勤しむ一面もありましたが、晩年は大変多忙だったため過労による肉体の衰えとストレスに苦しめられました。更に幼い頃から共に苦楽を共にした姉の死は、残されていたメンデルスゾーンの命の炎を吹き消すほどのショックだったのでしょう。

1850年 – 死後3年 ワーグナーの論文にて批判される

ワーグナーは酷評した

ワーグナーが偽名によって投稿した「音楽におけるユダヤ性」においてメンデルスゾーンの作品が批判されました。その内容は「ユダヤ人は模倣が上手いが創造はしない」「ユダヤ人が歌うと、彼らの嫌な喋り方が歌に出てくる」など、到底音楽批評とはいえない罵詈雑言の数々でした。

この理不尽な批評には当時から抗議の声がありましたが、残念なことにこの批評が現在のメンデルスゾーン評にも影響を与えています。

1933年 – 死後86年 ナチスによって上演が禁止される

退廃音楽弾圧の歴史を解説するパネル展示

第二次世界大戦の時代になるとナチスによってユダヤ人音楽家の作品の上演を禁じられ、メンデルスゾーンの名が付いた地名なども改名させられました。またメンデルスゾーンの実家の銀行も廃業させられてしまいます。

しかし「ヴァイオリン協奏曲 ホ短調」だけは人気があり過ぎたため、作曲者の名前を伏せられながら上演され続けました。

2008年 – 死後151年 記念碑再建

メンデルスゾーンの記念碑

1960年からメンデルスゾーン作品の楽譜も出版され、その多様な魅力が見直されています。そして2008年にはドイツ・ライプツィヒのトーマス教会(バッハにも所縁のある教会)に記念碑が再建されました。

あらゆる意味でメンデルスゾーンの研究は、まだ始まったばかりだと言えるでしょう。

メンデルスゾーンの関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

メンデルスゾーンの音符たち 池辺晋一郎の「新メンデルスゾーン考」 池辺 晋一郎

TVやラジオでも大人気の作曲家・ 池辺 晋一郎による「音符たち」シリーズです。メンデルスゾーンの音楽に興味を持ち、これから聴いてみたい・演奏してみたいという人にぴったりな一冊となっています。

難しいワードは使わず、軽妙な語り口でメンデルスゾーンが「なぜ」「どんなところを」再評価されているのか、とてもわかりやすく知ることができます。

メンデルスゾーンとアンデルセン 中野 京子

メンデルスゾーンと童話作家のアンデルセンがある一人の歌手を軸に関係していたことを題材にした一冊です。著者は「怖い絵」シリーズなどでも有名な中野京子氏で、オペラや西洋音楽にも大変造詣が深い人物です。

ハンサムで洗練されたメンデルスゾーンにソプラノ歌手・リンドは恋をして、アンデルセンはリンドに恋をしますが、悲しいことにどの恋も実りません。他者からは幸福に見えるメンデルスゾーンが差別に苦しむ描写は、人生と幸せ、愛について考えさせられます。

おすすめの動画

Midori Plays Mendelssohn with the New York Philharmonic | Bravo! Vail 2015 Season

ヴァイオリン協奏曲。メンデルスゾーンといえば真っ先にこの曲が思い浮かぶ人も多いのではないのでしょうか。名演と名高い五嶋みどりの演奏を選びました。

Mendelssohn: Wedding March / Abbado · Berliner Philharmoniker

「結婚行進曲」と呼ばれ親しまれている曲です。この曲は「真夏の夜の夢」という音楽劇の中の一曲で、メンデルスゾーンが17歳の頃に作曲しました。

無言歌 作品19-3 狩りの歌  メンデルスゾーン

無言歌というのは歌曲ではなく、詩的なタイトルの付いた情緒的なピアノ曲のことを指します。その名の通り歌のようにメロディの美しい曲が多く、世界中で愛されている曲集です。

メンデルスゾーンについてのまとめ

幼い頃バッハの音楽に感銘を受けた筆者にとって、メンデルスゾーンは恩人のような、それでいて友人のような存在に感じます。それにしてもメンデルスゾーンはあらゆる功績があり過ぎて、「何をした人」と一言で言い切れないため、執筆に沢山の時間を要してしまいました。

少しでもメンデルスゾーン の素晴らしさ、良さが皆さんに伝わると嬉しいです。

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