北魏とはどんな国?歴史年表まとめ【成り立ちや当時の様式、皇帝も紹介】

「北魏とはどんな国?」
「北魏の建国者や北魏の歴史とは?」
「仏像の北魏様式って何?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。北魏とは、386年から534年まで中国北部の華北を中心に存在した鮮卑族の王朝です。

五胡十六国の混乱を制した北魏は華北を統一し、中国南部の南朝と戦います。5世紀後半、孝文帝の漢化政策がすすめられた結果、鮮卑族は漢民族と同化してしまいました。

孝文帝の死後、北魏の力は衰え国境を守っていた六鎮の反乱により滅び、東西に分裂しました。この記事では、北魏とは何か、北魏が存在した時代、北魏の歴史、北魏や南朝で発達した仏像彫刻などについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

北魏とはどんな国か?を簡単に解説

北魏の地図

そもそも北魏が存在した時代って?

北魏が存在したのは4世紀後半から6世紀前半にかけてです。このころ、ヨーロッパではローマ帝国が東西に分裂し、西ローマ帝国がゲルマン人の侵入によって滅亡していました。

インドではグプタ朝がさかえる一方、イランのササン朝ペルシアはエフタルという遊牧民の攻撃により弱体化します。北魏が存在した時代は、昔からの大帝国が衰退し、新しい勢力が生まれた時代といってよいでしょう。

北魏が存在した場所とは

北魏はモンゴル帝国から中国北部にかけての地域

北魏はモンゴル高原から、中国北部にかけての地域を支配した国でした。最初はちいさい国でした。しかし、華北の覇者となっていた前秦が淝水の戦い(ひすいのたたかい)で敗北すると、勢力を拡大します。

北魏が支配したモンゴルからオルドス地方にかけての地域は、草原が広がる地域です。この地で北魏は力を強めました。

北魏を建国したのは鮮卑族(せんぴぞく)…?

鮮卑の戦士像

鮮卑族はモンゴル高原で活動していた遊牧民族で、中国からは五胡の一つとされました。モンゴル系とツングース系の混血、あるいはトルコ系とされますが、正確な民族系統は不明です。

最初、モンゴル高原で強い力を持っていた匈奴に従属していました。その後、2世紀に鮮卑が部族統一をはたすと勢力を増し、内モンゴルやオルドス地方に進出しました。

鮮卑族には拓跋氏(たくばつし)や慕容氏(ぼようし)などの有力部族がいました。中でも最重要なのが拓跋氏です。最初は慕容氏のほうが有力でしたが、最終的には拓跋氏の北魏が華北を統一しました。

中国に侵入した遊牧民族が好き勝手に建国した五胡十六国時代

五胡十六国時代地図

中国の人々は匈奴・羯(けつ)・鮮卑・氐(てい)・羌(きょう)の五つの遊牧身をまとめて「五胡」と呼びました。魏・呉・蜀を滅ぼし中国を統一した西晋は短期間で滅亡します。

西晋滅亡の混乱をついて、五胡は華北に侵入し独自の国をたてました。五胡が十六の国を華北に建国した時代という意味で、五胡十六国時代といいます。

376年、氐族の国である前秦が華北を統一しました。前秦皇帝の苻堅は、中国全土を統一するため南朝の東晋を攻めました。しかし、淝水の戦い(ひすいのたたかい)で敗北れ、前秦は急速におとろえます。

前秦がほろんだ後の混乱を収め華北を統一したのが北魏です。北魏の華北統一により、五胡十六国時代は終わりを迎えました。

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