北魏とはどんな国?歴史年表まとめ【成り立ちや当時の様式、皇帝も紹介】

北魏の歴史年表

鮮卑族の故郷であるモンゴルの草原

386年~409年頃:逆境をはねのけ、北魏を建国した道武帝

大同市の旧市街

後に北魏を建国する拓跋珪(たくばつけい)は拓跋氏を王とする代国に生まれました。代国が内紛で弱まると、代国は前秦の苻堅によって滅ぼされてしまいます。国を失った拓跋珪は親族を頼りました。

成長した拓跋珪はほろんだ代国を復興します。拓跋珪は現在のフフホト市近郊の盛楽(せいらく)を都としました。同じ年、拓跋珪は国号を魏と改め、魏王となります。他の時代の魏と区別するため、拓跋珪の魏は北魏とよばれました。

北魏王となった拓跋珪は部族による合議制をやめ、王のもとに権力を集める中央集権をおし進めました。同時に柔然(じゅうぜん)や高車(こうしゃ)、匈奴の軍に勝ち領土をひろげます。

398年、拓跋珪は平城(現在の山西省大同市)を都と定め皇帝に即位しました。晩年は酒色におぼれ不老長寿の薬を追い求めた、あげくのはてに精神的に錯乱したといわれます。

409年、次男の拓跋紹(たくばつしょう)が起こしたクーデタによって拓跋珪は殺害されました。死後、拓跋珪は太祖道武帝の称号を贈られます。

423年~452年頃:華北を統一し道教を偏愛した太武帝

華北統一と南北朝時代の始まり

道武帝の死後、拓跋紹を倒し皇位に就いたのは道武帝の長男の拓跋嗣(たくばつし:明元帝)でした。明元帝は周辺勢力との戦いにあけくれ、423年に南朝の宋と戦っているさなかに亡くなります。

明元帝の死を受け、長男の拓跋燾(たくばつとう)が即位しました。のちに太武帝とよばれる人物です。太武帝はまわりの国々を次々と征服します。439年、太武帝は五胡十六国の最後の国である北涼を滅ぼし、華北を統一しました。

太武帝は中央アジアの柔然を服従させ、華北から中央アジアに及ぶ大帝国をきずきあげます。この広い帝国を支配するため利用したのが漢人官僚の力でした。太武帝は鮮卑族の軍事力と漢人の運営能力を車の両輪のように使い大帝国をおさめました。

これにより、中国北部に北魏、中国南部に南朝の宋がならびたつ南北朝時代が始まります。南北朝時代は439年から589年まで続きました。

道教優遇と仏教弾圧

山東省威海市の道観(道教寺院)

太武帝が西方諸国を征服したとき、多くの僧侶が都の平城に連れてこられました。そのため、北魏で仏教が盛んになります。しかし、太武帝自身は仏教を好まずもっぱら道教に心酔しました。

太武帝の信任を得たのが道教を体系化した寇謙之です。寇謙之は後漢末に起こった五斗米道を土台とし、神仙思想に儒教と仏教を加えた新天師道をはじめます。新天師道は従来の天師道とまざりあい道教へと発展しました。

寇謙之は太武帝の信任を得ることで道教を北魏の国のおしえとすることに成功します。446年、太武帝は大規模な仏教弾圧(廃仏)をおこないました。太武帝の死後、文成帝は道教へのかたよりを改め、仏教を復興させます。

471年~499年頃:北魏を漢化させた孝文帝

均田制や三長制の実施

471年、孝文帝は献文帝の後を継いで北魏の皇帝となります。即位時5歳だった孝文帝にかわり政治をになったのは馮太后でした。馮太后は地方反乱を鎮圧し、国内制度を整えます。

馮太后の時代に整えられたしくみの一つに均田制があります。均田制とは農民に土地を均しく与えることと引き換えに、租庸調を納めさせ兵役の義務を負わせるしくみです。北魏で成立した均田制は隋・に引き継がれ、日本の班田収授法のモデルとなりました。

華北で生産される小麦

もう一つ整備されたのが三長制です。三長制は村落をコントロールするためのしくみで、農民を隣・里・党などにまとめ、それぞれに隣長・里長・党長を置きました。

三長制の目的は農民を戸籍に入れ均田制を確実に実施することです。均田制さえ実施できれば、税も兵力も確保できます。こうして、北魏は新しいしくみを次々と実施し国力を強めていきました。

群臣の意表を突いた洛陽遷都

洛陽近郊につくられた竜門石窟

490年に馮太后が亡くなると孝文帝の親政が始まります。孝文帝は都を平城から洛陽に移そうと考えました。しかし、これには鮮卑族貴族の反発が予想されました。彼らがふるさとである平城を離れたがらなかったからです。

スムーズに遷都を行いたい孝文帝はひとつの計略を考えつきます。ある時、孝文帝は南朝の斉を討つとして群臣を率いて南下します。黄河流域の洛陽までたどり着いたとき、群臣は孝文帝に南征を思いとどまるよう諫めました。

すると、孝文帝は南征をあきらめると宣言しました。ところが、同時に洛陽への遷都を宣言します。無謀な南征より遷都の方がましだと考えた群臣は洛陽遷都に賛成しました。孝文帝は鮮卑族の反発を抑え、洛陽遷都を成功させます。

孝文帝が行った漢化政策って何?

孝文帝がとった中国文化への同化策を漢化政策といいます。孝文帝の時代、都が洛陽に移ったこともあって鮮卑族が急速に漢民族に同化していきました。孝文帝は鮮卑族の漢化をおしすすめます。

例えば、鮮卑族は遊牧民族なのでズボンをはいていました。遊牧民族の服装を胡服といいます。孝文帝は胡服の着用を禁止し、中国風の衣装を着るよう命じました。また、鮮卑族の言葉の使用を禁止し、中国語を使うよう命じます。

北魏の滅亡

胡服騎射で戦う遊牧民族の武人

孝文帝がおしすすめた急速な漢化政策は鮮卑族の武人たちの強い反発をまねきました。孝文帝死後の523年、北魏の北方国境を守っていた六鎮とよばれる駐屯軍が中央政府に対し反旗をひるがえします。六鎮の乱の始まりです。

北魏の中央政府は六鎮の反乱を鎮圧することができず混乱しました。混乱は長引きました。534年に北魏は東魏と西魏に分裂し、北魏はほろびます。北魏の都だった洛陽は両勢力が奪い合う戦場となってあれはてました。

北魏で盛んだった仏教信仰

平城近郊につくられた雲崗石窟

北魏の仏教信仰を今に伝える雲崗石窟と竜門石窟

北魏の時代、西方から伝わった仏教が華北全体に広がりました。太武帝の仏教弾圧によって一時的に打撃を受けますが、太武帝の死後に仏教は復活します。また、中国南部を支配していた南朝にも仏教が広がりました。

太武帝の死後、文成帝の時代に都の平城近郊に作られたのが雲崗石窟です。全長1キロメートルに及ぶ切り立った崖に53の石窟と5万体の仏像が彫られました。仏像の鼻は高く、衣装などからガンダーラ・グプタ様式の影響があるとされます。

竜門石窟は孝文帝の時代に遷都した洛陽の近郊につくられました。孝文帝時代からの玄宗皇帝の時代まで、ずっと仏の像が彫られ続けます。雲崗石窟に比べると中国風の顔をした仏が目立ちます。

日本に伝わった北魏様式と南朝様式の仏像彫刻

飛鳥寺釈迦如来像(飛鳥大仏)

6世紀後半、日本は飛鳥時代でした。すでに北魏は滅亡していましたが、北魏時代の仏像彫刻の様式が日本に伝来します。力強く端正な北魏伝来の仏像は北魏様式とよばれました。

北魏様式の仏像を製作したのは仏師鞍作鳥(止利仏師)の一派です。飛鳥寺釈迦如来像や法隆寺金堂釈迦三尊像などは北魏様式の傑作とされます。
それに対し、南朝から伝わった仏像彫刻の様式を南朝様式といいます。顔やすがたが柔和で丸みをおびているのが特徴です。法隆寺百済観音像や中宮寺半跏思惟像などが代表です。

北魏に関するまとめ

いかがだったでしょうか。北魏は4世紀後半から6世紀前半にかけて中国北部を支配した鮮卑族の王朝です。建国者は道武帝です。領土を大きくひろげ、華北を統一したのは太武帝の時でした。太武帝は道教を優遇し仏教を弾圧します。

北魏を急速に漢化させたのは孝文帝でした。孝文帝は均田制や三長制を整え中央集権化を進めます。同時に都を洛陽に移し、胡服や鮮卑語の使用を禁止するなど極端な漢化政策をおしすすめました。

孝文帝の死後、漢化政策に反発した鮮卑族の武人たちが六鎮の乱を起こして北魏を東西に分裂させてしまいます。北魏とはどんな国か、北魏の建国者や北魏の歴史とは何か、仏像の北魏様式とは何かなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

それでは、長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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