伝説の経営者と呼ばれた男、藤田田(ふじたでん)。彼の最も大きな功績といえば、マクドナルドを海外から日本に取り入れ、日本中に浸透させたことです。また彼はマクドナルドだけでなく、トイザらスも日本に取り入れるなど、現在では皆さんが当たり前のように利用しているお店を創業しました。

藤田田の経営センスはずば抜けており、彼の総資産は数千億円あったとも言われています。そんな彼の口から出る言葉は、全てが本質をついた金言であると言われ、今なお多くの経営者が彼の生き方を参考にしています。
今回の記事では、藤田田をこよなく尊敬し、彼の生き方を人生の柱としている筆者が、藤田田の生涯についてご紹介していきます。
この記事を書いた人
藤田田とはどんな人物か
名前 | 藤田田 |
---|---|
誕生日 | 1926日3月13日 |
没日 | 2004年4月21日 |
生地 | 大阪府大阪市淀川区 |
没地 | 東京都 |
配偶者 | 藤田悦子 |
藤田田の生涯をハイライト

まずは藤田田がどのような生涯を送ったのか、ハイライトでご紹介していきます。
藤田田は1926年に大阪に生まれました。学校の成績はかなり優秀で、大学は東京大学の法学部へ入学しました。学費や生活費を稼ぐために通訳の仕事を始めた彼は、そこで人生の転機となるユダヤ人との出会いを果たします。
ユダヤ人との親交を深めた藤田は、彼らから「ユダヤの商法」を学びました。この商法を活かして彼は、その後の人生で数々の成功を収めることになるのです。
東京大学在学中に輸入商社である「藤田商店」を設立した彼は、卒業後本格的に経営に取り組みました。藤田商店が成功すると、次は当時世界最大のファーストフードチェーン店と言われていたマクドナルドを日本に持ち込み「日本マクドナルド」を創業します。
創業からわずか十数年で、マクドナルドは日本の外食産業で売り上げ1位を達成し、日本中にマクドナルドを普及させました。

続いて玩具屋チェーンの「トイザらス」も日本に取り入れ、「日本トイザラス」を設立。こちらも当然のように大成功し、藤田田はカリスマ経営者として誰もが認める存在となりました。
2004年4月21日、藤田田は78歳でその生涯を終えました。しかし彼の功績や、彼の残した言葉は多くの本や記事にまとめられ現代の人々にも影響を与え続けています。
藤田田の性格

藤田田の性格を一言で表すと、「超正直者」です。彼はどんな人に対しても、自分の気持ちを抑えることなく正直に伝えます。他社との交渉の場面でも「命令は絶対に受けない」という姿勢を貫き、人の下につくという発想はありません。
また、
「資本主義社会では、金が全てである」
「ビジネスは金を持っている人から取らないと成り立たない」
など、かなり過激な発言もバンバンしています。しかし一貫して超正直なスタンスを保っていたため、逆に人々からの信頼は厚くなっていったのです。
藤田田の死因

藤田田は2004年4月21日に79歳で亡くなります。死因は「うっ血性心不全」でした。
うっ血性心不全とは、体のどこかで血液が滞ってしまい血流が悪くなることで、呼吸困難などの症状が出る病気です。日本では肺がんに並ぶ最も死亡数が多い病気の一つと言われています。
ちなみに亡くなった当時、彼には491億円という莫大な金額の遺産がありました。これは日本の歴代で6位の記録だそうです。この遺産は藤田の妻と長男の2人が相続することとなりました。
藤田田が影響を与えた人物

藤田田は多くの人々に影響を与えてきましたが、その中でも特に有名な人物といえば「孫正義」でしょう。
孫正義は「日本ソフトバンク」を設立し、現在では長者番付で日本2位、保有資産額は2兆円を超える天才実業家です。そんな藤田と孫が出会ったときのエピソードをご紹介します。
ある日、藤田田のもとに1人の高校生が訪ねてきました。彼は藤田田のことをとても尊敬していて、「ぜひ一度会いたい」と何度も頼み込んできたそうです。初めは断っていた藤田田もその熱意に負け、15分だけ面談をすることにしたのです。
高校生の少年は藤田田に「これからアメリカに行こうと考えているが、何を学んだら良いか」と尋ねます。これに対し藤田田は、
「これからはコンピューターだ。今はこの部屋ほど大きなコンピューターしかないが、これからはもっと手軽で誰でも使えるものになる。コンピューターについてのみ勉強してきなさい」
とアドバイスしました。少年はこのアドバイスを忠実に守りアメリカでコンピューターについて学びました。実はこの少年こそ、のちの日本ソフトバンク社長、孫正義だったのです。
藤田のアドバイスがなければ、ソフトバンクが立ち上げられることもなかったでしょう。このように藤田の言葉は孫の人生にとてつもなく大きな影響を与えていたのです。
藤田田の功績
功績1「日本マクドナルドを創業」

藤田田の最大の功績はなんといっても日本マクドナルドの創業です。
藤田はマクドナルドの創業者であるレイ・クロックと対談した際に、様々な条件について交渉しました。まず、日本マクドナルドの資本金の割合が、日本とアメリカで50:50であることを理由に、「アメリカからのアドバイスは受けるが、命令は受けない」と宣言し、経営の主導権を握ります。
また、アメリカのマクドナルドに対して支払う権利使用料を、売り上げの1%と定めたのです。普通ではあり得ないほど低いロイヤリティですが、レイ・クロックはこれを承諾しました。
ここまで強気の交渉だったにもかかわらず、レイ・クロックが条件を受け入れたのは、彼が藤田の経営のセンスを見抜いていたからでしょう。
その後レイ・クロックからも藤田に対して一つの条件を提示されました。その内容は30年間で500店舗の事業拡大を成功させることでした。この条件に対し藤田は「でしたら、700店舗にしましょう」と返したそうです。
功績2「マクドナルドを日本中に浸透させた」

藤田がマクドナルドを日本に広めるために行った施策の一つは「マクドナルドの発音を変えた」ことでした。実は、アメリカではマクドナルドのことを「McDonal’s(マクダーナルズ)」と発音しています。
しかしマクダーナルズという音は日本人には発音しづらいのではないかと考えた藤田は「マクドナルド」と日本人が読みやすい発音になるよう読み方を変えました。
また藤田は、マクドナルドがアメリカ発祥のハンバーガー店であることを隠しました。その理由としては、太平洋戦争を連想させてしまうからだそうです。
お客さんが戦争の辛い記憶を思い出してしまうと、マクドナルドを利用するお客さんが減ってしまうと考えた藤田は、徹底的に店舗からアメリカを連想させるものを排除していきました。
このように細かいところにも強烈にこだわる姿勢が、日本にマクドナルドを広げる要因となったのです。
功績3「日本トイザらスを創業 」

藤田は日本マクドナルドの創業後、アメリカのトイザらスと提携し、1989年に日本トイザらスを創業しました。こちらも2000年には100店舗達成、2009年には150店舗以上を展開するほど大きな会社へと成長しました。
ちなみにアメリカでは「Toys“R”Us」と書き、ロゴでは、Rの文字が反対向きに書かれています。これは子供がRの字を書き間違えたことを表現しているのですが、日本版では、「トイザらス」のように「ら」を平仮名にすることで、その稚拙さを再現しています。
藤田田の名言
女と口を狙え
藤田田は、女性に向けた物か、食べ物を商品とするのが良いと考えていました。なぜ女性を狙うのかというと、ブランド品のバッグやアクセサリーを買ったり、ランチに出かけたりなど、女性の方が圧倒的に浪費する習慣が強いからです。
また、食べ物はどんなものでもその日のうちに消化されるため、需要が尽きることがないという理由から、商品にすべきだと考えていたのです。
「きれいな金」「汚い金」といった金銭感覚はすぐさまきれいさっぱり捨ててしまうことだ。
捨ててしまって、金儲けは人生の最重要事項だと心得ることだ
「金儲けは人生の最重要項目」というのは、かなり極端な言い方かもしれません。しかし、これほどまで振り切ったものの考え方を持っていたからこそ、彼のような大成功を収めることができたのでしょう。
社長たるものは明日返事するよりは、間違ってもいいから、今日答えるべきである。
もし間違っていることに気付いたら、訂正するばいいのである
藤田の考え方は、「質よりもスピード」です。普通の人であれば、提出すべき資料があった時、できるだけ時間をかけて完璧な状態に仕上げてから提出しようと考えます。
しかし実はその逆で、質はいいからできるだけ早く提出することが大切であるというのです。
藤田田にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「78:22の法則を利用していた」

藤田は商売において78:22の法則を利用していたと言われます。一体この「78:22」の法則とは何なのでしょうか。
わたしの成功の基盤には、「宇宙はすべて78対22に分割されている」という大原則が、厳としてある。
藤田はこのように語っています。つまりこの世にあるあらゆるものが78:22の割合に分けられているというのです。
例えば、空気中の窒素と酸素の割合は78:22です。また、面積を100とした正方形に内接する円の面積は78.5、残りの面積は21.5とほとんど78:22と一致しています。人間の体に含まれる水分とその他の物質の割合も78:22となっています。とても不思議ですよね。
藤田はこの法則は商売においても同じであると考えました。日本中のお金持ちでない人間が持っているお金を合計すると、日本に存在するお金の22%分しかないそうです。
それに対し、20万人ほどしかいない大金持ちたちが、日本中にあるお金の78%を持っているため、商売はお金持ちを狙った方が儲かるに決まっている、と藤田は考えたのですね。
このように78:22の法則を経営の様々な方面で利用したことによって、藤田はここまでの大成功を収めたのだと思われます。
都市伝説・武勇伝2「究極のメモ魔だった」

藤田は雑学は人生を豊かにするためには欠かせないと考えていたため、とにかく何でもメモにすることを徹底していました。
仕事をする上で、知識をたくさん持っておくことで誰も思いつかないようなアイデアを生み出したり、契約相手の情報を知っておくことで相手に気に入られたりと様々な場面で役に立つのです。
その徹底ぶりは凄まじいもので、家の至る所にメモ書きがあり、トイレや風呂場にまでメモを持ち込み、気になることがあればメモを取っていました。外出先にも必ずメモ用紙を持っていくようにしており、会話の中でタメになる話があればメモを取ります。
メモは用紙だけでなく、割り箸の袋やマッチ箱など至る所にメモをするようにしていたといいます。あとで見返すためというよりは、メモを書くこと自体が頭に情報をインプットするのに役立っているのかもしれませんね。
よく読まれてる記事
死刑囚の最後の言葉まとめ日本で起きた凶悪犯罪TOP30
サイコパス事件ランキングTOP45
ヤクザの歴史をわかりやすく解説
海外の残虐な事件ランキングTOP30
犯罪歴のある芸能人ランキングTOP30
実際にあった復讐殺人ランキングTOP25
日本の美人すぎる犯罪者ランキングTOP30
指名手配され時効まで逃げ切った犯人TOP20
ホラー映画よりも怖い実在するカルト教団9選
日本で起きた未解決の失踪事件ランキングTOP29
懐かしさでいっぱいになりました。
私は、国立に住んで50年になります。
マクドナルドには、1972年(昭和47年)に事務方で中途入社しました。
世界のマックが日本に上陸した翌年になります。
まだ、日本の店舗数は十数店で社員も数十人でした。
ほとんどの日本人が、ハンバーガーとハンバーグの違いが分からない時代でした。
創業入社の方には、のちのてんやの創業者で慶応大出の岩下氏が施設部におられました。
数十時間で奇跡と言われた銀座三越1号店を作った人です。
藤田氏は貿易商の父君を学生時代に亡くされ、戦後の東京で同じ貿易商を始めました。
超ワンマン社長でした。
取引先の外国人たちは「フーさん」といって笑顔で挨拶していました。
当時のマックの本社は、住友銀行の新橋支店ビル6階に今もある藤田商店の片隅でした。
サラリーマン家庭でなく技術屋の家に育ち家業の跡取りだった私が諸般の事情でサラリーマンになったのです。
そんな変わった経歴の私でも試験でOKならば採用されました。
藤田社長には、東大出とは思えない信長並みの柔軟さがありました。
物事や人を見抜く力量は抜群でした。
感性はとても繊細で慎重なのに、決断と行動は大胆で迅速でした。
とにかく、大きな声で笑う怒鳴るの方でした。
マクドナルドでなく「また怒鳴るど」だの陰口もありました。
とにかく、高給で誕生日祝いまでしてくれる社員思いの社長さんでした。
> 堅物太郎さん
コメント&貴重な情報ありがとうございます!
生の情報で大変勉強になります。