藤田田の簡単年表
1926年、大阪で藤田田は生まれました。田(でん)という名前はかなり珍しいですよね。名前の由来としては「口」と「十字架」の形を組み合わせたものであり「良い言葉を吐くように」という意味が込められているそうです。
母親がキリスト教徒だったためにこのような名前がつけられたといいます。藤田は、自分の記事などがメディアに出るたびに「デンと発音してください」という言葉を添え、そのフレーズが世間でも話題となりました。
藤田は、大学時代に通訳として働いていた際に、ユダヤ人と出会います。そこでは決して良い身分とは言えないユダヤ人たちが、贅沢をしながら暮らしていたのです。
なぜこんな暮らしができるのか不思議に思った彼はユダヤ人と深く関わって見ることにしました。彼らと仲を深め信用を得た藤田はユダヤ人たちが持っている特別な商法を教えてもらったのです。
1971年に日本マクドナルドを創業すると、そこからの業績は右肩上がりでした。2000年にはデフレの中、「平日半額セール」などのキャンペーンを行い業績を伸ばし続けます。
こうして日本マクドナルドは「デフレ時代の勝ち組」と呼ばれることになりました。
創業から順調に売上を伸ばし続けていた日本マクドナルドでしたが、2001年に創業以来初となる赤字を出してしまいます。そしてここから徐々に売上が低迷するようになりました。
そして2003年に最終赤字を出したことを機に、社長を退任することを決意したのです。
藤田田の年表
1926年~1945年 – 0歳~19歳「学生時代の藤田田」
成績優秀なのに浪人していた
藤田は幼い頃から成績優秀な優等生でした。そんな藤田ですが実は、小学生時代に浪人していました。
なぜかというと、彼の母親が教師に賄賂を渡さなかったからという理由で、教師に内申書を改ざんされてしまったからです。結果的に彼は優等生だったにもかかわらず、浪人することになったのです。
これはかなり理不尽な事情ですね。
1946年 – 20歳「ユダヤの商法を学ぶ」
ユダヤ人からの信用を得たエピソード
藤田田はどのようにしてユダヤ人からの信頼を獲得したのでしょうか。藤田は過去にユダヤ人が経営する会社からナイフとフォーク300万本を注文されたそうです。この案件を受注した藤田でしたが、船舶で輸送すると納期に間に合わないということがわかりました。
普通であれば、納期に遅れることを謝罪しようと考えますが、藤田は1,000万円かけて飛行機をチャーターし、納品を完了させたのです。
しかし、これだけではありませんでした。翌年も同じようにナイフとフォークを600万本納品する案件を引き受け、飛行機をチャーターし納期に間に合わせたのです。
藤田は、この「自分が損をしてでも必ず納期を守る誠実さ」によって、ユダヤ人からの信用を勝ち取ったのです。
1950年~2003年 – 24歳~77歳「経営者としての活動」
とにかく人に話しかける日々
藤田田は、とにかく人に話しかけまくるという習慣がありました。それはちょっとした会話の中から経営のヒントになる情報を収集するためです。
藤田はタクシーに乗った際は必ず運転手と会話をするといいます。また、マクドナルドを利用したお客さんに「なぜ店に入ったのか」、逆に利用せず店の前を通り過ぎる人々に対して「なぜ店に入らなかったのか」と聞いて回っていました。
この異常ともいえる徹底ぶりにより、藤田は猛烈な勢いで知識を吸収していったのです。
40年にわたる積立預金
藤田は経営者として働いていた間、40年にわたって複利預金を行なっていました。そして彼は初めの10年間は、月5万ずつ、次の10年間は月10万ずつと、預金額を徐々に増やしていきました。
「たった5万円?」と思うかも知れませんが、当時は5万円でも相当な大金で、日雇い労働者の給料8ヶ月分ほどであったと言います。
預金した総額は4,800万円にもなっていましたが、それだけではありません。その預金額がさらに複利でまわっていき、最終的に彼の預金額は2億円を超えていました。
小さな積み上げでしたが40年間継続したことで、とんでもない額を達成することができたのです。
孫正義の成功後
かつて藤田田がアドバイスをしたことによって、アメリカでコンピューターを学ぶことを決めた孫正義。彼はコンピューターの知識を活かして、「ソフトバンク」で大成功を収めます。
それを藤田に報告したところ、藤田は「君はあの時の高校生か?」と大いに感激したといいます。さらに、ソフトバンクに対しパソコンを300台発注するという特大のプレゼントを贈りました。
2004年 – 78歳「藤田田死去」
藤田田の最期
社長を退任した翌年、78歳でこの世を去りました。死の直前まで、経営者として活動してきた藤田は、「金儲けは人生の最重要項目」という言葉を自ら体現していると言えますね。
また偶然か必然か、彼が亡くなった年齢は78歳でした。藤田は自らの人生をもって78:22の法則を証明していたのではないかと考えさせられます。
藤田田の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
ユダヤの商法
本書は、藤田田が成功するために用いたユダヤの商法について、詳細に書かれた一冊です。なぜ彼が成功できたのか、どのようにすればお金を稼ぐことができるのかが、藤田の手によって記されています。
彼のはっきりした物言いから、内容を極端だと捉える方もいるかも知れません。しかし、だからこそ力強く、読む人をワクワクさせる一冊となっています。
勝てば官軍
藤田自身の体験から、「どの時代にも共通する成功法則」とは何なのかが述べられています。
今もなお色褪せることなく、ビジネスマンたちが生き抜くヒントとなることでしょう。本書は全経営者が参考にすべきと言えるほど、本質を捉えた一冊となっています。
おすすめの動画
【孫正義①】アメリカ留学からSoftBank創業秘話まで【偉人伝】
こちらの動画は、芸人であるオリエンタルラジオの中田敦彦が、ソフトバンク社長の孫正義について詳しく解説している動画です。その中で、藤田田との出会いについても解説しています。
孫正義、藤田田について非常にわかりやすく、かつ面白く紹介されているおすすめの動画です。
【藤田田】6分で学ぶ『ユダヤの商法』
藤田田のベストセラー「ユダヤの商法」についてまとめられた動画です。おすすめのポイントは何といっても6分という短い時間の中で、「ユダヤの商法」の大まかな内容が理解できるという点です。
手軽に内容を知りたいという方はぜひ見てみてください。
藤田田についてのまとめ
いかがだったでしょうか。今回は、藤田田という経営者についてご紹介してきました。
彼は日本マクドナルドや、日本トイザらスなど、海外から輸入した会社を創業し、誰もが知る大企業へと成長させたカリスマ経営者で、その大胆すぎる発言や経営の仕方の裏には一日中メモを取るなど、地道にお金と向き合い続ける姿がありました。
そんな彼はあの孫正義の人生に多大な影響を与えた人物であり、日本の食文化を変えた人物であることに間違いはありません。
今回の記事で、藤田田という男について、少しでも伝わったのであれば嬉しいです。最後まで読んでいただきありがとうございました。
懐かしさでいっぱいになりました。
私は、国立に住んで50年になります。
マクドナルドには、1972年(昭和47年)に事務方で中途入社しました。
世界のマックが日本に上陸した翌年になります。
まだ、日本の店舗数は十数店で社員も数十人でした。
ほとんどの日本人が、ハンバーガーとハンバーグの違いが分からない時代でした。
創業入社の方には、のちのてんやの創業者で慶応大出の岩下氏が施設部におられました。
数十時間で奇跡と言われた銀座三越1号店を作った人です。
藤田氏は貿易商の父君を学生時代に亡くされ、戦後の東京で同じ貿易商を始めました。
超ワンマン社長でした。
取引先の外国人たちは「フーさん」といって笑顔で挨拶していました。
当時のマックの本社は、住友銀行の新橋支店ビル6階に今もある藤田商店の片隅でした。
サラリーマン家庭でなく技術屋の家に育ち家業の跡取りだった私が諸般の事情でサラリーマンになったのです。
そんな変わった経歴の私でも試験でOKならば採用されました。
藤田社長には、東大出とは思えない信長並みの柔軟さがありました。
物事や人を見抜く力量は抜群でした。
感性はとても繊細で慎重なのに、決断と行動は大胆で迅速でした。
とにかく、大きな声で笑う怒鳴るの方でした。
マクドナルドでなく「また怒鳴るど」だの陰口もありました。
とにかく、高給で誕生日祝いまでしてくれる社員思いの社長さんでした。
> 堅物太郎さん
コメント&貴重な情報ありがとうございます!
生の情報で大変勉強になります。