長谷川町子はどんな人?生涯・年表まとめ【サザエさん創作背景や代表作品、家族構成や性格についても紹介】

長谷川町子は、誰もが知る国民的作品である「サザエさん」を生み出した女性漫画家です。彼女が生み出したサザエさんは、朝日新聞の朝刊紙に掲載された漫画作品として、また日曜日の夜に放送されるアニメ作品として、長年愛されてきました。

アニメ版サザエさんは未だにTVアニメの視聴率No1を獲得し続け、長寿番組としてギネス記録を獲得するなど、その魅力は衰えるところを知りません。町子は、老若男女すべてに愛される作品を生み出したと言えるでしょう。

長谷川町子の肖像

町子は日本で初のプロ女性漫画家と言われています。現在では多くの女性漫画家が漫画作品を生み出していますが、それは彼女が作った道と言えるでしょう。15歳で漫画家デビューを果たすと天才少女として注目され、サザエさんで新聞4コマの第一人者となりました。

そのような功績が評価され、晩年には国民栄誉賞や紫綬褒章など、多くの表彰を受けました。社会的にも高く評価されている人物と言えます。

しかし、実は町子は、サザエさんの作者というイメージとは裏腹に、幼い頃は悪童という言葉が似合うような少女でした。いじめられている子を守るためにいじめっ子をやっつけるような活発な性格だったそうです。

この記事では、そんな町子がいかにしてサザエさんを生み出したのか、また彼女の性格や彼女に大きな影響を与えた家族について、さらにサザエさん以外の代表作などについて紹介したいと思います。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

長谷川町子とはどんな人物か

名前長谷川町子
誕生日1920年1月30日
没日1992年5月27日
生地佐賀県多久市
没地東京都
埋葬場所多磨霊園(東京都)

長谷川町子の生涯をハイライト

30歳の長谷川町子

長谷川町子の生涯について、はじめに簡単にご説明したいと思います。

  • 1920年、佐賀県に3人姉妹の次女として生まれる
  • 13歳のときに父の死去に伴い東京に転居する
  • 戦争の激化に伴い福岡へ転居。西日本新聞に勤務する
  • 終戦後、サザエさんの執筆を開始する
  • 1969年、アニメ「サザエさん」放送開始
  • 1974年にサザエさんの連載を終了する
  • これまでの功績が認められ、勲四等宝冠章や紫綬褒章を受賞
  • 1992年、心不全により亡くなる

長谷川町子が漫画家を目指したきっかけは?

長谷川町子が15歳で漫画家デビューを果たしたときの記事

漫画が好きだった長谷川町子は、「のらくろ」で有名な田河水泡に弟子入りしたいと願い、家族の協力もあり実現します。田河水泡のもとで学んだのちに、15歳のときに雑誌「少女倶楽部」で漫画家デビューを果たします。15歳の早熟であったこともあり、「天才少女」として注目されました。

その後、19歳で「ヒィフゥみよチャン」で初連載をかざり、女性漫画家としての地位を確立します。翌年からは、3人の女学生を描いた「仲よし手帖」で人気作家の仲間入りを果たします。

長谷川町子の代表作品「サザエさん」創作の背景は?

長谷川町子がサザエさんを思いついた福岡県の磯野広場

長谷川町子は、西日本新聞の系列紙である「夕刊フクニチ」の創刊に伴い、漫画連載を依頼されます。漫画の構想を練るなかで、自宅の近所である百道海岸付近を散歩しているときに、サザエさんの家族構成や設定を考えついたそうです。

徐々に人気が高まってきたサザエさんは、夕刊フクニチ以外の地方紙にも掲載されるようになります。そして、ついに全国紙である朝日新聞の朝刊にサザエさんを掲載するというオファーがあり、サザエさんは一躍全国区の人気漫画となりました。

長谷川町子の他の漫画作品は何があるの?

もう一つの代表作である「いじわるばあさん」

長谷川町子の代表作はもちろんサザエさんですが、それ以外にも多数の執筆作品があります。サザエさんに次いで有名なのが、「いじわるばあさん」でしょう。いじわるばあさんは、その名の通り意地悪なおばあさんが主人公の作品で、サザエさんで善良な家庭を描くのに飽き飽きしたことから執筆を開始したそうです。

それ以外にも、「まんが幸福論」や「似たもの一家」などが長谷川町子の代表作と言えるでしょう。

長谷川町子の性格や家族構成は?

長谷川町子の写真

長谷川町子は、3人姉妹の次女として生まれました。生家はとても裕福で、父は事業家でした。父を早くに亡くしたあとは、母が長谷川家を切り盛りしました。母の性格は果断で、女性だけでは生きにくい時代にありながらも強く家を切り盛りし、3人姉妹を育て上げました。

長谷川町子自身は生涯独身を貫きました。後にエッセイでその理由を「夫や子供の世話で一生を送るなんて我慢できない、自分の方がお嫁さんがほしいくらいだ」と語っています。母の性格を受け継いだのか、昭和初期の時代にありながら強い女性像の象徴のような性格だった言えるでしょう。

長谷川町子の功績

功績1「国民的な漫画・アニメであるサザエさんの生みの親」

東京都世田谷区にあるサザエさんの銅像

多くの日本国民が知っている「サザエさん」を生んだのは、長谷川町子の最大の功績でしょう。サザエさんは、日曜日の夜の顔として長年愛されているアニメ番組です。

年配の方であれば、朝日新聞に連載されていた漫画「サザエさん」を毎日読んでいたという方も多いのではないかと思います。サザエさんは、昭和の時代の作品でありながら今なお愛されている名作と言えるでしょう。

功績2「長谷川町子美術館を設立」

長谷川町子美術館の外観

長谷川町子は、姉とともにサザエさんやいじわるばあさんなどの執筆で得た収入を基に、美術品や書などの作品を収集していました。そして、それらを一般にも開放しようと、美術館を設立しました。

集められた品は、日本画311点、洋画250点、工芸品195点、彫塑32点の総数788点にものぼります。今でも、東京の桜新町にて一般向けの公開が続いています。

功績3「優れた女性に与えられる宝冠章を受章」

宝冠章の勲章

長谷川町子は、その大きすぎる功績から多数の表彰を受けています。優れた文化的な活動を行った人に送られる紫綬褒章や、国民栄誉賞を受賞しています。

さらに、優れた女性に与えられる勲章である宝冠章を受章しています。宝冠章は、昭和の時代にありながら強く自立した女性として生き抜いた長谷川町子にもっともふさわしい勲章と言えるでしょう。

長谷川町子の名言

常に温かく誠実な一人の女性があるとしたら、社会的にどんなに見映えのしない存在であろうとも、
その人こそ世の中を善くする大きな原動力であると思います

長谷川町子が描いた「サザエさん」は、まさにこの名言のような存在ではないでしょうか。サザエさんは「温かく誠実な女性」と言えるでしょう。一見社会的に役になっていないように見えるそのような存在が、実は社会において重要であり、世の中を良くしている力であると長谷川町子は語っています。

毎日笑ってもらいたい。

長谷川町子は、毎日発行される新聞への連載を長年続けてきました。その思いは、この名言の通り「毎日笑ってもらいたい」というものだったと語っています。サザエさんが私達の日々の生活に染み込み、私達の生活を豊かにしているのは、長谷川町子の偉大な功績と言えるでしょう。

長谷川町子にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「サザエさんを出版するために家を売った」

サザエさんの単行本第一巻

サザエさんの単行本の第一巻を出版するにあたり、長谷川町子の姉である毬子とともに出版社である「姉妹社」を設立します。サザエさんの出版費用を捻出するために、長谷川家は福岡の自宅を売り払いました。

しかし、その結果は散々なものでした。サザエさんの第一巻の装丁はB5版という当時でも珍しい形だったのですが、サイズが書店の棚に合わず、書店からの返品が相次ぎ大赤字となってしまいました。

しかし、そこでめげなかった長谷川家の一同は「内容が問題ではなかったのだから、次は形式を変えばよい」と、第二巻の出版においては当時一般的な大きさであったB6版とし、サザエさんは大ヒットとなりました。

都市伝説・武勇伝2「実はいじめっ子だった」

13歳の長谷川町子

サザエさんを見たことがある方は、温かく優しい家庭というものをイメージするのではないでしょうか。長谷川町子も同様に優しい性格だったと思いきや、実は黒い部分もあったと本人が述懐しています。

学生のころは、どちらかというとやんちゃで「悪ガキ」ということばが似合うような子供だったそうです。本人も、「クラスのほぼ全員を殴ったことがあるんじゃないかな」と語っています。長谷川町子のそのような性格は、もう一つの代表作である「いじわるばあさん」を読むと知ることができるでしょう。

都市伝説・武勇伝3「力道山の死が創作意欲に火をつけた」

力道山の肖像

サザエさんの連載を持っていた1963年に、姉とケンカをして家出をした長谷川町子は、途方に暮れていました。その中で、新聞で当時の大スターであった力道山の急死を知ります。

力道山の死に大きな衝撃を受けた町子は、自分の人生を思い直し家に帰り、サザエさんの連載に集中します。本人が後に語ったところによれば、どんな大スターもいずれ死ぬということを知ったこの出来事が自分の人生のターニングポイントだったそうです。

長谷川町子の簡単年表

1920年 – 0歳
長谷川町子が生まれた佐賀県多久市

長谷川町子は3人姉妹の次女として、佐賀県の多久市に生まれました。3人の姉妹はとても仲が良かったそうです。生まれて間もない頃、父の事業の都合で福岡に転居し、幼い頃は福岡で過ごしました。

1933年 – 13歳
長谷川町子が師事した田河水泡

父が亡くなったこともあり、長谷川家一家は東京へ転居します。そこで、運良く「のらくろ」で有名な田河水泡の弟子になることができた長谷川町子は、田河水泡のもとで漫画について学び、若くして漫画家としてデビューを果たします。

1946年 – 26歳
サザエさん一家(東京都世田谷区)

この年、西日本新聞の系列紙として創刊された「夕刊フクニチ」への連載として、サザエさんの執筆を開始します。またたく間に人気連載となったサザエさんは、全国の地方紙への連載に続き、全国紙である朝日新聞の朝刊への掲載を果たすことになります。

1969年 – 49歳
アニメ「サザエさん」のタイトルロゴ

朝の新聞の顔として人気漫画作品だったサザエさんのアニメ版が放送開始されます。このアニメ版は、日曜日の国民的TV番組として多くの人々に愛されることになりました。

1992年 – 72歳
長谷川家の墓

1992年5月に、長谷川町子はなくなりました。死因は冠動脈硬化症による心不全でした。町子は長谷川家の墓が置かれていた多磨霊園に、家族とともに埋葬されています。

長谷川町子の年表

1920年 – 0歳「佐賀県に生まれ、福岡で育つ」

長谷川町子が通った福岡県立福岡高等女学校の現在

3人姉妹の次女として生まれる

長谷川町子は3人姉妹の次女として、佐賀県の多久市に生まれました。3人の姉妹はとても仲が良く、晩年はともに姉妹社という出版社を立ち上げるまでになりました。

長谷川家は、町子が生まれてすぐに父の事業の都合で福岡に転居し、幼い頃は一家で福岡で過ごしました。

やんちゃな少女だった子供時代

長谷川町子は、サザエさんの作者というイメージとは異なり、どちらかというと「悪童」という言葉が似合う性格でした。福岡で過ごした学生時代には、番長のような立ち位置であったといいます。

休み時間は男子とちゃんばらをして遊び、友達がいじめられて泣かされたらそのいじめっ子をやっつけたりと、やんちゃな少女であったそうです。

1933年 – 13歳「東京への転居と漫画家デビュー」

若かりし頃の長谷川町子

父の死とともに東京へ転居

事業を営んでいた父がなくなったあとは、母と3姉妹の女家族での生活が始まりました。父の死もあり、長谷川家一家は東京のへ転居します。

町子も東京の学校へ通うことになりますが、言葉の違いもありあまり友達はできなかったそうです。このときの経験から、人見知りになったと後に本人は語っています。町子がメディアの取材を受けることがあまりなかったのは、このときの経験があるのかもしれません。

漫画家としてデビューを果たす

町子は幼い頃から漫画が好きでした。特に、「のらくろ」で有名な田河水泡を慕っていましたが、たまたま母につてがあり田河水泡に弟子入りすることができました。

田河水泡のもとで漫画を学んだ町子は、若干15歳にして漫画家としてデビューを果たします。現在の「フレンド」につながる系譜である「少女倶楽部」という漫画雑誌にて、読み切り作品を掲載しました。また、天才少女として特集されるなど、若くしてその才能を発揮しました。

1944年 – 24歳「戦争の激化に伴い福岡へ疎開」

長谷川町子が勤務した西日本新聞社

戦争を生き抜く長谷川家

町子が24歳のころ、太平洋戦争の状況はますます悪くなっていき、長谷川家も東京を離れて福岡へ疎開することにしました。

町子は、地元の新聞社である西日本新聞社へ勤めることになりました。新聞記事のために軍港である博多湾で絵を描く仕事をしていたときに、スパイ容疑をかけられて憲兵に捕まったことなどもありましたが、それでも厳しい時代をたくましく生き抜きました。

1946年 – 26歳「サザエさんの執筆を開始」

サザエさんの銅像(福岡県)

夕刊フクニチに掲載する漫画のオファーを受ける

戦後、西日本新聞社を退社していた町子でしたが、そのときのツテから西本新聞社が新たに創刊する予定であった「夕刊フクニチ」に掲載する漫画を描かないかというオファーがありました。

このときに、家の近くを散歩しながら考えた設定がサザエさんでした。当時、町子はアルバイトの感覚でこの仕事をしていたそうでしたが、サザエさんはたちまち人気作品となりました。

各地方紙や朝日新聞に掲載される

サザエさんは、町子の仕事の都合で一度打ち切りとしましたが、1947年に再開し、夕刊フクニチ以外の各地方紙にも徐々に連載されるようになります。

1948年には、朝日新聞の夕刊紙である「夕刊朝日新聞」へ連載することになり、そこでも人気を博したサザエさんは、1951年には朝日新聞の朝刊紙へ連載を移すことになりました。これによってサザエさんの知名度は全国区となり、町子は新聞4コマの第一人者と呼ばれるようになります。

1969年 – 49歳「アニメ版サザエさんの放送が開始」

サザエさんとタラちゃん

サザエさんは日曜日の夜の顔に

新聞4コマとして人気であったサザエさんは、1696年にテレビでアニメ化されました。アニメ開始当時から現在まで日曜日の夜の枠で放送され続けてきたサザエさんは、日曜日の夜の顔として多くの人々に認知されています。

サザエさんは未だにTVアニメの視聴率No1を獲得し続けており、長寿作品としてギネス記録にも登録されるなど、国民的な人気作品となりました。

1982年 – 62歳「これまでの功績が認められ紫綬褒章を受賞」

紫綬褒章の勲章

多くの勲章を受賞した長谷川町子

サザエさんという国民的作品を生み出した町子は、多くの勲章や表彰を受けました。町子が最初に受けた勲章は、紫綬褒章でした。紫綬褒章は、優れた文化的活動を行った著名人に対して与えられる勲章で、町子が生み出したサザエさんなどの作品が高く評価されてのことでした。

その後、町子は1990年には勲四等宝冠章、1992年には国民栄誉賞を受賞し、多くの栄誉を与えられました。

1992年 – 72歳「その生涯を閉じる」

長谷川町子が眠る多磨霊園

晩年の長谷川家

町子は、47歳のときに胃がんを患い胃を5分の4摘出しました。その後も執筆活動を続けていた町子でしたが、1992年に自宅の窓から落下したことをきっかけに、衰弱していった町子は72歳にてその生涯を閉じました。

町子は、母や姉妹とともに、多磨霊園にある長谷川家の墓に眠っています。今でも熱心なファンは墓地に訪れるそうです。

長谷川町子の関連作品

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関連外部リンク

長谷川町子についてのまとめ

この記事では、サザエさんの作者として勇名な長谷川町子について取り上げ、彼女の家族や性格、サザエさん以外の代表作品などについて執筆しました。誰もが知っている国民的な名作であるサザエさんがどんな人からどのようにして生まれたのか、この記事を読んで興味を持っていただけたのなら嬉しいです。

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