「アウステルリッツの三帝会戦って何?」
「三帝って、どの国の皇帝たちのこと?」
「アウステルリッツの三帝会戦の勝敗は?」
この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。
アウステルリッツの三帝会戦とは、1805年にナポレオン率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍に勝利した戦いのことです。フランス・ロシア・オーストリアの3人の皇帝が関わったことから、三帝会戦ともよばれます。
戦いに勝利したナポレオンはオーストリアを屈服させ、オーストリアのフランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡しました。翌年、ナポレオンはイエナの戦いでプロイセン軍にも勝利しヨーロッパで最強の国となります。
この記事では、アウステルリッツの三帝会戦とはなにか、戦いの原因や流れ、勝敗、開戦時の3人の皇帝たち、戦後に結ばれたプレスブルク条約について解説します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
アウステルリッツの三帝会戦とは
1805年、イギリス。オーストリア・ロシアなどはナポレオンのフランス皇帝即位に反対し第3回対仏大同盟を結成します。ナポレオンはこの第3回対仏大同盟を打ち破るため、同盟の一角であるオーストリアに攻め込みました。
オーストリアは同盟国のロシアの援軍を得て、フランス軍をアウステルリッツ(現在のチェコ領スラフコフ・ウ・ブルナ)で迎え撃ちました。ナポレオンは兵力で劣りましたが、最重要地点プラッツェン高地を奪取し連合軍を撃破します。
会戦後、オーストリアはフランスに和平を求め、第3回対仏大同盟から離脱します。ナポレオンは大陸制覇に向けて大きく前進しました。
アウステルリッツの三帝会戦の原因や流れ、勝敗は?
戦いの原因はイギリスとフランスの対立
戦争の原因となったのは、イギリスとフランスの対立です。1802年、イギリスとフランスはアミアンの和約を結び戦争を止めていました。しかし、両国の対立は続き1803年、イギリスがアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦布告しました。
イギリスはフランスに対抗するため海上封鎖を実施し、ヨーロッパ大陸のオーストリアやロシアなどと連携してナポレオンに圧力をかけました。
一方、ナポレオンは1804年にナポレオン法典を発布して国内の支持を固めると、1804年に国民投票によってフランス皇帝となりました(以後、ナポレオン)。
ナポレオンの力が増すことを恐れたオーストリアやロシアは本格的にナポレオンと戦うことを決意し、イギリス・オーストリア・ロシアなどが第3回対仏大同盟を結成しました。
ナポレオンとしても、大陸制覇の目標達成のため両国と戦うことに異存ありません。こうして、アウステルリッツの三帝会戦の背景が整いました。
三カ国の軍備状況は?
フランスの大陸軍
アミアンの和約後、ナポレオンは来るべきイギリスとの決戦に備え入念な訓練を施した精鋭部隊を作り上げていました。1805年のトラファルガー海戦でフランス海軍がイギリス海軍に敗れたため、大陸軍はイギリス上陸には使われませんでした。
しかし、その後の戦いでは「大陸軍(グラン・アルメ、グランダルメ)とよばれ、ナポレオン軍の中核となります。大陸軍は7個軍団20万人からなり、1軍団当たり40門前後の大砲を備え、各軍団が単独でも長期間の先頭に耐えられる訓練を施されていました。
また、配下の軍団長はベルナドット、ダヴー、スールト、ランヌ、ミュラなど歴戦の将軍たちで、彼らはナポレオンの命令を忠実に実行する能力を持っていました。
ロシア帝国軍
アウステルリッツの三帝会戦において、皇帝アレクサンドル1世と宿将クトゥーゾフが参戦しており、その意味ではロシア軍は本腰を入れて戦争に臨んでいました。
しかし、ロシア軍は貴族たちが指揮官をつとめる旧態依然とした軍隊でした。フランス軍と比べると兵士の訓練度は不足しており、機動力を欠きます。とはいえ、すぐれた大砲部隊を保有していたことから防衛戦闘では非常に粘り強いという特徴を持ち、決して油断できる相手ではありませんでした。
オーストリア帝国軍
オーストリアは、ナポレオンのイタリア遠征やマレンゴの戦いに敗れるなど、ナポレオン戦争で常にナポレオンに敗れる側でした。騎兵は比較的優秀だと評価されていましたが、騎兵をまとめて運用しなかったため戦場で活躍しにくい状態でした。
しかも、開戦直前に軍隊の編成を変更したため兵士たちが十分に適応できず、軍隊としての能力が低下してしまいます。