小説ヲタクがおすすめするオールタイムベスト83冊

アウステルリッツの戦い(三帝会戦)とは?原因や勝敗、皇帝まで解説

「アウステルリッツの三帝会戦って何?」
「三帝って、どの国の皇帝たちのこと?」
「アウステルリッツの三帝会戦の勝敗は?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。

アウステルリッツの三帝会戦とは、1805年にナポレオン率いるフランス軍が、ロシア・オーストリア連合軍に勝利した戦いのことです。フランス・ロシア・オーストリアの3人の皇帝が関わったことから、三帝会戦ともよばれます。

戦いに勝利したナポレオンはオーストリアを屈服させ、オーストリアのフランツ2世は神聖ローマ皇帝位から退位し、神聖ローマ帝国は名実ともに滅亡しました。翌年、ナポレオンはイエナの戦いでプロイセン軍にも勝利しヨーロッパで最強の国となります。

この記事では、アウステルリッツの三帝会戦とはなにか、戦いの原因や流れ、勝敗、開戦時の3人の皇帝たち、戦後に結ばれたプレスブルク条約について解説します。

アウステルリッツの三帝会戦とは

アウステルリッツの戦いにおけるナポレオン

1805年、イギリス。オーストリア・ロシアなどはナポレオンのフランス皇帝即位に反対し第3回対仏大同盟を結成します。ナポレオンはこの第3回対仏大同盟を打ち破るため、同盟の一角であるオーストリアに攻め込みました。

オーストリアは同盟国のロシアの援軍を得て、フランス軍をアウステルリッツ(現在のチェコ領スラフコフ・ウ・ブルナ)で迎え撃ちました。ナポレオンは兵力で劣りましたが、最重要地点プラッツェン高地を奪取し連合軍を撃破します。

会戦後、オーストリアはフランスに和平を求め、第3回対仏大同盟から離脱します。ナポレオンは大陸制覇に向けて大きく前進しました。

アウステルリッツの三帝会戦の原因や流れ、勝敗は?

アウステルリッツの戦い全体を描写した絵画『アウステルリッツのナポレオン』

戦いの原因はイギリスとフランスの対立

戦争の原因となったのは、イギリスとフランスの対立です。1802年、イギリスとフランスはアミアンの和約を結び戦争を止めていました。しかし、両国の対立は続き1803年、イギリスがアミアンの和約を破棄してフランスに宣戦布告しました。

イギリスはフランスに対抗するため海上封鎖を実施し、ヨーロッパ大陸のオーストリアやロシアなどと連携してナポレオンに圧力をかけました。

一方、ナポレオンは1804年にナポレオン法典を発布して国内の支持を固めると、1804年に国民投票によってフランス皇帝となりました(以後、ナポレオン)。

ナポレオンの戴冠式

ナポレオンの力が増すことを恐れたオーストリアやロシアは本格的にナポレオンと戦うことを決意し、イギリス・オーストリア・ロシアなどが第3回対仏大同盟を結成しました。

ナポレオンとしても、大陸制覇の目標達成のため両国と戦うことに異存ありません。こうして、アウステルリッツの三帝会戦の背景が整いました。

三カ国の軍備状況は?

ナポレオン時代に勝敗を決した大砲

フランスの大陸軍

ナポレオン軍の中核を担った大陸軍の兵士たち

アミアンの和約後、ナポレオンは来るべきイギリスとの決戦に備え入念な訓練を施した精鋭部隊を作り上げていました。1805年のトラファルガー海戦でフランス海軍がイギリス海軍に敗れたため、大陸軍はイギリス上陸には使われませんでした。

しかし、その後の戦いでは「大陸軍(グラン・アルメ、グランダルメ)とよばれ、ナポレオン軍の中核となります。大陸軍は7個軍団20万人からなり、1軍団当たり40門前後の大砲を備え、各軍団が単独でも長期間の先頭に耐えられる訓練を施されていました。

また、配下の軍団長はベルナドット、ダヴー、スールト、ランヌ、ミュラなど歴戦の将軍たちで、彼らはナポレオンの命令を忠実に実行する能力を持っていました。

ロシア帝国軍

戦争に参加したロシア軍騎兵

アウステルリッツの三帝会戦において、皇帝アレクサンドル1世と宿将クトゥーゾフが参戦しており、その意味ではロシア軍は本腰を入れて戦争に臨んでいました。

しかし、ロシア軍は貴族たちが指揮官をつとめる旧態依然とした軍隊でした。フランス軍と比べると兵士の訓練度は不足しており、機動力を欠きます。とはいえ、すぐれた大砲部隊を保有していたことから防衛戦闘では非常に粘り強いという特徴を持ち、決して油断できる相手ではありませんでした。

オーストリア帝国軍

アウステルリッツの三帝会戦に参加したオーストリア軍歩兵

オーストリアは、ナポレオンのイタリア遠征やマレンゴの戦いに敗れるなど、ナポレオン戦争で常にナポレオンに敗れる側でした。騎兵は比較的優秀だと評価されていましたが、騎兵をまとめて運用しなかったため戦場で活躍しにくい状態でした。

しかも、開戦直前に軍隊の編成を変更したため兵士たちが十分に適応できず、軍隊としての能力が低下してしまいます。

ナポレオン率いるフランス軍がウィーンを占領

オーストリアの王宮だったシェーンブルン宮殿

1805年9月、オーストリア軍はナポレオンの同盟国となっていた南ドイツのバイエルン王国に侵攻します。ナポレオンはただちにバイエルン救援を決定し軍を動員しました。

10月20日、オーストリアのマック元帥はウルムの戦いに敗れナポレオンに降伏しました。ナポレオン軍はその勢いに乗じてオーストリアの首都ウィーンを陥落させます。

首都を失ったオーストリアでしたが、まだカール大公率いる主力軍団は無傷で残っていました。オーストリア軍は援軍として近くまで来ていたロシア軍とともにナポレオンに対する反撃の機械を伺います。

戦闘経過と勝敗

アウステルリッツの三帝会戦における両軍の布陣(フランス軍が青、連合軍が赤)

両軍はアウステルリッツの近郊で向かい合います。ナポレオンはオーストリア軍とロシア軍に会戦を挑み、一気に勝敗を決するつもりでした。そのため、あえて2つの隙を作ります。

一つは、戦場で最も重要なプラッツェン高地を連合軍の手にゆだねています。もう一つの隙は、退却路に当たるウィーン方面の守備隊(ナポレオン軍右翼)を意図的に少数にしました。

高地を手に入れた連合軍は、ウィーン方面への退路を遮断してナポレオンをせん滅しようと考えます。ナポレオンの思惑通り、連合軍は決戦を選択しました。

1805年12月2日、連合軍はナポレオン軍の右翼に攻撃を集中させます。ところが、ナポレオン軍の右翼はなかなか崩れません。突破できないことにいら立った連合軍はプラッツェン高地の部隊の多くを右翼攻撃に振り向けました。

ナポレオンが狙っていたのは、まさにこの瞬間でした。ナポレオンは手薄になったプラッツェン高地を攻撃し、一気に奪い取ります。その勢いのまま、ナポレオン軍は敵を分断しました。

混乱した連合軍は体勢を立て直すことができず敗走します。ナポレオンはオーストリア・ロシア連合軍に完勝しました。

アウステルリッツの三帝会戦時の各国の皇帝

アウステルリッツの三帝会戦は文字通り、三人の皇帝が参戦しました。参加した皇帝たちについて紹介します。

フランス皇帝ナポレオン

アルプスを越えるナポレオン1世の肖像画

フランス革命で活躍したナポレオンは1799年に総裁政府を倒し実権を握りました。その後、1804年に国民投票を経てフランス帝国皇帝となります。ナポレオンが皇帝に即位したことによりフランス革命に始まったフランス第一共和政は終わり、第一帝政がはじまります。

皇帝となったナポレオンはアウステルリッツの三帝会戦をはじめとするヨーロッパでの戦いに次々と勝利し覇権を握りました。しかし、トラファルガー海戦で敗北しイギリス上陸を阻止されるなど、海ではイギリスに勝てませんでした。

1812年、ナポレオンはイギリスとの貿易制限を破ったロシアに侵攻します。この時、ナポレオン軍はロシアの焦土作戦と冬将軍に敗れてしまいました。結局、1813年のライプツィヒの戦いや〇〇年のワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に流され生涯を終えます。

ロシア皇帝アレクサンドル1世

ナポレオンと会談するアレクサンドル1世

アレクサンドル1世は1801年に即位したロマノフ朝ロシアの皇帝です。対仏大同盟にも参加しますが、アウステルリッツの三帝会戦を含むいくつかの戦いに敗北し、やむなくナポレオンの対イギリス貿易停止(いわゆる大陸封鎖令)に参加しました。

イギリスに穀物を輸出することで利益を上げていたロシア経済は大陸封鎖令で大打撃を受けます。そのため、ひそかにイギリスと貿易を行いました。ところが、この密貿易がナポレオンにばれてしまったため、ナポレオンのロシア遠征を受けます。

アレクサンドル1世はモスクワを放棄し、徹底した焦土作戦でナポレオンを苦しめ敗退させます。その後、アレクサンドル1世はナポレオン後の政治体制であるウィーン体制の主導者となりました。

神聖ローマ皇帝フランツ2世

フランツ2世の肖像

フランツ2世は1792年に即位したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝です。7年戦争でプロイセンと戦ったマリア=テレジアの孫にあたります。フランツ2世はナポレオンのイタリア遠征などに敗れ、領土の一部を失っていました。アウステルリッツの三帝会戦の前には首都ウィーンを攻め落とされるなど、散々な目にあいます。

アウステルリッツでの敗北後、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の位から退位し、オーストリア皇帝となのります。オーストリア皇帝としてはフランツ1世とよばれます。

国政は宰相に登用したメッテルニヒにゆだね、戦後開かれたウィーン会議もメッテルニヒの手動で行われます。国民からは「善き皇帝フランツ」と呼ばれ愛されました。

戦後に結ばれたプレスブルク条約とは?

ウルムの戦いとアウステルリッツの三帝会戦で敗北したオーストリアはナポレオンに和平を乞います。両者はプレスブルクで和平交渉に入りました。

1806年12月26日、フランスとオーストリアはプレスブルク条約を結びます。オーストリアはナポレオンが作ったイタリア王国を承認し、ナポレオン側について戦ったバイエルンなどに領地を割譲します。加えて、4,000万フランの賠償金を支払いました。

プレスブルク条約でオーストリアを屈服させたナポレオンは、イエナの戦いでプロイセンにも勝利し、ヨーロッパでの覇権を確たるものとします。

アウステルリッツの三帝会戦に関するまとめ

アウステルリッツの三帝会戦はナポレオン率いる大陸軍がオーストリア・ロシア連合軍に勝利した戦いでした。ナポレオン1世、アレクサンドル1世、フランツ2世が参戦したため三帝会戦とよばれます。

見事な戦術で勝利したナポレオンはオーストリアを屈服させ、翌年のイエナの戦いでもプロイセンに勝利し、大陸の覇者となりました。

この記事を読んで、「アウステルリッツの三帝会戦はこんな戦いだったんだ」、「三帝はこんな人たちだったんだ」などと理解する役に立てたら幸いです。

コメントを残す