アウステルリッツの戦い(三帝会戦)とは?原因や勝敗、皇帝まで解説

ナポレオン率いるフランス軍がウィーンを占領

オーストリアの王宮だったシェーンブルン宮殿

1805年9月、オーストリア軍はナポレオンの同盟国となっていた南ドイツのバイエルン王国に侵攻します。ナポレオンはただちにバイエルン救援を決定し軍を動員しました。

10月20日、オーストリアのマック元帥はウルムの戦いに敗れナポレオンに降伏しました。ナポレオン軍はその勢いに乗じてオーストリアの首都ウィーンを陥落させます。

首都を失ったオーストリアでしたが、まだカール大公率いる主力軍団は無傷で残っていました。オーストリア軍は援軍として近くまで来ていたロシア軍とともにナポレオンに対する反撃の機械を伺います。

戦闘経過と勝敗

アウステルリッツの三帝会戦における両軍の布陣(フランス軍が青、連合軍が赤)

両軍はアウステルリッツの近郊で向かい合います。ナポレオンはオーストリア軍とロシア軍に会戦を挑み、一気に勝敗を決するつもりでした。そのため、あえて2つの隙を作ります。

一つは、戦場で最も重要なプラッツェン高地を連合軍の手にゆだねています。もう一つの隙は、退却路に当たるウィーン方面の守備隊(ナポレオン軍右翼)を意図的に少数にしました。

高地を手に入れた連合軍は、ウィーン方面への退路を遮断してナポレオンをせん滅しようと考えます。ナポレオンの思惑通り、連合軍は決戦を選択しました。

1805年12月2日、連合軍はナポレオン軍の右翼に攻撃を集中させます。ところが、ナポレオン軍の右翼はなかなか崩れません。突破できないことにいら立った連合軍はプラッツェン高地の部隊の多くを右翼攻撃に振り向けました。

ナポレオンが狙っていたのは、まさにこの瞬間でした。ナポレオンは手薄になったプラッツェン高地を攻撃し、一気に奪い取ります。その勢いのまま、ナポレオン軍は敵を分断しました。

混乱した連合軍は体勢を立て直すことができず敗走します。ナポレオンはオーストリア・ロシア連合軍に完勝しました。

アウステルリッツの三帝会戦時の各国の皇帝

アウステルリッツの三帝会戦は文字通り、三人の皇帝が参戦しました。参加した皇帝たちについて紹介します。

フランス皇帝ナポレオン

アルプスを越えるナポレオン1世の肖像画

フランス革命で活躍したナポレオンは1799年に総裁政府を倒し実権を握りました。その後、1804年に国民投票を経てフランス帝国皇帝となります。ナポレオンが皇帝に即位したことによりフランス革命に始まったフランス第一共和政は終わり、第一帝政がはじまります。

皇帝となったナポレオンはアウステルリッツの三帝会戦をはじめとするヨーロッパでの戦いに次々と勝利し覇権を握りました。しかし、トラファルガー海戦で敗北しイギリス上陸を阻止されるなど、海ではイギリスに勝てませんでした。

1812年、ナポレオンはイギリスとの貿易制限を破ったロシアに侵攻します。この時、ナポレオン軍はロシアの焦土作戦と冬将軍に敗れてしまいました。結局、1813年のライプツィヒの戦いや〇〇年のワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に流され生涯を終えます。

ロシア皇帝アレクサンドル1世

ナポレオンと会談するアレクサンドル1世

アレクサンドル1世は1801年に即位したロマノフ朝ロシアの皇帝です。対仏大同盟にも参加しますが、アウステルリッツの三帝会戦を含むいくつかの戦いに敗北し、やむなくナポレオンの対イギリス貿易停止(いわゆる大陸封鎖令)に参加しました。

イギリスに穀物を輸出することで利益を上げていたロシア経済は大陸封鎖令で大打撃を受けます。そのため、ひそかにイギリスと貿易を行いました。ところが、この密貿易がナポレオンにばれてしまったため、ナポレオンのロシア遠征を受けます。

アレクサンドル1世はモスクワを放棄し、徹底した焦土作戦でナポレオンを苦しめ敗退させます。その後、アレクサンドル1世はナポレオン後の政治体制であるウィーン体制の主導者となりました。

神聖ローマ皇帝フランツ2世

フランツ2世の肖像

フランツ2世は1792年に即位したハプスブルク家出身の神聖ローマ皇帝です。7年戦争でプロイセンと戦ったマリア=テレジアの孫にあたります。フランツ2世はナポレオンのイタリア遠征などに敗れ、領土の一部を失っていました。アウステルリッツの三帝会戦の前には首都ウィーンを攻め落とされるなど、散々な目にあいます。

アウステルリッツでの敗北後、フランツ2世は神聖ローマ皇帝の位から退位し、オーストリア皇帝となのります。オーストリア皇帝としてはフランツ1世とよばれます。

国政は宰相に登用したメッテルニヒにゆだね、戦後開かれたウィーン会議もメッテルニヒの手動で行われます。国民からは「善き皇帝フランツ」と呼ばれ愛されました。

戦後に結ばれたプレスブルク条約とは?

ウルムの戦いとアウステルリッツの三帝会戦で敗北したオーストリアはナポレオンに和平を乞います。両者はプレスブルクで和平交渉に入りました。

1806年12月26日、フランスとオーストリアはプレスブルク条約を結びます。オーストリアはナポレオンが作ったイタリア王国を承認し、ナポレオン側について戦ったバイエルンなどに領地を割譲します。加えて、4,000万フランの賠償金を支払いました。

プレスブルク条約でオーストリアを屈服させたナポレオンは、イエナの戦いでプロイセンにも勝利し、ヨーロッパでの覇権を確たるものとします。

アウステルリッツの三帝会戦に関するまとめ

アウステルリッツの三帝会戦はナポレオン率いる大陸軍がオーストリア・ロシア連合軍に勝利した戦いでした。ナポレオン1世、アレクサンドル1世、フランツ2世が参戦したため三帝会戦とよばれます。

見事な戦術で勝利したナポレオンはオーストリアを屈服させ、翌年のイエナの戦いでもプロイセンに勝利し、大陸の覇者となりました。

この記事を読んで、「アウステルリッツの三帝会戦はこんな戦いだったんだ」、「三帝はこんな人たちだったんだ」などと理解する役に立てたら幸いです。

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