あなたは戦国時代の「おだ」と聞いてまっさきに誰を思い浮かべるでしょうか?
織田信長!と多くの方は答えると思います。おそらく私も多分そう答えます。
しかし一部の人に人気沸騰中のもうひとりの「おだ」が居るのをご存知でしょうか。それこそが今回の主人公、小さい田んぼの方の小田、すなわち小田氏治です。
誰だそれ?と思われる方も少なくないことでしょう、というのも彼は戦国の並み居る名将や大名の中にあって何か特別頭が良かったわけでもなければ何か非常に戦功があったわけでもありません。
しかしそれでも彼はその他の戦国大名の誰も決して持っていない魅力を兼ね備えた人物です。今日はそのような小田氏治という人物について詳しく解説していきたいと思います。
きっと読み終える頃にはあなたもこの小田氏治という人物が好きになっていることでしょう。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
小田氏治とはどんな人?
名前 | 小田氏治 |
---|---|
通称 | 小太郎(幼名)小田氏治、小田天庵 |
誕生日 | 1534年3月12日 |
生地 | 常陸国(茨城県) |
没日 | 1602年1月6日(68歳) |
没地 | 越前浅羽 |
所属 | 関東八屋形 |
配偶者 | 正室:葉月(江戸忠通の娘) 側室:稲姫(芳賀貞利の娘) |
埋葬場所 | 常陸の新善光寺(越前の永平寺から改葬) |
小田氏治ってどんな人?
小田氏治は天文3年、西暦1534年に小田家第14代当主小田政治の元に生まれます。この年に生まれた人物は細川幽斎や、フレデリク2世などです。
実は信長の方の織田さんが生まれたのもこの年で、また後ほど紹介しますが生涯因縁深いライバルとなる結城晴朝もこの年の生まれです。
小田氏の歴史は非常に古く、鎌倉時代にまで遡ります。また前述の小田氏治の父小田政治も室町幕府第11代足利義澄の弟に当たる人物ということもあり正真正銘の名門でしたが、小田氏治の代にはその隆盛も鳴りを潜め、ついに豊臣秀吉の北条征伐の際に領土没収が決まり大名としての小田家は滅びてしまいます。
これだけを聞くと戦国時代によくある名門の没落話かと思うかもしれませんが特筆すべきは彼の戦下手さです。
小田氏治は別名「常陸の不死鳥」とも呼ばれておりますが、これは決して戦が強いという意味ではなくむしろその逆です。
すなわち何度負けても死なないから、さらに言うとあまりに戦が下手すぎるのでついた異名というわけでそう考えると非常に不名誉なあだ名です。
しかしこのように当時から戦下手な人物という評価はあったものの家臣や領民からの人望は厚く、城をほかの大名に占領されても農民たちはわざわざ氏治のもとへと年貢を収めに行くほどで、また家臣たちもどんなに負けが続いていてもやはり氏治についていったようですから何か不思議な魅力を持ち合わせた人物だったのかもしれません。
小田氏治は最弱?なぜ戦に負けてしまうのか?
戦の勝ち負けは時の運だとはいえ氏治にはいくつかの負ける時のパターンというものがありました。
負ける理由その1:ひとつのことに熱中してしまう
氏治には一度ひとつのことに熱中すると他人の言うことが聞こえなくなる癖がありました。小田氏治が太田三楽と対峙して撤退しようとしたとき、太田三楽に挑発をされます。
家臣の菅谷政貞はいきり立つ氏治を諌めようとしますが氏治はこれに耳を貸さず太田三楽と手這坂で激突。惨敗して小田城を失います。
また、1590年、ときは秀吉が戦国最後の敵として北条征伐をしている頃氏治は全くそれに構わず小田城を奪還しようとします。結局北条征伐に参陣しなかったばかりか惣無事令が出ているにも関わらず戦争を起こしたとして秀吉に改易されてしまう結果となります。
このようにひとつのことに熱中しすぎて家臣の忠告に一切耳を貸さずに出陣してしまい敗戦の山を築いてしまうこととなってしまいます。
負ける理由その2:家臣が優秀
この理由を見て、家臣が優秀なのであればむしろ勝てるのでは?と思われるかもしれません。なぜこれが二つ目の理由かというと、小田氏治は何度も居城を奪われて家臣の城へと逃れます。
普通であればそのまま敵がその勢いで家を滅ぼしてしまうのですが小田家の場合はそれがありません。というのも家臣が優秀でその家臣たちの助力で居城を取り戻せてしまうからです。
そういうわけで小田氏治は通常であればお家滅亡の危機を何度も家臣たちに救われてはまた城を奪われるというのを繰り返し結果敗戦の山を築く原因となってしまいます。
小田氏治にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「軍師源鉄の死」
氏治の部下の一人で小田氏治の軍師的存在とも言える知恵者、天羽源鉄に最期の時が訪れようとしていたのことです。息子とともに駆けつけた氏治に源鉄は最後の策をさずけます。
「我が小田家は、多年多賀谷、佐竹と矛を交え争い、片時として安堵の思いをしたことはありませんでした。それは全て、こちらが小国であり、相手が大国であったためです。ただ策を以って、これまで支えてまいりました。御屋形様、私が死んでも策は同じです。決して城を出て、平地で戦ってはなりません。必ず、城にこもって闘いぬくのです。籠っている内に、後詰めとして土浦、藤沢、海老ヶ島などの諸城より援軍が来て、これを追い払うことが出来るのです。どんな事があっても、籠城して防戦一途の戦いこそが御寛容ですぞ!」
彼はそう繰り返し叫んで息を引き取ります。さて、この知らせに手子生城に何度も攻撃を加えましたが源鉄の采配により辛酸を舐めさせられてきた佐竹義重が動きます。
彼は3000の兵を率い手子生城に押し寄せたのです。小田氏治はこれを聞くや、なんと、直ちに兵を出して途中で迎え撃とうと人数を集めます。
驚いた重臣の江戸山城守はもちろんこれに反対しますが、氏治は1000の兵で出陣。戦い自体は佐竹義重の伏兵戦術により敗走。まもなく義重の軍門に下ることになります。
都市伝説・武勇伝2「上杉謙信攻略のための策」
1556年に氏治が結城勢と戦っていたときのこと、海老島城に攻め寄せる結城軍ですが沼地に阻まれ苦戦していました。このまま耐え切ることができれば勝てるかも知れないと思った氏治でしたが、太田源六の援軍などもあり、戦いは敗北。
結城勢は485の首級をあげ勝利しましたが、氏治はこの時の沼地のことを覚えていました。
時は流れて1564年に再び海老島城下で戦いが起こります。今度攻め寄せてきたのは上杉謙信、氏治は勝利を確信します。氏治はちょうど謙信の布陣している場所から沼地を挟むように布陣。こうしておけば謙信が一直線に攻め寄せてくれば沼地に足が取られて動けなくなるという算段でした。
いざ戦いが始まり果たして謙信は氏治が思ったとおりまっすぐ氏治の陣めがけて攻め寄せてきますがしかしここで思いもよらないことが起こりました。なんと謙信の軍勢は沼地で全く足を取られず一直線に突撃して敗北してしまいます。
…先に布陣している百戦錬磨の上杉謙信は事前に周囲の地形を調べており、渡れる場所に目星をつけていたのでした。
小田氏治の年表
小田氏治は小田家第14代当主小田政治の息子として生まれます。小田政治は常陸の各勢力と戦い勢力を拡大して小田家の最盛期を築いた人物です。
小田政治が死に、氏治は15歳で家督を継ぎます。
この三年前に河越夜戦が起こり、小田氏は白河公方側に味方し、敗れたことで衰退期に入っていました。小田氏治は以降積極的に軍事行動を起こして勢力拡大を図ることになります。
小田氏治が最初に目をつけたのは下総の結城城城主の結城政勝でした。
北条家とも通じていた結城政勝に警戒を強めた小田氏治は太田城主の佐竹義昭とともに下総に出兵しますがうまくいきません。
翌年の1556年には逆に北条家の援軍を得た結城勢に逆に攻められ、氏治はこれを迎え撃つも敗れます。
こうして海老島城と小田城を奪われます。これが小田城の一回目の落城でした。
菅谷家のいる土浦城に落ち延びた小田氏治でしたが、結城家が北条の助力を得られなくなった機会を捉え、菅谷勝貞、政貞の助力を得て小田城を奪回します。
この年に小田氏治は下妻城主の多賀谷政経を攻めます。しかしこれに佐竹義昭が救援に駆けつけ黒子の戦いが起こりますが、敗北します。
小田城も奪われてしまい敗北した小田氏治は土浦城へと落ち延びます。
佐竹義昭の守りが手薄になった隙を突いて氏治は再び小田城を奪還します。
しかしすぐに佐竹義昭と多賀谷政経の連合軍により陥落してしまいます。この時は篭城していたのに取られてしまいました。
この年の4月、土浦城主の菅谷政貞の活躍により小田城を奪回します。
その勢いと、結城政勝が死んだことで小田氏治は結城城に攻め込みますが敗北して逆に北條城と海老島城も失います。
5月、桶狭間の戦いが起きている頃に上杉謙信は関東に向けて出陣しました。
小田氏治も上杉謙信に従い、上杉・佐竹・多賀谷とともに、以前から北条家と同盟を結んでいた結城秀勝亡き後の当主・結城晴朝と戦い勝利。海老島城を取り返します。
これに伴い奪われていた城や領地も取り戻しました。
ついに上杉謙信は小田原城に総攻撃を仕掛けます。小田氏治やその家臣も参戦しましたが小田原城は堅牢でなかなか落ちず結局3月に上杉謙信は撤退します。
上杉謙信への従属を約束していた氏治でしたが、1562年の上杉との約束を破って北条に息子を人質に出して北条と同盟を結び、上杉謙信を裏切ります。
1564年4月佐竹義昭・宇都宮広綱・真壁氏幹は連署で小田氏治の裏切りを上杉謙信に訴えます。
これを受けて上杉謙信は出兵、小田氏治は山王堂で迎え撃ちますが大敗し、小田城を奪われ、小田氏治は藤沢城に逃れます。
この年に長年の宿敵佐竹義昭が死にこれをチャンスと見た小田氏治は小田城を奪還します。
しかしこれが上杉謙信の怒りに触れます。
「喪が明けぬうちから攻めるとはなんたる不義」と上杉と佐竹の両方から猛攻を受けてしまった小田城は再び落城します。
小田氏治は結城晴朝を通じて上杉謙信に降伏を願い出ます。結局小田城の修復をしないという条件で降伏が認められ、小田城の回復が許されます。
1月海老島城を降伏させた佐竹義昭の息子佐竹義重が攻め寄せこれを撃退します。しかし同年の真壁氏幹との戦いには敗北します。
小田領に攻め込んだ結城晴朝と平塚原で退治し、菅谷政貞の夜襲が功を奏し勝利を収めます。しかし、同年の佐竹義重の攻撃により谷田部城を奪われます。
小田氏治が毎年大晦日に酒宴と歌会を開くことが恒例であるということを知った太田三楽によって奇襲され、小田城が落城します。氏治はすぐに反撃して奪回しますが、やはりすぐに落城し、藤沢城も落城したので土浦城に逃げ込みます。
文字通り最後の砦であった土浦城も包囲されついに落城。多くの小田家の武将が討ち死に、もしくは佐竹の軍門に下りました。
逃げ延びる場所がなくなった氏治は小田原に逃げ込み、北条に人質に出していた友治や関東公方の足利義氏を通じて助けを懇願します。
北条はこれに応えて出陣、一時佐竹に降っていた菅谷政貞も主が帰還するや、城を小田氏治に無血開城しさらに、手子生城も奪還します。
その後も佐竹義重と激しい戦いを繰り広げるも優勢にはなれずについに息子の金寿丸を人質に差し出し佐竹義重に降伏します。以降小田氏治は佐竹方の武将として働きます。
苦節7年佐竹義重のもとで戦っていた氏治でしたがついにこの年に小田城を襲撃します。当初は優勢に戦いを勧めますが次第に苦戦し始め、しかも折り悪くこの時にちょうど豊臣秀吉による関東征伐が起きており、佐竹義重は豊臣秀吉方についていたため、氏治は「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」と所領を没収。大名としての小田氏はここに滅びました。
氏治は奥州巡察に向かった秀吉を追って会津に行き、浅野長政を通じて謝罪します。
秀吉もようやくこれを許し、娘が側室にもなっていた結城家に300石の客将として身を置くことを許します。
ちなみに菅谷家は小田家への忠義が認められ、1596年に政貞の息子菅谷範政が家康の旗本に取り立てられ、幕末まで続きました。
結城家の移封に伴い、越前に移封した後になくなります。享年は68。越前に葬られた後、常陸に改葬されます。
小田氏治の具体年表
1534年 – 0〜12歳「小田氏治誕生」
氏治は関東八屋形に名を連ねる名門のひとつ小田家の息子として生まれます。
父の小田政治は周辺の大名と戦いながら勢力拡大に成功し、小田家を戦国大名化に導いた人物です。
しかし、1545年、氏治が12歳の時関東の政局を決定づける河越夜戦が起こります。この戦いで政治はこの戦いで敗北する白河公方側について敗れてしまいます。
これに伴い佐竹氏や北条氏の勢力が拡大し、小田家の勢力拡大に陰りが見え始めます。
1548年 – 15歳「小田政治が死に、氏治が家督を継ぐ」
小田政治が死に、氏治が15歳で家督を継ぎます。
以降小田氏治は政治の代からの勢力拡大を再開するべく積極的に軍事行動を起こし小田家の勢力を拡大させようと躍起になります。
1555年-22歳「小田氏治、結城政勝を攻める」
小田氏治が最初に目をつけたのは下総の結城城城主の結城政勝でした。
北条家とも通じていた結城政勝に警戒を強めた小田氏治は太田城主の佐竹義昭とともに下総に出兵しますが敗北します。
1556年-23歳「小田城落城、そして奪回」
翌年の1556年には逆に北条家から太田三楽などの援軍とともに結城政勝が海老島城へ攻め寄せます。
小田氏治は援軍を送りますが山王堂で敗北し海老島城は落城します。小田城に撤退する暇もなく結城・北条の軍勢によって小田城までも奪われてしまい落城します。
これが小田城の一回目の落城でした。菅谷勝貞、政貞の親子のいる土浦城に落ち延びた小田氏治でしたが、結城家が北条の助力を得られなくなった機会を捉え、8月に菅谷勝貞、政貞の助力を得て小田城を奪回します。
1557年-24歳「佐竹義昭との戦闘に敗北」
常陸進出を狙っていた北条氏康がそれまで敵対していた小田家に対し和睦を申し入れてきます。佐竹家は小田家にとっても宿敵であったため氏治はこの話に乗り、小田家は佐竹家と戦うことになりました。
1557年に小田氏治はさっそく佐竹家の家臣多賀谷政経のこもる下妻城を攻撃しますが、これに佐竹義昭が救援に駆けつけ黒子の戦いが起こります。氏治の軍勢はこれに敗北し、追撃してきた佐竹軍によって小田城は落城します。
1558年-25歳「小田城奪回、そして落城」
佐竹義昭の守りが手薄になった隙を突いて氏治は再び小田城を奪還します。
しかしすぐに佐竹義昭と多賀谷政経の連合軍により陥落してしまいます。この時は篭城していたのに取られてしまいました。
というのも、小田城は平城で攻めるに易く守るに脆い城だったというのが関係しているようです。
本来であれば城を作り変えるとか本拠地を変えるとかするのが普通とも言えますがこれ以降も氏治は小田城に強い執着を持ち本拠地をこの小田城から変えることはありませんでした。
小田氏治、よわ