最弱の侍?小田氏治とはどんな武将?生涯・年表まとめ【戦に負ける理由や武勇伝についても紹介】

1559年-26歳「菅谷政貞、小田城奪還。しかし氏治、北條城と海老島城を失う」

小山高朝

この年の4月、土浦城主の菅谷政貞の活躍により小田城に攻め込んで小田城を奪回します。

またこの年、結城政勝が死んだことで小田氏治は勢いに乗って結城城に攻め込みます。

しかし、結城政勝の弟小山高朝や、鬼真壁とも呼ばれる真壁氏幹の活躍にも阻まれ撤退を余儀なくされ、逆に北條城を奪われ、さらに佐竹・多賀谷に海老島城を奪われてしまいます。

結城家との戦いに敗れた氏治でしたが今度は氏治は大掾貞国を攻めようと画策します。

「大掾貞国は傲慢な性格で民心を失っているから攻める」と宣言して周辺勢力にも自分の味方をするよう要請しますが無視されます。

しかも逆に大掾貞国に攻め込まれ城を失うと言う始末で、氏治はこのままでは追われないと大掾貞国方の城手賀沼城に攻め込みますが、この時留守にしていた領国を佐竹家や結城家が狙っているという情報が入ります。

悩んでいるうちに退路を閉じられてしまい、大きく迂回して領国に帰ろうとするもこの動きも読まれて追撃に会い再び敗北をします。

1560年-27歳「上杉謙信に従軍、海老島城を取り返す」

結城晴朝

5月、桶狭間の戦いが起きて今川義元が戦死し、甲相駿三国同盟の一角が崩れたのを見た上杉謙信(当時長尾景虎)はこれを北条征伐に乗り出し、関東諸将にも協力を要請します。

小田氏治も上杉謙信に従いますが、結城秀勝亡き後の結城家当主・結城晴朝だけは上杉謙信に従わなかったため、翌年1561年1月に上杉・佐竹・多賀谷とともに戦い勝利。

結城晴朝は降伏し、この戦いで氏治は海老島城など失った城のや領土を取り戻します。

1561年-28歳「小田原城の戦いに参戦」

小田原城

ついに上杉謙信は小田原城に総攻撃を仕掛けます。

小田氏治やその家臣も参戦しましたが小田原城陥落には至らず小田、宇都宮、佐竹の勧めで謙信は3月に一時撤退します。

1562年-29歳「北条氏に寝返り」

上杉謙信への従属を約束していた氏治でしたが、1562年の上杉との約束を破って北条に息子を人質に出して北条と同盟を結び、そればかりか上杉方の大名大掾貞国を打ち破ります。

こうして氏治は上杉謙信を裏切ります。

佐竹家は引き続き上杉家に従っていたためこうして氏治は再び佐竹家と対立します。

1564年-31歳「山王堂の戦い、小田城落城」

謙信が本陣を置いた山王堂

1564年4月佐竹義昭・宇都宮広綱・真壁氏幹は連署で小田氏治の裏切りを上杉謙信に訴えます。

氏治の裏切りに怒った上杉謙信は出兵、8千の軍勢を率い山王堂という場所に布陣します。一方このあまりの行軍スピードに小田氏治は3千の兵しか準備ができません。

氏治はその兵を筑輪川の手前に布陣します。まさしく、背水の陣でした。

かくして戦国最強とも軍神とも言われる上杉謙信との戦いが幕を切って落とされます。

この時の戦闘を見た真壁氏幹の当時18歳の郎従が後に「武者ぼこりの一面に立つ中に、打ち合わせる太刀の光が電光のように煌めくだけであって、戦い終わってからも戦場に黒い霧が立ち込めたように、おぼろおぼろに見えた」と述懐するほどに非常に激しい戦闘になりました。

戦闘は8時間ほど続き、小田方も菅谷政貞や平塚弥四郎などが奮戦するものの、やはり兵力の劣勢はいかんともしがたく氏治は小田城に撤退します。

しかし小田城も大軍に囲まれて落城。この戦いでは菅谷範政の息子、政頼が氏治を逃がすために討ち死にします。

小田城を奪われた氏治は藤沢城に逃れます。

その後奪回しますが、佐竹に奪われ、土浦城へと撤退します。

1565年-32歳年「小田城奪回」

この年に長年の宿敵佐竹義昭が病死します。これをチャンスと見た小田氏治は小田城を守っていた佐竹義廉を追い出して小田城を奪還します。

しかしこれが上杉謙信の怒りを買います。

1566年-33歳「小田城落城」

「喪が明けぬうちから攻めるとはなんたる不義」と怒った上杉と佐竹の両方から猛攻を受け氏治は城を脱出し、小田城は再び落城し、捕虜となった小田の家のものも20銭、30銭で人身売買にかけられてしまいます。それほどまでに上杉謙信は怒っていました。

1567年-34歳「武田信玄に協力を要請」

武田信玄(晴信)

追い詰められた氏治は甲斐の武田晴信に佐竹征伐を要請しますが断られます。

1568年-35歳「上杉謙信に降伏、小田城回復」

小田氏治は結城晴朝を通じて上杉謙信に降伏を願い出ます。結局小田城の修復をしないという条件で降伏が認められ、小田城の回復が許されます。

1569年-36歳「佐竹義重を撃退」

佐竹義重の甲冑

1月海老島城を降伏させた佐竹義昭の息子佐竹義重が攻め寄せてきますがこれを撃退します。しかし同年の真壁氏幹との戦いには敗北します。

1570年-37歳「平塚原の戦いに勝利、しかし谷田部城を佐竹義重に奪われる」

結城晴朝が多賀谷重経を先方に小田領に侵入します。小田城に迫る結城晴朝に対して氏治は菅谷政貞を援軍に向かわせます。

数で勝っていた結城軍に対して政貞は夜討ちを敢行して結城晴朝を撤退に追い込みます。

しかし、同年の佐竹義重の攻撃により谷田部城を奪われます。

1573年-40歳「小田城二度落城」

太田三楽(資正)

小田氏治は毎年大晦日に酒宴と歌会を開くことが恒例でした。

しかし、これを知った佐竹家の家臣となっていた太田三楽は佐竹義重を説得して軍を動かして小田城を奇襲し、小田城は落城します。しかしこの時氏治はすぐに反撃して奪回します。

しかし佐竹義重もこれに諦めず、小田城下に火を放ち氏治を挑発します。

さらに、小田家臣の上曽氏俊と小幡入道の二人が裏切ろうとしているという流言に堪忍袋の緒が切れた氏治はついに3000の兵を率いて出陣します。

重臣の信田重成は「あのふたりが謀反を起こすとは思えません。これは我々の戦力を削ごうとする策略だと思われます。まずは使者を派遣して二人の様子を探るところから始めるべきです」と言いますが聞く耳を持たずそのまま出陣します。

しかしこれに氏治は耳を貸さず「謀反を企んでないならすぐ降伏するはず」と出兵します。

一方小幡と上曽のふたりを助けに流言を流した本人の智将・太田三楽と鬼真壁こと真壁氏幹が援軍に来ます。

もはや謀られたことが明白な事実に撤退を促す家臣たちでしたが、氏治は何度も苦杯をなめさせられたこの両者が出陣していることを知り撤退を決意するどころか復讐に燃えていました。

両者は手這坂という場所で戦います。氏治の復讐心が兵士たちにも伝わったのか兵士一丸となって戦ってどんどん前線へと攻め込んでいきますが攻め込みすぎて、手薄となった本陣をつかれて敗北。

その後、小田氏治のふりをしていた真壁氏幹の軍勢に小田城の門番が城門を開いてしまい小田城も落城、藤沢城も落城したので土浦城に逃げ込みます。

1574年-41歳「土浦城落城」

土浦城

小田城、藤沢城の二つの城を落とした佐竹義重は文字通り最後の砦であった土浦城も包囲します。

1573年12月に佐竹勢は土浦城を攻撃しますが、小田軍の奮戦により佐竹勢は篭城戦へと切り替えます。

翌年の1月になると降参する小田兵も増えそしてついに2月に氏治は城を脱出し小田城は落城。多くの小田家の武将が討ち死に、もしくは佐竹の軍門に下りました。

1577年-44歳「北条の助力により土浦城、手子生城を奪還」

北条氏政

逃げ延びる場所がなくなった氏治は小田原に逃げ込み、北条に人質に出していた友治や関東公方の足利義氏を通じて北条氏政に助けを懇願します。

北条はこれに応えて家臣の北条氏房を派遣して土浦城を責めさせます。一方佐竹に降っていた土浦城主の菅谷政貞も氏治が帰還するや、城を小田氏治に無血開城します。

氏政はさらに、軍を送って梶原政景のこもる小田城をも攻めさせますが、佐竹の後詰が来たため撤退します。

しかし、北条氏の出兵による佐竹家の混乱を利用し氏治はさらに、手子生城を奪還、ここに入城します。

1583年-50歳「佐竹義重に降伏」

その後も佐竹義重と激しい戦いを繰り広げるも優勢にはなれずについに息子の金寿丸を人質に差し出し佐竹義重に降伏します。以降小田氏治は佐竹方の武将として働きます。

1590年-57歳「再び小田城に攻撃、しかし失敗し所領没収」

秀吉の直臣にはなれなかった

苦節7年佐竹義重のもとにいた氏治でしたがついにこの年に小田城を再び奪回しようと攻撃を仕掛け、樋ノ口の戦いが起こります。

当初は氏治は優勢に戦いを進めていき城塁を乗り越える勢いを見せる小田勢でしたが太田三楽の援軍が駆けつけ次第に小田勢の損害も増え始めます。

それでも戦いは優勢に進み佐竹勢を城内に逃げ込ませたものの、小田城の奪回はできず手子生城に撤退します。

氏治は北条氏政に救援を求めますが断られます。というのもこの時北条は秀吉による小田原攻めにさらされており援軍を出すような余裕がなかったのです。

しかもそればかりか、小田城への攻撃にかかりきりになっていたために小田原攻めに参陣ができておらず、しかも佐竹義重は豊臣秀吉方についていたため、氏治は「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」と所領を没収。大名としての小田氏はここに滅びました。

秀吉の直臣になることを希望しましたがさすがに許されませんでした。

1591年-58歳「罪を許され結城家の客将に」

氏治と秀吉の仲をとりもった浅野長政

氏治は奥州巡察に向かった秀吉を追って会津に行き、浅野長政を通じて謝罪します。

秀吉もようやくこれを許し、娘が側室にもなっていた結城家に300石の客将として身を置くことを許します。

ちなみに菅谷家は小田家への忠義が認められ、1596年に政貞の息子菅谷範政が家康の旗本に取り立てられ、幕末まで続きました。

1601年-68歳「移封先の越前で死去」

小田氏治の墓

結城家の移封に伴い、越前に移封した後になくなります。享年は68。越前に葬られた後、常陸に改葬されます。

小田氏治の関連作品

おすすめ本

常陸小田氏の盛衰

軍記物が一次資料という非常に資料の少ない氏治の資料を客観的な資料や並行資料とともにわかりやすくまとめた本です。

ポンコツ武将列伝

お笑い芸人の長谷川ヨシテルさんの本で小田氏治を含めた武将たちのちょっとだめな逸話を様々な資料だけでなくや遺跡を回って得た情報などを交えて紹介している面白い本です。氏治は一番最初に乗っており本人も気に入っている人物のようです。

小田氏治についてのまとめ

織田信長、伊達政宗、真田幸村、上杉謙信、徳川家康……。

これらはLINEアンケートが調査した好きな戦国武将の上位陣の名前だそうです。当然ですがなかなかそうそうたるメンバーです。

信長は尾張一国から始めて京に上洛した天下人ですし、政宗は奥州の覇者、そして真田幸村もまた日本一の兵とまで呼ばれた猛将です。

みなさんの好きな武将はどうでしょうか。いずれにしてもあえて愚将を好きになるという人は少ないことでしょう。弱いチームよりも強いチームの方がファンは多いものだと思います。

しかしこの氏治のように戦に負け続けている人物であっても当時の領民や家臣たちからは人気があったのは確かです。

なぜここまでに戦が不得手な氏治が何度も城を奪い返すことができたのか。それは家臣や領民からの絶大な支持があればこその成せる技でした。

菅谷政貞は何度自分の献策が受け入れられずに氏治が敗北したとしても、何度その敗戦で息子や孫が死んだとしても変わらない忠誠で氏治を支え続けましたし、正月に氏治が城を奪われた時も、氏治の呼びかけに応じて即座に5500人もの軍勢が集まり、すぐに城を奪還することができました。

こうして見ると氏治は確かに戦下手とは言え何かしらの魅力があったと思わずにはいられません。もし手元にインターネットがある人は「小田氏治」という名前で画像検索をしていただきたいと思います。

そうすると小田氏治の肖像が出てくると思うのですがそれとともに、その下に猫が丸まっているのが見えると思います。

普通肖像画にこのようなペットが一緒に写っているものというのはあまりないですしこの猫が一体何者なのかも今となっては知る由もありません。

いつも一緒にいるので絵師が気をきかせて書いたのか、あるいは氏治が是非ともこの子のも一緒に描いて欲しいと頼んだのか。

真相はわかりませんが、この氏治の隣で安心しきった表情で寝ているこの猫の安らかな寝顔を見ていると、この氏治という人物の魅力が何か垣間見れるような気がせずにはいられません。

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