未回収のイタリアって何?場所や内容、オーストリアとの関係を解説

「未回収のイタリアって何?」
「未回収のイタリアってどこにあるの?」
「どうして、未回収のイタリアとオーストリアが関係するの?」

この記事にたどり着いたあなたは、このようにお考えではないでしょうか。
未回収のイタリアとは、イタリア王国成立後もオーストリア領として残された地域のことです。

イタリア国民はイタリア人が多く住む未回収のイタリアの回収を求めたため、イタリア政府は普墺戦争や第一次世界大戦の機会をとらえて未回収のイタリアの回収に努めます。

1919年のサン=ジェルマン条約でイタリアは未回収のイタリアの大半を取り戻すことに成功しましたが、隣国オーストリアやユーゴスラヴィアとの国境紛争が発生します。

この記事では、未回収のイタリアの場所やオーストリアとの関係、未回収のイタリアの回収、第一次世界大戦後の国境問題などについてまとめます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

未回収のイタリアとは

第一次世界大戦後のイタリア王国の地図

未回収のイタリアとは、1861年のイタリア統一(リソルジメント)の後もオーストリア領として残された南チロルや旧ヴェネツィア共和国の領土のことです。これらの地域はイタリア人が多く居住することから、イタリア国民がイタリアへの併合を強く望みました。

イタリア統一後も、オーストリアは旧ヴェネツィア共和国領を手放さなかったため、イタリア国民はこれら「未回収のイタリア」をオーストリアから取り戻すべきだと考えます。

イタリアは普墺戦争でプロイセンに味方し、旧ヴェネツィア共和国領の大半を奪回します。さらに、第一次世界大戦後のサン=ジェルマン条約で南チロルとトリエステをとりもどし、未回収のイタリアは解消されました。

オーストリアと未回収のイタリアとの関り

オーストリアを支配したハプスブルク家の旗

オーストリアによる北イタリア支配

サルデーニャに勝利し北イタリアを支配したラデツキー将軍

そもそも、なぜ、オーストリアが北イタリアを支配していたのでしょうか。その根源はドイツにあった神聖ローマ帝国がイタリアに干渉したイタリア政策にあります。

神聖ローマ帝国はドイツとイタリアを支配するキリスト教国家で、ローマ教皇と深く結びついていました。しかし、皇帝と教皇が対立すると皇帝はたびたびイタリアに軍を送ってイタリアに干渉します。その神聖ローマ帝国の皇帝の地位にあったのがオーストリアのハプスブルク家でした。

18世紀末から19世紀初めのナポレオン戦争でイタリア北東部にあったヴェネツィア共和国はナポレオンに滅ぼされます。ナポレオン戦争後に開かれたウィーン会議では、旧ヴェネツィア共和国領やミラノなどのロンバルディア地方はオーストリアの支配地とされます。

1848年、サルデーニャ王カルロ=アルベルトはミラノで起こった市民蜂起に乗じてオーストリアに宣戦布告し、ロンバルディア地方の獲得を狙いました。しかし、1849年にラデツキー将軍率いるオーストリア軍に大敗し、カルロ=アルベルトは退位せざるを得ませんでした。

イタリア統一戦争でロンバルディアを得る

イタリア統一の立役者となった首相カヴール

1852年、カヴールがサルデーニャの首相になると、にわかに事態が動き始めます。カヴールはオーストリアに対抗するためイギリスやフランスの協力を得ようと考えました。そのため、カヴールはロシアとイギリス・フランスが戦っていたクリミア戦争にサルデーニャ軍を参戦し、イギリス・フランスを支援します。

クリミア戦争でフランス皇帝ナポレオン3世の心象を良くしたカヴールは、1858年にナポレオン3世とプロンビエールの密約を結びます。カヴールは、フランスが欲しがっていたサヴォイアとニースを割譲する代わりに、対オーストリア戦争での支援を受けることに成功します。

1859年、フランスの後ろ盾を得たカヴールはオーストリアに宣戦布告しイタリア統一戦争が始まります。サルデーニャ・フランス両軍はソルフェリーノの戦いでオーストリアに勝利し、戦争を有利に進めました。

ところが、ナポレオン3世はオーストリアと勝手に講和を結んでしまいます。はしごを外されたサルデーニャは仕方なく、オーストリアとの講和に応じました。イタリア統一戦争ではロンバルディア地方を得たにとどまり、旧ヴェネツィア領はオーストリアに残されます。

普墺戦争でヴェネツィアを奪還

18世紀前半のヴェネツィア、サンマルコ広場

イタリア統一戦争に勝利したサルデーニャは、1860年に中部イタリアを併合します。さらに、1861年にガリバルディが南イタリアにあった両シチリア王国を平定しサルデーニャ王に献上したことから、ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王とするイタリア王国が成立します。

イタリアはオーストリアから旧ヴェネツィア共和国領を奪い返すチャンスを虎視眈々と狙います。そして、その機会は1866年に訪れました。この年、オーストリアはプロイセンと普墺戦争を戦うことになったからです。

イタリアはプロイセンと同盟しオーストリアに宣戦布告します。イタリア軍は念願のヴェネツィア奪還を果たしました。しかし、普墺戦争がわずか7週間で決着してしまったため、南チロルやトリエステなどの地域は占領できませんでした。

この時、オーストリアから取り戻すことができなかった南チロルやトリエステのことを「未回収のイタリア」と呼ぶようになります。イタリア国民は未回収のイタリアをとりもどすことを熱望するようになりました。

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