普墺戦争とは何?原因や勝敗、その後の影響を解説【歴史年表付き】

「普墺戦争ってどんな戦争?」
「普墺戦争の原因は何?」
「普墺戦争は周辺国にどんな影響を与えた?」

このページに来てくれたあなたは、そのような疑問を持っているかもしれません。

普墺戦争とは、1866年にプロイセンとオーストリアの間でおきた戦争です。両国はデンマーク戦争で共闘したのち、デンマークから獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の扱いをめぐって対立し、戦争に発展しました。

普墺戦争後、戦争に勝利したプロイセンはドイツ統一の主導権を握りました。ドイツ統一から排除されたオーストリアはオーストリア=ハンガリー二重帝国となりました。

今回は普墺戦争がどのような戦争か、普墺戦争の原因は何か、普墺戦争が周辺国に与えた影響などについて解説します。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

普墺戦争とは

普墺戦争前のドイツ諸国

普墺戦争とは、1866年にプロイセン王国とオーストリア帝国との間でおきた戦争です。両国は、プロイセンが急成長したことやドイツ統一の時に、プロイセンとオーストリアのどちらが中心となるべきかという問題などで対立を深めます。

1864年に起きたデンマーク戦争では、共同で出兵し勝利をおさめ、シュレスヴィヒ州とホルシュタイン州を獲得しました。しかし、両州の戦後処理をめぐってプロイセンとオーストリアが対立します。

プロイセンの宰相ビスマルクはオーストリアを挑発し戦争となりました。これが、普墺戦争です。また、オーストリアを北イタリアから追い出したいイタリアはプロイセン側として普墺戦争に参戦します。

普墺戦争は軍事力に勝るプロイセン軍の圧勝に終わりました。戦争後、プロイセンはシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州を併合し、ドイツ統一問題でも主導権を握ります。

ドイツ統一から排除されたオーストリアはハンガリーと二重帝国を形成しました。

普墺戦争勃発までの背景

プロイセンの強大化

プロイセンの首相ビスマルク

18世紀の初め、プロイセンを治めるホーエンツォレルン家はスペイン継承戦争でハプスブルク家に協力しました。その見返りとして、ホーエンツォレルン家はプロイセン国王の称号を得ます。

軍事力を強化したプロイセンは、18世紀半ばのオーストリア継承戦争屋七年戦争に勝利して豊かなシュレジェン地方を領土に加えます。さらに、18世紀後半のポーランド分割にも参加して東方に領土を拡大しました。

フランス革命の時、ナポレオン軍との戦いに敗れ多くの領土を失いました。しかし、国内改革で国力を回復しワーテルローの戦いに参加しました。この勝利によりプロイセンは大国に復帰します。

1862年、プロイセンの首相となったビスマルクは「鉄血政策」とよばれる富国強兵策を進めました。ビスマルクは議会の反対を抑え、軍備を拡張します。

ドイツ統一問題

ドイツ統一について話し合われたフランクフルト国民議会

1848年、フランスで起きた二月革命は他のヨーロッパ諸国にも強い影響を与えました。プロイセンやオーストリアでは三月革命が勃発し、保守的なウィーン体制が崩壊します。革命のさなか、ドイツも統一国家を作るべきだという機運が高まりました。

1848年5月、フランクフルトでドイツ統一と憲法制定を目指すフランクフルト国民議会が開かれました。しかし、統一ドイツの政体を君主政とするか、共和政とするかで対立します。

さらに、オーストリアのドイツ人居住地域を加えて統一ドイツ国家を作ろうとする「大ドイツ主義」とオーストリアを除き、プロイセンを中心としてドイツ人国家を作ろうとする「小ドイツ主義」の対立がおきました。

オーストリアとしては大ドイツ主義では自国がドイツ人地域と非ドイツ人地域に分断され弱体化します。小ドイツ主義では、プロイセンを中心とする大国ドイツが出来上がってしまいます。どちらにしても、オーストリアに不利だったのでドイツ統一に反対の立場でした。

オーストリアの反対を踏まえ、フランクフルト国民議会では小ドイツ主義を採用し、プロイセン王をドイツ皇帝に選出しました。ところが、プロイセン王は議会によって皇帝に選出されることを拒否してしまいます。結局、フランクフルト国民議会は解散せざるを得ませんでした。

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