普墺戦争とは何?原因や勝敗、その後の影響を解説【歴史年表付き】

普墺戦争の直接的な2つの原因とは?

デンマーク戦争

デンマーク戦争に参戦したプロイセン・オーストリア連合艦隊

ユトランド半島南部にシュレスヴィヒ公国とホルシュタイン公国という国がありました。両国はデンマークの支配下にありましたが、住民の多くはドイツ系です。プロイセンは両国の帰属をめぐりデンマークと対立しました。

1863年、デンマーク王に即位したクリスチャン9世はシュレスヴィヒをデンマークに併合すると表明しました。これに対し、シュレスヴィヒの住民はホルシュタインとともに独自の公をたててデンマークの併合に反対します。

プロイセンの首相ビスマルクは、同じドイツ人国家であるオーストリアに共同出兵を持ち掛けます。これにオーストリアが同意したため、プロイセン・オーストリアの連合軍はデンマーク戦争を始めました。

戦いは質量ともに勝るプロイセン・オーストリア連合軍はデンマーク軍を圧倒します。デンマーク戦争はプロイセン・オーストリア連合軍の勝利に終わりました。

シュレスヴィヒ・ホルシュタインの処分問題

シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都キール

1865年、デンマークとプロイセン・オーストリアは講和条約を結びます。この条約で、シュレスヴィヒはプロイセンが、ホルシュタインはオーストリアが、それぞれ支配することになりました。

プロイセンのビスマルク首相は、この機にプロイセン領と接するホルシュタインの獲得も狙います。ホルシュタインには、バルト海に面する重要な港のキールがあったことも狙いの一つでしょう。

プロイセン軍はホルシュタインのオーストリア軍をしきりに挑発します。1866年の6月7日には、プロイセン軍が東ホルシュタインに進出しました。もはや、プロイセンとオーストリアの戦いは回避不能な状況になりました。

普墺戦争の勝敗の行方はどうなった?

プロイセン軍の勝利で幕を閉じる

プロイセン軍がオーストリア軍に完勝したケーニヒグレーツの戦い

1866年、プロイセン軍の東ホルシュタイン進出をきっかけに普墺戦争がはじまりました。プロイセン軍は無血でホルシュタインの主要都市を次々と占領します。駐留していたオーストリア軍は主力部隊と合流しました。

ドイツ各地でプロイセン軍とオーストリア軍が衝突しますが、おおむねプロイセン軍の優位に進みます。プロイセン軍は勝敗を決するため、オーストリアの首都ウィーンを目指しました。その途中のケーニヒグレーツ(現在のチェコ)で両軍の主力が激突します。

この時、プロイセン軍は全軍を3つに分け、ケーニヒグレーツにいるオーストリア軍を分進合撃する作戦をとります。作戦を立案したのがドイツ参謀本部の参謀総長モルトケでした。

戦いが始まった時、プロイセン軍の一部が到着していませんでした。そのため、戦局はオーストリア軍有利に進みます。しかし、遅れていたプロイセン軍が到着すると形勢は逆転します。三方から包囲されたオーストリア軍は壊滅的打撃を受けて敗走しました。

ケーニヒグレースの決戦で勝利したプロイセン軍は戦争全体でも勝利します。短期間で決着がついたことから「七週間戦争」ともよばれました。

プロイセンの勝因は?

プロイセンの勝因は4つあります。

ドライゼ銃

一つ目は、オーストリア軍より優れた銃を持っていたことです。銃の先端から弾をこめる先ごめ銃を使っていたオーストリア軍は1分間に2発程度しか発射できません。プロイセン軍のドライゼ銃は銃身の後ろから弾を込めることができるので、1分間に5発以上の発射が可能でした。

二つ目は、鉄道や電信の有効活用です。プロイセン軍は国内に張り巡らされた鉄道を使い、軍を高速移動させることが可能でした。また、電信網も整備され、情報伝達のスピードもオーストリア軍と桁違いの速さでした。

三つ目は名将モルトケの存在です。モルトケは鉄道を利用した兵力の高速移動を行い、オーストリア軍をほんろうします。ケーニヒグレーツの戦いの序盤、プロイセン軍が不利だった時も全く動じず、好みの葉巻を選ぶ余裕を見
せ同行していたビスマルクを安堵させます。

四つ目はイタリアとの同盟でした。イタリアはオーストリアを攻撃しました。戦争終結後、イタリアはオーストリアからヴェネツィアを獲得します。

普墺戦争が周辺国に与えた影響とは?

普仏戦争後のヨーロッパ地図

普墺戦争の結果、プロイセンはドイツ統一の中心となりました。これにより、ドイツ統一は「小ドイツ主義」で進められることが決まります。

一方、ドイツ統一から排除されたオーストリアは帝国内第2の民族であるハンガリーとの連携を強化し、オーストリア=ハンガリー二重帝国を成立させました。オーストリアがハンガリーの自治を大幅に認めたため「アウスグライヒ(妥協)」といわれます。

プロイセンを中心とした統一ドイツ出現を恐れたのがフランス皇帝ナポレオン3世でした。ビスマルクもドイツ統一の最後の障害をフランスと考えます。普墺戦争後、プロイセンとフランスの関係は目に見えて悪化し、1870年の普仏戦争を迎えます。

普墺戦争に関するまとめ

いかがだったでしょうか。

普墺戦争は1866年に行われたプロイセンとオーストリアの戦争です。普墺戦争の背景にはプロイセンの強大化とドイツ統一問題をめぐる主導権争いがありました。

普墺戦争の直接原因となったのがデンマーク戦争とそれによって獲得したシュレスヴィヒ・ホルシュタイン両州の管理問題です。

プロイセンを中心とした武力によるドイツ統一を目指していたプロイセンの首相ビスマルクは、オーストリアと対決姿勢を崩さず、普墺戦争が始まります。

戦いが始まってみると軍事力や機動力、優秀な軍人といった点で優れるプロイセンの圧勝となります。普墺戦争後、ドイツ統一はプロイセン中心に進められ、オーストリアはハンガリーと二重帝国を形成します。

普墺戦争とはどのような戦争だったのか、普墺戦争の原因はなんだったのか、普墺戦争が周辺国にどのような影響を与えたかなどについて「そうだったのか!」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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