現在でも古臭い考えにとらわれている人のことを「あの人は封建的だ」などと言います。では私たちは封建制度についてきちんと知っているでしょうか。
なんとなく知っているつもりになっていますが、封建制度とはいつ、どこで行われていた制度なのか答えられる人は少ないかもしれません。
実は封建制度は日本独特のものではありません。中国やヨーロッパでも封建制度は存在しました。これらと合わせて、日本の封建制度をこれから紹介していきます。
きっと封建制度について、意外な発見ができるはずです。また、歴史小説を読むときや時代劇を見るときに、少し違った見方ができるようになりますよ。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
封建制度とはどんな制度?
封建制度とは一言で言うと、一国の君主が家臣に領地を与え、その見返りとして家臣は君主に協力することを意味しています。
国を支配する君主は1人で広い国の隅々まで治めることはできません。そこで君主は国を分割して信頼できる家臣に分け与えることになります。
分割された土地は「封土」と呼ばれ、家臣は「諸侯」と呼ばれました。諸侯は土地を得る代わりに君主に忠誠を誓い、貢物を納めたり戦のときには軍事協力をしました。そして封土では自分が権力を振るうことを認めてもらいました。つまり大きな国の中に自分の国・領地を建てたのです。
これは封土を分け与えて諸侯を建てるという、封建制度の語源となりました。封建制度は国を治めるための、1つの方法だったのです。
日本の封建制度の歴史
日本での封建制度は鎌倉時代に始まったと言われています。そしてそれが江戸時代へと続き、明治維新になって武士と言う身分が消えると同時に消えていきました。
同じ封建社会であっても、鎌倉から戦国時代までは封建社会前期、江戸時代は封建社会後期と区別されていますが、その理由を説明します。
実はギブアンドテイク?鎌倉時代の封建制度
鎌倉時代には「御恩と奉公」という考えがあり、武士は領地を保証される代わりに、主君に忠誠を誓い、戦のときは軍事協力をしました。
しかしこの御恩と奉公に象徴される関係は、現代の雇用関係に近いもので、解消されることもありました。現代人が転職するのと同じで、武士の主君が変わることもあったのです。
御恩があるから奉公があったのであって、決してどんな主君のためにも我が身を捨てるということではありませんでした。鎌倉時代の封建制度には現代にも通じるドライな1面があることがわかります。
盲目的な愛が要求される?それが江戸時代の封建制度
江戸時代に入ると、少しでも長く徳川幕府の治世が続くように、世の中には厳格なルールができました。その中の1つが「二君にまみえず」という言葉に象徴される主君と武士の関係でした。
武士には忠義が何よりも大切だとされ、仕える相手を替えるのは言語道断の行いでした。これは明らかに武士の方からの奉仕と忠誠を求めていて、鎌倉時代の御恩と奉公に象徴される関係とは違います。
このような主君と武士の関係を固く守ることで、謀反や内乱はほとんどなく、徳川幕府の世は260年以上も続くわけですから、江戸幕府の封建制度にはかなりの効果があったことがわかります。
始まりは古代中国!紀元前の封建制度
紀元前17世紀頃の中国・殷にはすでに都市が存在していました。そして力を持った都市には王とは別に、諸侯のような権力者が存在していました。
しかし殷の王がその権力者たちに都市を治めることを許していたのか、権力者たちが王に対して忠誠を誓っていたのかはわかっていません。つまり封建制度が存在していたかはわからないのです。
中国での封建制度はもっと時代が下って、周の国により作られたようです。
周の時代の封建制度は「邑」が基本
紀元前1000年ころの中国・周では、邑(ゆう)という共同体が各地にできていました。
邑は同じ姓を持つ一族の集まりで、次第に大きな邑が小さな邑を支配するようになりました。また、邑同士のネットワークができて、それが1つの社会を形成しました。
こうして邑は周の国の中で重要な役割を果たすようになったのです。
周の君主はこれと血縁関係を結ぶなどして支配し、国を統治するために役立てました。これが中国での封建制度の始まりと言われています。
比べるとどちらが良い?邑の次に登場した郡県制
時代が下り、紀元前200年頃には秦が初めて中国全土を統一しました。すると広い国土をもっと効率良く支配するために、封建制度とは別の方法が考えられました。それが郡県制です。
国の中に郡や県を置き、そこに君主が選んだ役人を送り込むことで、効率よく支配ができるようになりました。国の支配は邑のように血縁関係に頼るのではなく、役人と法律に頼ることになったのです。
ただし、広大な中国にはいくつかの民族が存在していたため、国の一方的な支配に疑問を覚える人たちがいたのは事実です。そのような人たちは郡県制で役人が送り込まれてくるよりも、かつての封建制度の方が良いと感じていたようです。
このような考えは一時は弾圧されてなくなったかのように思えましたが、清朝末期(日本では江戸時代後期)に国が弱体化するとともに、かつての封建制の方が良かったのではないかという意見が再び出て来ました。
中国の封建制と郡県制の考え方は日本へと輸出され、どちらが優れた制度なのか、江戸時代の学者たちに大いに議論されました。