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隋を建国した楊堅とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や死因も紹介】

「楊堅とはどんな人物だったの?」
「功績や行った政策、生涯を知りたい!」

楊堅とは、581年に隋を建国し589年に中国を統一した人物です。北周の静帝から皇帝の位を譲られ隋王朝を開きました。

律令制度を整えましたり家柄ではなく試験で能力のある人物を役人に登用する科挙の仕組みを整えたりと楊堅が作り上げたシステムは次の唐王朝に引き継がれ、中華帝国の礎となりました。

また、偉大な人物であると同時に、意外にも楊堅は妻の独孤伽羅に頭が上がらない恐妻家という一面もありました。そのためか、妻の死後にはめを外して病になって亡くなってしまいます。

今回はそんな隋の初代皇帝にして恐妻家だった楊堅の生涯についてご紹介します。

楊堅とはどんな人物か

名前楊堅
誕生日541年7月21日
没日604年8月13日
生地陝西省大茘(だいり)県
没地大興城(現在の西安)
配偶者独孤伽羅
埋葬場所太陵

楊堅の生涯をハイライト

隋の初代皇帝となった楊堅

楊堅は541年に北周の将軍だった楊忠の子として生まれました。楊氏は北魏以来の軍人の家系です。漢民族で後漢の楊震の末裔と称していますが、異民族出身だったという説もあります。

555年、14歳で北周の朝廷の官職につき、翌年に高官である車騎大将軍などの地位に就きました。これは父の功績によるものです。557年に北周で二代皇帝の明帝が即位すると、楊堅は大興郡公に封じられます。

北周で三代皇帝の武帝が即位した560年、楊堅は対に大将軍に任じられます。父楊忠が568年に亡くなると、父の爵位である隋国公を引き継ぎました。

北周内で着実に地位を高めた楊堅は581年に北周最後の皇帝となる静帝から位を譲られ、隋の初代皇帝となりました。即位後、南朝の陳を滅ぼし300年ぶりに中国を統一します。

その後、楊堅は律令の整備や科挙制度の採用、大運河の建設開始、仏教の興隆などに力を尽くしましたが、604年に亡くなります。楊堅の死後、次男の楊広(のちの煬帝)が即位しました。

お寺で生まれ仏教と縁が深かった楊堅

楊堅の幼名の由来となった阿形の金剛力士像

楊堅のことを記した『隋書』によると、楊堅は541年に陝西省大茘県にあった般若寺で誕生しました。楊堅につけられた幼名は「那羅延」といいます。これは、金剛力士のうち口を開けている「阿形」の名である「那羅延堅固王(ならえんけんごおう)」に由来します。

中国を統一した楊堅は、仏教を国家統治の基本と考えました。都である大興城をはじめ、全国各地に大きな寺院を作ります。楊堅は仏教を全国に広め、国の教えにしようとします。

仏教で国を治めようという楊堅の政策は息子の煬帝や次の王朝である唐や奈良時代の日本にも強い影響を与えました。遣隋使が隋の皇帝(煬帝)に送った国書では隋の皇帝を「海西の菩薩天子」と表現し、隋の皇帝に仏教の加護があることをほめたたえています。

北周の大将軍楊忠の子として誕生

楊忠が活躍した時代の中国地図

楊堅の父である楊忠は西魏や北周で活躍した将軍でした。楊忠は上司にあたる宇文泰の狩りに同行した時、猛獣を素手でねじ伏せて舌を抜くという荒業を見せ宇文泰から称賛されました。

楊忠は東魏や南朝の梁との最前線に立ち続け、西魏が北周にかわったあとも重臣として新王朝に仕えます。そして、最終的には最高位に近い柱国大将軍まで昇進します。楊堅は父の築いた信用や基盤を相続し、北周の実力者として政権を握っていきました。

鬼嫁「独孤伽羅」の束縛に耐えきれず家出をした?

楊堅の妻となり、のちに皇后となった独孤伽羅

楊堅は558年ころ、14歳の独孤伽羅(どっこから)と結婚しました。伽羅の父である独孤信は楊堅が将来出世すると見込んで娘を嫁がせたのです。

結婚の時、伽羅は楊堅に一つの約束をさせます。それは、自分以外の女に子を産ませないということでした。楊堅はこの条件を受け入れます。隋の建国後、独孤伽羅は皇后となりました。

楊堅は皇帝になっても皇后の目を憚ったほかの女性と関係を持ちませんでした。あるとき、楊堅はつい浮気をしてしまいます。これを知った皇后はひそかに浮気相手の女性を殺させました。ショックのあまり楊堅はひとりで宮中を飛び出し山に入ってしまいます。

後を追ってきた重臣に「天子(皇帝)になっても、自分には自由がない」と嘆きました。しかし、楊堅は重臣の説得を聞き入れ宮中に戻ります。

楊堅の功績

功績1「隋を建国し、南北朝を統一」

隋の領土

楊堅の生まれたころ、中国大陸は東部の東魏(のち、北斉)、西部の西魏(のち、北周)、南部の梁(のち、陳)の三国に分かれていました。577年、北周が北斉を滅ぼし北半分は統一されます。しかし、南には陳が残っていたため中国の分裂は継続します。

北周で権力を握った楊堅は、581年に皇帝に即位し国の名を隋とします。国力を高めた楊堅は589年に衰えていた陳を滅ぼし中国全土を統一します。中国が統一されるのは実に300年ぶりのことです。

西晋が滅んでから楊堅が統一するまで、何度か統一のチャンスがありました。しかし、統一寸前までいっては最後の決戦で敗れたり、内紛での自滅、あるいは暗殺などで統一のチャンスを逃し続けてきました。

中国統一のチャンスを逃さず実行したという意味で、楊堅は300年に一人の英雄といってもよいでしょう。

功績2「科挙を導入し有能な人材を登用」

科挙の様子を描いた絵

楊堅の時代より前、中国で役人になるには地元の名士や貴族たちの推薦が必要でした。しかし、この仕組みでは推薦者である地元の名士や貴族の力が強くなりすぎます。そこで、煬帝は試験によって役人を採用する仕組みを始めました。

楊堅が始めた試験による役人の採用は「試験科目による選挙」という意味で、科挙とよばれるようになります。同じころ、世界のどの国でも試験で役人を採用するということは行われていませんでした。非常に画期的な仕組みだといえます。

試験の内容は儒教の経典や詩を作る能力です。科挙は中国のしくみとしてしっかりと根付きました。そのため、儒教と詩作は中国の知識人にとって絶対必要な能力となります。

功績3「大運河の建設を開始 」

隋の時代につくられた大運河(③は楊堅がつくらせた部分、①・②・④は煬帝がつくらせた部分)

中国には黄河と長江という二つの大河が流れています。どちらの川も西から東に流れます。これは、中国大陸の地形が西は高く、東は低くなっているからです。そのため、川が流れている東西は船で行き来しやすかったのです。

しかし、南北に流れる川がなかったため南北の移動は東西の移動よりも不便でした。そこで、楊堅は長江と淮河(黄河と長江の間を流れる川)を結び、南北の移動をしやすくしました。

これにより、農作物がたくさん撮れる南部と人口が多い北部が結びつきます。煬帝は大運河を南北に伸ばし、今の北京から杭州までを結ぶ「京杭大運河」に発展させます。大運河の開通により中国経済は大きくは成長することができました。

楊堅の人物相関図

楊堅周りの人々
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