楊堅にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「夢占いを信じ、「李」姓の有力者を殺害」
今から約400年ほど前、清の時代のはじめにつくられた歴史小説『隋唐演義』には様々な伝説が書かれています。その中に、楊堅の夢に関する話が出てきます。
ある時、楊堅は夢を見ました。夢の中で何者かが楊堅に対し「李姓で、名に水がつくものが隋を滅ぼす」と予言します。名に水がつくというのは、「さんずい」を意味します。夢のお告げを信じた楊堅は李渾(りこん)という臣下とその一族を滅ぼしました。
しかし、楊堅の死後、予言は思わぬ形で実現しました。楊堅の後を継いだ二代皇帝の煬帝の政治に失望した有力者李淵が反乱を起こし、隋を滅亡させます。李姓で「さんずい」の名を持つ者とは李淵だったのです。
真偽のほどは定かではありませんが、夢占いが今より信じられていた時代のことなのであったとしても不思議はありません。
都市伝説・武勇伝2「楊堅は息子に殺された可能性あり」
楊堅のあとつぎ候補は二人いました。一人は皇太子になっていた長男の楊勇、もう一人は次男の楊広です。このうち、妻の独孤伽羅に愛されていたのは次男の楊広でした。独孤伽羅の強い意向により楊勇は皇太子を廃され、楊広があらたに皇太子となります。
独孤皇后の死後、楊堅の寵愛を受けたのは宣華夫人という女性でした。604年に楊堅が病で床に臥せった時、宣華夫人からあることを訴えられます。皇太子楊広が楊堅の病の隙に迫ってきたというのです。
怒った楊堅は皇太子からはずした長男の楊勇を呼び戻そうとします。これを知った楊広の側近たちは急いで楊広に報告しました。そして、その直後に楊堅が亡くなります。
『隋書』では、あからさまに殺害したとは書かれていません。しかし、楊広が楊堅を殺害したとしてもおかしくない状況ではあります。
楊堅の年表
541年 – 0歳「楊堅、般若寺で誕生」
尼僧に育てられた楊堅
寺で生まれた楊堅の養育を担当した智仙は尼僧でした。寺に生まれ、尼僧に育てられた楊堅は仏教の影響を色濃く受けたのかもしれません。その後、般若寺は北周の武帝が行った廃仏政策により廃寺となってしまいました。
皇帝として即位した楊堅は都の中心に大興国寺を建立します。皇帝が建てた寺院にふさわしい壮麗な伽藍を有する大寺院でした。大興国寺は日本の東大寺と同じく、国の中心寺院と位置づけられます。
558年 – 17歳「独孤伽羅と結婚」
名門同士の結婚
楊氏も独孤氏も北魏以来の有力氏族で、おもに軍事の分野で王朝に貢献してきました。北魏も、その流れをくむ西魏、北周も政争が激しく、常に不安定ない状態でした。有力者は自分たちの地位を守るため、政略結婚を繰り広げます。
楊堅と独孤伽羅の結婚も、そうした政略結婚の一つといえるでしょう。違うのは、独孤伽羅が楊堅に他の女性に子供を産ませないと約束させたことです。楊堅は生涯、この誓いを守らされます。
568年 – 27歳「父の死により隋国公となる」
若くして高位高官に登る
楊堅は15歳の時に車騎大将軍に任命されています。これは軍の中でもかなり高位の役職で、10代の若者が任じられる役職ではありませんでした。それなのに、楊堅が高位高官に任命されているのは父の楊忠が北周の有力者だったからです。
27歳で父から引き継いだ隋国公は、皇帝や王に継ぐ非常に高い爵位です。この段階で、楊堅は北周の中でも指折りの要人になりました。その後、娘を皇帝の后にすることでさらに地位を強化し、北周でナンバー2の地位まで上り詰めます。
581年 – 40歳「中国統一」
南朝の陳を滅ぼし、300年ぶりに中国統一を達成
皇帝に即位した楊堅は、科挙の導入や律令制度の整備などにより隋の国力を高めることに専念します。その間も、南朝の陳の動向を探り続けました。
このころ、陳の皇帝だったのは陳叔宝という人物です。陳叔宝は毎日のように酒に酔って、国の政治をまともに行おうとしませんでした。やる気をなくした陳の兵士たちは隋に次々と降伏します。これをチャンスと考えた楊堅は一気に陳を攻めることにしました。
腐敗しきっていた陳軍は隋軍の敵ではなく、都はあっという間に陥落します。陳叔宝は愛する后たちとともに井戸の底に隠れていたところを発見され捕らえられました。これで、陳は滅亡し、楊堅はおよそ300年ぶりに中国を統一するという偉業を達成します。
589年 – 48歳「隋の建国」
北周最後の皇帝から位を譲られる
578年に娘を北周の皇帝に嫁がせた楊堅は北周で押しも押される大貴族となっていました。580年に皇帝の宣帝がなくなると、静帝があとを継ぎます。このとき、楊堅は現在の首相にあたる左大丞相になって国の権力を手中に収めます。
これに反発する者たちが反乱を起こしましたが楊堅は反乱軍を撃破し、ますます基盤を固めます。581年、静帝は楊堅に位を譲りました。平和的に皇帝の位を譲ることを禅譲といいます。静帝から禅譲を受けた楊堅は隋の建国を宣言し、初代皇帝となります。
604年 – 64歳「楊堅死去」
死後、文帝と諡(おくりな)された
皇太子楊広の使者が楊堅を見舞った直後、楊堅はこの世を去りました。楊堅の死は楊広による暗殺だったかどうかはいまだに議論が分かれるところです。死後、皇帝は整然の活動に見合った諡(おくりな)をおくられます。楊堅におくられたのは「文帝」の諡号でした。
通常、王朝の創始者には「武帝」などの勇ましい諡号がおくられます。しかし、国家制度の整備や大運河の建設など楊堅は武人というよりは政治家として後世の役に立つものを残しました。そのため、良い政治を行った皇帝に送られる「文帝」が諡号となったのかもしれません。
楊堅の関連作品
おすすめ書籍・本・漫画
『隋唐演義』
楊堅の時代から隋の滅亡、唐の建国を描いた歴史小説です。楊堅が登場するのは冒頭部分ですが、隋や唐の歴史を知るうえで非常に参考となります。もちろん、小説ですので全てが史実ではありませんが、面白いのは間違いありません。歴史ものでは定評がある田中芳樹氏の訳なのでかなり面白いですよ。
おすすめドラマ
『独孤伽羅皇后の願い』
楊堅の妻である独孤伽羅を含む三姉妹にスポットを当てた作品です。もちろん、楊堅もたくさん登場します。北周内部の権力闘争の様子や隋建国後の宮廷の様子などを見ることができます。非常に華やか舞台装置も見どころのひとつです。
楊堅についてのまとめ
いかがでしたか?
楊堅がもっともすぐれていたのは魏晋南北朝時代につくられた様々な仕組みをシステム化し、歴代王朝に引き継いだことです。特に、科挙制度や律令制度は次の唐王朝でも王朝の屋台骨として機能します。軍事よりも政治に優れた楊堅の時代は「開皇の治」として後世の歴史家から称えられました。
惜しいのは、最後の後継者選びの段階で長男の楊勇を廃し、次男の楊広を選んでしまったことです。楊広は才能ある人物でしたが、我慢がきかなかったがために楊堅が作り上げた隋を一代で滅ぼしてしまいます。
読者の皆様が、楊堅の人生や楊堅の功績などに対し「そうだったのか!」と思えるような時間を提供できたら幸いです。
長時間、この記事にお付き合いいただきありがとうございました。