ユグノー戦争とは何?原因や流れ、結末をわかりやすく解説

ユグノー戦争に勝利したのはブルボン家のアンリ

ユグノー戦争に勝利したブルボン家の紋章

ユグノー戦争の始まりとサンバルテルミの虐殺

1562年、王太后カトリーヌは新教徒たちの信仰を認める王令を出します。このことに反発したギーズ公配下のものたちはシャンパーニュ地方のヴァシーでユグノー70人以上を虐殺します。このヴァシーの虐殺をきっかけとしてユグノー戦争がはじまりました。

カトリーヌは新旧両派の融和を図るため、自分の娘とブルボン家出身のナヴァル王アンリの結婚話をすすめました。

サンバルテルミの虐殺

1572年、パリでアンリの結婚式が開かれることになり多数のユグノー貴族が結婚式に参列するためパリに集まります。この時、ギーズ公の手勢がコリニー提督をはじめとするユグノー貴族を次々と殺害。ナヴァル王アンリとコンデ公を捕虜としました。この事件をサンバルテルミの虐殺といいます。

三アンリの戦い

サンバルテルミの虐殺でユグノーは大打撃を受けました。しかし、1576年にとらわれていたナヴァル王アンリが脱出に成功すると勢力を盛り返します。アンリは港町ラ・ロシェルを拠点に抵抗を続けます。カトリック貴族たちはカトリック同盟を結成して団結しました。

1585年から1588年にかけて、ユグノーのナヴァル王アンリ、カトリック同盟のギーズ公アンリ、フランス王アンリ3世(シャルル9世の死後に即位)が三つ巴の争いを繰り広げました。当事者3人が全員アンリだったので、「三アンリの戦い」といわれます。

ギーズ公の暗殺

1587年10月、ギーズ公はフランス王と手を組んでナヴァル王アンリに決戦を挑みました。このクートラの戦いは激戦の末、ナヴァル王アンリが勝利をつかみます。その後、ギーズ公とフランス王は争いとなり、フランス王がギーズ公を暗殺してしまいます。

アンリ3世の暗殺

ギーズ公の死はカトリック勢力を激怒させます。パリ市民をはじめ、カトリックを擁護する人々は国王アンリ3世を激しく憎みます。1589年8月、アンリ3世はドメニコ会の修道士によって暗殺されてしまいました。

アンリ4世の即位とカトリック改宗

新国王として即位したアンリ4世

アンリ3世の死によってヴァロワ朝は断絶します。アンリ3世は死の間際、ナヴァル王アンリを王位継承者に指名しました。国王に即位したアンリ(以後、アンリ4世)はカトリック同盟の有力貴族を次々と撃破しました。

しかし、王都パリにはなかなか入城できません。カトリックの信者が多いパリ市民がユグノーのアンリ4世を国王として受け入れなかったからです。アンリ4世はパリ入城とフランス統一を果たすため、カトリックに改宗しました。

アンリ4世がカトリック同盟をうちやぶったイヴリーの戦い

これにより、ようやっとアンリ4世はパリに入城することができました。また、多くの都市がパリに続きアンリ4世の支配を受け入れます。戦いに敗れたカトリック貴族たちの多くもアンリ4世に帰順しました。

宗教対立を鎮めたナントの王令

アンリ4世のカトリック改宗ですべてが丸く収まったわけではありません。ユグノー貴族たちがアンリ4世のカトリック改宗に不信感を持ったからです。

アンリ4世が発布したナントの王令

アンリ4世は荒廃したフランスを立て直すためには宗教対立を鎮めなければならないと考えました。そこで、1598年4月、ナントの王令を発布します。この法令によりユグノーたちは信仰の自由を認められました。

ナントの王令はフランスの一定の秩序をもたらしましたが、すべての人を満足させるものではありませんでした。1610年、アンリ4世は狂信的なカトリック信者によって暗殺されてしまいます。ナントの王令そのものも、子孫のルイ14世の時代に廃止されてしまいました。

ユグノー戦争に関するまとめ

いかがでしたか?

ユグノー戦争は16世紀後半におきたフランスの内乱です。戦争の原因はカトリックとカルヴァン派(ユグノー)の宗教対立でした。

新興勢力のユグノー、フランスで多数を占めるカトリック、ユグノーとカトリックの両派のバランスの上に立つフランス王家(ヴァロワ朝)が激しい駆け引きを繰り広げた戦争でした。

最終的に勝利したのはユグノー勢力を率いるブルボン家のナヴァル王アンリです。フランス王となったアンリ4世はカトリックに改宗するとともに、ユグノーの信仰の自由を保障するナントの王令を発布します。

ユグノー戦争とは何か、ユグノー戦争の勝者は誰なのかといったことについて「そうだったのか」と思える時間を提供できたら幸いです。

長時間をこの記事にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。

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