竹中半兵衛とはどんな人?生涯・年表まとめ【性格や死因、功績についても紹介】

1564年 – 21歳「 半兵衛、齋藤家を去る」

龍興からの嫌がらせ

齋藤龍興は主君でありながら半兵衛に嫌がらせをしていた

半兵衛の主君であった齋藤龍興は、一言で言って、暗君でした。

酒と女に溺れて、政治を顧みることはなく、自分の周りにはイエスマンばかりを置き、耳の痛いことを言う忠臣達を自分から遠ざけ、冷遇するような人物だったとのこと。

中でも、龍興から重用されていた齋藤飛騨守(さいとうひだのかみ)と半兵衛の相性は最悪だったようです。有名な逸話の中に、飛騨守が半兵衛に対し、櫓の上から小便を引っ掛け、その女性のような容貌を嘲笑したという逸話があります。

しかし半兵衛は、龍興や飛騨守からの嫌がらせにも知らぬ顔。ますます調子づく龍興と飛騨守でしたが、それで終わる半兵衛ではありませんでした。

稲葉山城乗っ取り事件

信長を破り半兵衛が手に入れた稲葉山城

度重なる嫌がらせに、半兵衛の堪忍袋の緒はとっくに切れていました。

彼は同じく冷遇されていた西美濃三人衆の一人、安藤守就(あんどうもりなり)らと共に、「病気の弟の見舞いだ」と理由を付けて稲葉山城の奥深くに侵入。看病のための道具や、見舞いの品に偽装した荷物から、刀などの武装を取り出し、齋藤飛騨守ら6名を、瞬く間に討ち取ってしまいます。

そんな半兵衛に恐れをなした龍興は、稲葉山城から逃亡。半兵衛は、信長が喉から手が出るほど欲しがり、数年以上をかけても手に入れることが叶わなかった稲葉山城を、内部から数日も掛からずに手に入れてしまったのです。

このエピソードでとりわけ語られるのは、半兵衛と共に稲葉山城を攻略した者たちの人数でしょう。

その人数はなんと、たったの15人程度だったと語られています。

策略をもって信長すら手玉に取り、僅かな手勢で城を落とす手腕。天才軍師である竹中半兵衛は、この時点で完全に花開いていたと言えるでしょう。

稲葉山城の返還と、齋藤家からの出奔

稲葉山城を内部から落とし、手に入れた半兵衛ですが、わずか半年程度で、城を龍興に返還してしまいます。

わずか半年で稲葉山城を返還した半兵衛

返還した理由については諸説ありますが、人気がある説としては「城を手に入れることが目的ではなく、龍興を諌めることが目的だったから」。近年の研究では「領国の経営を行おうとはしたが、それに関してはうまく行かなかったから」「僅かな手勢、それも搦め手で城を落としたため、城を取り返そうとする龍興の軍勢に対抗しきれないと判断したため」という理由が挙げられています。

ともかく、半年程度で稲葉山城を放棄した半兵衛は、そのまま齋藤家を去ってしまいました。

その後、半兵衛は浅井長政の下で客分として雇われますが、そこからも1年ほどで去ってしまいます。以降半兵衛は、秀吉からの勧誘を受けるまでの数年間を、以前の領地であった岩手(現在の岐阜県垂井町西部)で隠棲して過ごすこととなります。

1567年 – 24歳「木下秀吉より、織田家への勧誘」

齋藤家の滅亡と、秀吉との出会い

秀吉との出会いで半兵衛は戦場に戻る

半兵衛の出奔から3年後、度重なる織田軍からの侵攻によって、遂に稲葉山城が落城。齋藤龍興は城を追われ、事実上、半兵衛の主家であった齋藤家は滅亡します。

もっとも、浪人として隠棲していた半兵衛に、齋藤家滅亡による直接的な被害はありませんでした。しかし、齋藤家の滅亡と、ほとんど時を同じくして、運命は再び、半兵衛を戦場へと呼び戻そうとしていました。

美濃攻めの折、半兵衛の策略に散々苦しめられた信長は、半兵衛の頭脳と戦略眼をとりわけ高く評価し、ぜひとも配下に迎え入れたいと考えていました。そして、齋藤家の滅亡を好機と考えたのか、当時、信長の配下の中でも頭角を現してきた、木下秀吉に勧誘を命じたのです。

信長に命じられ、半兵衛のもとへ赴き、勧誘する秀吉でしたが、半兵衛の反応はあまり良いものではなく、一度目はむべもなく断られてしまったようです(諸説あり。一度の勧誘で登用に応じたとする説もありますが、本記事では断られたという説を採用しています)。

「三顧の礼」と、半兵衛の主君

登用を断られた秀吉は、それでも諦めずに半兵衛のもとへ通い続けました。

当時の時点で、天下に名高い織田軍の出世頭となっていた秀吉が、いかに軍略の才能があるとはいえ、一介の浪人に過ぎない半兵衛のもとへ、これほどまでに通い続け、スカウトすべく口説き続けることは、身分について厳しい戦国の世においては、相当に珍しいことだったようです。

そして、秀吉が半兵衛のもとを訪れた3度目(一説では7度目とも)のこと。半兵衛はとうとう、秀吉からの誘いに首を縦に振ったのです。

三国志における「三顧の礼」

現在では、三国志における「三顧の礼」のエピソードになぞらえた創作と言われている話ですが、諸葛孔明のような天才的な軍略の才能を持つ半兵衛の事。本当にこのようなエピソードがあったとしても、そこまで不思議ではないと思います。

そして、これにも諸説がありますが、この登用についても、あるエピソードが存在します。それは、秀吉からの勧誘に首を縦に振った半兵衛が、「だが、信長に仕えることは断る」と言ったというもの。

半兵衛は、自分のもとへ足しげく通っていた秀吉の才気を見抜き、「信長に仕えるのではなく、私は秀吉殿に仕えましょう」と、秀吉個人の配下として仕えることを了承したと言われています。

ともかく、そうして秀吉の配下として、ひいては織田家の配下として登用された半兵衛。戦場に舞い戻った半兵衛は、秀吉の懐刀として、様々な戦場で知略を振るうこととなります。

1570年~ – 27歳「 信長包囲網との戦い、勃発」

各地の武将による信長包囲網、締結

織田家のシンボル

当時の織田家は、少し前では考えられないほど広大な領地を治め、押しも押されぬ勢力として天下に名を轟かせていました。中でも、信長が室町幕府15代将軍、足利義昭(あしかがよしあき)の後見人になったことは、政治的にも大きな意味を持ち、事実上、織田家は天下取りに最も近い勢力となりつつありました。

しかしその一方、そんな織田家を疎んじる勢力も多く、そんな彼らは互いに手を組み、「信長包囲網」として、織田家へと襲い掛かります。

そんな「信長包囲網」との度重なる戦の中でも、半兵衛は持ち前の知略を駆使して、織田家、ひいては秀吉に多大な貢献をし続けるのでした。

1570年、VS朝倉義景、浅井長政連合軍

浅井長政

信長包囲網の中には、半兵衛のかつての主でもある、浅井長政の姿もありました。

長政は、信長の妹であるお市の方を妻に持つ、つまりは信長の義弟でしたが、親の代からの付き合いである朝倉氏との同盟を優先し、信長包囲網に参加していました。

そんな長政との戦いでも、半兵衛は、浅井家に仕えていた際の人脈と、持ち前の智謀を惜しみなく発揮。浅井方の武将や城を次々と調略して、織田家の勝利へと多大な貢献をします。

また、信長に追い詰められ、自害に及ぶ長政に殉じようとしたお市の方を救出する際にも、半兵衛の知略が一枚噛んでいたという噂も存在しています。

1575年、VS武田家、長篠の戦

歴史的な長篠の戦

厳密には信長包囲網が瓦解した後の戦ですが、包囲網との戦いの最中からの因縁の戦のため、便宜上ここに。

信長の天下取りにあたって、目下最大の障害になっていたのは、甲斐の虎と呼ばれた戦国の古豪、武田信玄でした。

しかし、信玄は1573年に病死。信長包囲網もほとんど瓦解し、これ幸いにと天下に王手をかける信長ですが、父である信玄の遺志を継いだ武田勝頼(たけだかつより)は、父同様に信長に反抗し、当時の織田家の同盟相手、徳川家康の治める三河へと、度々侵攻を続けてきます。

侵攻を受ける徳川家からの救援要請を、信長が受諾する形で始まった長篠の戦。長きにわたる武田家との決戦とあって、織田方にはやはり秀吉の姿が。そして、そんな秀吉の傍らには、やはり半兵衛の姿がありました。

激戦の中、半兵衛は武田軍の陽動に引っかかった秀吉の命令をあえて無視することで、秀吉の危機を救うという活躍を見せます。

先に書かせていただいた通り、「知らぬ顔の半兵衛」という慣用句のもととなったエピソードですが、間違った指示に対しては、たとえ後に自分が不利益を被る可能性があろうと、梃子でも動かないという、半兵衛の清廉で公正な格好良さが詰まったエピソードでもあると言えそうです。

1577年 – 34歳「 中国攻め勃発。秀吉、中国攻めの指揮官に」

織田家の西進

東の大勢力である武田家が滅亡し、東側にはほとんど敵がいなくなった信長は、いよいよ西へと本格的に手を伸ばします。

当時、西の勢力として大きく版図を広げていたのは毛利家。その総大将は、戦国初期の謀将と名高い毛利元就(もうりもとなり)の息子、毛利輝元(もうりてるもと)でした。

毛利元就の息子、毛利輝元

信長は中国攻めに際して、秀吉を総指揮官に任じ、中国攻めの指揮をとらせました。半兵衛も秀吉の懐刀として参陣。ここに、半兵衛最期の戦が幕を開けたのです。

中国攻めにおいても、半兵衛の活躍は目覚ましく、秀吉が前進基地として重要視した福原城を、黒田官兵衛と手を組んで陥落させたほか、翌1578年には、要地である備前八幡山城の城主に調略を仕掛け、城を落城させる戦果を上げています。

備前八幡山城を調略によって落としたことを、信長はたいそう喜んだらしく、報告に来た半兵衛を褒め称え、銀100両を与えたという記録が残っています。

1578年 – 35歳「 黒田官兵衛に謀反の疑いあり」

黒田官兵衛が行方をくらませる

黒田官兵衛

中国攻めの戦が激化する中、その気に乗じる形で、信長に謀反を起こす勢力や、信長を倒すべく毛利家に手を貸す勢力も続出します。

信長の配下であり、有岡城を治めていた荒木村重(あらきむらしげ)も、信長に謀反を起こした一人でした。

秀吉は、謀反を起こした村重を説得すべく、村重と旧知の中であり、自分の腹心でもある黒田官兵衛を使者として向かわせます。しかし、そこから官兵衛が戻ってくることも、情報がもたらされることもありませんでした。

実は官兵衛は、村重によって捕らえられ、有岡城の地下牢に監禁されてしまっていたのです。

しかし、その事実を知るものは、織田方には誰もいません。それどころか、官兵衛から何の音沙汰も無い事に不信を覚えた信長は、「官兵衛は村重に寝返ったに違いない」と考えるようになってしまいます。

そうして、官兵衛が謀反を起こしたと思い込んだ信長は、秀吉にこう命じるのでした。

「官兵衛の息子、松寿丸を殺せ」と。

半兵衛、松寿丸を匿う

ドラマで再現された松寿丸

命令を下された秀吉は悩みます。子のいない秀吉にとって、幼いころから面倒を見てきた松寿丸は、それこそ我が子同然。しかし、信長からの命令に逆らってしまえば、自分の命も危ない。

そんな板挟みの中、秀吉を救ったのは半兵衛でした。半兵衛は、松寿丸を居城である菩提山城に密かに引き取り、家臣であった不破矢足(ふわやたり)に命じて、彼の屋敷に匿わせたのです。

当時、討ち取った敵将や処刑された罪人の首を、大将が検分する「首実検」という作業もありましたが、半兵衛・矢足主従は、そこには別人の首(一説では、松寿丸の遊び相手の首)を提出し、なんとか松寿丸を匿うことに成功したのでした。

1579年 – 36歳「 天才軍師、病に倒れる」

播磨三木城攻めの最中、病に倒れる

荒木村重と同じく、信長に反旗を翻した別所長治(べっしょながはる)は、堅城として名高い三木城で、秀吉と交戦していました。

半兵衛は、堅城である三木城の攻略に、兵糧攻めを提案しますが、それとほとんど時を同じくして、病に倒れてしまいます。病は肺のものであったようで、肺結核、もしくは肺炎であるという説が一般的です。

半兵衛は肺結核、もしくは肺炎で命を落としたと言われている

腹心である半兵衛の身を案じ、秀吉は「京都で療養をしてはどうか」と半兵衛に提案をします。半兵衛もその提案を受け入れ、陣を去り、一度は京都で療養生活に入りますが、自分の死期を悟ったのでしょうか。再び戦場へと戻ってきてしまいます。

「戦場で死ぬことこそ、武士の本望」

上記は、戻ってきた半兵衛の身を案じた秀吉が「もっとしっかり養生せよ」と説得したのに対する半兵衛の返答です。

その身を案じる秀吉の言葉に、半兵衛が再び頷くことはなく、結局彼は戦場に立ち続けたまま、その短い生涯を終えたのでした。

死ぬ間際秀吉に武士の本望を説いた半兵衛

享年は36歳。秀吉のために尽くしながら、半兵衛は主君である秀吉の天下をその目で見ることも、友である官兵衛の救出を見ることもなく、その短い人生を駆け抜けたのです。

半兵衛の死に対し、秀吉は人目もはばからず、大粒の涙をこぼし、声を上げて号泣したという逸話が残っています。秀吉がどれだけ半兵衛を信頼していたのかが、そのエピソードだけでもよくわかるでしょう。

半兵衛の死後、ほどなくして有岡城が落城。救出された官兵衛は、無事に息子である松寿丸と再会。息子を守り、匿ってくれた半兵衛や矢足、身代わりの首を差し出した者たちに深く感謝した他、半兵衛の形見として軍配と軍団扇を受け継ぎ、それを終生大事に扱ったとの記録が残っています。

短い人生を誇り高く駆け抜けた天才軍師、竹中半兵衛。彼の生き様や考え方、遺した策は、主である秀吉や、同じ知略の徒であった官兵衛らに対して、とても大きな影響を与えたようです。

竹中半兵衛の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

軍師の門 上 (角川文庫)

竹中半兵衛がメインとして描かれている書籍は少なく、ほとんどが官兵衛や秀吉とセットとして書かれています。この作品は、上巻は半兵衛が、下巻は官兵衛がメインとなって描かれています。

小説という事もあり、若干キャラクター性が付け足されている部分もありますが、半兵衛の概ねのイメージを掴むにはうってつけの作品だと思います。

戦国武将 死ぬ前の3日間をどう過ごしたか (impress QuickBooks)

この書籍も、半兵衛がメインで描かれているわけではありません。しかし、半兵衛についての紹介は丁寧で、少ないページ数ながら、分かりやすく彼の人物像を紹介してくれています。

半兵衛だけでなく、他の戦国武将にも興味がある方であれば、この本は自信を持ってお勧めできる良書です。

竹中半兵衛を描いた創作作品

創作の題材として人気の高い戦国時代。創作の中で、多くの戦国武将がキャラクター化されて現在も親しまれていますが、半兵衛も例にもれず、多くの作品で取り上げられて人気のキャラクターとして親しまれています。

このトピックでは、そんなキャラクター化された半兵衛の特徴や、史実とのリンクについて簡単に解説していきたいと思います。

戦国BASARA

ぶっ飛んだ歴史観で度々話題になる『戦国BASARA』。そこに登場する半兵衛は、親友である豊臣秀吉の夢をかなえるため、自らの残り少ない命を燃やして戦う天才軍師として描かれます。

目を引く紫色の仮面や洋装、使う武器である蛇腹剣、親友である秀吉への心酔など、その見た目や表向きの性格設定こそぶっ飛んでいますが、「肺の病に侵されている」「病をおして戦場に立ち続ける」などの根の部分は意外と史実に即した部分が多いキャラクターです。

また、ゲーム中の台詞などは史実を知っていると深みが増すものが多い、非常に多面的なキャラクターとなっているのも、本作の竹中半兵衛の大きな特徴となっています。

歴史好きの間では度々議論になる本作ですが、細かいセリフなどに史実のエッセンスがちりばめられている事が多いため、食わず嫌いせずに一度触れてみてほしい作品です。

戦国無双

『戦国無双』に登場する半兵衛は、少年のような容姿をした飄々とした人物として描かれています。『戦国BASARA』では描かれていない黒田官兵衛との友情もクローズアップされており、史実を上手くエンタメに落とし込んでいるのは、どちらかと言えばこちらの半兵衛だと言えるでしょう。

「天才軍師」としての手腕や、「知らぬ顔の半兵衛」と称された飄々とした性格も、このキャラを語るうえで重要なキャラクター性として描かれており、見た目や表層の態度だけでは読み取れない、非常に難解ながら魅力的なキャラクターが、この竹中半兵衛です。

こちらも見た目のインパクトで食わず嫌いしがちな作品ですが、半兵衛好きなら是非触れてみてほしい作品だと言えるでしょう。

信長協奏曲

ドラマ化や映画化もされた作品である本作は、いわゆる「歴史改変もの」であり、「半兵衛と秀吉が敵視しあっている」などの史実では起こり得なかった事件が多く描かれる作品です。

しかし、本作で描かれる半兵衛の性格は、おおむね史実に即した形であり「天才的な頭脳を持つ策士」「忠義に篤い性格の持ち主」などの部分を踏襲した、主人公の良き相談役のような立場で登場します。

比較的史実に即した造形のキャラクターながら、「歴史改変もの」の常道である「この時もしも○○だったら」というわくわく感も強い作品ですので、是非一度手に取っていただければと思います。

おすすめドラマ

軍師官兵衛

「両兵衛」の片割れである黒田官兵衛をメインに据えた大河ドラマです。

この作品での半兵衛は、官兵衛を時代の秀吉の軍師に育て上げる、官兵衛の師匠筋のように扱われています。

半兵衛を演じるのは谷原章介さん。聡明で透明感のある半兵衛を、見事に演じられています。

戦国疾風伝 二人の軍師 秀吉に天下を獲らせた男たち

半兵衛と官兵衛の活躍を描いた、7時間にも及ぶ超大作です。

山本耕史さんが半兵衛を演じられ、線が細く、どこか飄々とした半兵衛を演じられています。

半兵衛ファンとしては間違いなく見ておきたい作品なのですが、2011年1月に放送され、残念なことにDVD等にもなっていないようなので、現在の視聴は少し厳しいかもしれません…。

関連外部リンク

竹中半兵衛についてのまとめ

いかがでしたか?

豪傑揃いの戦国乱世で、知略を武器に人生を駆け抜けた天才軍師竹中半兵衛。この記事を読んでくださった皆様に、その格好良さが少しでも伝えられたでしょうか?

実際のところ、半兵衛に関する歴史的な資料はほとんど残っておらず、今後研究が進み現存の逸話は別の真実に代わってしまうのかもしれません。

しかし、残っているエピソードについて、「まあ、半兵衛相手ならそれぐらいやるかもしれない…」「竹中半兵衛ならやりかねない」と考えられるのも、彼の面白いところだと思います。歴史の考察は大なり小なり、妄想や想像が影響を与えるものですからね。

皆さんもぜひ、「もし半兵衛が長生きしていれば…」「あの時の半兵衛の狙いは、実はこういうところにあったんじゃないか…?」など、想像してみてください。

この記事を通じて、半兵衛に少しでも興味を持っていただけたなら幸いです。

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