紫式部とは、平安時代中期に活躍した歌人であり作家です。世界最古の長編物語である「源氏物語」の作者として、小学生にもよく知られていますね。2000年に発行された二千円札には、紫式部の図柄と源氏物語絵巻の一部が採用されています。
「源氏物語」を通じて、紫式部は平安時代以降日本人の心に深く根付いていきました。その一つが「ムラサキシキブ」という名前を持つ樹木です。これは日本に昔から自生しているもので、紫色の実の美しさから紫式部を連想させ、「ムラサキシキブ」と呼ばれるようになったと言われています。
今回は、日本人に大きな影響を与えることになった「源氏物語」を生み出した紫式部が、どのような女性であったのかをご紹介します。才媛という一面以外にも、人間らしいドロドロとした感情の持ち主であったことがわかるエピソードも載せていますので、この記事を読めば紫式部に対してグッと親近感を増すこと請け合いです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
紫式部とはどんな人物か
名前 | 紫式部・藤式部 |
---|---|
誕生日 | 970〜978年ごろ |
没日 | 1019年ごろ |
生地 | 京都(大徳寺真珠庵には紫式部か和泉式部の産湯に使ったと言われる井戸あり。) |
没地 | 不明 |
配偶者 | 藤原宣孝 |
埋葬場所 | 紫式部墓所(京都市北区紫野西御所田町内)、紫の五輪塔(栃木県下野市紫595) |
子ども | 藤原賢子(大弐三位) |
紫式部の生涯をハイライト
紫式部は10世紀後半に京都で生まれました。文才のある父の元で、女性ながらも漢学を学ぶ機会に恵まれます。しかし父の出世が思うように進まず、結婚は当時としては遅い20代後半のことでした。藤原宣孝という派手好きな、親子ほどの歳の差がある夫を持ち、娘をもうけるも、たった3年で死別してしまいます。
その寂しさを紛らわすため、紫式部は「源氏物語」を執筆し始め、それが縁で一条天皇の中宮彰子付きの女房として出仕が決まります。宮仕えは約5年ほどでしたが、その間に「源氏物語」を完成させ、「紫式部日記」を書き終えました。
作家としての紫式部の名声は、主人である彰子の評判をあげることになり、ひいては藤原道長の全盛期を築くための一助にもなったと考えられます。紫式部は、彰子の家庭教師としても仕え、一条天皇の中宮として、将来の国母としてふさわしい女性になるように見守りました。
宮中を去ってからの紫式部の消息はほとんどわかっていません。しかし「源氏物語」は日本文化史に多大な影響を与え続け、あらゆる時代にゆかりの深い作品が登場し、日本文化を語る上で欠かせない存在となっています。
本名を明かすのは家族や夫だけ
当時の風習として、君主や家族、恋人以外に本名を明かすことはありませんでした。そのため紫式部の本名も、父親が藤原為時ですので「藤原」姓は確かですが、それ以外はわかっていません。
1005年に中宮彰子の許に出仕した際の女房名は藤式部といいました。「藤原」から「藤」を、為時の官職「式部大丞」から「式部」をとったようです。紫式部の名前の由来は、博学で知られた藤原公任が「わか紫やさぶらふ(若紫いますか?)」と声をかけたことから、もしくは源氏物語が「紫のゆかりの物語」であったからといった説があります。
覚悟の上だった?年の差婚
紫式部が結婚したのは20歳代後半と考えられ、当時としては晩婚です。さらに相手の宣孝は40代後半で親子ほどの年の差がある上、すでに3人の妻と紫式部より年嵩の子もいる身でした。この背景には、父の出世が遅れたことや、紫式部自身が同性愛者であったことを父が悩み、男と結婚させたといった説もあります。
ただ、紫式部の和歌からは、宣孝を魅力的な男性として慕っている様子も窺えるので、嫌々受け入れた結婚というわけではなさそうです。しかし、紫式部に求婚した同時期に他の女性にも懸想していた宣孝は、紫式部との結婚が成ると距離を置き始め、紫式部自身も自分より教養のない宣孝に嫌気がさしたとも言われています。
宣孝は流行病で他界し、たった3年という短い結婚生活は終わりを迎えました。
面倒くさい性格がだった事がわかる「紫式部日記」
「紫式部日記」とは、1008年から1010年までの宮中の様子が書かれたものです。平安時代を知る上で史料的価値が高く、また「源氏」の名前が登場することから、「源氏物語」の作者が紫式部だという根拠にもなっています。しかし「紫式部日記」が注目される理由はそれだけでなく、周囲の人々について批評した生々しい嫉妬の手紙や宮仕えに対する愚痴が書かれていることです。
紫式部は女社会に溶け込めず、宮仕えを始めて早々半年ほど引きこもっていました。日記に愚痴が書かれています。復帰してからも、清少納言を酷評していることは有名ですが、和泉式部と仲は良いけれど男癖が悪いなどと書き連ねていて、まさに「こじらせ女子」です。しかし、人間観察に優れていたからこそ、「源氏物語」という何百人もの登場人物が出てくる長編小説を書き上げられたのかもしれません。
紫式部の功績
功績1「世界最古の恋愛小説である源氏物語を執筆」
「源氏物語」は、書かれた時代の古さだけでなく、登場人物の多さやその普遍的なテーマ性からも世界で高い評価を受けています。多くの作家が影響を受けており、江戸時代には柳亭種彦が「偽紫田舎源氏」という合巻を発表して大人気となりました。ドナルド・キーンのように「源氏物語」との出会いから日本文学の魅力に惹かれる人もいました。
つまり、「源氏物語」は日本文学を語る上で欠かせない存在価値のある作品なのです。葛飾北斎が描いた浮世絵に、「源氏物語」の一場面をモチーフとしている作品もありますが、こういった「源氏物語」を知っていればわかる表現や見立ても日本の文化作品には数多くあります。紫式部は作家というカテゴリーに止まらない、日本の誇るべき文化人です。
功績2「清少納言とのライバル関係が生んだ国文学の発達」
紫式部が生きた時代は、それまで遣唐使などによってもたらされた唐文化が日本で消化され、日本在来の文化が花開いた時代でした。特に紫式部が出仕した頃は摂関政治全盛期を迎えており、政治状況も安定し、中宮や皇后などのもとに一種のサロンが作られ、競い合うことで国文学が発達したのです。
清少納言は993年より中宮定子に仕えていました。紫式部はそれより約15年後に中宮彰子のもとに出仕するようになります。当時、定子は既にこの世を去っており、彰子を中宮として推し、父であった藤原道長が権勢を示すためにも、清少納言に対抗できる才女として紫式部を女房にしたのです。
背景には藤原氏の覇権争いもありましたが、清少納言と紫式部は、良きライバルとして存在したからこそ、より上質な文学作品が生まれたとも言えるでしょう。
功績3「中宮彰子を自立した女性に育てる 」
藤原道長が紫式部を中宮彰子付きの女房に呼んだのは、彰子を取り巻くサロンに「源氏物語」の作者がいるという箔を付けるためでもありましたが、彰子自身の教養を高めるための家庭教師という役割も期待したからです。漢詩など学問を教えただけではなく、彰子が一条天皇を支える中宮としての立場を全うするために、教え諭したと考えられます。
彰子は11歳で入内していますので、多感な年齢の彰子に紫式部が与えた影響はかなり大きかったでしょう。実際、彰子は藤原氏の摂関政治全盛期を中宮として支え、政治的な発言力を持つ女性として成長しました。公平な決断ができる「賢后」だと藤原実資が「小右記」に書き残しています。
紫式部の作品から和歌や地の文を紹介
めぐり逢ひて見しやそれともわかぬ間に 雲がくれにし夜半(よは)の月かな
小倉百人一首に収められている紫式部の歌です。これは新古今和歌集にも収録されており、そこには数年ぶりに訪れた友達が、月と競い合うが如くすぐに帰ってしまったことに対して詠んだ歌とあります。
「久しぶりの再会だったのに、会ったのがあなたかどうかもよくわからないほどわずかな間に帰ってしまって、まるで雲間にさっと隠れてしまった夜更けの月のようですよ。」という意味です。
大空をかよふまぼろし夢にだに見えこぬ魂(たま)の行方たづねよ
源氏物語第41帖「幻」に出てくる歌です。光源氏が、亡くなった最愛の紫の上を想って詠んだもので、「大空を自由に行き交うという幻術士よ、夢にさえ姿が見えないあの人の魂の行方を探し出してきてくれないか」という意味です。
この和歌は、白居易の「長恨歌」を踏まえたものです。実はこの和歌は、物語の最初に出てくる和歌とも呼応しています。
尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく
これが物語の最初に出てくる和歌で、光源氏の父にあたる桐壺帝が、寵愛した桐壺更衣を亡くして詠んだ歌です。桐壺更衣は光源氏の母で、他界する前に帝へ送った和歌に対する帝の返歌でした。紫式部の深い教養を感じさせてくれる物語の構成になっています。
「今は亡き桐壺更衣を訪ねてきてくれる幻術士でもいてくれたらよいのに。人づてでもいいから魂の所在を知ることができるように。」という意味です。
物思ふに 立ち舞ふべくも あらぬ身の 袖うちふりし 心知りきや
これは光源氏が藤壺の宮の前で舞を披露した後に送った和歌です。光源氏にとって、藤壺の宮は義母でありながらも最愛の恋人という公にできない関係性です。公衆の面前ではそしらぬ風を装っていても、狂おしいまでの胸の内の思いは和歌に溢れています。
「あなたへの恋の苦しさにとても舞うことなどできない私でしたが、それでもあなたへの精一杯の心を込めて袖を振って舞いました。私の本心を分かっていただけたでしょうか。」という意味です。恋に思い悩む気持ちは普遍的なものであり、この和歌はいつの時代も愛され続けています。
物語は、世の中の物のあはれのかぎりを書きあつめて、読む人を深く感ぜしめて作れる物なり
「物語とは、この世に生きている人の、機微やはかなさなどに触れた時につくづく心に感じる思いをかき集め、読む人に深く感じて欲しいと思って作るものです」という意味です。源氏物語の一節ですが、紫式部の本音が垣間見える箇所ですね。
紫式部は実生活で、決して順風満帆な日々ではありませんでした。しかしだからこそ、楽しいだけではなく辛く苦しい経験から感じられる思いや、周囲の人々の思いに身を寄せることができ、「源氏物語」という素晴らしい作品を、心の底から読んで貰いたいと思って書くことができたのかもしれません。