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土方歳三とはどんな武士?生涯・年表まとめ【死因や性格、エピソードについても紹介】

土方歳三は幕末期に京都において活動していた新選組の副長を勤めた幕臣です。新選組局長・近藤勇らとともに新選組を日本一の組織にするため、生涯を賭して尽力しました。

土方歳三

また新選組の統率力を高めるために「局中法度」を定め、これに背いた者は容赦なく粛正していったことから、「鬼の副長」とも呼ばれました。

土方歳三は、新選組の立ち上げや池田屋事件などの数々の功績を上げた人物の一人です。しかし時代の流れには逆らえず、1867年に大政奉還が成立し、戊辰戦争に突入すると新政府軍に敗北。江戸へ撤退すると、次第に新選組もバラバラになっていきました。

そんな土方歳三の生涯は、たった35年という短い人生で幕を閉じます。今回は、土方歳三の生涯を年表とともに詳しく紹介していきます。土方歳三の本当の性格や、新選組局長・近藤勇との関係などについても触れていきますので、ぜひご覧ください。

土方歳三とはどんな人か?

名前土方歳三
誕生日1835年5月31日
生地東京都 日野市
没日1869年5月11日
没地北海道 函館市
配偶者なし
埋葬場所碧血碑(北海道函館市)
石田寺(東京都日野市)
寿徳寺境外墓地(東京都北区)
円通寺(東京都荒川区)
天寧寺 (福島県会津若松市) ほか

土方歳三の生涯をハイライト

土方歳三はどのような人生を送ったのかを簡単に紹介していきます。

土方歳三は1835年5月31日に、現在の東京都日野市にあたる武蔵野国多摩郡で、農家の10人兄弟の末っ子として生まれました。父は土方歳三が生まれる3か月前に亡くなり、母は土方歳三が6歳のことに亡くなりました。

そのため土方家の次男が家督を継ぎ、その次男の妻に土方歳三は育てられました。大人になった土方歳三は、実家で製造していた「石田散薬」という薬を売る仕事をしながら、様々な道場で修行をして剣術の腕を磨いていきます。

天然理心流の道場「試衛館」

25歳の頃に天然理心流の道場「試衛館」にて後に新選組局長となる近藤勇と出会います。その後、近藤勇を含む試衛館の仲間たちと、徳川家茂を護衛する「浪士組」となり京都へ向かいます。

京都では松平容保のもとで京都を警備する「壬生浪士組」の一員となり、それが後に「新選組」と名を改め活動するようになりました。

新選組は京都で尊王攘夷派を取り締まっていましたが、1868年に幕府がほろびた後に新政府と旧幕府との戦争が始まり、土方歳三たち新選組は旧幕府軍として戦うことになります。

劣勢な状況の中、土方歳三は最後まで戦い続けましたが、1869年6月20日に新政府軍と旧幕府軍との最後の戦闘である函館戦争に参加した際、敵の銃弾を受けて亡くなりました。

幼少期から豪快で武士にあこがれる

土方歳三像

土方歳三は幼少期から豪快で活発だったといわれています。

幼いころから武士になる事が夢だったため、風呂から上がると裸のまま家の柱を使って相撲の稽古をしていました。また少年時代は、イバラのように乱暴なガキだったことから「バラガキ」といわれていました。

他にも甥が庭先で転び、額に傷を負った際も「男の子の向かい傷はめでたい」と笑ってあやしてあげたそうで、こういったエピソードからも、非常に豪快な性格だったことが垣間見れます。

イケメンで女性に人気だった

新選組の旗

土方歳三は、男気があってイケメンだったため女性に人気で、京都で新選組副長として活動しているときは、日頃からたくさんのラブレターを貰っていました。土方歳三はこれを「つまらぬ物」として切り捨て、まとめて故郷の親戚に送って自慢をしていたそうです。

さらに大量のラブレターを故郷の親戚に送った際に「女性にモテまくるから国に尽くす気持ちを忘れてしまいそうだ」といった意味の俳句も添えていました。それでも最後まで、幕府に忠誠を誓い戦い抜いたのは、さすが新選組の副長とも言えますね。

ちなみにこれだけモテていた土方歳三ですが、生涯独身を貫いています。

土方歳三の剣の腕前は?

1860年(万延元)に刊行された『武術英名録』という江戸を除く関東地方の剣術家名鑑に、歳三の名が載っているので一定の実力はあったと思われます。

武術英名録

しかし歳三の実力が発揮されるのは剣術の試合ではなく、実戦だったと言われています。砂で目つぶしをしたり、相手を羽交い締めにして絞め殺したりと剣術にとらわれず、縦横無尽な戦い方を得意としたと言われています。

戊辰戦争でも何度も戦線の先頭に立って戦い、五稜郭まで生き残っていることを考えると、その強さは本物であったことがわかります。

「鬼の副長」と呼ばれた土方歳三

歳三は烏合の衆である新選組を統率するため「局中法度」を作成し、これに背いた者は切腹を申し付けました。局中法度に背いたために粛清された者は30名以上と言われています。

これは鳥羽伏見の戦いなどの戦闘によって出た死者の数より多いとされています。法度による粛正は試衛館時代からの仲間である山南敬助も例外ではありませんでした。

身内にも容赦なく法度を遵守する厳しさが冷酷と捉えられ、「鬼の副長」と呼ばれるまでになったのかもしれません。

函館戦争では優しくなり兵から慕われた

土方歳三最期の地碑

土方歳三は鬼の副長として新選組では恐れられていた、というのは有名な話ですが、実は最後の戦いとなった函館戦争では隊士達に対して酒をふるまったりと、非常に優しく接するようになりました。

なぜ優しくなったのかは本人にしかわかりませんが、土方歳三はこの戦いで死ぬことを覚悟し、最後だと感じたため皆に優しく接したのではないかといわれています。

そうだとすると鬼の副長と呼ばれていたのも、新選組や幕府を守るために、やむを得ず非情に徹していたとも考えられますね。

土方歳三は腹部に銃弾を受けて亡くなった!

五稜郭タワーアトリウムにある土方歳三ブロンズ像

土方歳三の最期の地は箱館五稜郭、現在の北海道函館市です。

京都から江戸へ退却した後、新政府軍との戦いを繰り返しながら蝦夷地へと渡ります。その後五稜郭を占領し、箱館政府を樹立した旧幕府軍でしたが、1869年(明治2)に新政府軍から総攻撃を受けます。

5月11日、一本木関門防衛のため馬上で指揮を執っていたところ、腹部に銃弾を受け落馬。すぐに味方が駆けつけましたが、既に死亡していたそうです。35年という短い生涯でした。

土方歳三の功績

功績1「新選組局長を暗殺する」

二代目局長となった近藤勇

近藤勇が新選組の局長になる前は芹沢鴨が局長をしていました。芹沢鴨は新選組局長でありながら、尊王攘夷の志を持っていたため、新選組での活動が雑になり、横暴な態度が目立つようになっていきました。

その後、芹沢鴨の存在を危ういと思った京都守護職である松平容保は、芹沢鴨の暗殺の指令を出します。土方歳三はこの暗殺を沖田総司達と共に実行し成功させます。

横暴で尊王攘夷の志を持っていた芹沢鴨が死んだことによって、新選組はより一層団結力が強くなり、尊王攘夷派に恐れられる存在となりました。

功績2「尊王攘夷派を取り締まる」

池田屋跡地 現在は居酒屋となっている

土方歳三は剣術のレベルが高く、実践となると特にその才能を発揮して尊王攘夷派を取り締まりました。特に池田屋事件では近藤勇とともに、数多くの尊王攘夷派の志士を殺害し確保しました。

この池田屋事件をきっかけに新選組は全国的に名を轟かせ、新選組は尊王攘夷派に恐れられるようになり、結果として幕府に大きく貢献しました。

土方歳三のこういった活躍が無ければ、幕府はあっという間に滅んでいたのかもしれません。

土方歳三にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説1「函館戦争後も生きていた?」

永嶌孟斎画「箱館大戦争之図」

通説では土方歳三は函館戦争にて亡くなったと言われていますが、函館戦争後も生き延びていたのではないか、という説があります。

根拠としては

  • 「箱館降伏図」に既に死んだはずの土方歳三の姿が描かれている
  • 土方歳三の遺体が見つかっていない
  • 土方歳三を討ち取った人物の記録が残っていない

など様々あげられています。また土方歳三と深いかかわりのある佐野専左衛門が、ロシアとつながりがあるので、そのつてを使いロシアへ亡命したのではないかとも言われています。

ただ新選組隊士の、大野右仲が書き記した「函館戦記」では、土方歳三は函館で戦死したことが記されているため、土方歳三が函館戦争後も生き延びていたことの信憑性は低いです。

都市伝説2「たくあんを樽ごと持って帰る」

土方歳三はたくあんが大好物だった

土方歳三はたくあんが大好物でした。特に、良く通っていた剣道場の近くにある親戚の家で出される沢庵が大好物で、食事の際にはいつも山盛りの沢庵をおいしそうに食べていたそうです。

またある時には、そのたくあんを相当気に入ったからか、たくあんの入っている樽ごと持って帰っていったと言われています。

鬼の副長でも、こういった人間味のある一面を知ると安心しますね。

土方歳三 の簡単年表

1835年
土方歳三誕生
土方歳三は1835年(天保6)5月31日に武蔵国多摩郡石田村で生まれました。10人兄弟の末っ子でした。
1850年
近藤勇と出会う
歳三の義兄・佐藤彦五郎が天然理心流に入門した縁で、出稽古に来ていた近藤勇と出会ったと推測されます。
1863年
新選組結成
将軍徳川家茂が上洛するにあたっての警護のため浪士組に参加し、京都に赴きます。しかし浪士組と方針を巡って決裂し、京都に残った試衛館の仲間と「新選組」を結成しました。
1864年
池田屋事件
八月十八日の政変で失脚した長州藩士が密会していた池田屋を新選組が襲撃し、尊王攘夷派の長州・土佐藩士などを殺害します。この事件により新選組の名は天下に轟きました。
1868年
鳥羽伏見の戦い
1月3日、戊辰戦争の初戦となる鳥羽伏見の戦いに新選組も参戦します。しかしこれに敗北した上、徳川慶喜が江戸に退却したため新選組も江戸へ向かうことになりました。
1868年
近藤勇の処刑
勝海舟の命で「甲陽鎮撫隊」として戦った新選組でしたが、新政府軍に大敗を喫します。その後近藤は捕縛され、4月3日に板橋刑場で斬首に処せられました。
1868年
蝦夷地上陸
歳三は旧幕府軍の大鳥圭介と合流し、各地で転戦します。そして10月12日に最期の地となる蝦夷地に上陸しました。
1869年
五稜郭で戦死
5月11日、新政府軍からの総攻撃を受け、一本木関門を守備している最中、流れ弾が腹部に命中し落馬します。味方の大野右仲が駆け寄ったときにはすでに絶命していました。享年35。

土方歳三の年表

1835年 – 0〜17歳「土方歳三誕生」

武蔵野国多摩郡で生まれる

土方歳三の誕生

土方歳三は1835年(天保6)に武蔵野国多摩郡石田村で生まれました。現在の東京都日野市に当たる場所です。

歳三は裕福な農家の10人兄弟の末っ子でした。しかし歳三が生まれる前に父・土方義諄が亡くなり、母・恵津も歳三が6歳の時に結核で亡くなっています。そのため、歳三は次兄・喜六の妻・なかによって育てられました。

幼少期・青年期のエピソードとその信憑性

幼少期の歳三は村では「バラガキ」と呼ばれ、乱暴者で有名でした。

歳三の幼少期のエピソードとして、11歳の時に出された奉公先で些細なことで番頭と喧嘩をし、40キロメートルもの道のりを歩いて多摩まで帰って来たというものがあります。しかしその当時の戸籍を調べると、11歳の頃にはまだ石田村に在住していたことがわかっています。

若い頃は乱暴者で有名だった土方歳三

歳三が奉公に出たのは14~24歳の10年間とされ、その間の17歳のときに奉公先で働いていた年上の女性を妊娠させるという問題を起こし、郷里に戻されたというエピソードもあります。しかし当時の戸籍を見ても17歳で石田村に戻ったという記録はなく、このエピソードに関しても信憑性が疑われています。

これらのエピソードは歳三が幼少期は乱暴者であったことや、容姿端麗だったことを強調するために、後年になって作られたのかもしれません。奉公先から石田村に戻った後は実家の家業である、散薬の行商をしながら剣術の修行を積んでいました。

1850年 – 16歳「近藤勇との出会い」

近藤勇といつ出会った?

歳三と近藤勇がいつどこで出会ったかの正確な記録は残っていません。推測される最も有力なものは、近藤が日野に出稽古に来ていたときに出会ったという説です。

近藤勇

1850年(嘉永3)に歳三の義兄・佐藤彦五郎が天然理心流3代目宗家・近藤周助の門人となり、自宅の一角に道場を設けました。佐藤彦五郎は歳三の姉・のぶの嫁ぎ先であり従兄弟でもあったため、歳三も彦五郎宅によく出入りしていたとされています。

この道場に1849年(嘉永2)に天然理心流に入門した近藤勇が出稽古に来ており、歳三と出会ったとされています。そして1859年(安政6)に25歳で歳三も正式に天然理心流に入門しました。

1863年 – 28歳「京都へ、そして新選組結成」

浪士組に参加する

歳三の運命が大きく動き出したのは1863年(文久3)のことでした。

歳三と試衛館の仲間は将軍徳川家茂の上洛の際の警護のために浪士組に応募し、2月京都へ赴くこととなりました。ところが浪士組を束ねていた清河八郎は、浪士組の目的を将軍護衛から尊王攘夷へと変換すると宣言します。

壬生浪士組

これに納得できない歳三たちは江戸へ引き返す清河たちと袂を分かち、京都に残り「壬生浪士組」と名乗りました。

壬生浪士組の中には試衛館一派の他に後に歳三らに暗殺されることとなる、芹沢鴨らも含まれていました。

新選組の誕生

京都に残った歳三ら約24名の壬生浪士組は京都守護職・松平容保の預かりとなります。1863年(文久3)8月18日、尊王攘夷急進派の長州藩を朝廷から排除するクーデターが起こりました。(八月十八日の政変)

壬生浪士組から新選組へ

当然、会津藩預かりである壬生浪士組も出動します。総員約50名で蛤御門に向かい会津兵と合流した後、単独で御花畑門の警固に当たりました。そしてこの働きを評価され、新たに「新選組」の名を賜ったのです。

また9月18日には芹沢鴨一派を粛正し、近藤と歳三が新選組の実権をにぎりました。

1864年 – 30歳「池田屋事件」

池田屋事件までの経緯

新選組の活動で最も有名なのが「池田屋事件」でしょう。八月十八日の政変の後京都を追われた尊王攘夷派でしたが、勢力の挽回のために密かに京都に潜伏していました。この動きを察知していた京都守護職は新選組を用いて、尊王攘夷派の捜索を行います。

池田屋

5月下旬に新選組諸士調役兼監察の山崎丞・島田魁らが、四条小橋上ル真町で炭薪商を経営する枡屋喜右衛門(古高俊太郎)が長州と繋がりがあることを突き止めます。

捜索の結果、武器や長州藩との書簡が発見されたため、新選組が古高を捕らえました。歳三は、捕らえられた古高の足の甲から足の裏五寸釘を貫き、逆さづりにして五寸釘に百日ろうそくを立てて火を点したといいます。熱い蝋が釘から傷口へと伝わり、それまで頑なに口を閉ざしていた古高も遂には自白をします。

その内容は京都の町に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る、というものでした。この情報を元に新選組は尊王派の計画阻止に乗り出したのです。

池田屋当夜の歳三

1869年(元治元)7月8日、新選組は市中を探索するため隊を3つに分けました。1つは近藤率いる沖田総司・永倉新八・藤堂平助4名の少数精鋭部隊。残り2つは歳三と井上源三郎がそれぞれ率い、2隊を歳三が統括していました。

亥の刻(22時頃)、池田屋を改めたのは近藤が率いる最も人数が少ない隊でした。20数人の尊王派の志士に対し、沖田と藤堂の戦線離脱によって一時は近藤と永倉の2名のみで戦闘を行いましたが、歳三ら援軍が駆けつけ新選組が優勢となりました。結果、9名を討ち取り、4名の捕縛の戦果をあげています。

内部で戦闘が行われている間、歳三は池田屋周辺を隊員たちで固め、応援に駆けつけた会津藩・桑名藩を邸内に一歩も足を踏み入れさせませんでした。これは池田屋の手柄を新選組だけのものにするためです。

歳三のこの冷静な機転のおかげで、新選組に贈られた恩賞は破格なものとなり、天下に新選組の勇名が轟いたのです。

1867年 – 33歳「油小路事件」

油小路事件跡地

新選組において行われた主な粛正には、初代局長の芹沢鴨一派と試衛館から連れ添った山南敬助総長(1865年)に行われたものがあります。そして最大の粛正は伊東甲子太郎を筆頭とした御陵衛士に対して行われたものです。

1867年(慶応3)3月10日、思想の違いを理由に伊東甲子太郎らは新選組を脱退し、御陵衛士を結成します。御陵衛士は勤王倒幕に勤しみ、近藤を暗殺する計画を立てていました。ただし、近藤暗殺計画を示す書簡などは残されていないため、暗殺計画は存在しなかったという説もあります。

11月18日、近藤は資金の用立てなどについて相談があると伊東を妾宅に呼び出し、酒を振る舞います。そして酒に酔った伊東の帰途を殺害。その亡骸を油小路七条の辻に放置し遺体を引き取りにきた残りの御陵衛士たちを襲いました。

その中には試衛館時代から共に歩んできた藤堂平助もいましたが、藤堂を含む4人が死亡し残りの衛士は薩摩藩邸に逃亡しました。

1868年 – 34歳「戊辰戦争」

鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い

1867年(慶応3年)、近藤と歳三は幕臣に取り立てられます。遂に「武士になる」という夢を叶えたのです。しかしそんな矢先、大きな時代の波が歳三たち新選組を飲み込んでいくことになります。

1867年10月14日に徳川慶喜が将軍職を退き、大政奉還が成立します。12月9日には王政復古の大号令が発せられ、200年以上続いた江戸幕府は事実上の崩壊を迎えました。

翌1868年(慶応4)1月3日に鳥羽伏見の戦いから始まった戊辰戦争が勃発しました。当然新選組も旧幕府軍としてこれに参戦します。鳥羽伏見の戦いが勃発する前に近藤が墨染で御陵衛士の残党に狙撃され、養生していたため指揮は歳三が執っていました。しかし新政府軍の洋式軍備の前に大敗を喫します。

敗北、そして江戸へ

鳥羽伏見の戦いで大敗を喫した旧幕府軍は大坂へと退きます。この状況を見た徳川慶喜

「千兵が最後の一兵になろうとも決して退いてはならぬ」

と檄をとばします。しかし自身は会津藩主・松平容保や側近とともに江戸へ退却してしまいました。これにより旧幕府軍の士気は急激に下がり、鳥羽伏見の戦いは新政府軍の勝利で終わりました。そして新選組も江戸への退却を余儀なくされました。

1868年 – 34歳「新選組の崩壊と近藤の処刑」

甲陽鎮撫隊

江戸に退却した後、「甲陽鎮撫隊」を組織し、幕府の直轄領の甲府を新政府軍より先に押さえるべく、進軍します。しかし甲州勝沼で大敗を喫しました。

この敗北の後、試衛館からの仲間であった永倉新八・原田佐之助が方針の違いから離隊することになります。いよいよ新選組の崩壊が目に見えるものになってきたのです。

近藤との別れ

龍源寺にある近藤勇の墓

甲州勝沼での敗北の後、再起を図るために甲陽鎮撫隊は流山(現・千葉県流山市)に陣を敷きました。

しかし新政府軍に包囲されてしまったため、近藤が大久保大和と名前を偽って投降します。近藤は大久保大和の名を貫き通そうとしましたが、新政府軍側にいた元御陵衛士の加納鷲雄に見破られ、捕縛されてしまいます。

歳三は江戸へ向かい、勝海舟らに近藤の助命を嘆願しましたが受け入れられず、4月25日に近藤勇は板橋刑場で斬首されました。享年35。

1869年 – 35歳「土方歳三の最期」

歳三の転戦歴

江戸無血開城の後、江戸を脱出した歳三は大鳥圭介率いる旧幕府軍と合流し、秋月登之助率いる先鋒軍の参謀を務めます。そして下妻・下館を経て宇都宮城を陥落させました。しかし壬生の戦いに敗れ、宇都宮での再戦の際に足を負傷してしまったため、本隊よりも先に会津へ護送され3か月の療養生活を送ります。

全快後は戦線に復帰し会津防戦に加わるも母成峠で敗戦、仙台へ退きます。仙台では榎本武揚率いる旧幕府軍と合流し、奥羽列藩同盟の軍議にも参加しました。

しかしまもなくして奥羽列藩同盟が崩壊し同盟藩が新政府軍に下ると、10月12日に新選組の生き残りの隊士らを引き連れ、榎本らと仙台折浜(現・宮城県石巻市折浜)を出航し蝦夷地に渡りました。

土方歳三の最期

流れ弾を腹部に受けた土方歳三

10月12日、歳三らは蝦夷地鷲ノ木に上陸します。歳三は間道軍総督となり、五稜郭へ進軍しました。箱館・五稜郭を占領後、彰義隊・額平隊・衝鋒隊など700名を率いて松前へ進軍し、松前城を陥落させ残兵を江差まで追撃しています。

12月15日、江差を占領した後、歳三は五稜郭へ戻ります。その後、榎本武揚を総裁とした「蝦夷共和国」が成立し、歳三は陸軍奉行となりました。

箱館政府が樹立されて他の幹部らが祝杯を挙げる中、歳三だけは「今は騒ぎ浮かれるときではない」と言っていたと言われています。

1869年(明治2)4月9日 新政府軍が乙部から上陸を開始します。歳三は二股口で徹底防戦し連戦連勝するももう片方の松前口の戦線が破られ、退路を断たれる危険を回避するために五稜郭へ退却しました。

そして5月11日、新政府軍が箱館へ総攻撃を開始します。島田魁らが守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され孤立し、歳三は救出のためわずかな兵を率いて出陣しました。歳三は「我この柵にありて、退く者を斬らん」と敗走する味方を押し出し、新政府軍に応戦します。

しかし一本木関門を守備すべく馬上で指揮を執っている最中に流れ弾を腹部に受け、死去。ほぼ即死だったと言われています。享年35。

奇しくも、盟友・近藤勇と同じ年齢でその生涯に幕を閉じることとなりました。歳三の死後、6日後に榎本軍は新政府軍に降伏しました。歳三の死が旧幕府軍にとって大きな痛手となったことは間違いないでしょう。

土方歳三の関連作品

おすすめ書籍・本・漫画

燃えよ剣


燃えよ剣は土方歳三の生涯を描いた歴史小説です。1964年に発行されたものですが、2020年にも映画化されるほど根強い人気のある作品です。

土方歳三の生涯を細かく描いているので、土方歳三を深く知りたい人には特におすすめです。また映画の他にも、テレビドラマや舞台など様々なメディアで展開しているので、土方歳三ファンならチェックしておきましょう。

ちるらん 新撰組鎮魂歌


土方歳三が主役の幕末漫画で、新選組の人物たちをヤンキーのような形に脚色した作品です。

新選組の隊士達が非常に個性豊かに、かっこよく描かれているので読みやすくなっています。通常の漫画として読んでも面白いので、幕末について詳しくない方でもおすすめできる作品です。

土方歳三に関するおすすめ書籍をさらに以下の記事で紹介していますので、チェックしてみてください。

土方歳三をよく知れるおすすめ本12選【入門から上級まで】

おすすめの映画

新選組


1969年の映画で少し古いですが、内容としては非常にわかりやすく、展開もまさに王道といった形で脚色も少ないです。

主役の近藤勇は三船敏郎、土方歳三は小林桂樹が演じています。これから新選組について知りたいという方は、これ一本見るだけで大まかな流れを理解することが出来ます。

おすすめドラマ

新選組!


2004年の大河ドラマで近藤勇を香取慎吾、土方歳三は山本耕史が演じています。他にもオダギリジョーや藤原竜也といった、今も有名な俳優が新選組隊士を演じています。

大河ドラマというだけあって話数も多く、内容も充実しているので、しっかりと新選組について知りたい方におすすめです。

土方歳三についてのまとめ

新選組副長として最期まで戦い続けた土方歳三。新選組と近藤勇を天下一にする野望は叶いませんでしたが、彼の生き様は今を生きる人々の胸を打つものがあります。

新選組も土方歳三も歴史の本筋に大きな影響があるとは言えないかもしれませんが、幕末という日本の歴史が大きく動いている中でこんな人たちがいた、ということはこれからも語り継がれてほしいですね。

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