お札にもなった聖徳太子は飛鳥時代の皇族。推古天皇の摂政となり、古代日本の国家づくりにかかわった人物です。そんな聖徳太子が生きた時代の日本は、混乱を経て、豪族の合議制から天皇を中心にした国づくりを目指してさまざまな改革が行われ、日本国家の礎が築かれました。
「聖徳太子の時代はどんなことが起こっていたのかな?」
「聖徳太子のいた時代の歴史について知りたい!」
と、このように思っている方もいるでしょう。聖徳太子の時代はまさに、日本国家のスタートともいえます。
そこでこの記事では、聖徳太子が生きた時代に関して
- おもな出来事や特徴
- 文化と経済
- この時代に活躍した主要人物
- 聖徳太子時代の年表
などを詳しくご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
聖徳太子時代とは?
聖徳太子は574年に生まれ、593年に推古天皇の摂政となり、冠位十二階や憲法十七条、遣隋使など国政改革を実行した政治家です。
聖徳太子時代は、彼が生まれた西暦574年から没した622年の約半世紀にあたります。時代区分でいうと、広義には古墳時代(7世紀ころまで)にあたり、狭義には推古天皇即位前後から飛鳥時代に入ります。
6世紀末の日本の時代背景は蘇我氏と物部氏という二大豪族の内乱、天皇暗殺など混乱の極みにありました。しかし推古天皇が即位し、摂政の聖徳太子、豪族の蘇我馬子とともに三頭政治が始まると、国内はようやく平穏を取り戻します。
以降約30年間、大胆な国政改革が行われ、天皇を中心とした国家の基礎が築かれました。
聖徳太子時代のおもな出来事
おもな出来事1「内乱から天皇中心の国家へ」
6世紀半ば、百済から伝わった仏教の受け入れについて賛成の蘇我氏と反対の物部氏が対立し、そこに皇位継承が絡んだ権力争いが加わります。蘇我馬子と物部守屋は敏達天皇の葬礼の場でお互い罵り合うまでになりました。
いっぽう皇位は敏達天皇の死後、その兄弟の間で皇位が争われます。聖徳太子の父・用明天皇が即位2年足らずで没したあと、蘇我氏は物部氏についた皇族を殺し、丁未の乱で物部氏を討ち取りました。
権力を握った蘇我氏はその後、反抗した崇峻天皇を暗殺し、姪の推古天皇を擁立します。そして聖徳太子が摂政となりました。こうして内乱が収まり、推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭体制のもと、新しい国づくりが行われたのです。
おもな出来事2「仏教が受け入れられ飛鳥文化が誕生」
6世紀半ば、仏教が百済から伝えられた日本では、この受け入れを巡り豪族が争います。蘇我氏が私的に仏像を祀れば、物部氏がその仏像を投げ捨てるなど対立は激化しました。
そして仏教推進派の蘇我氏が勝利したことで、日本は仏教の受け入れへと舵をきります。推古天皇は三方興隆の詔を出して仏教を基本精神にした国づくりを進めました。
また、仏教は日本に新たな国際文化をもたらしました。大陸文化の影響を受けた寺院の建築や仏像の造立など、仏教を軸に飛鳥文化が花開いたのです。
おもな出来事3「秩序ある国家の体制がつくられる」
推古天皇と聖徳太子は秩序ある国家が必要と考え、天皇を中心とした国家づくりを進めます。なかでも重要な施策として実行したのが次のふたつです。
- 憲法十七条・・・天皇に従い、仏を敬うことを基本に、役人の心構えや規範を示したもの
- 冠位十二階・・・従来の門閥制度を打破した実力主義の官人登用制度
聖徳太子らは日本国家の理念と制度を整備し、国家としての体制を整えました。
おもな出来事4「遣隋使を派遣し外交問題を解決」
6世紀末の日本は、朝鮮半島における日本の権益を奪った新羅との対立が外交の課題でした。
そのようなときに隋王朝が約300年ぶりに中国を統一します。日本は600年に続いて607年に小野妹子を遣隋使として隋に送りました。しかも周辺諸国が隋に従属しているなか、607年の遣隋使では「日出処の天子」という書き出しではじまる国書で隋に対等外交を求めたのです。
隋がしぶしぶこれを認めると、隋の威光を恐れた新羅が日本に使者を送ってくるようになりました。こうして日本は新羅問題もいったん解決に導いたのです。
聖徳太子の時代の文化と経済
仏教を中心とした飛鳥文化が花開く
飛鳥文化はおもに推古朝、飛鳥地方で開花した国際色豊かな仏教文化です。その代表が寺院建築で、蘇我馬子が飛鳥寺、聖徳太子が四天王寺と法隆寺など百済や高句麗など大陸の様式をもつ寺院が建立されました。
また、彫刻では中国の南北朝の影響を受け、古典的微笑といわれるアルカイックスマイルをもつ北魏様式と柔和な特徴をもつ南梁様式の仏像がつくられています。
このほか暦、紙、墨、絵の具など、さまざまな外来の文化が流入しました。
天皇の直轄地「屯倉」
聖徳太子の時代はのちの租庸調といった税制は確立されていません。
天皇家の財政はおもに全国各地にもうけられた直営耕地「屯倉」からの収益で賄われ、屯倉の耕作を担う直轄民は田部と呼ばれました。なお、豪族も私有地の田荘、私有民の部曲をもっていました。
皇太子であった聖徳太子には、「壬生部」と呼ばれる有力皇族の経済的基盤となる土地が与えられていたようです。