卑弥呼の時代はどんな時代?近年わかってきた真実に迫る!【出来事、経済、文化なども紹介】

1700年以上も昔、日本は卑弥呼と呼ばれる女王が統治していたと言われています。卑弥呼の時代のことは、魏志倭人伝や近年発掘された古代遺跡により少しずつわかってきましたが、1700年以上も前の日本がどのような時代だったのか、ご存知ではない方も多いでしょう。

卑弥呼の時代の集落

「卑弥呼の時代はどんな時代だったの?」
「卑弥呼の時代の文化や起きた出来事とは?」

そんな疑問に答えるために、ここでは卑弥呼の時代について紹介していきます。

この記事を書いた人

一橋大卒 歴史学専攻

京藤 一葉

Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。

卑弥呼の時代は弥生時代

卑弥呼が生きていた弥生時代の風景

卑弥呼が統治していた時代は「弥生時代終期」で、それは西暦200年代前半です。次の古墳時代とほぼ重なる時期に卑弥呼の時代があり、卑弥呼の墓が建てられた時期から古墳時代が始まったという説もあります。

ちなみに、弥生時代の始まりについては諸説あり、紀元前5世紀頃が始まりという説もあれば、紀元前10世紀頃が始まりという説もあります。今後の研究や遺跡の発掘しだいで、これらの説は変化していくでしょう。

弥生時代は水稲農耕の時代だった

水稲農耕が渡来した弥生時代の風景

弥生時代は、狩猟社会だった縄文時代と違い水稲農耕(すいとうのうこう)が盛んで、水稲農耕は縄文時代後期に北九州に上陸した渡来人によってもたらされたと言われています。自然環境に左右されにくい水稲農耕(主に米の栽培)は、またたく間に周辺地域に広がったとされています。

縄文時代と弥生時代を分ける差異は、この水稲農耕が行われたか否かが大きく、水稲農耕により縄文時代の土器と弥生時代の土器は形状が変化しました(今後、紀元前10世紀以前に制作された弥生土器が発見された場合、弥生時代の起源は紀元前10世紀以前にあるという説が浮上する可能性があります)。

紀元前2世紀頃から日本は小国に分立していきましたが、国同士で争うようになったのはこの頃だと言われています。弥生時代後期になると内乱が起こるようになり、それを治めるために、女の王が国を統治するようになりました。その女の王が、邪馬台国の女王、卑弥呼です。

卑弥呼は大衆を陽動するのが上手く、鬼道をもって国を統治したとされています。卑弥呼が国を統治したことで内乱は収まりましたが、隣国である狗奴国(くぬのくに/くぬこく)との関係は悪く、弥生時代の末期に邪馬台国と狗奴国は戦争をしています。

卑弥呼の時代の政治や外交は?

卑弥呼は鬼道をもって大衆を陽動していたと言われていますが、それはいわゆる占いのようなもので、骨を焼いてその割れ目を見て吉凶を占う、という方法で国を動かしていたようです(魏志倭人伝の記述による研究者たちの見解)。

卑弥呼は民の心を掴むのが上手い女王だったようで、卑弥呼が王になってからは国の内政は整い、内乱は鳴りを潜めたとされています。

また、卑弥呼は魏(現在の中国)との交流に力を入れ、魏に使者を派遣して親魏倭王の金印を受け取るなど外交に尽力したとされています。その甲斐あって、邪馬台国が狗奴国と戦ったときには、魏は張政という役人を派遣したとされています。

卑弥呼の時代の文化や経済は?

自給自足する弥生時代の民

弥生時代を特徴づける文化は、主に「水稲農耕」「金属器」「弥生土器」の三つです。

弥生時代の金属器とは主に青銅器と鉄器のことで、青銅器は主に祭祀の道具として発展を遂げて、鉄器は農具や武器として発展を遂げました。

弥生土器とは縄文土器を進化させた土器で、縄文土器のようにそのまま火にかける野焼きとは異なり、藁や土を被せてから焼成して作られた土器です。この焼成法により、焼き上がりが縄文土器より上質になり、より薄く硬度な仕上がりになりました。

紀元前10世紀頃から5世紀頃が弥生時代のはじまりだとされていて、これら「水稲農耕」「金属器」「弥生土器」が弥生時代を代表する文化です。

また、弥生時代の日本には通貨は存在せず、この頃は物品貨幣、すなわち水田稲作などによる食料生産貨幣が経済システムだったとされています。

卑弥呼の時代のファッションや髪型は?

縄文時代から弥生時代に移ると身分の違いから格差が生まれ、位の高い民とそうではない民とで装いに違いが見られるようになりました。

特に特徴的なのは髪型で、身分の高い男性の場合は「みづら(美豆良)」という、長髪をセンターで分けて左右の耳の横に輪をつくる髪型をしていたようです。

また、身分の高い女性は「古墳島田」という結髪にしていたとされ、これが日本独自の結髪の起源ではないかと考えられています。

ファッションに関しては縄文時代より質素になり、縄文時代に見られたような柄物の服は弥生時代では見られなくなったとされています。

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九州の田舎人

弥生人の心象風景

福岡県の飯塚市にある立岩遺跡には、弥生中期~後期の甕棺墓、銅鏡や鉄剣類が出土する遺跡群があります。ここから10面の前漢鏡が発掘されていますが、2つの連弧紋銘帯鏡に私の好きな銘文があります。この銘文は、戦国時代から前漢時代まで楚の地方で採取された詩集である『楚辞』の詩です。(訳は私がしたもので、至らない所があります)

日に喜びあり、月に富みあり。
—日ごとに喜びがあり、月ごとに豊かになる。
母事(ぶじ)を楽しみ、常に意を得。
—–無事であることが楽しみであり、常に心が満たされている。
美人會して、竿瑟(うしつ)侍す。
—–美人が横にはべり、琴を奏でようとしている。
賈市(こし)程々にして、萬物(ばんぶつ)平らかなり。
—–市場はまずまずにぎわっており、萬物がおだやかである。
老丁(ろうてい)に復し、死生(しせい)に復す。
—–老いの身になり、また死生に戻ろうとしている。
酔いては知らず、旦星(たんせい)に醒(す)む。
—–酔いてわが身を忘れ、また明日になれば覚めるだろう。

この2面の鏡は仿製鏡であり、片面で字が抜けていたりしています。字体はそれぞれ違い、見本をみて字を知らない製作者が何とか真似しようと努力している様が見て取れます。
大事なことは、鏡作りを命じた為政者が古代中国の『楚辞』の詩を通して、世の中を楽しみながら生きていたいと願っていることが読み取れることです。いつの世も同じですね。

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九州の田舎人

弥生時代の別な風景
『淮南子』は、前漢の時代、淮南王の劉安(紀元前179年~前122年)が賓客方術の士数千人を招致し編纂した思想書です。
この巻5時則訓に、「五方位。東方の極は、喝石(けっせき)山より朝鮮を過ぎ、大人の国を通って(貫いて)、東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野に至る。そこは大皞(たいかう)・句芒(こうぼう)の司る土地で、一万二千里ある。」ここまでの記事は以前紹介させて頂きました。今回は、「大皞(たいかう)・句芒(こうぼう)」とこの後半部分に着目したいと思います。
「そこでは、次のような政令が発布される。「禁止事項をゆるめ、閉鎖を開き、行き止まりを通じ、障塞(しやうそく)を開通させよ。交際をなだらかにし、怨みや憎しみを棄て、労役や処罰を免じ、憂患を除き、罰刑をとりやめよ。関所や渡しを開通し、在庫(庫財)を出し、外敵と講和し、四方を鎮撫し、柔恵を施し、剛強なふるまいをとどめよ。」」(新釈漢文大系、明治書院)
基本的に「五方位」の記事は、学者の間では架空・空想上の出来事と認識されています。しかし私は「東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野」というのが日本のことを指していて、そのかすかな知識がこれらの記事に反映しているように感じています。
「榑木の地」とは東方の日の出の場所のことです。朝鮮を見て帰国した時にみる青々とした山並みは「青丘の樹木の野」そのもので、まさに日本です。
『山海経・海外東経』には、「東方句芒、鳥身人面、二条の龍に乗る。」、また『呂氏春秋・孟春』には、「その帝太皞、その神句芒。」とあり、太皞は死して東方に祀られ、木徳の帝となり、句芒は木徳の帝を補佐する立場だということです。
『山海経』にあるように、句芒は古くは鳥身人面で龍に乗る姿として描かれていますが、鳥の象徴であったようです。日本では大阪府和泉市池上曽根遺跡出土の鳥形の木製品に見られるように、穀霊を運ぶ生物として鳥を崇拝する風習があったようです。最近吉野ヶ里遺跡で鳥を載せた単純な木の鳥居が作られたようですし、唐古・鍵遺跡出土土器片の家屋上に鳥が載っているのもそのためでしょう。竿の先端に木製の鳥を載せた古代韓国のソッテ(鳥杆)の風習は、稲作とともに逆に日本から韓国に渡った際に向こうにもたらされたものだと思います。
上記の記事は逆にすると、考古学資料のみでは分からない弥生時代における日本の姿が見えてくるように思えます。かなり厳しい社会です。
「禁止事項が厳しすぎる。地域間が閉鎖されていて、行き来ができず障壁を生じている。地域同士の交際がなされておらず、怨みや憎しみがはびこっている。労役や処罰が厳しすぎて、恐怖や心配事が多く、罰刑が簡単に行われている。関所や渡しで人の行き来を止めている。貯蔵したものを施さず。外敵とは戦が絶えずあり、四方が静謐ではない。柔恵さがなく、剛強なふるまいが多い。」

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