卑弥呼の時代はどんな時代?近年わかってきた真実に迫る!【出来事、経済、文化なども紹介】

卑弥呼の時代に起きた出来事

それでは、卑弥呼の時代に起きた大きな二つの出来事を紹介します。

魏に使者を派遣

三国時代の中国の図

239年、卑弥呼は魏に使者を送り親魏倭王の称号を賜り、金印と100枚の銅鏡を受け取ったとされています。これは魏に使者を送ることで外交を円滑にし、他国からの侵略を抑える狙いがあったようです。

また、親魏倭王になることで卑弥呼は周辺諸国に倭国の王と認めさせ、権力を誇示するという目的もあったと推測されます。大国である魏に認められれば、周辺諸国は手を出せないと考えたのでしょう。

狗奴国との戦い

邪馬台国九州説を取った場合の狗奴国の位置

247年、邪馬台国は卑弥呼と嫌煙の中だったと言われる隣国、狗奴国と戦争を開始しました。このとき、魏は張政という使者を派遣して邪馬台国と狗奴国の和睦に尽力したとされていますが、具体的な政策は謎に包まれています。

邪馬台国と狗奴国との争いの顛末については諸説あり、狗奴国との戦いで卑弥呼は死んだ、戦争は狗奴国が勝利を治めたなどの説がありますが、狗奴国の王は邪馬台国に破れたという説もあり、史実は明らかではありません。

卑弥呼の時代に活躍した人物

卑弥呼の時代に活躍した人物の記述は少なく、魏志倭人伝や古事記など、神話的な登場人物になぞらえる実在の証明が難しい人物が多いです。そのため、ここでは実在した可能性が高い人物を紹介します。

卑弥呼(175年?~248年?)

日本ではじめての女王卑弥呼の肖像

卑弥呼は、弥生時代終期に北九州もしくは畿内に存在したと言われる邪馬台国を治めていた女王です。鬼道(占い)を用い大衆陽動に長けたカリスマ的な指導者だったとされています。詳しい生年と没年は不明ですが、概ね175年頃~248年頃だとされています。

卑弥呼は人前に姿を表すことはなく、その姿は弟だけが見ていたということが魏志倭人伝に記述されています。

卑弥呼とはどんな人?生涯・年表まとめ【邪馬台国の場所や功績、まつわる謎や死因も紹介】

壱与(235年~不明)

壱与(いよ)は卑弥呼の姪だとされていて、卑弥呼の死後13歳のときに卑弥呼の跡を継いだとされている女性の王です。卑弥呼の死後、国は再び男の王が台頭し混乱が生じたとされていますが、壱与が女王になったことで安定を取り戻したと言われています。

壱与に関する記述は少なく謎が多いですが、266年に邪馬台国は西晋(魏の次の王朝)に使節派遣したということが晋書「四夷伝」に記述されているため、壱与は266年までは生存していた可能性があります。

しかし、266年以降、壱与はおろか邪馬台国の記述は消失したため、この頃に邪馬台国は滅んだ、もしくはヤマト政権へと変遷していった可能性が考えられます。

卑弥呼の時代の歴史年表

卑弥呼の時代(弥生時代終期)に起きた主なできごとを紹介します。

189年?
卑弥呼が女王になる

明確な時期は不明ですが、189年頃に卑弥呼が女王になり、内乱で混乱していた国をまとめたとされています。

239年
魏に使者を送り親魏倭王の称号を受け取る
卑弥呼が受け取った親魏倭王の金印

239年、魏に使者を送り、魏より親魏倭王の称号を得て、その力を利用して周辺の国を統治したとされています。親魏倭王の称号の他には金印と銅鏡を授かり、魏との外交関係を良好なものとしたようです。

247年
狗奴国との戦い

247年、邪馬台国の南側にあったとされる隣国、狗奴国との戦争が始まりました。卑弥呼は魏に援助を要請し、魏は張政という使者を送り狗奴国との和睦に尽力を注いだと言われています。

248年
卑弥呼が亡くなる

卑弥呼の死期は248年頃だと言われていますが、詳しいことはわかっていません。また、卑弥呼の死についてはさまざまな説があり、狗奴国との戦いで命を落したという説もあれば、日食が続いたことを恐れた民が卑弥呼を生贄にして日の力を取り戻そうとしたという説もあります。

しかし、どれも確証はなく、卑弥呼の死については謎が多いです。

卑弥呼の時代がよく分かるおすすめ本

卑弥呼の時代

タイトルの通り、卑弥呼の時代について包括的に書かれた著書で、外交方針や東南アジアとの国際交流について深い見解が述べられています。

日本国朝廷により封印された卑弥呼の謎と正体

各国の歴史書を参考にして、卑弥呼の時代について統一的な見解を述べた著書です。すべてに納得いく内容ではありませんが、興味深い論理を展開しています。

卑弥呼をよく知れるおすすめ本6選【伝記から評伝、漫画まで】

卑弥呼時代に関するまとめ

卑弥呼の時代である弥生時代終期に関して紹介しました。

  • 弥生時代は「水稲農耕」の時代だった
  • 弥生時代は物品通貨(食料生産貨幣)の時代だった
  • 弥生時代終期はカリスマ的指導者だった卑弥呼が統治していた

この記事では、以上のことがわかりました。

邪馬台国をはじめ謎が多い弥生時代ですが、遺跡の調査や新たな発見に伴い、新たな事実が浮上してくるでしょう。この記事に書かれていることも、その内、古くなるかもしれません。

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2 COMMENTS

九州の田舎人

弥生人の心象風景

福岡県の飯塚市にある立岩遺跡には、弥生中期~後期の甕棺墓、銅鏡や鉄剣類が出土する遺跡群があります。ここから10面の前漢鏡が発掘されていますが、2つの連弧紋銘帯鏡に私の好きな銘文があります。この銘文は、戦国時代から前漢時代まで楚の地方で採取された詩集である『楚辞』の詩です。(訳は私がしたもので、至らない所があります)

日に喜びあり、月に富みあり。
—日ごとに喜びがあり、月ごとに豊かになる。
母事(ぶじ)を楽しみ、常に意を得。
—–無事であることが楽しみであり、常に心が満たされている。
美人會して、竿瑟(うしつ)侍す。
—–美人が横にはべり、琴を奏でようとしている。
賈市(こし)程々にして、萬物(ばんぶつ)平らかなり。
—–市場はまずまずにぎわっており、萬物がおだやかである。
老丁(ろうてい)に復し、死生(しせい)に復す。
—–老いの身になり、また死生に戻ろうとしている。
酔いては知らず、旦星(たんせい)に醒(す)む。
—–酔いてわが身を忘れ、また明日になれば覚めるだろう。

この2面の鏡は仿製鏡であり、片面で字が抜けていたりしています。字体はそれぞれ違い、見本をみて字を知らない製作者が何とか真似しようと努力している様が見て取れます。
大事なことは、鏡作りを命じた為政者が古代中国の『楚辞』の詩を通して、世の中を楽しみながら生きていたいと願っていることが読み取れることです。いつの世も同じですね。

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九州の田舎人

弥生時代の別な風景
『淮南子』は、前漢の時代、淮南王の劉安(紀元前179年~前122年)が賓客方術の士数千人を招致し編纂した思想書です。
この巻5時則訓に、「五方位。東方の極は、喝石(けっせき)山より朝鮮を過ぎ、大人の国を通って(貫いて)、東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野に至る。そこは大皞(たいかう)・句芒(こうぼう)の司る土地で、一万二千里ある。」ここまでの記事は以前紹介させて頂きました。今回は、「大皞(たいかう)・句芒(こうぼう)」とこの後半部分に着目したいと思います。
「そこでは、次のような政令が発布される。「禁止事項をゆるめ、閉鎖を開き、行き止まりを通じ、障塞(しやうそく)を開通させよ。交際をなだらかにし、怨みや憎しみを棄て、労役や処罰を免じ、憂患を除き、罰刑をとりやめよ。関所や渡しを開通し、在庫(庫財)を出し、外敵と講和し、四方を鎮撫し、柔恵を施し、剛強なふるまいをとどめよ。」」(新釈漢文大系、明治書院)
基本的に「五方位」の記事は、学者の間では架空・空想上の出来事と認識されています。しかし私は「東方の日の出の場所、榑木(ふぼく)の地、青丘の樹木の野」というのが日本のことを指していて、そのかすかな知識がこれらの記事に反映しているように感じています。
「榑木の地」とは東方の日の出の場所のことです。朝鮮を見て帰国した時にみる青々とした山並みは「青丘の樹木の野」そのもので、まさに日本です。
『山海経・海外東経』には、「東方句芒、鳥身人面、二条の龍に乗る。」、また『呂氏春秋・孟春』には、「その帝太皞、その神句芒。」とあり、太皞は死して東方に祀られ、木徳の帝となり、句芒は木徳の帝を補佐する立場だということです。
『山海経』にあるように、句芒は古くは鳥身人面で龍に乗る姿として描かれていますが、鳥の象徴であったようです。日本では大阪府和泉市池上曽根遺跡出土の鳥形の木製品に見られるように、穀霊を運ぶ生物として鳥を崇拝する風習があったようです。最近吉野ヶ里遺跡で鳥を載せた単純な木の鳥居が作られたようですし、唐古・鍵遺跡出土土器片の家屋上に鳥が載っているのもそのためでしょう。竿の先端に木製の鳥を載せた古代韓国のソッテ(鳥杆)の風習は、稲作とともに逆に日本から韓国に渡った際に向こうにもたらされたものだと思います。
上記の記事は逆にすると、考古学資料のみでは分からない弥生時代における日本の姿が見えてくるように思えます。かなり厳しい社会です。
「禁止事項が厳しすぎる。地域間が閉鎖されていて、行き来ができず障壁を生じている。地域同士の交際がなされておらず、怨みや憎しみがはびこっている。労役や処罰が厳しすぎて、恐怖や心配事が多く、罰刑が簡単に行われている。関所や渡しで人の行き来を止めている。貯蔵したものを施さず。外敵とは戦が絶えずあり、四方が静謐ではない。柔恵さがなく、剛強なふるまいが多い。」

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