ヴェルサイユ条約とは?内容や目的、賠償金額まで分かりやすく解説

「ヴェルサイユ条約ってどんな条約なのかな?」
「第2次世界大戦の原因になったと聞いたけど…」
「賠償金凄かったらしいね」

このページにたどり着いたあなたは、そのような疑問をお持ちではないでしょうか?。

ヴェルサイユ条約とは1919年6月28日にフランスのヴェルサイユで調印された、第一次世界大戦における連合国とドイツ国の間で結ばれた条約です。 歴史を勉強する際に、必ず覚える条約ですが、具体的にどういった条約なのかと気になっている人も多いでしょう。

この記事ではヴェルサイユ条約について、内容や結ばれた背景、その後の影響まで解説していきます。非常に長い条約ですので、この記事ではできるだけ分かりやすく要約して解説していけたらと思います。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

ヴェルサイユ条約とは?分かりやすく解説

ヴェルサイユ宮殿の鏡の間での調印風景

ヴェルサイユ条約とは1919年に、第一次世界大戦の終結の為にドイツと連合国の間で結ばれた講和条約です。正式な名称はフランス語: Traité de paix entre les Alliés et les Puissances associées et l’Allemagne、英語: Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Germanyですが、一般的にフランスのヴェルサイユ宮殿の鏡の間で調印されたために、ヴェルサイユ条約と呼ばれるようになりました。

ヴェルサイユ条約の背景

ヴェルサイユ条約の内容を理解するためには、まずはなぜ結ばなければいけなかったのかの経緯を知る必要があります。終結まで非常に複雑ですが、できるだけ要約して説明したいと思います。

第一次世界大戦は泥沼と化し、少しでも有利な内容で終戦したい各国の思惑がありました

1914年にヨーロッパを中心とした第一次世界大戦が勃発し、連合国と中央同盟国との戦争が4年間続いていました。各地で戦争は続き泥沼と化していたのですが、中立国であるアメリカ合衆国が1917年に和平実現を望み「国際連盟設立」、「公海の自由」、「世界規模の民主化」、「ポーランドの自由化」を求め、公正な「勝利無き講和」を訴えました。

アメリカ大統領ウィルソン大統領は「勝利無き講和」を訴えました

その後アメリカは連合国側で参戦していますが、依然として「公正な講和」を目指すとアピールしていました。そして1918年にドイツと連合国との間で休戦協定が行われることとなります。理由は1918年にはドイツの敗戦が濃厚になり、それをきっかけに「ドイツ革命」が起きて、ミュンヘンからバイエルン王ヴィルヘルム2世が逃亡し王政が転覆される事態が起こっていたためです。ドイツはとても戦争を行える状態ではありませんでした。

休戦協定の様子

国王が逃亡したことによりドイツは共和制を宣言し、その5日後に休戦協定が結ばれ連合国側が勝利しました。そこで1919年にパリ講和会議が行われ、協議ではドイツに大きな負担を負わせ自国の安全保障を図ろうとするフランスの主張と、行き過ぎた懲罰に反対し自らの「公正な講和」概念を貫こうとするアメリカの二つの路線が対立しました。

またイギリスはヨーロッパの勢力均衡をとろうとする意図から、フランスほど強硬ではありませんでしたが、多くの戦費や債務をドイツ賠償で補おうとする点ではフランスと変わりませんでした。そうして、ヴェルサイユ条約の原案が完成しています。

パリ講和会議における英・仏・米の代表者たち

この条約案を受け取ったドイツは激しく反発しました。特に受け入れがたかったのが、「戦争はドイツの責任」という部分だったのですが、交渉が決裂し戦争が起こる事態は避けたかったため、講和に対する反対提案を提出しています。

ドイツの反対提案を受けてパリ講和会議は、内容が過酷すぎるために譲歩すべきという案と、原案のままでいく案とで話し合いは難航しました。過酷すぎるという意見はあったものの、仏・英が強固に反対し、結果少しの譲歩が行われたのみでした。よって後までドイツを苦しめる「賠償金」などは、原案のままでいくことになりました。首脳たちはドイツが条約を拒否すれば、最終目標をベルリンとし戦争をする姿勢だったといいます。

ドイツは革命で国内も混乱し、とても戦争ができる状態ではありませんでした

ドイツ国内でも、条約を受諾するかどうか審議が行われていました。反対意見の方が多かったものの、軍部が実質戦闘の継続は不可能であるとの認識を示したことにより、方針は受諾へと傾いていきました。国防省のグスタフ・ノスケが国民議会各派や官僚を説得したことも大きかったといいます。

ヴェルサイユ条約反対のドイツのポスター

ドイツ側は戦争責任を認めず、皇帝への有罪判決や戦犯処罰は受け入れられないと条件をつけた上で、議会で条約受諾を声明しました。

しかし連合国は、無条件での受諾を求めました。ドイツ国民議会は講和に反対しましたが、反対しても結局戦争ができない以上受け入れるしかなく、最終的に政府の条約調印権限を承認せざる得ませんでした。これによりドイツ政府は条約の受諾を声明したのです。

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