「南京条約って、いつ、何のために結ばれた条約だろう?」
「南京条約の内容はどういうもの?誰と誰が交渉したの?」
南京条約はアヘン戦争を終結させる為に清国とイギリスの間で結ばれた条約です。
19世紀後半の中国(当時は清)では、非常にたくさんの条約が締結されています。イギリス、フランスをはじめとする西欧列強の国々が、帝国主義を掲げて海外に植民地を求めた時代。中国はその領土の大きさゆえに「標的」となってしまった感があります。
今回は、多くの条約の中でもとびきり影響の大きかった南京条約について解説します。この南京条約が中国にとって、文字通り100年先の運命を左右するものとなりました。それだけでなく、今なお影響を残し続けているのです。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
南京条約とは
簡単に説明すると?
南京条約は、アヘン戦争を終結させるため、清国(現在の中国)とイギリスとの間で1842年8月29日に締結された条約です。江寧条約ともよばれています。
イギリスと清国(現在の中国)との貿易摩擦が発端で起きたアヘン戦争を終結させるために結ばれた条約が「南京条約」です。その内容は清国にとって全面降伏というべきものでした。アジアの大国であった清国がイギリスに完膚なきまでに打ちのめされる結果は、日本をはじめとするアジア諸国にも大きな衝撃を与えました。
条約が結ばれたきっかけはアヘン戦争
条約が結ばれたきっかけはアヘン戦争です。なぜ清国とイギリスとは開戦に踏み切らねばならなかったのでしょうか。そもそも、どうしてイギリスがアヘンを中国に売りつけなければならなかったのでしょう。以下では、そのきっかけとなるアヘン戦争について、清国とイギリスの貿易事情にも触れつつ解説します。
なぜ起きた?アヘン戦争勃発の理由
1840年に清国とイギリスの間で行われた「アヘン戦争」は、1842年の南京条約締結までまで2年間続きました。原因は、両国の貿易摩擦問題でした。当時のイギリスは、海外市場の拡大を求めていたとはいっても広く一般市民を対象とするような輸出品目がなく、何もしなければ貿易赤字になってしまう状況でした。
そのため、イギリスはインドで製造したアヘンを清に輸出(密輸)し莫大な利益を得ていたのです。清国ではアヘンの蔓延が重大な社会問題となり、全面的に禁輸(貿易できないように)する措置が取られました。同時に国内に現存するアヘンを没収・焼却するなどしたため、反発するイギリスとの間で戦争に発展したのです。
清国の貿易体制は、広州に集中した
清は、もと満州に住む女真族の国家で1616年に建国されています。その後、明が滅亡すると勢力を拡大し、1644年に首都を北京に移しています。このころ中国南部では明の残存勢力が「南明」を興しており、清はこれを平定することによって中国全土を統治するようになりました。
その明では、当初は海禁(=鎖国)政策がとられますが、政情が安定すると4つの港で互市(貿易)が行われるようになります。この中で規模の大きな貿易港としては広州と寧波の2港がありましたが、貿易利権をめぐる競争の結果、1757年以後は広州一港体制(広東貿易体制)が確立しています。これは江戸時代の日本(江戸幕府)が、貿易港を長崎に限定していたのとよく似ています。
アヘンはイギリスの貿易収支を支える秘密兵器だった
一方のイギリスでは、中国から陶磁器や絹、茶などを輸入する一方、輸出品は時計や望遠鏡といった物品に限られ、輸入超過(赤字)が続いていました。この赤字は、アメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命によるインフラ整備が必須課題のイギリスにとって悩ましいものでした。そのためイギリスは植民地であるインドで製造されるアヘンを清国に密輸することで、その差を埋めようとしていました。
中国では、明代末期からアヘン吸引の習慣が広がっており、貿易によるアヘン流入によってその弊害が深刻な社会問題となりました。事態を重く見た清国では1838年に林則徐(1785年~1850年)を欽差大臣(特命全権委任大臣)に任命し、アヘン排除に乗り出すことになります。
広東に赴任した林則徐は、
- 吸飲者・販売者への死刑の執行を宣言
- イギリス商人に対し期限付きでアヘンの引き渡しを要求
- (引き渡しに応じないことを理由に)貿易停止、商館閉鎖
- アヘン2万箱を押収・焼却
などの強硬策に打ってでました。また、イギリス人水兵による中国人殴殺事件がおこると犯人引き渡しを求めるなど毅然とした対応をとりました。